6日目

「おい」
「……」
「おいって」
「………」
「オーイ、なまえちゃーん?」
「…」
「無視すんなって」
「む、無視なんて…してませんけど!」



気まず過ぎた。
昨日の今日で。
恒例となった国語準備室で二人っきりの補修。
今日は最終日である。
ていうかもう今日が最終日とかもうホントどうでもいい。とにかく気まず過ぎた。



行きたくないなぁなんて思いながらもちゃんと学校に来たわたしは、努めて明るく振る舞った。

別に昨日のことなんてなにも気にしてない。
エッていうか昨日って何?わたしの世界には昨日なんて概念は存在しない。昨日とはなんですか?今日の前?今日の前ってなに?ていうか今日ってなに?昨日とか今日とかそんなのどうでもいいそんな人間が勝手に決めた時の区切りにわたしは左右されませんけど、と、まあそんな風に振る舞った。


否、振る舞おうとした。


しかしわたしごときの経験値で耐え切れなかったのである。告白した経験も振られた経験も、圧倒的に無かった。圧倒的ゼロだ。
赤子同然の経験値しかないわたしの決意は、国語準備室の前に立った瞬間、宛ら、ゲーム開始直後に突然魔王の城に飛ばされた勇者(Level1:装備:木の棒)のようにあっけなく、それはもうあっけなく、儚く消えたのだ。



教室に引き返し、自分の机に座って頭を抱える事数分。突如聞こえてきたぺったぺったといういま一番聞きたく無かった大好きな足音に慌てて机に突っ伏した。


こちらに来ないで神さまお願い300円あげるから。
そんな私の祈りも虚しく、お、いたいた。といって銀八は教室に入ってきた。
お賽銭で300円ならかなり奮発している方だと思うが、どうやら神は300円なんて端金では動いてくれないようだ。



そして冒頭である。



「学校に来ておきながらサボりたァ、なかなかの度胸だな」
「サボりじゃないです今考えてたんですいろいろと」
「フーン」




ぐしゃりとわたしの髪をかき乱した大きな手が机の上に乗る。
サボりだなんだ、そんな事を気にする人間じゃないくせに。喉まで出てきたそんな言葉を飲み込んだ。



「にしても、あっちィな…」



トントンと机の上でリズムを刻むように、銀八の指が跳ねる。それをじっと眺めながら、唇を噛み締めた。どうやら先生はまた山崎くんの椅子を引き出して座っているようだ。すごく近くから声が聞こえて心臓が痛くなる。勘弁してくれ。



ていうかなんでこんな普通な訳?
なに別に昨日なんて何もありませんでしたけどみたいな態度してんの?昨日のわたしの勇気はなんだったの?…いやあれは勇気というか疲労と諦めがほとんどだったけど。なに可愛い生徒の思いを踏みにじってしかもそれをなかったかのようにふるまってんの?


完全なる八つ当たりである。
それはわかっている。でも当たらずにはいられない。
わたしは高校生活という青春を丸ごと先生に捧げたのだ。その時間はいまさら取り戻そうともがいても、戻らない。
まあ別に取り戻したい訳でもないし、恋をしていたからといって、実るなんてそんな厚かましい希望は一ミリたりとも抱いたことなどないけれど。それでも失ってみるとなんとも無駄な時間であったと心の中にそういう思いが芽生えるのも、不思議な事ではない。

ていうかわたしは振られたのだろうか。
好きです、と、ごめん、がセットで告白と失恋が生まれるはずだ。


わたしは一言も、好きとはいってないし、先生もまた、一言もごめん、またはそれに準ずる言葉を言っていない。昨日、先生が言ったのは。




ズルいのはどっちだ



これだ。わたしの心に引っかかった。
なにがズルいんだ。先生だけだ。ズルいのは。
知っていて弄んだのは先生だ。
いや弄んでるつもりはなかったに違いない。先生は優しいだけだ。その優しさで勝手に舞い上がって勝手に手のひらでコロコロ転がっていたのはわたしだ。フンコロガシのフンよりもよく転がった。
先生の優しさを勘違いするまいとして、どんなに自制をかけても、自分の気持ちをコントロールできるほどわたしは卓越していなかった。
だから勝手に転がって勝手に大人はズルいと決めて、そして勝手に怒った。どちらかといえばわたしは勝手な馬鹿だった。


先生は大人なんだから、知っていたはずだ。
自分に恋する生徒に、優しくすればどうなるかなんて、想像に難くなかったはずだ。
だからやっぱりズルいのだ。



「先生じゃん。」
「エッ何が」



やっぱりズルいのは先生だ。そうやってなんども頭の中で一番ズルかったのはだれか考えていたら思わず口からもれた。
突然のわたしの発言に隣に座った銀八の肩がびっくりしたように揺れたのがわかる。



「…」
「オーイ、何が?」
「なんでもないです」
「何でもなくねーだろ、俺が何」
「先生って言っただけで別に銀八先生とは言ってません」
「いや今のタイミングで先生じゃん、って言ったらまず俺の事だろ」
「違いますぅ先生じゃなくて宣誓って言ったんですぅ残念でしたーはっずかしいー自意識過剰じゃないですか」
「マジで言ってんのソレ。ちょっと苦しすぎるぞ」
「へーソウデスカ」
「…なに、怒ってんの?」
「怒ってません悲しいだけです」
「何で」



何で、それを聞くのか。
お前のせいだ。
わたしが苦しいのも、悲しいのも、切ないのも、全部先生のせいだ。そう言ったじゃないか。昨日。
そうやってなにもなかった事にして、
またいつも通り優しくするんだ。
そうして、私が嫌いになれないようにしてるんだ。
ずるいずるいずるい。



「やっぱりズルいのは先生だけだと思います。」
「急になんだよ」
「昨日、先生はズルいのはどっちだっておっしゃっいましたけど、私はやっぱりズルいのは全部先生だと思います。」
「きのう、な」



先生が教室に入ってきてから一度も顔は見ていないけれど、たぶん今また困った顔してるんだろうなって想像して、拳を握る。困るくらいなら優しくしないで欲しかった。そう思うのはわがままだろうか。




「まさか酔っ払ってて覚えてないですか」
「覚えてないワケねーだろ」
「じゃあ教えてください。ズルいのはどっちなんですか私ですか。」
「…ハァ」



またため息だ。
めんどくさいと思うならば、はっきりとガキは相手にしないと言えばいいのに。そうすれば私だって、ちょっとは傷ついてしばらくへこんだとしても、ちゃんと前をみて次に進めるのに。



「先生。」
「お前だろ、どう考えても」
「私のどこがズルいんですか」
「ちゃんと教えてやるからこっち見ろ」
「…や、無理」
「無理じゃねーだろ」
「いやまじ無理」




無理だ顔を見るなんて。
きっと苦しくて悲しくて死んでしまう。



「なまえ」



静かに名前を呼ばれたかと思えば同時に横にいる銀八がもそりと動いた気配を感じる。
何、とその先の行動を探る間も無く、わたしの座った椅子の脚が力強く引っ張られた。
無理やり向きを変えられた椅子はガタガタと揺れて、元の位置から動くつもりのなかったわたしの身体だけが取り残されてぐらりと上体が傾ぐ。



突然の事でバランスを崩したわたしのあたまのなかではフッと湧いて出た源外先生が「それは慣性の法則だな」と謎の発言をして消えていく。
慣性の法則だか反省の豊作だか安政の大獄だかなんだか知らないが、このままでは椅子からずり落ちる。



「あっ、ぶな…」


向きを変えられたせいで私の目の前へと移動した銀八の白衣の襟を両手でガシッと掴んで身体を引き寄せる。
ふわりと鼻腔をくすぐったのはいつもの、わたしが大好きな先生の匂いで自分から引き寄せておきながら心臓がバクリと不穏に跳ねた。



慌てて離れようとしたわたしの肩を先生の大きな手が掴む。


「お前がそうやって、散々こっちの事煽っておいて、大人だ子供だってくっだらねェ線引いたんだろーが」
「なに、言って」
「それとも何?焦らしてんの俺の事」



顔を上げて、飛び込んできたのは怒ったような顔の先生。いつもみたいにヘラヘラ笑っていなくて、わたしを見据える目は、心臓が止まってしまうかと思うくらい真っ直ぐだった。




「ズルいのはお前だろ。お前がそうやって、線引いたら、俺ァそれを越えられねーだろが。」




それは、
どういう意味?
私の良いように捉えて良いんですか先生。
ぽかんと口を開けたまま先生を見上げれば、それを見下ろしていた先生の口元がふと緩んだ。
いつものヘラヘラした顔。




「…わたし、線なんて、引いてない」
「引いてんの。ものっそいぶっとい線引いてんだよお前は」


肩を掴んでいた手が離れて、代わりに髪の毛をぐちゃぐちゃとかき乱す。


「ひ、引いてないです」
「あそ。じゃあ言えよ、」
「なにをですか」



先生がフーッと吐いたタバコの煙が顔にかかった。
煙たい。目にしみる。
これ、夢じゃないんだなと思うわたしの頭の片隅でさっちゃんがちょっとォ!抜け駆けは許さないわよ!と叫んだ。





「俺の事好きなんだろーがなまえちゃんは」
「…はい」
「いやいや、はい、とかじゃなくて、ちゃんと言ってくれる?はいどーぞ、」






ああ。
ごめん、さっちゃん。
わたし、なんか、抜け駆けするかも。




先生、だいすき



最初っからそうやって素直に言っとけばいンだよオメーは。遠回りしやがって。
そう言って、先生は私のおでこにキスをしたのだ。