エンドロールのその先へ(1)


卒業オーディションを二か月後に控えた冬の日だった。
歌詞を書き込んだ楽譜を手に、トキヤはレッスンルームへ足を運ぶ。今日は曲作りの進捗状況を互いに確認する日だった。楽譜を渡すだけなら休み時間にでもできたのだが、どうせなら二人きりの時に見てもらいたかった。

間を置いて言葉を選びながら批評されるよりも、その場で思ったことをリアルタイムで伝えられる方をトキヤは好む。
砂月は決して嘘をつかないし、相手の心情を慮って婉曲な表現を使うようなこともしない。彼の辛辣な言葉は聞く者を萎縮させるが、だからこそ説得力と真実味がある。
この歌詞を見て、砂月はどのような反応を示すだろう。トキヤとしては良い表現ができたのではないかと思っているが、砂月はいつも通りに的確な駄目出しをするだけかもしれない。余計な期待はしないでおいたほうがいい。

レッスンルームには先客がいた。砂月だ。
「すみません、遅くなって」
「別にいい」
相変わらず素っ気ない返事だった。自分たちは本当に恋人同士なのだろうか?と首を傾げたくなるくらいいつも通りのやり取り。変に緊張していた自分の方がおかしいのかもしれない。
「それより早く見せろよ。……できたんだろ、歌詞」
「完成ではありません。最後のサビのワンフレーズだけまだ決まっていないんです」
「書けたところまででいいから」
ほら、と差し出される大きな手。促されるまま、小脇に抱えていた楽譜をその手の上に乗せた。

砂月の視線が楽譜の上を走る。まずはさらっと全体の流れを確認し、そこから曲と詞がどのように対応しているのかを細かく見ていく。
トキヤはいつもこの時間が苦手だった。じっくりと時間をかけて練りに練った歌詞でも、砂月にかかればいともたやすく一蹴される。人一倍プライドの高いトキヤにとって、それが的確な批評であればあるほど屈辱的だった。駄目出しをされる部分があるということは、それだけ「完璧」から遠ざかっているということだ。

さて、どれほど痛烈にこき下ろされるだろうか。卒業オーディションはデビューをかけた最後の重要なステージだ、おそらくいつもより厳しめの評価が為されるに違いない。
トキヤの頭の中では、「こんな陳腐な表現しか考えつかないのかよ」だとか「お前は本気でこの詞を俺の曲につけようと思ったのか?」など、これから散々に言い放たれるであろう罵倒の数々がネガティブシミュレートされていた。悲しいかな、これが慣れの賜物というやつだ。

……だが、脳内のシミュレートが「お前作詞の才能無いな」という最悪の所で終わりを迎えても、一向に砂月から声がかかることはなかった。
おかしいと思い、俯いていた顔を上げると、そこには先程とまったく同じ仏頂面で楽譜を凝視し続ける砂月がいた。もうかれこれ3分以上経っている気がするが、砂月はいつまでたっても楽譜を睨みつけたまま動かない。よく見ると、楽譜を持つ手が微かに震えている。

これはまずい、とトキヤは青ざめた。今までにない砂月の反応に動揺する。
曲のデモを聴いた後の勢いだけで歌詞を書いたのがいけなかったのだろうか。あの歌詞を書いた時、最後のワンフレーズ以外はほとんど本能的に言葉が零れ落ちてきた。これ以上の言葉は見つからないこないとまで思ったし、敢えて修正を加えることもなかった。
トキヤ自身はこれを渾身の出来だと思っていたが、砂月の目にはまったくの駄作と映ってしまったのかもしれない。冷や汗が背中を伝う。今まではどれだけ酷いことを言われても折れずにいたが、今回ばかりは流石に耐えきれるか不安だった。

不意に、砂月が顔を上げた。思い切りトキヤと目が合う。ここに来て、蛇に睨まれた蛙の心境を味わうことになるとは思いもしなかった。
「おい」
「は、はい」
我ながら情けない返事だ。
砂月は動けずにいるトキヤを穴が開くほど凝視し、それからおもむろにトキヤに向けて足を踏み出した。
「え、」
一歩、二歩、三歩。距離がみるみるうちに縮まっていく。砂月はトキヤを見下ろし、トキヤは砂月を見上げた。
砂月の左手がゆっくりとトキヤに伸びる。攻撃されるかもしれないと咄嗟に思い、トキヤは咄嗟に目を瞑った。砂月の姿が消え、代わりに視界が黒色で閉ざされた。これから来るであろう衝撃に身構える。

――しかし、次の瞬間にトキヤが感じたのは、肩の上に何かが載せられる感覚だった。
恐る恐る瞼を開けると、目の前にふわふわしたミルクティー色が映し出された。紛うことなくそれは砂月の髪の毛だ。そこでやっとトキヤは、自分の肩に砂月が頭を載せているのだと把握した。砂月が少し身体を傾けることで7cm分の身長差は無くなった。
頭でも叩かれるのかと思っていたので逆にトキヤは戸惑った。思いがけず萎らしい砂月を見ることになったわけだが、トキヤには彼が何故このような反応を示したのか理解できなかった。歌詞の出来があまりにも悪かったから、とは考えにくい。

「さ……砂月……?」
硬直した状態で名を呼ぶが、砂月はトキヤの肩に顔を埋めたまま動かない。だが、怒っているわけでも、失望しているわけでもなさそうだということはなんとなく伝わった。むしろ、トキヤには砂月が喜びで震えているような気さえした。
砂月は小さい声で呟いた。

「お前なら、曲に込めた俺の意図を察するのは当たり前だろうと思ってたんだけどな……
実際にそれを目の当たりにしたら……その……嬉しい、とか……思っちまったんだよ……」

肩越しに語られたのは、四ノ宮砂月の精一杯の「素直」だった。

砂月は、卒業オーディションのために作ったこの曲に、自分が持つ全ての力を注ぎ込んだ。学園で過ごした一年間の記憶、歌に対する情熱、そしてトキヤへの想い――音のひとつひとつに意味を込めた。
トキヤはそれらをひとつ残らず掬い上げて、詞という短い言葉の中に凝縮させて閉じ込めた。僅かな音の変化すらも見逃さない。音に込められた意味に耳を傾け、自分なりの言葉で新たな意味を付け加えていく。
それは、作曲者の意図を汲み取って歌おうとするトキヤだからこそ作ることのできた歌詞だった。砂月の想いは確かに、トキヤの心に届いていた。
砂月には、それがどうしようもなく嬉しくて、幸せで――愛おしかったのだ。

トキヤはぽかんと口を開けて砂月の言葉を聞いていた。砂月がこれほど正直に自分の気持ちを吐露することは本当に珍しかった。まして、真正面から素直な賛辞を投げかけられることは初めてだ。
那月相手の時はともかく、那月以外の他人に、ましてや日頃から口論ばかりしているトキヤに対して、こんな……こんな、素直に。

想定外の出来事に脳の処理速度がとうとう限界を突破した。
顔が熱い。心拍数が上がる。密着しているせいで、早鐘のように鳴る心臓の音が砂月にも聞こえているのではないかと思った。
――ああ、でも。
ふと落ち着いてみると、砂月の体温も心なしか上がっているような気がする。接した身体の部分からゆっくりと暖かさが伝わってきた。どくん、心臓が鳴る。この音は自分のものなのか、それとも砂月のものなのか、思考回路がショートした頭では正確に判断出来ない。

「……褒めていただけて恐縮ですが、この歌詞、まだ完成してませんからね」
「知ってる」
「最後のフレーズによっては、あなたの感動を台無しにしてしまうかもしれませんよ」
「だったらそれに合わせて曲を変えるまでだ」
「おや、殊勝な心がけですね」
「どんなフレーズでも、お前がそれを一番いいと思ったんなら、いい」

それきり砂月は黙りこくってしまったので、トキヤは腕を砂月の背中に回した。
緊張が解けたことによる安堵感、自分の書いた歌詞が砂月の心を動かすことができたのだという嬉しさ、それらがないまぜになって、胸が締め付けられるような、泣き出したくなるような感情がトキヤの心をいっぱいに満たした。
この不確かな感情を、人はきっと「幸せ」という名で呼ぶのだろう。
そしてトキヤは、これでは砂月も自分もしばらく練習に入れそうにないな、と幸せな溜息をつくのだった。


◆◆◆


昼休み、砂月はお気に入りの場所で楽譜を睨みつけていた。
歌詞が完成したらまた報告します、と言われて別れたのが昨日の話だ。トキヤが最後のワンフレーズを考えている間、砂月は編曲作業に取り掛かっていた。歌詞の内容から想像を膨らませ、それにふさわしいアレンジを当てはめていく。なかなか集中力を必要とする作業だった。ここのリズムは三連符に変えた方がいいかもしれない、あとでトキヤに意見を聞いてみるかなどと、頭の中で試行錯誤を繰り返す。

――するとそこに、集中力を乱す叫び声。
「砂月ーーーーっ!!!」
眉をひそめて振り返れば、赤毛の少年が全速力でこちらに向かって走ってくるところだった。あれは確か、トキヤの同室の……音也とかいう名前の奴だったか。クラスも違うのであまり会話はしたことがない。音也は必死の形相をしていた。

「砂月っ!!やっと見つけた!」
「……うるせえな。何の用だよ」
「用も何も!大変なんだよ!!早く医務室に来て!トキヤが――!」
トキヤの名を聞いた瞬間、砂月はすぐさま立ち上がった。嫌な予感に肌が粟立つ。音也が用件を話し始めるより前に、砂月は楽譜を放り投げて駆け出していた。




「砂月連れてきたよ!」
そう叫びながら音也が医務室のドアを開ける。トキヤはベッドの上で手当てを受けていた。トキヤはまず音也に目を向け、それから砂月を見た。ぺこりと軽く頭を下げる。砂月は自分の中に生じた違和感に眉をしかめた。――何だ、この感覚は?
「後頭部を少しぶつけただけで、他に大きな怪我はなさそうよ。しばらく冷やしていれば腫れも収まるでしょう」
保健医の先生の言葉に、砂月以外の人間が安堵の息を漏らす。

「あー、よかったあ、トキヤ……」
「気を失っているところを見た時は肝が冷えたぞ」
「ちゃんと目が覚めてくれてよかったです!」

医務室には、那月、真斗、音也と、Aクラスの3人が揃っていた。
3人が口々に話す内容を統合すると、トキヤは校内の階段で足を滑らせて転落したらしい。普段から人通りの少ない階段だったから、転落の瞬間を見た人間はいない。音を聞いて駆け付けた女子生徒が、階段の下で倒れているトキヤを見つけたのだという。そしてちょうど近くを通りがかっていたAクラスの3人に助けを求めた。那月がトキヤを抱えて医務室へ向かい、真斗は状況を保健医の先生に説明、音也は砂月を呼びに行った。砂月が駆け付けた時にはトキヤは既に意識を取り戻し、手当てを受けているところだった。

3人がトキヤの周りに集まる中、砂月は一歩離れた場所でトキヤを見ていた。「心配をかけてすみません」と申し訳なさそうにしている。意識ははっきりしているし、目立った外傷もなさそうだ。別段普段どおりの様子だが、砂月はどうも違和感が拭えない。

「トキヤくん、本当に大丈夫ですか?痛いところは?」
「ぶつかったところが少し痛むだけで、あとは何ともありませんよ。ここまで運んでいただいてありがとうございます」
「ううん、お安いご用ですよ!トキヤくんは羽根のように軽いですから!ほら、ぎゅ〜っ!」
「ちょっ……あの、四ノ宮さん、離してください」

トキヤの発言を受けて、砂月の片眉がぴくりと動いた。その違和感に気付いたのは砂月だけではなかった。あれ?と、那月がトキヤから体を離して首を傾げる。
「トキヤくん……僕のこと、名前で呼んでくれないんですか?」
今度はトキヤが首を傾げる番だった。
「え?四ノ宮さんは四ノ宮さんでしょう?」
「違います、だって今までは、『四ノ宮さん』だとさっちゃんと被って紛らわしいから、下の名前でって……ずっとそうだったじゃないですか」
「『さっちゃん』……?」

まるで初めて聞いた呼び名だと言わんばかりに、トキヤは那月の言葉を繰り返した。砂月の中に生じていた違和感が急速に輪郭をはっきりさせていく。何かがおかしいと気付いたのだろう、音也と真斗が心配そうに砂月を見た。その視線を受けてトキヤも砂月に目を向ける。那月と砂月と交互に見比べて、「ああ、双子か」とでもいうように納得した表情を見せた。

「あなたが『さっちゃん』ですか?」

ふざけているのか、と胸ぐらを掴んでやりたいところだった。そうしなかったのは、トキヤがどこまでも自然体で言葉を発していたからだ。これが冗談なら、一ノ瀬トキヤであればもっとましな演技をする。ふざけてはいない。悪意があるわけでもない。本当に、今しがたその存在を知ったばかりという様子だった。

「……随分と他人行儀な言い方じゃねえか」
嫌な予感を振り払うように前へ出た。ベッドの上のトキヤを見下ろす。
その長い睫毛が何度か上下した。

「他人行儀も何も、私達は『初めまして』でしょう?……私は一ノ瀬トキヤです。よろしくお願いします」

よく知っているはずの顔が、知らない目で砂月を見ていた。


◆◆◆


「マジでこれっぽっちも覚えてねえの!?」

思わず大きな叫び声を上げてしまった翔が、周りの視線に気付いて慌てて着席する。翔の隣でレンが「おチビちゃん、しー」と口の前で指を立てる。その向かい側でトキヤは居心地悪そうに俯き、トキヤの隣に座る砂月はますます眉間の皺を深くする。
カフェテリアの一角で、Sクラスの四人は顔を突き合わせていた。問題はもちろん、トキヤの記憶について。
砂月のことだけ記憶からすっかり抜け落ちてしまったらしい、という事実を打ち明けられて、レンと翔は俄に信じることができなかった。

「一応確認させてくれ。なあトキヤ、こいつの名前は?」
翔が隣のレンを指差す。
「……神宮寺レン。誕生日は2月14日、ですがチョコレートはあまり好きではなく、辛いものの方が好き」
「じゃあ俺は」
「来栖翔。一時期『小傍唯』として女装モデルをやっていた経験があり……」
「いやそういう情報はいいから!」
慌てて話を遮る。少なくともレンと翔に関してはしっかり覚えているということは分かった。問題はもう一人だ。
「じゃあ、こいつは?」
翔が砂月を指すと、トキヤは途端に困った顔をした。

「……四ノ宮、砂月さん」

喉の奥に小骨が引っかかったような言い方だった。よそよそしい、距離を感じる響き。そもそも、トキヤは砂月のことを「砂月さん」とはもう呼ばない。「さん」を付けていたのはずっと前の話だ。砂月のフルネームも、おおかた他の人間に教えられて初めて知ったのだろう。言い慣れていないのが伝わってくる。
その反応を見て、どうやらこれは只事ではないらしいと理解したようだった。翔とレンは無言で顔を見合わせた。

「でもさイッチー、二人はペアとしてずっと一緒にいたわけだよね。シノミーのことだけ覚えていないっていうけど、イッチーはこの一年間のことをどう認識してるの?」
「……自分の中では、何も問題なく学園での生活を送っていた記憶があるんです。ただ、詳しく訊かれると分からなくなる。ところどころで思い出せない部分があるというか……自分にパートナーがいたことは覚えているんですが、それが誰なのかはどうしても思い出せない。そんなふうに抜け落ちた部分がたくさんあるような感じです」

その抜け落ちた部分に、四ノ宮砂月という存在がいるはずなのだ。だがトキヤはその欠落を自分では認識できない。他人に言われて初めて、そういえばそこに足りないものがあるのではないかと気付く。まるでドーナツの穴のように。
「頭を打って記憶喪失っていうのはまあいいとして、特定の誰か一人だけ忘れるってあるのか?そんな漫画みたいなこと」
「あるんだから困ってるんでしょ、おチビちゃん。……問題はその原因と解決法だ。階段から落ちる直前、何をしていたか覚えてる?」
「……分かりません。何か考え事をしていたような記憶はあるのですが……」
トキヤは申し訳無さそうに砂月を横目に見た。だが砂月はその視線に応えず、憮然とした表情で腕組みをしている。

もちろん、記憶がないと分かってから、大急ぎで病院に行って検査をしたが、身体面での異常は確認されなかった。CTやMRIによる精密検査はまた後日ということだがあまり期待はできないだろう。トキヤ自身には何も自覚はないし、周りの人間から見ても変わった様子は見られないのだ。ただ、四ノ宮砂月のことだけを忘れているということ以外は。

こんな状態で素人が思いつく手段などほとんどない。翔は頭を抱えた。
「じゃあどうすりゃいいんだよ。何かきっかけでもあれば思い出せんのか?」
「……前にぶつけたところに、もう一度衝撃を加えてみるとか?」
「バッカそれじゃ打ちどころ悪かったら終わりだろ!俺もちょっと考えたけど!」
「だよねえ。フィクションではありがちだけど、実際に行うとなるとリスクが大きすぎる。困ったな。シノミーは何かいいアイデアある?」

レンが話を振っても、砂月は首を横に振るだけだ。反応が乏しい。ここでトキヤに向かっていつもの口調で文句でも出てくればいいのだが、今日ばかりはそれもない。
――これはかなりダメージ受けてるね。
無理もないだろうとレンは思った。記憶喪失といっても種類がある。トキヤが、これまでの記憶全部を失っていたならまだ「諦め」がついたかもしれない。だけど今回は話が別だ。世界でたった一人、自分のことだけを忘れられるなんて。その淋しさは如何ほどのものだろう。慰めの言葉もすぐには出てこない。
どうにかしてやりたいと切に思うが、今の状態では八方塞がりだ。

「あー……じゃあさ、今まで二人でしてたこと、同じようにやってみるのはどうだ?ボイトレとかさ」
「いいね。確か二人、夕食を一緒に食べたりもしてたよね?」
レンの言葉に、トキヤが驚いたように目を見開いた。隣の砂月を見上げる。
「そうなんですか?」
「……ああ」
ずっと黙りこくっていた砂月がようやく口を開いた。トキヤは確かめるようにじいっと砂月を見つめる。

「やってみる価値はあると思いますけど」
「……」
「私は、思い出したいです。あなたのこと。可能性があるなら、やれることは全部やるべきでしょう」
「……」
「ご飯、一緒に食べてもいいですか?」
「……」
「……だめですか?」
「……………………駄目じゃない」

砂月は一言それだけを言ってそっぽを向いた。トキヤは安心したように息をつき、そのやり取りをはらはらしながら見守っていた翔とレンもほっと胸を撫で下ろした。
やれることは、全部やるべきだ。それが無駄か無駄でないかは、やった後でなければ分からない。


◆◆◆


「いただきます」「いただきます」

向かい合わせに座る二人は、同時に手を合わせた。テーブルの上にはトキヤが作った夕食が並んでいる。
黙々と箸を動かす砂月を、トキヤは物珍しそうに見つめる。視線に気付いた砂月が「なんだよ」と怪訝な顔をするので、トキヤは慌てて自分も食べ始めた。

記憶を失くす前まで、自分とこの人はいつもこうして夕食を一緒に食べていたのだという。あまり想像がつかなくて不思議な気分になる。だけどおそらく本当のことなのだと思う。砂月の部屋のキッチンを借りて料理をした時、初めてとは思えないほどその場所が体に馴染んでいたからだ。道具の場所も、調味料の場所も、砂月に訊かなくても手が勝手にその在り処を探し当てていた。知らない場所のはずなのに。頭では忘れていても、体は覚えていたのだろう。それが習慣としてすっかり体に染み付いているほど、自分はここで夕食を作り続けてきたのだ。

「砂月さん」
そう呼ばれて、砂月が眉を片方だけ釣り上げる。いかにも気に食わないといった顔をしていた。
「やめろ、その呼び方。気持ち悪い」
「前の私は呼び捨てだったんですか?」
「ああ」
「でも今の私は、あなたのことをよく知りませんから。砂月さんは砂月さんです」
「……そうかよ」
こういう時のトキヤは頑固だ。やめろと言ったところで簡単に自分を曲げたりしない。砂月は諦めて「好きにしろ」と呟いた。

「私達はいつから、こうして一緒に夕食を食べるようになったんですか?」
「確か……四月の終わりあたりから」
「そんなに前から?何がきっかけで?」
「俺がお前に飯作りに来いって命令した」
「……私はそれをちゃんと了承したんですか?」
「脅したら嫌々俺の部屋に来たぜ」
「お、脅しって……」

トキヤの口元が引きつった。どうしてそんな横暴なことをする人とペアを組んだのか信じられないという顔だった。その反応を見て、砂月は妙に懐かしい気持ちにとらわれた。正式にペアを組む前は、トキヤに露骨に避けられたり嫌な顔をされたりしていたことを思い出す。逃げられる前に全力で追いかけたわけだが。まだ丸一年も経っていないのに、随分と遠い過去のように思えた。あの時はまだ、トキヤとここまで深い仲になるとは想像もしていなかった。

トキヤは間をおかずにまた質問を重ねる。
「じゃあ、私達がペアを組むことになったのも、あなたからの提案だったんですか?」
「言い出したのは俺から。でも正式に申し込んできたのはお前からだ」
「……本当に?」
「俺が嘘ついて得することがあるかよ」
「でも……」
そこまで言われてもトキヤはまだ半信半疑といった様子だった。自分からペアの申し込みをしたことが俄には信じがたいのだろう。まだ砂月のことを疑いの目で見ている。見知らぬ人間に拾われたばかりの、警戒心を解けない野良猫のようだ。出会ったばかりの頃のトキヤもこういう態度だった。幾重にも張り巡らされた柵を取り払って、ようやく心を開かせたのだ。

トキヤは尚も質問を繰り返し、話を聞きたそうにしていたが、砂月は取り合わなかった。話せば長くなる。そしてどれだけ言葉を尽くしても、二人の関係を全て語り切ることはできそうにない。――だから、曲を聴かせるのが一番だと思った。
食事を終わらせた後、砂月はトキヤにヘッドホンを渡した。

「私は何を聴かされるんですか」
「俺達が二人で最初に作った歌だ。タイトルは『ソリスティア』」

中間課題で作ったその曲は、完成するまでに一悶着も二悶着もあった。うまくいきそうだと思った矢先に喧嘩別れをして、まともに会話しない期間が随分長く続いた。それでも最後には互いに半歩ずつ譲り合ってペアを組むことにした。砂月の曲を一番輝かせられるのはトキヤの歌声しかなく、逆もまた同様だったからだ。

トキヤは目を閉じて聴いている。砂月は緊張の面持ちでトキヤを見つめた。この曲を通して、何かひとつでも思い出せるものがあるのならと期待した。言葉ではうまく伝えられなくても、音楽なら。
一曲を聴き終えたトキヤがヘッドホンを外した。ほう、と息をつく。

「……いい歌ですね」

そして一言そう呟いた。柔らかな声。その目は充足感にあふれていた。素直な賞賛の言葉だった。
――だからこそ、砂月には耐えられなかったのだ。

「なんだ、その言い方」
「……え?」
砂月は、自分でも驚くほど声が震えていることを自覚する。感情が爆発しそうになる。駄目だ、抑えなくてはならないと頭では分かっていたが、どうしても歯止めがきかなかった。押し寄せてくるありとあらゆる感情が「怒り」に内包されていく。

「他人事みたいに言うんじゃねえ!それは俺達二人で作った歌だろうが……!」

許せなかったのだ。トキヤがまるで、他人の作った歌を褒めるかのように賞賛の言葉を口にしたことが。
これは他の誰でもない、砂月とトキヤの二人で作った歌だ。何度も衝突を繰り返しながら、思いの全てをそこに込めた。今思えばかなり荒削りで未熟さもあるのだが、あの時の二人にしか作れない歌なのは確かだった。
それを「いい歌ですね」と他人事のように受け取られて、許せるはずがなかった。

トキヤはひどく驚いた顔をして砂月を見上げた。心から褒めたつもりの言葉が、余計に砂月の心を乱すことになるとは思いもしなかったのだろう。
「砂月さん、」
その呼び方すら、今の砂月には怒りを加速させるものでしかなかった。

「なんで忘れたんだよ!?俺のこともこの歌も!俺達が積み上げてきたものも!そんな簡単に忘れるほどどうでもいいものだったのか!?ふざけんな!!」

怒りが溢れて止まらない。トキヤが砂月のことだけ忘れたと分かってから今まで、ずっと抑え込んでいた感情だった。トキヤの世界から自分だけが取りこぼされてしまった。いらないものだと思われたのか。忘れてしまいたいほどだったのか。そんなこと、信じたくはなかった。

砂月の叫びを、トキヤは呆然とした表情で聞いていた。曲を褒めただけなのに、どうしてここまで責められなければならないのか分からなかった。砂月がこんなにも悲痛な声を上げる理由も知らない。――そう、知らない。知らないのだ。

「……知りませんよ。あなたと私の間に何があったかなんて」

気付けばそう言い捨てていた。自分でも驚くほど冷たい声だった。
「この曲がどういう経緯で作られたのかも、あなたがどんな思いをこの曲に込めたのかも、知りません。あなたがそんな顔をする理由も分からない。何もかも全部」
「お前……っ!」
砂月が声を荒げてトキヤの手首を掴んだ。髪に隠れていたトキヤの表情があらわになる。

「でも私だって、好きで忘れたわけじゃない……!」

トキヤは苦しそうに顔を歪めていた。指が食い込むほどきつく手を握り締めている。
無力感でいっぱいだった。どうして忘れたのかなんて、自分が一番知りたかった。砂月の記憶がなくても、自分の世界はうまく辻褄を合わせて動いているはずだった。でも違った。
砂月の視線も、声も、心も、ここにはいない「トキヤ」に向けられていた。自分の知らない「トキヤ」がいる。その事実にどうしようもなく胸を抉られる。

「……失礼します」
砂月の手を解いて、トキヤは部屋を出ていった。砂月は目を見開いたまま、トキヤに言葉をかけることも引き止めることもしなかった。




小走りで廊下を駆けていく。誰にも会わずに自分の部屋に戻れたのは幸いだった。
ばたん!と大きな音を立ててドアを閉めた。そのままドアにもたれかかるようにしてずるずると床に崩れ落ちる。全身から力が抜けていく。
「あ、おかえりトキヤ――って、どうしたの!?」
「……う、うぅ……っ」
風呂上がりの音也が、トキヤを見つけて驚いた声を上げた。音也に背中を撫でられると涙が堰を切ったように溢れ出してきた。

どうしてこんなことで泣いているのだろう。よく知りもしないあの人のために、どうして自分が涙を流さなければならないのだろう。
知らないのだ、何もかも。泣いてやる謂れも義理もないのに、なぜか涙が止まらない。知らないことが、悲しい。

「音也、私、どうすればいいんでしょう。何も知らないんです。あの人のことも、あの曲も。思い出したいのに、思い出せない……ねえ、どうすればいいんですか……?」

止まらない涙は、自分のものなのか、それとも自分の知らない「トキヤ」のものなのかも分からなかった。
なぜ忘れてしまったのだろう。きっと忘れてはいけない記憶だったはずなのに。胸の中にぽっかりと空いた穴が、埋まらない空白を嘆いていた。


◆◆◆


翌日、砂月は音也に呼び出しを受けた。ひと気のない廊下まで連れてこられても、砂月は何も言わなかった。どんな用件かはとっくに分かっていた。
「トキヤ、泣いてたよ」
知っている。感情のままにトキヤを責めたのは自分だ。……まさかあの後に泣いていたとは思わなかったが。

「思い出したいのに、どうすればいいか分かんない、って。そう言って泣いてた。トキヤのせいじゃないのにね」

音也は珍しく怒っている様子だった。
砂月は音也のことは「トキヤの話によく出てくる男」という認識しかなく、直接会話をしたことはあまりなかった。クラスが違うし、性格もおそらく合わない。共通項は、共に一ノ瀬トキヤに近い存在ということだけだ。そしてその共通項ゆえに音也は砂月に怒りを向けている。

「砂月が何言ったのか知らないけどさ……自分だけ忘れられたからって、そのイライラをトキヤにぶつけるのは違うと思うけど」
「……」

正論すぎて何も言い返せない。昨夜のことは100パーセント自分が悪いということくらい砂月にも分かっていた。トキヤは「好きで忘れたわけじゃない」と言っていたが本当にその通りだ。原因は何であれ、記憶を失ったのは不可抗力であってトキヤのせいではない。砂月にトキヤを責める道理はない。……分かっていても、抑えることができなかった。自分の浅はかさに嫌気が差す。
あの時のトキヤはひどく傷付いた目をしていた。一方的に傷付けてしまった。謝らなくてはならないと思いつつも、今朝はトキヤに声をかけることができなかった。

「トキヤのつらそうな顔見たら、忘れちゃって正解だったのかもしれないって思った。記憶喪失の原因、もしかしたら砂月にあるんじゃない?忘れたいほど嫌だったのかもよ」
音也は的確に砂月の急所を突いてくる。今一番言われたくないことを言われて、砂月は盛大に顔をしかめた。もしかしたら――と、そう思わないわけではなかった。だが考えないようにしていた。トキヤが砂月を忘れたがっていたなどと。

「だって普通、一人のことだけすっかり忘れちゃうなんてことある?今までの記憶全部なくしちゃうならまだしも。心当たりないの?」
「……俺に聞くな」
「まあそんな簡単に記憶が戻るとは思わないけどさ。少なくとも昨日のことは早く解決したほうがいいよ。トキヤのあんな顔見てらんないし……昨日は宥めるの大変だったんだから」
「……」
「悪いことしたと思ってるなら、早く謝りなよ」
砂月がばつの悪い顔をする。言われなくても分かっていると言ってやりたかったが、口を閉ざした。謝るチャンスは今日いくらでもあったのに、怖気づいて何もできなかったのは事実だ。

「あ、『ごめんなさい』の練習でもする?俺がトキヤ役やってあげるからさ」
「やらない」
「じゃあ今すぐトキヤのとこ行って謝れるの?」
「……」
「やっぱできないんじゃん」
「行けばいいんだろ行けば!」

音也に発破をかけられている自覚はあったが、敢えてそれに乗ってやることにした。くるりと踵を返して歩き出すと、背後で「いってらっしゃ〜い」という音也の呑気な声が聞こえた。


◆◆◆


教室に戻ると、帰りの支度をしようとしていたトキヤがいた。
「おい」
「……砂月さん」
いなくなる前にと思ってとりあえず声をかけてはみたが、その後に続く言葉が出てこない。昨日は言いすぎた、悪かった、ごめん、謝罪の言葉が頭の中にわらわらと湧いてくるものの、声に出そうとすると途端に詰まる。口を開きかけた状態で固まっていると、トキヤの方が先に言葉を発した。

「あの、このあと時間があればなんですけど……自主練、付き合ってもらえませんか?」
「え」
「都合が悪いなら無理にとは言いませんが」
「いや、暇だけど」
俺なんか誘っていいのか、お前昨日俺に泣かされたんだろ――言葉には出さなかったが目で訴える。しかしトキヤは敢えてその視線には応えなかった。

「この曲を歌おうと思って」
レッスンルームに着くと、トキヤは楽譜をピアノの譜面台に広げた。楽譜を見て砂月ははっと息を呑む。「Gemini」と題されたその曲は、非常に思い入れの深い曲だった。
アイドルのHAYATOと、兄のハヤト、ふたりのために作られた曲。一時期、深刻なストレスで歌えなくなっていたトキヤは、この曲によって歌声を取り戻した。遊園地のステージで歌ったあの出来事は記憶に新しい。
ただ、砂月の記憶をまるごと失ってしまったトキヤは、きっとそのことも覚えていないのだろう。たまたま机の中に入っていた楽譜を見つけて、試しに歌ってみようと思っただけに違いないのだ。

「砂月さん。伴奏をお願いできますか?」
だから、期待はしないでいよう。この曲を歌えば何かが思い出せるのではないかと思うのはやめておこう。最初からその心づもりをしていれば、裏切られたような気持ちになることもない。
砂月は自分にそう言い聞かせながら、トキヤに向かって頷いた。

砂月が弾くピアノに合わせて、トキヤが歌う。伸びやかで透明な歌声だった。星のきらめきと、未来への明るい希望が見えるような歌。技術としては申し分なく、誰がどう聴いても美しいと感じるだろう。
――だが砂月は、「違う」と感じた。記憶のない状態で歌われるその歌は、同じ曲であるはずなのにまるで印象が異なっていた。確かに美しい歌声だったが、あの時の歌とはまったく違う。深い悲しみの中から這い上がるしなやかさも、感情を絞り出すような切実さも、そこには感じられない。

歌い終えたトキヤが砂月に視線をよこした。釈然としない顔をしている砂月を見て、ふ、と苦笑する。その反応は最初から分かっていたとでも言うように。
「どうでしたか?と訊きたいところですけど……駄目に決まっていますよね。自分でも分かります」
「……別に、駄目なわけじゃない」
「でも『違う』のでしょう?顔に書いてあります」
「……」
分かっているなら、どうしてわざわざ俺の前で歌ったりしたんだ。よりによってこの曲を。
その疑問を見透かすように、トキヤは口を開いた。

「……昨日、動画を見ました。私とあなたが、遊園地のステージで歌っている動画です」
音也にでも教えられたのだろうか。かつて大々的に拡散されたその動画は、事務所判断で削除申請されなかったため、今なお恐ろしいほどの再生回数を記録している。
「たぶん、ハヤトに向けた歌だったと思います。私の記憶にはない歌でした。でも、それを聴いて……『勝てないな』と思ったんです。今の私には、あんな想いのこもった歌は歌えない。……正直、悔しかったです。動画の中にいるのは確かに自分のはずなのに、同じ『一ノ瀬トキヤ』だとは到底思えませんでした。これが記憶の差なのかと」
勝てない、悔しい、と言葉では言っているが、それを語るトキヤの顔は吹っ切れたような清々しさすらあった。

「私が失くした記憶は、私にとってとても大切なものなのだと分かりました。だから思い出したい。……砂月さん、手伝ってくれませんか?」

――ああ、これが一ノ瀬トキヤだ。
一ノ瀬トキヤは、足りないことを嘆くだけの人間ではなかった。自分に足りないものを冷静に見つめて、足りないなら手に入れようと努力する。自分一人でどうにもならなければ、プライドを捨てて助けを求める。できることはどんなことでもやる。少しでも可能性があるなら絶対に諦めない。時に必死に、情けなく足掻いてでも。
記憶があろうとなかろうと、その姿勢は変わらなかった。そして、砂月はトキヤのそういうところに惹かれたのだ。

砂月は眩しさを感じて目を細めた。トキヤがきらきらと輝いて見える。
「……手伝うのはいいが、容赦はしねえぞ」
「望むところです」
トキヤが笑う。記憶を失った負い目はもう感じられなかった。代わりに、大切な記憶を思い出したいという前向きな意志が瞳に宿っていた。まっすぐに背筋を伸ばして。

トキヤが一歩前に進んだのなら、自分も負けてはいられない。砂月は息を吸い込んだ。
「……昨日は言いすぎた。悪かったな」
砂月なりの精一杯の「ごめんなさい」だった。トキヤは目をぱちくりさせる。記憶がないながらも、砂月がこうして素直に謝ってくるのはとても珍しいことだと分かったのだろう。口元を緩めて笑った。
「……ええ、そうですね。反省してください」
そこで「大丈夫ですよ」でも「気にしないでください」でもなく、「反省してください」という言葉が出てくるのがトキヤらしいと砂月は思った。


◆◆◆


トキヤが階段から転げ落ちてから2週間が経った。つまり記憶を失ってから2週間が経過したということだ。未だにトキヤが記憶を取り戻したという話は聞かない。
卒業オーディションの日は刻一刻と近付いてくる。曲を完成させて、歌とダンスの練習に力を入れるペアも増えてきた。そんな中で、曲が完成していないどころか記憶喪失で振り出しに戻ったのは大きな痛手だろう。
――だが、目の前にいる一ノ瀬トキヤには、そんな大変な状況を感じさせるような悲壮感はなかった。

「今日は、二人に訊きたいことがあります」

いや、思いつめてはいるようだが、どうもベクトルが違う。
これは昼休みのカフェテリアで話していい内容なのだろうかとレンは首をかしげた。トキヤの表情から、これから切り出されるであろう話題の想像はついている。レンの隣に座る翔も同じように察しているのだろう、「この話に付き合わされんの嫌だな……」というオーラをひしひしと感じる。だが、二人のそんな心境を汲み取って引き下がるようなトキヤではない。
トキヤは周りを見渡してから、レンと翔に顔を近付けた。声のトーンを落とし、ひそひそ声で囁く。

「……あの人と私は、交際していたんですか?」

やっぱりそうきたか、と二人は顔を見合わせた。トキヤが記憶喪失になってから、いずれこの質問をされる時が来るのではないかと薄々思っていたのだ。
トキヤの顔は真剣そのものなので茶化すわけにはいかない。さてどう答えるべきかなあ、とレンは腕組みをした。

「イッチーはどうしてそう思ったの?」
「……あの人が私を見る視線や、接し方や、声が……ただの『友人』に対するそれとは思えなかったんです。パートナーだから特別というわけでもないような気がして。……だっておかしいじゃないですか!?散々私に駄目出しをしてこき下ろしたかと思いきや、ふと気付くとものすごく優しい目で私を見るんですよ!?なんっ……なんなんですかあれは!?私の顔をいちいち覗き込んで『昨日ちゃんと寝れてないだろ』とか健康チェックしてくるし、あの人のところで食事したあとは頼んでもいないのに部屋まで送ってくるし、重くもない荷物を代わりに持とうとしてくるし、私を呼ぶ時の声がやたらと甘いし、正直ちょっと怖いというか不気味なんですけど!?以前までの私はあれを普通に受け入れていたんですか!?おかしい……あれで正気でいられたなんておかしい……」

真面目に思いつめているところ大変恐縮だが、これは盛大な惚気話を聞かされているのだろうかと思わずにはいられない。レンと翔は呆れて中空を眺めた。
「……それで、実際どうだったんですか?」
「付き合ってるとかそういう話は直接聞いたわけじゃない。うちの学園、恋愛禁止だし。でもまあ……あれで付き合ってない方がおかしいっつうか……」
「イッチーの感じてることが全てだと思うよ」

トキヤは唸り声ともつかない声を上げて額に手を当てた。はあ……と深い溜息をつく。やっぱりそうでしたかと言いたげな雰囲気だった。2週間砂月と一緒に過ごした上で、レンと翔に聞くまで確証が得られなかったというのもおかしな話だ。トキヤは自分に向けられる好意には疎い傾向がある。そのトキヤをもってしても「この人とは何かあったに違いない」と思わせた砂月の接し方も相当なものだが。


「でもそれ聞いてお前はどうしたいんだよ、トキヤ」
「いえ。ただ確かめたかっただけです」
砂月とトキヤが交際していたという事実が明らかになったことで、トキヤの中では砂月の数々の行動に納得がいったようである。とはいえ、だからといって記憶がすんなりと戻るわけではない。
「記憶がなくてもさ。好きって感覚は覚えてたりしねえの?なんかあるじゃん、頭で忘れてても体が覚えてるみたいな」
「……分かりません。でも、あの人は時々、私を見て淋しそうな顔をするんです。それを見ると、このあたりが苦しくなる」
そう言ってトキヤは胸を手で押さえた。そのまま静かに目を閉じる。目蓋の裏には砂月の顔が浮かんでいるのだろう。

「あの人の淋しそうな顔は、もう見たくないんです」



トキヤが席を立ったあと、翔はおもむろにレンへと視線を向けた。
「なあレン、トキヤのやつ、記憶がないって言ってるけどさ……もうだいぶ砂月のこと好きになってるよな……?」
「うん。あれは恋してる顔だね」
双方が同意見だった。あんな切なげな顔を見せられて、それは勘違いだと思う人間はいるはずもない。記憶がなくてもトキヤはトキヤだ。根っこが変わらないなら、同じ人間に惹かれるのも頷ける。
相思相愛なら、このまま卒業オーディションになっても大丈夫なんじゃない?とレンは他人事のように笑った。


◆◆◆


砂月はトキヤに呼び出しを受けた。最近よく呼び出されるな……と思いつつ、断る理由もないので大人しく付いていく。連れてこられたのは、例の階段の踊り場だった。トキヤはここから落ちて、頭を打って記憶を失ったとされている。
トキヤは踊り場をうろうろと歩いていたが、思ったような手応えが得られなかったのか「うーん」と歯切れの悪い声を上げる。

「あなたと一緒にここに来てみれば、何か思い出せるかと思ったのですが……」
「なんで俺が一緒じゃなくちゃいけないんだよ」
「階段から落ちる前、あなたのことを考えていたような気がするんです」
「俺のこと?」
「でもやっぱり思い出せない……」

砂月のことを意識するようになったからだろうか。トキヤは、少しずつではあるが砂月との記憶を断片的に取り戻しつつあった。とはいえ、具体的なエピソードを思い出せるわけではない。ただ、砂月と接していて、「この表情は見たことがあるな」とか「こういう癖があるのを知っている気がする」といったことをぼんやりと感じる程度だ。それでも確実な進歩だとは思う。少しでも記憶を想起できるならと思って、この階段に砂月を連れてきた。
あと少し、何かきっかけがあれば、思い出せるような気がしてならない。トキヤは砂月をじっと見つめた。砂月もそれに応える。

「……あなたは、私のことが好きだったんですか?」
レンと翔に向けた問いを、今度は砂月に投げかけた。あまりにも直球すぎる問いだった。突然の問いに砂月は瞠目したが、はぐらかしたり、逃げたりすることはなかった。目を伏せて静かに答える。
「……ああ、好きだよ」
「好きだった」ではなく、「好きだよ」と答えた砂月の意図を、トキヤは汲み取りきれなかった。ただ、その「好き」に、今の自分も含まれていればいいなと思った。胸のあたりに何かあたたかいものがこみ上げてくる。トキヤは半ば衝動的に言葉を続けていた。

「じゃあ、キス、してみませんか?」

さすがの砂月も、その申し出には面食らった。
「はあ?……なに言ってんだお前。冗談はよせ」
「本気で言ってるんです。キスをしたら何か思い出せるかもしれない」
「白雪姫みたいなことがあってたまるかよ」
「でも可能性はゼロではないでしょう?やってみなければ分かりません」
トキヤは真剣だった。自分でもなぜこんなことを口走ってしまったのか分からない。早く思い出さなければならないという焦りがそうさせたのかもしれない。だがそれとは別に、この人とならキスをしてもいいと思った。

想像していなかった事態に、砂月は硬直して棒立ちになっている。トキヤは構わず砂月に近付いた。少しだけ踵を浮かせて、砂月の唇に自分のそれを寄せようとする。――しかし、触れるか触れないかのところで、砂月がトキヤの体をぐいっと強く引き剥がした。
「やめろ!」
その力は思ったよりも強く、トキヤはよろけて後ろに二、三歩後ずさった。まさかここまで強く拒絶されるとは思わなかった。トキヤは呆然とした表情で砂月を見た。あなたは、私のことを好きだと言ったじゃないですか。それならどうして。

「……キスってのは、そんな気持ちでやるもんじゃねえだろ」
俯いた砂月がそう呟いた。ひどく淋しそうな顔をしていた。トキヤの胸がまた痛んだ。ああ、そんな顔が見たいわけではないのに。できるなら笑っていてほしい。いつも見せる、少し困ったような笑い方ではなくて、もっと心の奥底からの笑顔が。でもその笑顔を引き出せるのは自分ではないことを知っている。あなたはきっと、ここにはいない「トキヤ」にしか本当の笑顔を見せない。……その事実が、どうしようもなくもどかしかった。
「……ごめんなさい」
キスをするのだってそうだ。砂月が願う相手は自分ではない。知らない記憶をもつ「トキヤ」とでないと駄目なのだ。記憶のない自分は必要とされていない。

「だったらもう、私にできることはこれくらいしか残っていませんね」

どうしてもっと早くにこうしなかったのだろう。
トキヤは階段に背を向けて両手を広げた。頭を打って記憶を失ったのなら、また同じところを同じやり方でぶつければいい。よくある解決方法だ。フィクションでは大抵これでうまくいく。現実的に考えたら馬鹿らしいことかもしれないが、もうこれくらいしか思いつかなかった。
足の裏が床を離れる。体がふわりと宙に浮く。どうかきちんと頭を打つことができますようにと願う。

「――トキヤ!!」

だが、その願いを砂月が許すはずがなかった。砂月はトキヤの手を掴んで引き戻そうとする。が、間に合わない。二人の体がバランスを崩す。全てがスローモーションのように見える中、二人一緒に階段から転げ落ちた。視界が暗転する。大きな音と、衝撃。

「う……」
トキヤは呻き声を上げた。ちかちかと明滅する星を瞬きで追いやろうとする。全身が痺れているような感覚はあるが、あの高さから落ちたにしては痛みが薄い。なぜだろうか――と考えるより先に、自分を抱きしめている腕の存在に気付いた。はっと顔を上げる。数秒してようやく自分が砂月に庇われたのだと理解した。

「さ……砂月さんっ!」
砂月はトキヤの体の下敷きになっていた。階段から落ちた衝撃をほぼ一人で受け止めたのだろう。トキヤが何度も必死に名前を呼ぶと、砂月は呻き声を上げて体を起こした。意識はあるらしい。
「砂月さん、どうして……!」
頭を押さえて砂月がトキヤを見つめる。何度か瞬きを繰り返して、目の前にいるトキヤが無事だと分かるや否や、砂月は目くじらを立てて怒鳴り散らした。

「何やってんだこの馬鹿!!打ちどころが悪けりゃ死んでたぞ!」

たった今階段から転がり落ちて全身を強く打ったとは思えないほどの怒号だった。その声量を至近距離で浴びて、トキヤは鼓膜が破れるのではないかと思った。頭がきいんと痛む。
「だ、だって……もう一度同じように頭を打てば、思い出せたかも……」
「そんなくだらねえ理由で自分を危険に晒すなタコ!!」
砂月は本気で怒っていた。物理的な衝撃を一身に引き受けて砂月自身ただでは済まない状態だろうに、砂月はそんなこともお構いなしにトキヤへの怒りを顕にする。だが、トキヤも負けてはいられなかった。自分だって生半可な覚悟で身を投げだしたわけではない。

「それならどうすればいいんですか!?このままじゃ一生何も思い出せないままですよ!」
「お前が怪我するよりずっといい!」
「でも私は思い出したいんです!あなたのことを忘れたままなんて嫌だ……!」
「……っ」

砂月がぎゅっと眉を寄せた。何かに耐えるような表情。……ああ、その顔だ。トキヤは自分の胸を押さえた。
「あなたのその淋しそうな顔を見ると、ここが痛くなるんです。……これが、『好き』ということなんですか?」
「……確かめてみるか?」
砂月が不意に低い声で言った。二人の体と顔がとても近い距離にあることを意識する。きれいな目だ。そう思う間に、唇が重なった。
少し湿っていて、熱い。この感覚を自分は確かに知っている。

唇が離れると、砂月の静かな目がトキヤを見つめていた。
「……どうだ」
「分かり……ません。でも……この想いは、記憶を失くす前も後も、変わらない……」
変わらなかった。泣きたくなるようなこの胸の痛みも、変わらない。自分は随分前からこの感覚を知っていたはずだ。この人を好きだと自覚したあの時から。

――その瞬間、トキヤの脳裏に稲妻が走った。
「あ……!」
弾かれたように立ち上がる。目をいっぱいに見開いて、うわごとのように呟いた。

「『変わらない想いを抱いて あなたと世界を変えていく』……」

卒業オーディションで歌う曲の歌詞。ずっと思い出せずにいた最後のワンフレーズだった。
「思い出した……!階段から落ちる直前まで、ずっと考えていたんです!この歌詞を!」
興奮気味に叫ぶトキヤは、目を爛々と輝かせていた。砂月は床に座り込んだまま、呆気にとられてトキヤを見上げた。トキヤの中では点と点が急激に繋がっていっているが、砂月は展開の速さに追いついていない。

「砂月さん、楽譜ありますか!?卒業オーディションの曲の楽譜!」
「あ、ああ……教室に置いてある」
「行きましょう!今なら私、歌える気がするんです……!」
トキヤは砂月に手を差し伸べた。砂月がその手を取ると、トキヤは勢いよく砂月の体ごと引っ張り上げる。どこにこんな力が残っていたのかというほど力強かった。トキヤは納得したように大きく一度頷くと、いてもたってもいられずに駆け出していた。




レッスンルームに飛び込んだ二人は、発声練習もしないでいきなり歌に取り掛かった。トキヤが思い出した最後のフレーズを当てはめて、砂月がそれに合わせて曲を仕上げる。突貫工事のような急ぎ方だったが、不思議と迷いはなかった。まるで最初からその言葉とメロディーが決まっていたかのように曲は完成した。
砂月がピアノで伴奏し、トキヤが歌う。
今まで感じていた違和感が嘘のようだった。力強くしなやかで、絶対の自信に満ちた歌声。光に向かって手を伸ばす。確かな未来を見据えている。世界を変える歌。
――これだ、この歌声だ、と砂月は思った。

最後まで歌い終えると、トキヤは大きく息をついた。達成感に満ちた目で窓の向こうを見つめる。
「……どうしてあなたとの記憶だけがなくなったのか、分かった気がします」
静かな口調だった。砂月は何も言わずにその続きを待った。
「歌詞の最後のフレーズを思いついて、浮かれていたんです。早くあなたに伝えたくて仕方がなかった。頭の中があなたのことでいっぱいだった。……馬鹿みたいなことと笑われるかもしれませんが、本当なんですよ」
鮮やかに、笑う。

「あなたのことだけ考えていたから、あなたのことだけ忘れたんです、砂月」

砂月、と呼ぶその声は、よく知っている響きをしていた。
砂月に向けるその笑顔も。砂月を見つめるその目も。全部全部知っている。忘れない。忘れられるわけがない。一ノ瀬トキヤが、そこにいた。
「トキヤ、お前……!」
砂月が震える声で名を呼ぶと、トキヤはひとつ大きく頷いた。そして弾けるような笑顔と共に、両手を広げて砂月に抱きついた。


◆◆◆


「あいつら、今日も昼休み返上して練習室に篭ってるみたいだぜ」

翔はランチプレートをテーブルに置き、椅子にどっかりと座った。
昼時のカフェテリアは生徒たちの話し声で騒がしい。その分、何を話しても会話内容にいちいち聞き耳を立てる者もいない。雑談をするには気が楽だった。
翔の言う「あいつら」とはいうまでもなく砂月とトキヤのことだ。

「二人とも努力家ですねえ」
テーブルの向かい側で、那月はどでかいハンバーグを口に入れながらのほほんと答えた。昼食にしてはボリュームがありすぎやしないかと思うが、大柄な那月はこのくらい摂取しないとエネルギーにならないのだろうと無理矢理結論付けた。那月がたくさん食べるのは今に始まった話ではない。
「完璧に仕上げないと気が済まない奴らだからな……いっそ尊敬する」

つい先日までトキヤが記憶喪失になっていたこともあり、その間まともに練習時間が取れなかったとはいえ、貴重な休憩時間である昼休みまで練習に費やすとは。負けず嫌い同士がペアを組むとこうなる、という典型だろう。あの二人がいつも成績トップで走り抜けるのは、どこまでも完璧を求める意識の高さがあるからこそなのだろうが、とてもじゃないが翔には真似できないし真似しようとも思わない。

砂月とトキヤの、卒業オーディションに対する並々ならぬ想いは、同じクラスの翔も痛いほど感じている。次から次へと降りかかってくる困難を跳ね除けて、ようやくここまで辿り着いたのだ。あとはペアの実力を最大限に発揮するだけだといわんばかりに、砂月とトキヤは当日に向けて熱心に練習に打ち込んでいた。

「そういう翔ちゃんは、卒業オーディションの準備はどこまで進んでいるんですか?」
「おう、順調だぜ!歌もダンスもほぼ仕上がったし!あとは本番に向けて調整ってとこだな!」
「翔ちゃんかっこいい!楽しみだなあ〜」

卒業オーディション。早乙女学園で過ごした一年間の結晶を、あのステージで披露する。皆が何の制限もなく全力で競い合える時が目前に迫っている。翔は、ライバルたちと共に卒業オーディションに臨めるということが嬉しくてたまらなかった。
しかし、早くステージに立ちたいと思う反面、いつまでもこうして他愛ないやり取りを続けていたいという思いもあった。不意に湧き出した淋しさを誤魔化すように、翔は牛乳を胃に流し込んだ。

「つーか、入学してからもう一年経つんだな……」
「楽しいことは光のように速く過ぎて行ってしまうものですからねえ」
「でも一年って結構でかいよな。砂月とトキヤなんか、最初はすげーギスギスしてたのに」
「今では誰もが認める最高のペアです!」
「本人達は否定するだろうけどさ……」

特に砂月は、この一年で随分と変わったような気がした。他人を寄せ付けない雰囲気は相変わらずだが、以前よりも角が取れて柔らかな印象になった。時には優しさを感じる時すらあって、「こいつ、こんな目をする奴だったっけ」と驚いたものだ。
那月は不思議そうに「さっちゃんはずうっと前から優しいですよ?」と首を傾げる。那月にだけ向けていた優しさを、他人にも時折見せるようになったのは大きな変化だと翔は思う。

「さっちゃんが変わったのは、きっとトキヤくんのおかげです」
那月は目を細めてそう言った。
「さっちゃんは昔からずっと、何をするのも全部僕のためだったんです。弱い僕をいつも守ってくれて……僕はさっちゃんの優しさに甘えていました。そんな自分を変えるために早乙女学園に来たけど、その選択は正しかったと思います。トキヤくんに会ったことで、さっちゃんは僕以外の人にも心を開いてくれるようになったから」
まるで自分のことのように那月は嬉しそうな顔をする。

「今のさっちゃんは、ちゃんと自分のために行動して、自分のために生きようとしてる。だからもう大丈夫です。……さっちゃんには、トキヤくんがいますから」

その言葉をテーブルを挟んだ向かい側で聞いた翔は、思わず何度も瞬きを繰り返した。
今まで那月と砂月の関係についてぼんやりと考えていたことがはっきりとした輪郭を持ったのだ。砂月が那月を守り続けていたのは事実だろう。砂月は那月の心の機微に対してひどく敏感だった。だが、この四ノ宮兄弟は、一方的な守る守られるだけの関係ではない。砂月が那月を守るように、那月もまた、ずっと砂月を見守り続けてきた。
「……お前って、砂月のことよく見てるよなあ」
すると那月は、もちろんですと言わんばかりににっこりと笑う。砂月とトキヤのことを語る時の那月は、とても優しい目をしていた。その柔らかさは砂月が時折見せるそれによく似ていて、ああ、やっぱり双子なんだと改めて感じた。


◆◆◆


刻一刻と、出番が近付いてくる。
卒業オーディション当日。トキヤは舞台袖で今日何度目かも分からない深呼吸をした。ステージ衣装に乱れがないかもう一度チェックして、前髪を少し弄る。もう何度も確認しているはずなのに、数分ごとに確かめないと気が済まなかった。
胸に手を当てて心臓の鼓動を確かめる。緊張と高揚で、いつもより速く脈打っていた。
「……いよいよだな」
「ええ」
隣に立つ砂月が、前を向いたままトキヤに声をかけた。

「緊張してるのか?」
「あなたこそ」
「俺は裏方だから別に……」
「でもさっきからポケットに手を入れたり出したりして落ち着かない様子ですけど」
「……お前ほどじゃない」

砂月がむっとした表情をする。トキヤに見抜かれたのがよほど悔しいようだった。砂月ほど肝が座っている人間でも、この大舞台では緊張を隠すことができない。そう思うと、トキヤの体の強張りが少し緩んだ。

この一年間で、幾度となく大きな壁に行く手を阻まれてきた。時に壁を壊し、よじ登り、穴を掘って、前へ前へと進み続けた。一人では決してここまで辿り着けなかっただろう。僅かな可能性に縋り付いて、それにさえ見捨てられて、どうすることもできなかった時もある。それでも隣に砂月がいてくれた。トキヤ自身が諦めそうになっても、砂月は絶対に傍を離れなかった。だから今、二人でこの場所に立っていられる。

今日この日に向けて、やれることは全てやった。必ず優勝を掴み取ってみせるという強い意志は揺らがない。最高の曲を携えて、最高のパフォーマンスを披露するだけだ。
トキヤに絶対の自信を与えてくれたのは、他でもない四ノ宮砂月その人だった。

「大丈夫ですよ。何があっても、この想いは変わりません」
トキヤの名前がアナウンスされる。二人は同時に顔を見合わせて、音もなく触れるだけのキスをした。
ありったけの想いを、愛を、この歌に込めよう。

「……いってきます」

胸を張る。前を見据える。輝く場所はこの先に。二人で世界を変えていく。
砂月に見送られて、トキヤは眩しいステージの上へと向かっていった。




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