08
「先生、意味わかんないです、我慢って何…」
ザアザアと降り続く雨がビニール傘に弾けるのを見ながら、少し冷静になった頭がこのまま抱き合っていてはまずいと警鐘を鳴らした。
だって先生はいつもの白衣姿だし、こんな目立つ銀髪、ここら辺には先生くらいしかいないだろう。
学校の近くの公園で、制服を着た私を抱きしめていたらそれはもう通報ものじゃないだろうか。
我慢してんだから、という不可解な言葉の意味を尋ねながら、背中に回していた手をゆっくりと撤退させる。
「何って、お前が卒業するまで無闇矢鱈に近づくなって言ったんだろーが。」
「言ったけど、我慢って、わかんないです。ていうか、離した方が良くないですか…流石にここでこれはまずい気がします…」
私が背中から手を離してもぎゅうっと抱きしめる力を緩めない先生に、控えめに離してくれと声をかければ、ちょっと今は無理。とくぐもった声が聞こえた。
「…無理って、ふ、」
雨で髪の毛が張り付いた首筋に先生の頬がスリ、と寄せられて、思わず声が漏れた。
くすぐったい。
「あー、マジで。こっちは必死で我慢してんのになまえが先生じゃなきゃ嫌とかンな可愛い事言うから台無しだよ」
「っ、先生くすぐったい」
やめてください、と言いながら背中から引き上げて着た腕で先生の肩口を押し返して見たが、ビクともしない。
ぽてりと、先生が持っていたビニール傘が地面に落ちた。
「くすぐってんの。カワイーなお前は本当に」
「なんですか急に」
「いやー、だってなまえチャンは俺が、月詠センセーと仲良いから嫉妬しちゃったんだろ」
コロリと転がった傘の行方をぼんやり眺めていたら、いつもよりわずかに生気を感じられる声で嫉妬しちゃったんだろ、と言った先生が、ようやく私の拘束を緩めた。
その声色が何を示すのか、私にはよくわからない。
「っ、バカにしてるんですか、」
ここぞとばかりに肩口を押し返せば、くっついていた体温が離れていく。
自分から押し返したくせに、すんなり離れていく熱が寂しいと思うなんて、なんてわがままな子どもだろうか。
「そうやって、バカにして楽しんでたんですか、私が、先生のこと好きなの、面白がってたんですか、月詠先生とっ、」
よくわからない。先生の行動も、自分の気持ちも。弄ばれているような気がしてジワリと滲んだ視界に映ったのは、普段あまり見られない表情の先生。
「あ、」
なんだその、嬉しそうな顔は。
「違ェよ、なんでそうなるんだ。嬉しいんだっつーの。お前そのネガティブなのやめろ。」
「嬉しいって、なんで」
スッと伸びてきた大きな手が頬に張り付いた髪の毛を耳の後ろに持って行く。
どきりと高鳴るバカな心臓に手を当てて顔を背けようとすれば、そのまま耳たぶをぎゅっと指で摘まれた。
「なんでってお前、そりゃァ」
「いた、」
「嫉妬しちゃうくらい俺の事好きだって事だろ、嬉しくないわけねェよ。…まァ、そんな事言って俺も沖田クンに嫉妬してたけどな。」
「は、沖田くん?なんですか沖田くんが。」
「…なまえはにっぶいから、だから先生は心配なんだよ」
耳たぶをぶにぶにと思う存分潰した先生の手は、今度は私の頭を慈しむような手つきで撫でる。
沖田くんの話はなんかよくわからないけど、月詠先生とのことは私の気のせいだったということだろうか。
「じゃあ、月詠先生とは何もない…?」
確認するようにしたから先生の表情を伺えば、ピクリと先生の眉毛が動いた。
あ、真剣な顔になった。
たまにしか見せない、きっと、生徒の中では私が1番良く目にしているあの、表情だ。
「あったりめーだろ。…はなっからお前しか見てねーよ俺ァ」
こんな簡単な事だったなんて。
最初から悩んでないで先生に言えばよかったんだ。
嘘をつかれているのかもしれないなんて、
そんな不安が一切出てこないのは、先生の目がまっすぐ私を見ていて、
それで、
いつもみたいなふざけた表情じゃなかったからだ。
もしこれが嘘なら、誰も見破れない。
誰も見破れない嘘なら、騙されてもいいじゃないか。
「っ、なんですかそれ、気障っぽい」
「照れんなよ」
頭を撫でていた手がするりと後頭部を下って、首の後ろのあたりを支えたかと思えば、濡れた生え際にちゅ、ちゅ、と先生がキスを落として行く。
ああ、なんて単純なんだ私は。
こんな些細なことが幸せだなんて、側から見ればきっと私はとんでもなく間抜けな女だろう。
ふわふわと胸が暖かくなって、
ただただ、目を瞑ってそれを受け入れる。
「なまえ、」
腰をぎゅっと引き寄せられて、低い声が私の名前を呼んだ。
あ、花火大会の時と同じだ。
雨に濡れたくちびるの上を、先生の指がゆるりと撫でた。
「せんせ、」
ここでキスするのか、誰かに見られたら大変だと一抹の不安がよぎって、じっとりと湿り気を帯びた白衣の襟をぎゅっと掴む。
顎の下に当てられた先生の指が、猫にするかのような手つきでゆるゆると肌を撫でた。
鼻と鼻がぶつかる程の距離。
薄く開いた唇に、先生の息がふるりと触れる。
「っせん、せい、」
もう一度声をかけたところで、ぴたり、と先生の動きが止まった。
「っ、」
どうやらギリギリのところで踏みとどまったようだ。
ここはまずい。だってここは学校の近く。私は制服で、先生はもうどこからどう見ても先生丸出しだ。
誰が見ているかわからない、人の目は、一見ないように感じられてもどこにでもあるものだ。
「…っ、あっぶねー、俺の苦労が水の泡になるところだった。」
「苦労って」
バッと大げさに距離をとった先生は地面に落ちたビニール傘を拾い上げて泥を払った。
苦労ってなんだ。
自分でそう仕向けたのにやっぱり簡単に離れていってしまう体温が寂しい。
降り止まない雨に打たれて体が冷えたのか、ぶるりと肩が震えた。
「いや、生徒と教師の禁断の愛なんて、世間に知られたとんでもねーよ。俺だけなら別にいいけどなまえも白い目で見られんだろ」
「…そういうもんですか」
「そういうもんなの。なまえチャンは頭良いからわかってんでしょ。」
「分かってますよ」
分かってます、と返事を返せば、満足そうに頷いた先生は、よし、帰ェるぞ、と私の腕を引っ張ってビニール傘の中に引き込んだ。