05

"悪いんだけどこれ資料室に片付けといてくんね?いいじゃん日直なんだから、んじゃ頼むわ"


放課後教室に残ってダラダラと日誌を書いていたら突然に現れた服部先生は机の上にどこかのクラスが使用したのであろう社会科の教材をどさりとぶちまけて、そんな事を宣った。
一度は嫌ですよ、生徒をパシリにしないでくださいと断ったもののそのまま押し切られて資料室に重たい教材を運ぶ仕事を引き受けた数分前の自分を酷く恨む。
日直なんだからってなんだ。全然関係ない。
Z組の授業で使ったものならまだしも、ほかのクラスのは知らん。でも引き受けちゃったものは仕方ない。放置して帰ったとしても机の上に教材が置かれたままで困るのは私だ。


うちの高校の資料室は一言で言ってめちゃくちゃ汚い。
教科ごとに存在するわけでなく、全教科、全学年で使用する資料たちをただ単純に棚で区切られただけの狭い部屋に詰め込んだのだから仕方ないとは言え、控えめに言ってあの部屋は魔窟であった。


それだけでない。所狭しと積み上げられた今にも崩れそうなガラクタの山々。そのほとんどは源外先生の作り出したものだという噂もある。多分ほんとだろう。あの人いつも変なことやってるし。


一つを引き抜けばたちまち全てが崩れ落ちそうなそんな危ういバランスの中、一体服部がどうやってお目当てのものを見つけ出してきたのか。そして私はこれをどこに仕舞うのが正解なのか。
ていうかこんな危ない場所に生徒を入れるなよ。これ崩れたら大変な事だぞ。


どうしたものか。
うんうんと唸りながら薄暗い資料室で一人佇んでいた時である。カラリと静かな音を立てて扉が開いた。


「あれ、お前何してんの」
「せ、先生…」


くるりと振り向いて扉を確認した私の目に飛び込んだのは、薄暗い資料室の中でも鈍く光る銀色の髪。ぽりぽりと首の後ろを掻きながら部屋の中に侵入してきた先生は、先生と言ったっきり動きを止めた私の顔の前でもう一方の手をひらひらと振った。



「オーイ、何フリーズしてんだ」
「はっ!」
「なんだってなまえがこんなとこに居んだよ。」


動きに合わせてふわりと漂った先生の匂いに、現実に引き戻される。


ああ。いつもの匂いじゃない。
先生のタバコだけじゃない、別のタバコの臭いもしてパッと脳内に浮かんだ月詠先生の顔を慌ててかき消す。



「あ、服部先生に頼まれてこれを片付けに」
「フーン、」



いたってふつうの表情を取り繕って両手に抱えた重たい年表とか地図帳といった資料を顎でちょいちょいと指せば、さして興味もなさそうな返事が返ってきた。


「フーンて、興味ないなら聞かないでくれます?」
「はあ?どっからどう見ても興味津々だろーが」
「どこからどう見ても無味乾燥って感じですけど」



先生は「いや興味津々だよ俺ァいつだって。」とか言ってガシガシと頭を掻く。よく見れば手ぶらである。そもそも一体こんなところに何の用があってきたのだろうか。資料室にあるものを使うような授業しないじゃないか。



「先生、」



何しにきたんですか?と続けようと思ったらパチリと視線がかち合って思わず息を飲んだ。
あれ、なんか、
真剣な顔してる。




「で、興味津々ついでに聞きてェんだけど。こないだのアレ、何?」




ああ、怒っているのか。
いつもより幾分か眉と目の幅が狭まった真剣な顔と、ぶっきらぼうな言い方からは怒りみたいなものが感じ取れて、ひやりと心臓が冷える。



「こ、こないだの、アレ?」



先生が怒るような事、何もしてない。
どきまぎとしながら返事を返せば、先生の左の眉毛がかすかにピクリと動いた。


「ホームルームの時、泣いてたろ」
「泣いてましたけど、」


泣いていたけれど、それはいつものごとく先生のせいだ。私が泣くのはいつだって、先生のせいなのに。その理由を聞くのか。私に。


月詠先生と一緒にタバコ吸ってる姿があまりにもお似合いで。ちんちくりんな自分じゃ全然釣り合わなくて。私みたいに滑走路のごとき平坦な胸じゃなくて。スタイルも年齢も、容姿も経験も、なにもかも、全部。私があの人に勝っているところなんて一個もない。


それが悲しかったと、そう素直に言えたなら。
でもそれは、あまりにもこどもっぽくて。



「あれは…」
「何、」



責めるような先生の声色に心臓がどくりと脈打って軋むように痛んだ。
ネガティブはやめようと、沖田くんに連れ去られたあの日決めたばかりなのに、先生が怒ってると思ったら心も頭もぐちゃぐちゃでその怒りの理由を考えるところまで思考がたどり着かない。



泣いていた理由、
月詠先生に嫉妬したなんて。
そんなことを言えば呆れられるかもしれない。



だって先生は大人だし、雲みたいにふわふわして自由に飛び回ってる人だから。だから今はたまたま近くにいてくれるだけで、先生が違う方に行きたくなったらそれを繋ぎ止める術を私は何にも、持ってない。



「なまえ」



月詠先生の顔を見れば、わかるのだ。
銀八の隣で紫煙を燻らせる月詠先生の顔。



あれは、紛れもなく。
恋をしてる顔だった。



あの人が本気を出したら私なんて敵わない。火を見るよりも明らかな現実が痛い。



名前を呼ぶ先生の声も、責めるような目も。
部屋は暑いはずなのに、指先からひんやりと冷たくなっていくようで目を合わせて居られない私はパッと俯いた。



「せ、先生とは関係ないことです」
「ああそう、」


ああそうだなんて、そんな返事。
べつに泣いている理由がなんであれ、全然気にしてない。そう言いたげな相槌だ。
きっと先生が聞きたい事はこれじゃない。本題はここじゃない。



「その後沖田くんと仲良く手ェ繋いで帰ったな」



手を繋いだわけじゃない。腕を掴まれてただけだ。
泣いてる私をそのままにしておけなかった意外と友人想いの彼が、その優しさに甘えた私が、まるでとんでもなく非道いことをしたような口ぶりにチリ、と胸が痛む。なんでそんな言い方するんだ。
確かに先生を信じられなくて、月詠先生に勝手に嫉妬して、勝手に泣いた私が一番悪い。でも沖田くんは全然関係ない。



「お、沖田くんは関係ないです、よね。」
「関係なくないだろ。まじで言ってんのかお前。…こっち見ろ。」
「っ、」


こっち見ろ、と言われて反射的に顔を上げれば薄暗い資料室の中でまっすぐ私を捉える目は静かに怒りで燃えていて、一瞬呼吸が止まる。




「まじで、言って」



まじで言ってますと返事をしようとして、あまりに真っ直ぐな先生の目に気圧されてよろりとよろけた足で数歩後ろに下がると、トン、とお尻が何かにあたった。



「あ。」
「っ、なまえ!」



慌てて上を見上げれば、ぐらり、背にして立っていたガラクタの山が揺れるのか見える。
あ、なんて間の抜けた声が漏れて、数歩離れたところに立っていた先生の切羽詰まったような声が、その間抜けな声をかき消すように私を呼んだ。