09

「いや、なんか丸く収まった感じになってるけど、私この格好じゃ帰れないです。電車乗れない」



ぐっしょりと濡れた制服を見下ろして、次いで隣を歩く先生を見上げる。
全て丸く収まった、そんな雰囲気で公園を後にしたはいいが、そうではない。



「…だよな」



バッチリとあった視線がふらふらと泳いで明後日の方を向いて、先生はぽりぽりと首の後ろを掻いた。




「着替えなきゃ。着替えもないけど。あと、学校にカバン置きっ放しで定期もないし。」
「あー、持ってくりゃよかったなカバン」
「学校の鍵とか持ってないんですか先生のくせに」
「ンな都合よく行かねーんだよ、人生ってのは。」



半分以上は自分のせいなのだが、どうするんですかもー、と言いながら先生の脇腹を膝でぐいっと押すと、どうすっかな、と気の抜けた声で先生が呟いた。



「先生が車で送ってくれたら良いのに」
「車って原付だぞ。それにこんなびしょびしょのお前を乗っけて家まで送る勇気は俺にはない。」



親になんていうんだ、殺されるぞ。俺が。
と続けた先生に、たしかに。と返事を返せば、ハァ、とため息が漏れた。

たしかにこんな時間まで生徒を連れ回し、挙げ句の果てに雨でびしょびしょにしたなんて思われたらもう先生の人生は終わりである。



「あ、沖田くん家に電話して服借ります。それで電車で帰るから先生お金かし「それはダメ」なんでですか。ちゃんと返すから。」


先ほど公園で打ちひしがれながら思いついた、沖田くんを頼るという案を先生に打ち明ければ、物凄く嫌そうな顔をしてダメだと言われた。


「金じゃねーよとにかく沖田ン家はダメだ。家に親がいようと沖田はダメだ。絶対。」
「なんで。」
「油断してっと持ってかれるからだよ」
「は?何をですか?そんな盗賊みたいな事しないですよ、嫌なやつだけど良いやつです」
「…お前さァ…まァいいやそれは、あとでわからせるとして、良いよ俺が服貸すから」
「先生の服なんて大きくてきれないし、それこそなんだお前その服はって言われる。」


高い位置にある頭を見上げてホラ、こんなに身長差が。と先生の頭上めがけて腕を伸ばして見せれば、ひくりと口の端がひきつるのが見えた。


「ちっ…んな事言ったら沖田の服だってでかいだろーが」
「先生ほどじゃなくないですか。それに沖田くんの家にはミツバちゃんがいるから。ミツバちゃんの服かしてもらうもん。」
「…」
「ね、ホラ、名案。確か家はここら辺だったはず」



ミツバちゃんの服と言えば押し黙ってしまった先生。これはもう私の案に納得してくれたと判断していいだろう。濡れたスカートから携帯を取り出して沖田くんに電話をかける。
水没してなくてよかった。



「出るかなあ、お風呂はいってるかも。今何時ですか?」
「…やっぱりダメ」
「あっ!」



黙ってはいるものの、気に入らないといった顔で私の様子をじっと見ていた先生は、突然、何時ですか?と訪ねた私の手の中からパッと携帯を奪い去った。
耳から離れていく携帯の向こうで、こんな時間になんでィブス、と言う沖田くんの声が聞こえた気がする。



「ちょっと」
『オイ…なまえ?』




聞き間違いではなかった。
私に届かないように高く持ち上げられた携帯から沖田くんの怪訝そうな声が聞こえる。


「何してんですか先生!返して!ふぐ」


このままでは沖田くんに電話を切られてしまう。
慌ててぴょんぴょんと飛び跳ねれば、傘を持った先生の左手の甲がぐっと口に押し当てられた。




『オーイ、なんでィ、ふざけてんなら切るぞ』



グイグイと押し付けられた手を必死で引き剥がそうと奮闘する私とは対照的に涼しい顔の銀八は私の携帯をピタリと自分の耳に当てている。


何をするつもりだこいつ。


そんな私の不安を感じ取ったのか、口に押し付けた左手が少し緩んだ。


手から逃れるために半歩後ろに下がれば深追いすることなく、しかし私が傘の下から出ないようにちょっと腕を伸ばした銀八は、フ、と不敵に笑った。


その顔にドキッとしたのは秘密だ。



「…ああ、悪ィ、間違えたわ。」

『は…銀八?なんでお前


ブチ、



驚いたような沖田くんの声。
きっと、なんでお前がと言おうとしたのだろう。彼のそんなセリフは全てがこちらに届く前に先生の指によって遮られた。




「…よし」
「いや、…よし、じゃないですよ!!何してんの?!」
「何ってお前そりゃァ…まあ、害虫駆除?」
「は?」
「…いーよお前は知らなくて」



よしよし、と満足げに濡れた頭を撫で回す銀八の手から逃れようと首を逸らす。
なんだかご機嫌なのは結構だが、現状はなにも変わっていない。むしろ最善の策だったと思われる沖田くんを頼ると言う選択肢が潰えた分悪化している気がする。

だってもう一度電話すればきっとさっきのはなんだと問い詰められるに違いない。ていうかこんな悪戯電話みたいな事をして沖田くんが怒らないはずがないのだ。


きっと月曜日学校に行ったら壮絶に苛められるに違いない。
にこっと天使のように笑う悪魔沖田くんの顔を想像してぶるりと身体が震えた。




「寒いか」
「いや、寒いっていうかどうするんですかもう。沖田くんは頼れないし。」
「俺が居るだろーが。俺を頼れよ」
「じゃあ先生の家でいいです。行きましょ。」




もう、とため息混じりにそう言って早く、と白衣の袖を摘めば、先生は一瞬の間を開けてパチリと瞬きをした。

あ、そういえば雨が止んだみたいだ。
先生越しに見えるビニール傘はもう雨粒を弾いていない。近くの水たまりの水面もピタリと静かに夜空を映している。



「ちょうど雨も止んだし。原付どこですか?」
「…やっぱり俺ン家もダメだわ。」
「は?なんですか急に」
「いや、うん…ダメだわ。」



パチリと傘をたたみながらうんうん、と頷く銀八。
とんでもない。自分から俺が服を貸すとか言っておいてやっぱりダメとはどういう了見だ。
しかし、私がなんで!と詰め寄ったところでちゃんとした返事が返ってくるはずもなく。


急にダメと言われた理由を自分なりに想像してみるが、そもそも先生のプライベートなんてほとんど知らないから部屋が汚いとか、その程度の貧困な発想しかできない。


「…部屋汚くても気にしないですよ私」
「そーじゃなくて」
「じゃあエロ本落ちてても見て見ぬ振りしてあげます」
「バカヤロー見えるとこに置いてるわけねーだろちゃんと隠してるよ大人舐めんな」
「あるんだ」
「…え?いや、無い方が問題だろ」



じゃあなんでダメなんですか。どうするんですか。
と言って奪い返した携帯を手持ち無沙汰に触れば沖田には電話すんなよ。と言われた。


「しないですよ。どこかの誰かが、代案もないくせに私の名案を邪魔するからもう電話なんてできないです。」
「…あ、あれだ。志村の家とか。電話してみろ」
「え?お妙ちゃん?」
「背格好も近いしいいだろ。雨止んだから多少遠くても原付で行けるし。」
「確かに」



ホラ、良い案があったじゃねーか。
なんて言ってぽんぽんと頭を叩いた先生はこれで万事解決だ。と言って歩き出した。

いや、怪しい。



* * *



「なんで先生の家はダメなんですか。だれか居るんですか私に合わせてはいけない人でも来てるんですか月詠先生とか」
「違ェってまじで、いろいろと事情つーもんがあんだよ。」
「だってやっぱりおかしい。最初は俺の家って言ってたのに急にやっぱりダメだなんて。」




お妙ちゃんはびしょびしょの私を見てすごく驚いていたが、特に深く詮索することなくジャージを貸してくれた。シャワー浴びていってという有難い提案は、志村家から少し離れたところで原付を止めて待っている先生のことを考えるとどうしても憚られたので丁重にお断りした。

ドライヤーだけ借りて髪の毛を適当に乾かして、ありがとう、説明できるようになったらちゃんと説明するからとお礼を言えば「なまえが言えるタイミングで良いわ、悪い報告じゃなさそうだしね」とウインクされた。女の勘とは恐ろしいものだ。


とにかくジャージに着替えて先生の原付の後ろにまたがり、自宅を目指す道すがらである。


やっぱり腑に落ちない。
なぜ急に家はダメだと言ったんだ。


先生の広い背中にしがみついて悶々と考えて居ると、だれか家にいたのか。私に合わせてはいけない誰かが。そんな考えに至ってしまって、ぎゅうっと湿ったままの白衣を掴む手に力がこもった。


こうやってネガティブになったら先生に直接言うのが早い。これは今回の事で学んだ教訓だ。



「おかしい。怪しい。」
「だから、」
「言えないっていうのがもう怪しいです。ちなみに月詠先生が先生の家に来たことありますか。正直に。」
「…あるけど、マジでそう言うんじゃねーからな」
「ヘェあるんだ。」
「だからそう言うんじゃねーから」
「そういえばさっちゃんも先生の部屋に入ったことあるって言ってた。」
「いやお前アレはアレだぞ。入ったっていうか不法侵入だぞアレは。」



ぶぶぶと低く振動する原付が赤信号で止まる。
じゃあなんだ。月詠先生も、さっちゃんも、部屋に入っても良いのに私だけがダメな理由。
生徒だからじゃない。だってさっちゃんは、勝手に侵入したとは言え、入ったのだ。
ぎゅう、と先生のお腹に回した手でシワになるくらい白衣を強く掴めば、それに気づいた先生がフゥ、と息を吐いた。



「今何考えてる」
「…先生のことしか考えてないですけど」



あ、今、めんどくさいって思っただろうか。
ぎゅうぎゅうと掴んでいた白衣を慌てて離す。
ぴたりと張り付いていた身体もパッと離した。



「だからオメーはダメなんだよ」
「なに、」



前を向いていた先生が、私の体が離れたのをいいことにぐいっと上体をひねってこちらを振り返る。
だから私はダメだって、なんだ。



「そうやって俺を煽るだろ、お前は。」
「煽ってないもん。」



先生はいつもいつもそうやっていうのだ。
俺を煽るって。煽ったことなんて一度もない。
先生じゃないか。私を煽るのは。
月詠先生と仲良くしたり、さっちゃんに侵入を許したり。
そうやって先生が私を煽るんだ。


先生ですよ、と言い返そうとして言葉が喉に詰まる。
振り返った先生の顔があまりにも真剣だから、
そういうのに慣れてない私の可哀想な心臓がびくりと震えた。



「煽ってんだろーが。俺ァ聖人君子じゃねンだよ。そんな警戒心なくのこのこ部屋なんか付いてきたら、食っちまうぞ。」
「あ。」



あ、信号が、青だ。
どこか呑気にそんな事を考える私の顎を先生の指がぐいっと引っ掛けて、何をされるのか考えがめぐる前に私の下唇が、かぷりと噛まれた。

甘噛みした唇を舌がぬるりと舐め上げて、首筋がぞわりと粟立つ。



「っ!へんったい!」



さっきはギリギリ耐えたのに。
こんな、道路の真ん中で。
いくら車通りがないからと言って、こんな先生と生徒の丸出しの格好で。

慌てて胸をグーで殴れば、まさかそんな抵抗に遭うと思わない先生はゲホゲホ噎せながら元いた位置に体を戻した。
ふと前を向いて信号が青だと気づいたのか、何事もなかったかのように原付を発進させる。



「くっそそんな抵抗ってありかよ。」
「私は、私だけ家に行けない理由が知りたかっただけです。煽ってないし勝手に発情しないでください。」
「だァから、他は良くてお前はダメなのは、俺に下心があるからに決まってんだろーが。」
「うっわ変態」
「なまえチャンにだけだって。」
「馬鹿変態絶対許さないこんなところで。さっきは苦労して我慢してきたって自分で言ったのに。」



ぎゅとしがみつくのが憚られて控えめに先生の脇を掴めば、しっかりつかまってないと振り落とすぞと言われた。




「そーだよ我慢してきたよ。だから、早く卒業してくれよ、見ての通り、結構我慢の限界だから。」




ぶぶぶと揺れる原付の後ろ。
すっかり晴れた空に浮かんだ月だけが、私の真っ赤な顔を見ていた。




ねぇ、先生
やっぱり大好き。