2日目

12時を知らせるチャイムが鳴り響く。
それまでの2時間弱、先生の横顔をなるべく見ないように無理やりプリントに集中していた私の緊張の糸は、空腹をさそうその音にプツリと切れた。



「あーお腹すいたー!」



そう叫んでぐーっと伸びをする。
私が放り投げたシャーペンがコロコロと机の上を転がった。
それを横目で見た銀八は昼飯食えば?つーか持ってきてんの?と言って再び死んでるのか生きてるのかわからない生気のない目をパソコンに向ける。
パチパチとパソコンのキーボードを白い指が気怠げに叩く。わあ。仕事してる。

ちゃらんぽらんに見えて、やらなきゃいけないところはきっちりやってるのだ。


こんな風にパソコンに向かう姿を見るのはきっと、私が初めてに違いない。少なくともZ組の生徒は知らないはずだ。そう思うと何だか優越感を覚える。



「…先生はまだ食べないんですか」




そう言えば昨日も、私の補習の間ずっとウロウロと教室を徘徊していたが先生はお昼を食べないのだろうか。
特に深い意味はなく、ただ仕事をしてる横でお昼を食べるのは忍びないと思って言った言葉だったのだが、キーボードの上を面倒くさそうに動き回っていた銀八の手が突然ピタリと止まる。


今度はしっかりと私の方をみて、
でも特に何を言われるわけでもなく見つめあったまま先生の瞳だけが数回瞬いた。


何だ。この沈黙は。時間にしたら数秒もないくらい。きっと一瞬の間だけど、永遠にも感じられる謎の間。
じっと、やる気のない目で見つめられてじわじわと頬が暑くなっていくのを感じる。なんでもいいけどあんまりみないでほしい。



「ああ、何、ひょっとして一緒に食いてェの?かわいいーとこある「はいはい寝言は寝てから言ってくださいね」前言撤回全然可愛くねーわ」
「可愛くなくないですただ仕事をしてる横でお昼を食べるのは可哀想だなっていう、思いやりですけどもういいです先生なんて昼ご飯も食べないで永遠に仕事してればいいです」
「俺はいいんだよ俺はこれがあるから」


そう言って先生が引き出しから取り出したのはチョコ。ちらりと見えた引き出しの中にはお菓子がいっぱい入っていた。いやOLか。



「…じゃあ食べちゃいますよ」
「おー、食え食え。いっぱい食って、おおきくなれよ、色々と」
「は!サイテー!変態!」


良いというならまあ良いや。
お腹すいたし食べよう。
セクハラ発言に抗議の声をあげつつ、さっさと自分がプリントを広げていた一角を綺麗に片付ける。


銀八は「変態って、ナニがとは言ってねーだろ」とか言いながら取り出したチョコをパクッと食べてさっきよりもめんどくさそうにパソコンの方をみた。集中力が切れたんだな。と思いながらその横顔を盗み見る。
画面を見て半目になってなんかぶつくさ言ってるけど何を言っているのかは聞き取れない。
きっと夏休み明けの授業の準備だろう。
銀八の授業が果たして準備してやるほどの授業内容かと言われれば怪しいが、きっとなんか子供にはわからない大人の事情があるのだろう。









視線を感じる。
多少は予想してたものの、とてつもなく、隠す気もない視線をビシビシとおでこに受けている。
おでこじゃない。
プリンに。


「いいモン食ってんな」
「いいでしょ、プリンです」
「うまい?」
「うまいですよ」
「へェ…」


こんな会話があったのはほんの数分前。
それ以降黙りこくった銀八は穴があきそうなほどわたしのプリンを見つめている。



「お前さァ、補習に付き合ってくれてる先生に、お礼とかないの」
「ないです、だって補習は先生の仕事でしょ」
「一口くれよ」
「…やだ」



絶対嫌、と続けたら銀八は拗ねたようにパソコンを折りたたんでその上に突っ伏した。
子供か。

その様子が面白くてふふ、と笑えば前はもっと素直ないい子だったのにな、なんて昨日も聞いたそんなセリフを言いながら今度は頬杖をついてわたし越しに窓の外を眺め始めた。


そんな仕草にいちいちわたしの心臓は反応するのだ。わたし越しに外を見てるだけだというのになんとも耐性のない脆弱な心臓である。



「前は、って。一年生の時ですか?まだ二年しか経ってませんけど。」
「可愛かったなァあの頃は」
「えー?今は可愛くないんですか?教え子でしょ自分の」
「いやいや教え子ってだけじゃ弱ェんだよなァ…無償で愛してくれるのは親だけだと思え。愛されたければ愛されるための努力をしろ、プリン一口くらいどうってこたないだろ」
「どんだけプリン食べたいんですか」
「人が食ってるモンってうまそうに見えるだろ。しかも俺が仕事してるすぐ横でなまえがうまそうに食う…か、ら………チッ」



突然不自然に言葉を切った先生は窓の外をみて舌打ちをしたかと思えば眉間にしわを寄せて、険しい表情を浮かべる。



ああ。
何か良くない事だ。
全身からめんどくさいオーラが溢れ出ている。


この感じはきっと校長先生だ。
いつも校長とやりあってる時の銀八はまさにこんな感じ。
わたしが国語準備室にいたら、きっと銀八は怒られるに違いない。御愁傷様である。



「なんですか?」



答え合わせ、とばかりに先生の視線を辿る。



「…?」



窓の外には夏の日差しが降り注ぐ校庭と、練習中の野球部。
キィンッと気持ちのいい音とともにボールが青い空に弧を描いて飛んで行く。


まさに夏の風景。とても良い風景だ。
マネージャーの子がせわしなく走り回っている。青春って感じだ。わたしはもともと部活には入っていなかったし、ちょっと羨ましい。


そんな青春真っ只中な風景の中、銀八が険しい顔をする原因となるような異常はどこにも見受けられない。
校長の猥褻物をくっつけた不快な頭もどこにも見当たらない。
ハズレだ。
絶対校長だと思ったのに。



「先生、なん」



なんだったんだ。答えは。
なんですか?ともう一度聞こうとしたわたしの言葉は半分、音になる前に喉の奥に引っ込んだ。



振り返るわたしの手を静かに、暖かい何かが包み込んだ。びっくりしてなんの抵抗もできないわたしの腕はそのままグッと軽く引っ張られる。


スプーンを持った右手。


わたしの口に運ばれる予定だったスプーンに載ったプリンが、卑怯な大人の手に引っ張られて先生の口に消えていく。



「うま」



ぽかんと口を開けたままなにも言えない。
なにも、言えない。
掴まれた右手にじわりじわりと熱が集まるのだけを感じる。

なんの反応もしない私を不自然におもったのか、先生が、なまえちゃーんと巫山戯たトーンで私の名前を呼んで目の前で手をひらひらと振った。



「…さ、さいてい…」
「良いじゃねーか減るもんでもねーし」
「いや減るでしょ確実に」
「何だよそんなに大事ならしっかり持っておかねーと。誰かに盗られるぞ。」
「誰かって先生が盗らなきゃ誰にも盗られなかったんですけど。どんだけプリン食べたいんですかアンタ。」
「別にプリンが食べたかったんじゃねーよ、俺ァただこうして、可愛い生徒に世間の厳しさを教えてやってんじゃねーか。たとえこれがプリンじゃなくても盗ってたよ俺は」
「いやどっちにしろ最低だしていうかプリン食べたかっただけでしょ」




慌てて平静を装ったけれど、真っ赤な顔はきっと隠せていない。


大人はずるい。


ねぇ、先生。
気づいてるでしょ。