いするぎくんといっしょ(4)


※平和なパラレル時空
※石動が物理的・先天的に犬(ボルゾイ)になっています
(1)(2)(3)の続き


------------------------------

#4 はじまりの記憶


私の前の主人は優しい方だった。寝食に不自由はしなかったし、十分な運動もさせてくれた。もっとも、主人が自ら世話をしてくださることはなく、ほとんどは家の使用人が私の面倒をみていた。それでも私を可愛がってくださっていたのは本当だと思う。
――私自身というよりも、私を飼うことで得られる優越感の方を大切にしていたようだったが。

しかしある時、主人は私を手放すことを決めた。新しく迎える家人が、私のように体の大きい生き物は苦手なのだという。
すまないな石動、これも彼女のためなんだ――そう言って、主人は私の頭を撫でた。主人に仕えることが私の全てであるが、主人にとっては違う。私よりも大切なものはいくらでもある。私は仕方のないことだと自分に言い聞かせるより他なかった。
私の貰い手探しは中々に難航しているようだった。使用人の会話を耳にしただけなので、実際のところはよく分からない。

「旦那様の犬、まだ貰い手がつかないって?」
「そうらしい。ま、あんな愛想のない犬じゃ当たり前だろう。旦那様みたいに文句を言わないでくれるのはありがたいけど」
「犬の世話係なんて早くやめたいものだよ」
「全くだなあ。給料だけはいいけどさ」

冗談めいて彼等はそんな会話をしていた。笑いが起こった。私はちっとも笑えなかった。主人にとっても、彼等にとっても、私の存在は煩わしいものでしかないと理解した。
丁寧にブラッシングされた毛並みは、撫でてもらえなければ何の意味もない。大きな体も邪魔なだけだ。あの家に私の居場所はなかった。死なせるのは忍びないからと、ただ意味もなく生かされているだけだった。


しばらくして、やっと私の貰い手が決まったらしい。主人の喜びようは相当なものだった。喜べ石動、相手はあのファリド家の御子息だぞ、と息巻いておられた。
「まさか、お前がきっかけとなってあの方と繋がりをもつことができるとはな。夢のような話だ。お前には感謝せねばならん」
感謝――感謝とは?家の邪魔者だった私に、価値が生まれたからですか?
主人は私を手放すことに微塵も躊躇いを覚えていないようだった。悲しさも寂しさもない。それどころか歓喜にあふれていた。私はやっと主人のお役に立てたらしい。だが、私は主人のために喜べばいいのか、自分のために悲しめばいいのか分からなかった。
私は「その日」に向けて入念にブラッシングされ、普段よりいい食事を与えられ、それはそれは大切に扱われた。美しく整えられた毛並みを見て、私の心には虚無ばかりが積もった。私は名も知らぬ人のもとへ行かなければならない。

そして、「その日」はあっという間に来た。
私が連れてこられたのは、広いと思っていた主人の屋敷よりもなお広い、大きな大きな家だった。しかしとても静かだ。庭師はおろか、使用人の姿もない。不思議な家だと思った。
「マクギリス様。いやはや、貴方様に引き取っていただけるとは、これも本望でしょう。本当にありがたいことです」
主人は目の前にいる人に深く頭を下げた。普段、使用人たちに対して尊大な態度を取っている主人が、これほど畏まる姿を見るのは初めてだった。相手はよほど上の立場の方なのだろう。
この家の主はマクギリス・ファリドと名乗った。金色の髪に碧の眼をした美しい人。この方が私の新しい主人であるらしい。

「こちらこそ。私の我侭を快諾していただけて恐縮です。聞けば、私よりも先に引き取りの声がかかっていたとか」
「いえ、他ならぬマクギリス様の申し出ですので!」
今の情報は初耳だった。なるほど、貰い手探しに時間がかかったのは、主人が相手を選り好みしていたためだったのか。私をより大切にしてくれる人を――という意図ではないことは分かっている。繋がりを得るのにより有益な相手。選考基準はそれが全てなのだろう。私の主人はそういう人だ。

主人の足元に座り、私はマクギリス氏を見上げた。物腰柔らかで、主人に対しても穏やかに接しているが、どこかよそよそしさを感じるのは私の気のせいだろうか。動物が好きそうにはあまり見えない。なぜ私を引き取ろうと考えたのだろう。

「見ての通り大人しいのですが、愛嬌は全くでしてね。マクギリス様のお眼鏡にかなえばよいのですが」
「気に入るも気に入らぬも、懐く懐かないも、すべては人間の都合ですよ。彼等は自由に生きようとしているだけなのに、人間はそれを自分たちの考えた型に当てはめようとする。時には躾などと称してね。型にはまらねば捨てるだけだ。実に気軽なものでしょう、捨てた後のことなど考えもしない。人間の都合に振り回されるのはいつだって立場の弱い者ばかりです」
「はあ……」

私の隣で、主人が呆けた声を上げた。何一つ理解していないような顔をしていた。
私は顔を上げてマクギリス氏を見た。その綺麗な目が私を見る。お前も大変だな、と呼びかけられたような気がした。私は瞬きをする。

「あなたは彼に愛嬌がないと仰った。主人からそのような言葉を受けても、変わらずあなたに寄り添い続ける彼の姿が、見えておられないようだ」
「……つかぬことをお聞きしますが、『彼』とはまさか、これのことを指しておいでなのですか?」
主人は私を指さした。「これ」扱いをされるのはもう慣れている。マクギリス氏は背筋を伸ばしたまま、当然だとでも言うかのように頷いた。
「ええ。彼です」
「……犬を、『彼』、と?」
「何か問題でも?」

束の間の沈黙が訪れる。主人は呆けた顔をして、マクギリス氏と私とを交互に見比べた。今しがたマクギリス氏の口から発せられた言葉の意味を吟味する。――どれほど時間をかけたところで、この人には決して理解できるものではないだろうが。
案の定、主人は理解度のキャパシティを超えてしまったらしく、堪えきれない笑いが鼻の先から漏れ出した。ふふ、ふふふ、と唇を戦慄かせ、ついには口を開けて高らかに笑い声を上げた。

「ははははははははは!マクギリス様は冗談がお得意のようですな!犬をまるで人間のように扱うとは!」
「…………」
「マクギリス様、犬は人の言葉を話しませんよ。そもそも『人間の都合』など犬に理解できるはずがないのです」
「……そうでしょうか?彼等はとても賢い。少なくとも、あなたよりは遥かに」
マクギリス氏の声はどこまでも冷たかった。表情がない。顔かたちは人形のように美しいが、その実彼はきわめて人間らしい感情を露わにしていた。――すなわち、怒りだ。
主人はようやくマクギリス氏の様子の変化に気付いたようだった。青ざめた顔で何かを言いかけるが、マクギリス氏の威圧感に圧倒されてそれは叶わない。

「彼は噛み付くどころか吠えることもしない。まだあなたを主人だと思っているからだ。ご自分の益しか見ていないあなたと違ってね。私が彼を譲り受けたいと申し出たのも、それが理由です。彼が政治的な道具として使われていることが不快だった。……いや、腹が立った、という方が正しいか。あなたは私とのパイプができたとお喜びのようだが、それは全くの勘違いだと言っておこう。手放しで彼を差し出したことで、あなたは私の不興を買ったのだ」

マクギリス氏は淀みなくそう言い放った。迸る怒りを少しも隠さずに。言い訳も機嫌取りも一切受け付けない、徹底した拒絶の態度だった。
「さあ、お帰り願おうか」
ここまで突き放されてなお言いすがることのできる人間などいないだろう。主人は冷や汗を拭う余裕もなく、転げ落ちるように席を離れると、ばたばたと音を立てて屋敷を出ていった。
部屋にはマクギリス氏と私だけが残った。主人のいなくなったソファーの横で、私は自分の居場所を見つけられずにいる。私はたった今主人を失ったのだ。

マクギリス氏が私を見ている。私も視線を返す。私達は見つめ合ったまま沈黙を過ごした。しばらくしてマクギリス氏が足を組み替え、私に話しかけてきた。
「……石動といったか、君は」
はい。
「まずは君に謝らねばな。君の主人を悪く言ってしまってすまない」
……いえ。おおむね事実ですから。
「だが、一度くらいは噛み付いてみればよかったんじゃないか?保健所送りの危険と引き換えに、自由を手に入れる道もあっただろう」
綺麗な顔でなかなか物騒なことを言う人だと思った。その目は決して茶化しているようには見えない。本気で言っているのだ。主人に噛み付くという発想自体が私にはなかった。もしこの人が私の立場だったら、本当にそれを実行に移していたのかもしれない。

……もしそれができたら、きっと楽しいでしょうね。
「できないことはないさ。君にはまだ選択の余地が残っている。元の主人のもとへ戻ることは難しいだろうが……君が望むなら、君のことを大切にしてくれる飼い主を見つけよう。もちろん、このまま首輪を取り払ってやることもできる。君の好きな道を選ぶといい」
彼は穏やかに語る。私の意志を尊重しようという思いがよく伝わってきた。彼は優しい人なのだろうと思った。とりわけ、私のように自由の少ない者に対しては。
そして同時にすこしばかり寂しさを感じた。彼が示した選択肢の中に、彼自身の存在がどこにもなかったからだ。

お構いなく。私はもう、決めています。
私はゆっくりと一歩を踏み出した。あの人が座っていたソファーの横を離れ、彼のもとへと。
――私の新しい主人は、あなたです。
爪先を揃え、背筋を伸ばす。顔を上げてまっすぐに彼を見つめた。少し驚いた様子の彼と目が合う。
私を選んでくれたあなただから。私のために怒ってくれたあなただから。今度はどうか私に選ばせてください。私を大切にしてくれるであろうどこかの誰かではなく、1人で生き抜く自由でもなく、私はあなたについていきたい。

「……そうか」
彼はぽつりと一言呟いて、私の頭を撫でた。大きな手だった。
私の居場所は、ここにある。



------------------------------
2017/04/30


[ index > home > menu ]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -