( 6/12 )


月が見下ろす丑三つ時、都市郊外に位置するここでは外も静かなものだった。
チッ、チッ、チッ、チッ、と壁掛け時計が等間隔で時を刻む。それ以外には音など存在しなかったのだが──

「…………」

ベッドのスプリングがぎしりと軋むと、カーテンに阻まれた僅かな月明かりの中で影が起き上がった。
手元すらも朧気な闇の中でも映える白髪と紅い瞳は、冷淡さを漂わせる彼の雰囲気に不自然なほど調和していて、相対する者の目を等しく奪うだろうが、彼を見下ろしているのはカーテンを隔てて夜空に鎮座する満月だけだった。
彼は、自身の手に視線を落とした後に己の唇を触れる。物思いに耽っているかのように瞬きもせず虚空を見つめてそのままぼんやりと。
そこから数十秒程経った頃に漸く動いた。唇に軽く置いていた指を退けると、同じ手で隣に横たわる女の頬に触れる。起こさぬようにしかし、暫くは親指で撫でて堪能していたが──滑らせるように手を動かすと、首筋をなぞった。

「……なまえ」

ぽつりと女の名前を呼ぶ。男性特有の低さと耳障りのよい声質は、室内にほんのりと反響すると秒も持たずに溶けた。
帰宅の遅かった女は、疲労が溜まっているのだろう。彼が触れても名を呼んでも、その瞼を開ける気配はなかった。
彼は女の寝顔を眺めていたが、思い立ったように彼女の首へと手を掛ける。

「このまま、君の最期を僕のものにしたいと言ったらどんな顔をするのかな」

ほんの僅か、気道を絞めないように指先に力を込めれば、とくとくと穏やかに脈を打つ音が伝わってくる。
暖かな体温も、呼吸の度に上下する肩も、鼓動も、──全て生きている証、忌々しい生そのもの。
人間が生きている姿なんて、視界に入るだけでも虫酸が走った。己を都合のいいように扱って、忘却して、のうのうと生きている人間に憎悪を抱いた回数はもはや数えきれない。
目の前のこの女も人間で、召喚された当初は何度も馴れ馴れしく接してくるこの女をいつか殺してやろうと、嘘偽りなく思っていた。
──それが変化したのはいつからだったか。馴れ馴れしくはあっても無礼を働くことはなかったこの女を小間使いにしてあげて、絆の契りとやらを結んでやり、彼女に嫌悪を抱くことがなくなったのは一体いつからだろう。
彼女が側に居ることを不快に思わなくなり、やがてはそれが心地よくなり、離れがたいとまで思うようになってしまった。
戦争が終わって送還の時が訪れても、還りたいなんて思いは本当に微塵も抱いておらず、何処かへ連れ去ってしまおうと半ば本気で考えていたと知ったら、彼女はなんて言ったのだろうか。

「──君を今この場で殺せば、僕のものになるのか?」

ぐっと手に力を込める。息が詰まって苦しそうな彼女は、それでも完全に気道を塞がれているわけではないからだろう、目を覚ますまではしなかった。
だが、眉間に寄った皺と僅かに歪んだ口元は息苦しいと物語っている。力を緩めてやるとまた安息したが──物足りないと感じるこれは、どうしたら埋まるのか。

「殺しても満たされない、どうしたらいい?なまえ、僕は君が欲しいのにどうすれば手に入るのかがわからない。──人間は、このような時にどんな行動を取るんだ」

なまえという存在を求めているのに、彼女を本当の意味で手中に収める方法が浮かばない。殺したところでつまらない、生きているなまえがいい、自分を心から必要とするなまえが欲しい。──なまえの時間が、欲しい。
だが、なにをすれば彼女はそうなってくれるのだろうか。どうすれば、この灼熱の砂漠のような乾きは潤うのだろうか。

「チッ、破壊しかできないのにそれじゃ意味がない。──たかが人間に、こうも執着するとは」

所詮、ただの人間、虫けらだと蔑んでいた存在を手放せなくなるなんて、一人の人間を欲しいと渇望するようになる日が来るだなんて考えもしなかった。

「……なまえ、」

再び名前を呼ぶ。だが、その先に続ける言葉は喉に引っ掛かって、上手く形にすることができなかった。
──ふと、胸中にぽっかりと穴が空いたような奇妙な感覚に陥る。これはおそらく、虚しいというものなのだろうが、こんなものを抱く理由を彼はわからなかった。
だが、やけに焦燥する。正体のわからないそれに急いて、焦り、冷や汗が吹き出る。
独りになるのが嫌だと、怪訝なことに恐怖を抱いた。ずっと独りが当たり前で、それになにかを思うなんてこと自体が有り得なかった。理解者は居ないしいらない、必要のないものだった。ましてや人間なんて──
だというのに、彼はなまえという存在に掻き回されている。それは、己の在り方を根底から覆しかねないほどに。

(昨夜のなまえの言葉が、声が、表情が、まとわりついて消えやしない。人間の言葉──なんてことはない、在り来りな人間の言葉だろう。何故、何故、僕は──我は、……我、は、…………)

──邪竜は、混迷していた。人間であるなまえを求める衝動と、邪竜ギムレーという性質はどう合っても相容れることができないからだ。
発作的になまえを欲しくなれど、人間に憎悪を抱く破壊の化身"邪竜ギムレーの概念"が、かつてそう望まれた在り方が、人間を憎悪する以外の感情を持つことに歯止めを掛けて、結果的にそれが彼を情緒不安定にさせている。
いつか遠い昔の人間に、邪竜であれと、そう望まれたが故に──邪竜ギムレーがただ純粋に、人間を求めることは許されない。
存在意義と欲、その軋轢がどれ程の苦痛を生むかだなんて、それに挟まれている当人以外には理解できぬだろう。

「僕、は、……我は、……僕、」


「──……ぎ、むれー」

「!」

どろどろとした暗闇に飲み込まれそうだったそこに、異様なほど自然に、明瞭にその声は届いた。
反射的に肩をびくりと揺らして、恐る恐る隣の女に目を遣るとその瞼は持ち上げられて──はおらず、寝息も乱れていないことから寝言で彼の名を呼んだのだろう。
残念だという落胆に、情けない姿を見られなくてよかったという微かな安堵が混じる。一度意識を完全に逸らしたからか、足元から沈み込むような泥の闇は消えていて、邪竜の身ではあまり経験したことのなかった緩やかな睡魔がじんわりと脳に染み渡り始めた。
彼は、ベッドに横たわり直すと隣の女を起こさぬように抱える。そのまま女の胸部に額を押し当てると、とくとくと心音が聞こえてきた。
なまえの生の証にしてなまえが自身の隣に居るという事実、それがまるで子守唄のような役割を果たして、先程までぐるぐると廻っていた思考があっさりと奪い取られると、あまりにも優しく彼を眠りへと誘っていった。

(今は、まだ。──まだ、退屈で変化の乏しいこの日常で、君の時を摘みながら微睡んでやろうじゃないか)


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