5日目

何でこうなった。



時折くいっと軽く引っ張られる髪。
目の前で揺れるいちごのネクタイ。
お酒の混じった、いつもとはちょっと違う先生の匂い。



「あ。そういえば、あれ、返ってきたのか?」



浴衣を着て、頭を結わいて、
今わたしを取り囲むのは何もかも非日常的すぎる。ていうかもう沈黙に耐えられない。
そろそろ花火始まってるんじゃないの?全然見えないけど。まだなの?何なの?いい加減にしてよなんなの?
緊張とかそういうのを通り越して謎の腹立たしさがわたしの中で芽生えはじめた頃、突然銀八が口を開いた。
ドキドキするのにも疲れたわたしは喜んでその話題に飛びつく。
もう会話があるならなんでもいい下ネタでもなんでもいい。黙っていたら死んでしまう。



「あ、あれって?」
「折り畳み傘だよ、見つかったのか?」


ちょっと声が上ずる私と、いつもと何ら変わらない気怠げな銀八。ギャップにずしんと心が重くなる。だがこんなことはもう日常茶飯事だ。いちいち凹んでいたら身がもたない、叶わぬ恋をしているとそういう部分が強くなるのだ。いつだってドキドキしてるのは私だけだ。悔しい。でも好きだ。


「ああ。折り畳み傘。あれは盗られたって言っても盗ったのは沖田くんだから。ほんとにいじめとかじゃないんですよ。あれはジャレてるだけです。」



ふふ、と笑いながらそのうちちゃんと干して綺麗に畳まれた状態で帰ってきますと言えば、フーンなんて言う興味なさそうな相槌が返って来た。



「フーンって、興味ないなら聞かないでくれます?」
「興味なくねーよ、ずっと心配してたよ先生は」
「えー?何ですかそれ嘘ばっかり」
「嘘じゃねーよお前が傘盗られたってめそめそ泣くから」
「いや、泣いてたのは傘のせいじゃないですから」
「…じゃあ何で泣いてた」



急に先生の声のトーンが変わった。

俯いているから顔は見えないけど、多分、あの偶に見せるかっこいい真剣な顔をしてるんだろうな。先生はたまに目と眉毛の間が狭くなる。真剣な顔は滅多に見られないからレアだ。
真剣な声に、あ、なんだ。本当に心配してくれてたんだ。とか人ごとのようにそんなことを思う。



「なまえ」



心地よい低音が鼓膜を揺らす。
銀八の手が頬をすっと撫でた。まるで泣いていないか確認しているみたいだ。
どきりと高鳴った胸に、思わずさっき渡されたお酒の瓶をぎゅっと押し付ける。落ち着け。
勘違いしてはいけない。冷静になれ私。


頬が濡れていないのを確認した先生の手はそのまま顔の横に垂らした後れ毛を巻き込んで優しく私の耳にかける…ていうか、あれ?今私に触ってたの多分お団子に絡め取られていた方の手だ。
不思議に思って反射的にパッと顔を上げれば、いつの間にお団子と袖の分離に成功していたのか、やはり何にも引っかかることなくすんなり先生の顔が見える。



「あ…」



緊張でカラカラに乾いた喉から、かすれた声がもれた。
私を見下ろす先生の目がなんだか見たことのない色をしているように見えて目が離せない。
何か言わないと。
変な空気に飲まれてしまう。


『男なんてみんな狼だからな』


こんな時に限ってふと頭によぎるのはそんな服部のセリフで。
いやいや、違う違う。ありえないから。
だって先生は大人だ。私はこどもで。ちんちくりんだ。落ち着け私。暗くてよく見えないから、瞳孔が開いてるだけだ。生物で習った。暗いところでは毛様体筋が収縮して瞳孔が散大するのだ。だからきっといつもと違ってみえる。それだけだ。


ぎゅっとお酒の瓶をもう一度強く握って、もう、取れてたなら言ってくださいよ!と、そうやって言おうと息を吸った瞬間。



ドン
大きな音を立てて、大きなガラス窓の向こうで花火が打ち上がった。



つられて窓の外を見ようとした私の頬に暖かくて大きな手のひらが押し付けられて、
へんな空気を打開しようと勇気を振り絞って開きかけた私の唇に先生の親指が触れた。
喉まで来ていた私の抗議のセリフは音になる事なく、空気だけが唇からこぼれて行く。


やばい。なんか。
瞬きを忘れた目にじわりと涙が滲んだ。
こんなのは嫌だ。これは違う。こんなはずじゃない。これは妙ちゃんが私のために用意してくれた夏の思い出じゃない。


くらくらする頭で抵抗しろという答えを弾きだした瞬間、グロスのふちを爪の先でひっかくようになぞる先生の顔が金色の花火の光で明るく照らされた。




「ふ、ッざけんな!」



うっかり見惚れそうになったけれど今はそれどころではない。
ものすごい勢いで道を踏みはずそうとしている気がする。とめなくては。踏みとどまらなければ。わたしは清く正しく先生に恋しているのだ。こんな酔っ払った変態に手篭めにされてたまるか。
両手でしっかり握ったお酒の瓶を、中身が溢れる事も気にしないで思いっきり前に突き出した。


「イッッッ!!!ッてェ!!」


お酒の瓶はゴッと鈍い音をたてて先生の胸板の真ん中、心臓のあたりに直撃した。痛そう。力加減はできなかった。ごめんね。
でも胸のあたりを押さえて痛みに悶える銀八は、いつもと変わらない声色で、私は胸をなでおろす。よかった。



「何すんだよ…」
「ハァ?!それはこっちのセリフですけど!変態先生か弱い女子生徒にナニする気だったんですかやっぱり服部先生の言う通りですね!」
「はァ?!バッカお前ちげーよ俺はアレだよお前ホラ、あれだって」
「どれだよ」
「違う違う違う!違うからな!そういうゴミを見るような目つきやめろ!」
「いや、だってゴミですよね。社会の。社会のゴミですよね。大きな大きな粗大ゴミですよね。」
「違うってだからあれだよお前あれホラ青海苔付いてたからとってやろーとしたんだろーが」
「フーンソウデスカ」
「全然信じてねーだろ」



青のりなんて付いてなかった。
さっきトイレで化粧直したばかりだもん。
先生の嘘つき。
なんのための嘘なのか。わたしが抵抗しなかったらどうするつもりだったのか。
考えてもわからないけれど、きっとあれには深い意味なんてなかった。酔っ払った大人の、ひどい悪戯だ。



「先生は嘘ばっかりですね」


ちくり。
ちくちく痛む心に合わせて、わたしの口から出た言葉もどこか棘がある。
それに気づいた先生は一瞬黙ったあとハァ、と短くため息をついた。


「…お前も嘘ばっかりつくだろーが、だから、あいこだ」
「わたしは嘘つかないです」
「どの口が言ってんだよ。泣いてる理由、はぐらかしていっつも先生が〜、って言うじゃねーか」
「大人が子どもに言えないことがいっぱいあるのと同じように、子どもにだって大人に言えない事がいっぱいあるんですよ先生」



顔は見ないようにじっと先生のいちご柄のネクタイにできたお酒のシミを見つめる。
わたしが瓶を押し付けた時に溢れたお酒は、先生のネクタイとシャツにかかっていたようだ。
ざまァみろ。
幼気な女子生徒の気持ちを弄ぶからだ。



「あのさァ、お前言えねェっつーなら、そういう辛そうな顔すんのやめろよな」
「してない」
「してる。そんな顔されてほっとけると思ってんのか」


目を見ないようにしてたのに。
わたしの顔の高さに合わせて腰をかがめた、先生の優しい顔が見えた。
ああまた泣きそう。
妙ちゃん助けて。
じわじわ滲む涙をこぼすまいと唇を噛み締めた。
ほっといてくれたらいいのに。どうせどうにもならないのだから。
先生がわたしに優しいのは、わたしが生徒だからだ。その優しさには下心なんて一つもなくて、わたしはそれが悔しい。



もう言ってしまおうか。
散々内に秘めてきたのに今更そんなことを思ってしまったのはきっと夏のせいだ。
秘めて居たって叶わない。それならいっその事玉砕してしまうのもありではないか。



「わたしに…私にこんな顔させてるのは先生じゃないですか。いつだってわたしが泣いてるのは全部先生のせいですよ。嘘じゃなくて。先生がそうやって優しくするからじゃないですか。ほんとは知ってるくせに、大人は狡いです」



一旦口から出た言葉はどんな手を使っても取り消せない。
困ったような銀八の顔が腹立たしくて、見て居たくなくて、先生の白衣の襟をぎゅっと握って目の前のお酒のシミができた胸におでこを押し付けた。




「ズルいのはどっちだっつーんだよ」
ため息まじりにボソッと呟いた先生の声は聞こえないふりをした。