4日目

嗚呼、憎い。


ザァザァと大粒の雨を降らす分厚い雲を睨みつけて、私は深いため息を吐いた。


憎い。とても憎たらしい。



カバンを地面に叩きつけてやりたくなるくらい憎たらしい。腹立たしい。
私がこんなに腹を立てている相手は、決して雨雲ではない。雨は良い。別に雨は良いのだ。
憎いのはあれだ。沖田総悟。



補習4日目を無事に乗り切って、少しホクホクした気持ちで家路につこうとした私を無理やり連行したのは同じクラスの沖田くん。
なまえ確か趣味は人助けって言ってやしたよね
という謎のセリフを吐き捨てて笑顔で私を連れ去った先は、風紀委員会の活動拠点だ。
ああ嫌な予感。私は帰りたい。そう宣言する間も無く中に押し込まれて、あれよあれよという間になぜか委員会活動を手伝わされた。
というか、教室に入ってしまった時点で私の負けである。近藤くんに人の良い笑顔で助かる!と言われてしまえば、断るすべはないのだ。



まあ。それも、100歩譲って、良いとしよう。
うん。今までにも時々こうして手伝うことがあった。
帰り際に山崎くんがこっそり、なまえちゃんいつもごめんね、とチョコレートをくれたから無理やり手伝わされた事に関しては目を瞑る。


それでもやっぱり沖田総悟が許せない理由は、折りたたみ傘である。
委員会を終えた皆んなと一緒に昇降口に向かうと、外は土砂降りの雨であった。
私はしっかり天気予報を見ていたし、折り畳み傘がちゃんと、カバンに入っていた。だから先を行く近藤くんと土方くん、山崎くん達に続いてそれを取り出していざ帰ろうとしていたのだ。
そんな用意周到な私の横で、沖田くんがそっと私に耳打ちした。



『ずっと黙ってたけどなまえ、歯に青のりついてやすぜ』



最悪である。確かにその日の昼は焼きそばパンだった。別に沖田くんに見られたのも、土方くんに見られたのも、近藤くんも山崎くんもどうでも良い。教えてくれよとは思うけれど、別に見られてしまったものは仕方ない。だって青のりというのは歯につくものである。

だが、昼に焼きそばパンを食べたという事は銀八と二人でいたあの瞬間にも私はずっと青のりつけてたのだ。死にたい。だれか殺してくれ。
そんな恥ずかしさと悲しい気持ちでいっぱいの私に、珍しく慰めるように優しく肩を叩いて『トイレで見てきなせェ、荷物持っててやるから。』なんて優しいセリフを吐いた沖田くん。
すっかり傷心の私はなんの疑いもなく手に持っていた折り畳み傘と、カバンを預けてトイレに向かった。




これが間違いだった。




トイレで鏡を見ても、青のりなんて付いてない。
おかしいな、そう思った瞬間、私は気づいてしまったのだ。これは罠だと。
慌てて昇降口に戻ったが時すでに遅し。
下駄箱の脇には沖田くんは居らず、私のカバンだけがぽつねんと放置されていた。






折り畳み傘は、なかった。






クソ野郎が。
次あったら前髪毟ってやる。
嗚呼、憎い。
こうして冒頭に戻るわけである。


一向に止む気配のない雨をみて、もう別に、濡れて帰っても良いかななんて諦めモードの私は緩慢な動きでのろのろと靴を履き替える。
ああ、こんなの。
こんなのってない。
だってこんなにひどい雨の中を傘もささずに歩くなんてそんなのは最早修行である。滝行だ。軽めの滝行だ。



ていうか電車乗るのにびしょびしょで乗れるかな。恥ずかしすぎるんだけどな。




「あれお前何やってんの?」



勇気を振り絞って雨の中に一歩踏み出した瞬間、後ろから聞こえてきたのは書き間違えるはずもない銀八の声。


「あ、先生」



少しでも雨を避けるために頭上にかざしたカバンで、ボツボツと鈍い音を立てて雨粒が弾けるのを感じながらゆっくり振り返れば、思った通り。
タバコの煙をゆらゆらと燻らせて、こちらを見ていた。



「あ、先生。じゃなくて、何お前傘もってねーのか」
「似てないです酷いきもい」
「いやこんなもんだろ」
「全然違いますもっと鈴の転がるような可憐な声です」
「それはお前鈴に失礼だろーが」
「先生は私に失礼ですけどね」



あ、先生。のところは私の真似をしたつもりなのか、妙な高い声だ。全然似てない。
不服そうな私の顔を見て先生は意地悪く笑う。くそ。惚れた弱みか。かっこいい。
ま、なんでも良いけど濡れるぞ、と大きな左手が私の二の腕を掴んで自分の方に引き寄せる。
ぐっと近づいた距離に、正直な心臓がどきりと跳ねた。



「と、盗られたんですよ」
「何が」
「傘、もってないっていうか盗られたんです」
「ヘェ…」



誤魔化すように傘の話をすれば然程興味もなさそうに相槌を打った銀八はまだ私の二の腕を掴んだままだ。
恥ずかしいし離してほしい。そんな私の気も知らずになんとも呑気に右手で私の前髪についた水滴を払っている。



何も言わない、何も言えない。
ザァザァと降る雨の音しか聞こえない。
雨で湿った空気のなかにわずかに混じる先生のタバコの匂い。
何これ。
どういう状況だ。
勘弁してくれ。死んでしまう。
もし心臓が一生のうちに脈打つ回数が決まっているとすればわたしはもう今ここで死んでいる。



しかし今やめてと振り払えばこの真っ赤な顔を見られてしまう。
俯いて鞄の持ち手を両手でギュッと握った。


やばい泣きそうだ。


この銀八の行為にどんな意図があるのか知らないが、なんだか弄ばれているみたいで悲しい。



やっぱり先生は気づいてる。
気づいてて、こうやってわたしを弄ぶんだ。
ずるい。
大人は狡い。



「なまえ」



ついに溢れた涙は決して見られてはいけないと思ったのに。不意に名前を呼ばれて、先生の大きな手がわたしの頬を包んだかと思えばぐいっと上をむかされる。



「何泣いてんだ」
「泣いてないですけど」
「いじめられてんのか、誰かに」
「いじめられてない」



いつもよりちょっと真剣な銀八の目に、私の顔がしっかりうつっている。私が泣いてる理由を、傘が盗られた事だと思っているのだろうか。その珍しい先生の様子を妙に冷静な気持ちで眺めならぼんやりと考えを巡らせる。



「じゃあ、なんで泣いてんだよ」
「先生のせいでしょ」




ポロっと溢れた言葉に、私の頬をぬぐっていた銀八の指が動きを止めた。
しまった。
まずいと思った時はすでに遅い。一度口から出てしまった言葉はどうあがいても回収できない。
先生のせいでしょと言う意味深すぎる言葉は、待って!と心の中で叫ぶ私を無視して、銀八の鼓膜にダイレクトアタックをかましやがった。



怪訝そうに顰められる眉毛。



「お前ソレ「先生がずっと私の二の腕掴んでるから!!お、女の子の二の腕なんてそんなしっかり触るもんじゃないですよ!!!変態!!」



慌ててひねり出した私の苦し紛れの言い訳は、存外それらしくあったようだ。すんなり受け入れられたように見える。銀八の眉間の皺はなくなっていた。



「いや俺はどっちかっつーともっとこう、豊満な方がタイプ「死んでしまえ」