06

なにがどうなったのか。

鋭く名前を呼んだ先生が、私の制服のリボンのあたりをぐっと掴んで、強く引いたのだ。
私はといえば、なんの準備もしていなかったし、そんな所を急に引っぱられたものだからバランスを崩して膝を強打した。慌てて手をついたから顔面を強打するのだけは避けられたものの、そのまま押しつぶすように先生の重みがかぶさって、結局重みに耐えきれなかった腕がカクンと曲がって顔面も床に打ち付けた気がする。あ、鼻が痛い。きっとこれは鼻血が出た。と薄れゆく意識の中で考えたところまでははっきりと覚えて居る。
そのあとはよくわからない。先生の声が何度か名前を呼んでいたような気がしないでもない。


考え事をしながらぼやけた視界でパチパチと数回瞬きを繰り返せば真っ白い天井と、薄いグリーンのカーテンが見えた。吸い込んだ空気がどうにも薬臭くて、そこでようやくああ。保健室か。と合点がいく。


「いて、」


先生はどこだろうとぼんやり考えながら鼻の頭を触ると擦りむけて居るのだろうか、チリッと痛む。
鼻にはガーゼが詰められて居るようだ。
先生がリボンなんて引っ張るからやっぱり鼻血が出たんだ。
でもそれ以外に痛むところは無くて、あのガラクタたちの雪崩からは先生が身をていして守ってくれたのだと思う。



「目が覚めたか」



いて、という思わず漏れた私の悲鳴に気づいたのか、薄いグリーンのカーテンがシャッと勢いよく開けられて、その向こうから保険医である月詠先生が顔をのぞかせた。



「せ、先生、」
「なまえ、ぬしはなんでまたあんな所に一人で入ったりしたんじゃ」
「あ、服部先生が教材片付けろって」
「あいつか…まったく、あそこはすぐ崩れて危ないから一人で生徒に入らせるなというのに」



色素の薄い髪の毛を綺麗に結い上げた月詠先生は女の私が見たって見ほれてしまうくらい綺麗な人だ。
ふっくらと額の上でまとめ上げられた前髪が実に色っぽい。じっと先生の顔を見つめていたらパチリとすみれ色の綺麗な瞳と視線が合って、なんと無くバツが悪くて目をそらした。


まったく非の打ち所がない。


だってこの人は見た目だけではないのだ。
人に媚びない性格。それからなんでも完璧に見せて、たまに見せる可愛い一面まで持ち合わせている。こんなのもう誰がどう見たって完璧としか言いようがない。私だって先生の事好きだ。女性として尊敬する。



でも、それとこれとは関係ない。
相手が誰であれ、銀八先生をとられるのは嫌だ。



ベッドに横になったまま掛け布団をギュッと握ってチリチリと焦げ付くような胸の痛みを誤魔化す。
まだそうと決まったわけじゃない。ただ勝手に私が、二人はお似合いだなと思っただけだ。



「じきに日が暮れる。目が覚めたなら早いうちに帰った方が良い。」



そう言い残して、服部先生に文句を言いながらカーテンの向こう側へ消えた月詠先生はどうやらいつも座っているデスクの方に向かったようだ。
キィ、と備え付けの回転椅子が軋む音が聞こえた。


「…銀八先生は、」


どこに行ったのだろう。チリチリと痛み続ける鼻に触れながらポロリと漏れた声は月詠先生には聞こえなかったのか、なんの返事もない。
ゆらりとゆれた薄緑のカーテンの向こうで先生が身動ぐ気配だけがした。


「…帰ろ」


帰りなさいと言ったのが銀八だったなら、もっと素直に言うことが聞けたのだろうか。
せめてもの抵抗とばかりにのろのろとベッドから起き上がって、できる限りゆっくり上履きをはく。


耳をすませばボソボソと何やら話し込む声が聞こえるのできっといつもの椅子に座って、誰かと話しているのだろう。


「先生、ありがとうござ、い、ました」


ぼそぼそと途切れ途切れに聞こえる声。
その話し相手が誰かなんて全然興味なかった。
できることなら知らないままさっさと家に帰ってしまいたかった。
でも、教室にカバンを取りに行かなきゃと次の行動を考えながらもやもやと渦巻く嫌な感情を消し飛ばすように勢いよくカーテンを開いた向こう側には、

今一番見たくなかったツーショットがあった。



「おー、なまえ」
「っ、」



月詠先生が座った回転椅子のすぐ隣。
デスクの引き出しを塞ぐようにもたれかかった銀八が何事も無かったかのようにひらりと私に手を振る。


動きに合わせてゆれた白衣がギリギリと胸を締め付けた。
だって、先生がどんなに暑くても頑なに脱がないアイデンティティだと言うあの白衣、それは月詠先生が羽織っているものと同じだ。

別に月詠先生が異動してくる前から銀八はずっと白衣を羽織っていた。そんなことは知ってるし、二人でお揃いにしようと示し合わせたわけじゃないのもわかってる。先生はそんな事をする人じゃない。

でも、
同じ制服を着た男女の学生が仲良く手を繋いで歩く様子が、見るものに全く違和感を覚えさせないのと同じように。
似たような白衣に身を包んだ大人二人が、デスクで寄り添う姿はやっぱり、どうしても様になっているのだ。


「居たんだ、先生…」


呟いたそんな声は聞こえかなったのか、え?何?と言う返事が返ってくる。

私の目が醒めるのをまっていてくれたのだろうか。それとも、私を口実に、ただ月詠先生とおしゃべりがしたかっただけだろうか。
前者であるのならば私のそばにいて欲しかった。
そんな、先生に好意を寄せる月詠先生のそばにいないで欲しかった。


わがままで子供っぽい自分の心と、
ひらりと揺れる先生の手を鬱陶しそうに見ながら、でもすぐとなりに立つ熱に満更でもなさそうな月詠先生を見てスッと心臓が冷たくなる。


なんか嫌だ。


へらっと笑って手を振る銀八を見ていられなくて視線を逸らした。
やだやだ。まるで悲劇のヒロインぶってるみたいだ。私ってこんなにネガティブだったっけ。



「なんだよ、鼻ぶつけたから怒ってんのか。あれは不可抗力だろ。な、オイなまえチャーン?無視すんなよ」
「銀八、ぬしも用がすんだのならさっさと帰らんか。そんなところに立って居られると邪魔なんじゃ。」
「立ってません座ってますゥ」
「いや座られても邪魔じゃ、帰れ。なまえ丁度いい、このもじゃもじゃ早いとこ回収してくれんか」
「オイ押すなって、まだ用事済んじゃ居ねーよ」
「ふん、わっちに用があるわけでもあるまい、ここは保健室、神聖な場所じゃ。そういうことなら他所でやれ。ケダモノめ。」
「いや神聖な保健室の引き出しの中にローション詰め込んでる女に言われたく無い」
「これはキャラ設定に忠実にあるための小道具じゃ。別に愛着も何もありんせん。」



ぐるりと心の中で渦巻く感情はどうやったら消えてくれるのか。
別に仲睦まじく話している姿を見せられたわけではない。ギャイギャイと言い合ってるだけだ。それでも銀八先生も、月詠先生も、いつも生徒に見せる顔とは違う顔をしているようで。
なんだ。やっぱりそうじゃないか。
私の勘違いではない。先生も月詠先生もきっと同じ気持ちだ。
ツンと鼻の奥が痛んで、視界が不穏にゆれた。



見たくねーもんなら見なくて良いんじゃねぇか。



突然、アイマスクを投げてよこした沖田くんのそんなセリフが蘇る。ああ、そうだ。見たくないものなら見なくて良い。それもそうか。
なおも言い合いを続ける二人から視線を逸らして慌てて立ち上がる。こんなところで泣いてたまるか。



「あ、おい、なまえ、もう暗ェから送ってやるよ」
「いや、気をつけなんしなまえ、コイツは野獣、一人で帰った方がよっぽど安全じゃ。なんならわっちが送ってやろう。」


静かに立ち上がったのにすぐさま反応した銀八が声を上げる。でも、今顔を見たら泣いてしまう。
ああ、きっと、あれは夢だったのだ。
あの日先生が私のおでこにキスをしたのは私の夢だった。好きすぎて変な夢を見たんだ。



「二人とも痴話喧嘩も大概にしてくださいよ。」
「ち、痴話喧嘩?!な、何を言いだすんじゃなまえ!わわわ、わっちは別に」


月詠先生の白い頬にぽっと朱がさしたのを見てぞわりと首を擡げたのは一体何という感情なのか。


「鞄取ってこい、後ろ乗っけてやっから」
「…一人で帰れるので結構です。あの、さようなら。今日はご迷惑をかけてすみませんでした。」
「あ、おい!」



チリチリ痛い。
怪訝そうな表情を浮かべた銀八の顔が、ぐにゃりと歪んだので慌てて保健室から飛び出した。
沖田くん、助けてくれ。
私このままだとまたブスになるよ。
堰を切ったように溢れた涙でほとんど何も見えない。
バタバタとうるさい足音を響かせながら、ひぐりと喉がいやな音を立てた。