にせものamabile。 | ナノ

 G-dur 4

「あ、響かいちょー…」
「?」


そんなとき、向こう側の渡り廊下を歩く響会長が目に入って、思わずつぶやいた。僕の目線をたどるように、一哉が振り向く。

ちょっと遠くにいるから、響会長はこちらには気づいていないようで、たくさんの資料を抱えてとても忙しそうに歩いている。休日なのに、大変だな。いじわるだけれど、この大きな学園で生徒会長として仕事をしている姿はすごいなあと思う。


「僕ね、あの人のことがすきなんだあ」


一哉をひきずっていると思われたくなくて、うそをついた。でも、これは僕にとって、必要なうそで、そして誰も傷つけない、うそで。


「…お前、面食いだね」
「えへへ、かっこいいでしょお。しかも優しいんだよお」


優しくされたことなんて、一度もないんだけどね。


「一哉は?あの子と…リン君と、じゅんちょー?」
「…ああ。うまくいってると思う」


…そっか。そりゃそうだよね。
一哉はリン君のこと、大好きだったもんね。


でもそれなら、どうして連絡なんてしてくるんだろう。もうほっといてくれたらいいのに。勝手に幸せになっていてくれればいいのに。そうじゃないと僕は、期待、してしまう。

…あれ。

僕は、何に期待をしていたというのだろう。





「おい、イチ!戻るぞ!」



一哉と同じ学校のひとたちがぞろぞろと体育館から出てきて、僕らに気づいたひとりが声をかけてきた。一哉は「今行く!」と答えて、僕の方に向き直る。


「そろそろ俺、行かないと。」
「うん、今日は試合、おつかれさまあ」
「…あのさ、あの日のことなんだけど、」
「、」
「いや、あの日に限った話ではないな…」


あの日。

彼が言うあの日と、僕が思うあの日はたぶん同じだと思う。

彼が僕と会わないと決めた日。僕が街に降りないと決めた日。


一哉は言いづらそうに目を逸らした。けれどそれも少しの間だけで、僕の方に向き直った彼は、また口を開いた。


「酷いことをしたって、謝らないとって、思ってて…あの時の俺は余裕がなさすぎた」
「…」
「おまえの気持ち利用して、最後はあんな形で追い出して…今考えると俺何やってるだろうって思うんだ。けどあん時はなんも周り見えてなくてさ…

馬鹿だったと思ってる。」



ぽつり、ぽつりと言葉をつなげて、一哉はその胸のうちを明かしてくれた。


そうか、一哉はもうあのときの一哉ではないんだ。きっとリン君と、本当にうまくいっているのだろう。

あのとき、相手の気持ちを確かめるように浮気に走っていた一哉は、過去を省みることができるようになるくらい満たされているということだ。


「許してくれとは言えないけど、聞くだけ聞いてほしかった。本当に、ごめんな」



あぁ…。僕は一哉からそんな言葉がほしかったわけではなかった。でもそれでも、その言葉をもらえて僕の心は落ち着いた。

バカだと思う。傷ついた心は、こんな謝罪でどうにかできるほどのものではないはずで。だけど今でも、ちぎれちぎれになった心をどうにかできるのはやっぱり一哉しかいないのだと僕は思った。



はたから見たらただの浮気男だとしても、あのとき僕の世界を広げてくれたのはほかでもない、彼だった。


一哉は僕のことを少しも好きではなかったのだろうけれど、それでもあの頃の僕はたのしかったし、ピアノ以外に友だちができたこと、そして誰かに恋をする気持ち、そういうのをひっくるめて言ったら、「総合的には」よかったと言っていいのかもしれない。


一瞬のうちに、いろいろな考えが僕の頭を巡ったけれど、それを言葉にできるほど僕に余裕はなかった。そのかわり、僕の目からは涙がつつ、つつ、と次から次から零れ落ちて止まらない。



ねえ魔女さん、

こういうときにだけ僕の声を奪うのは、やめてほしいよ。



「泣くなよ、」



触れるか、触れないか。壊れ物を扱うように一哉は僕を腕の中にいれた。久しぶりに彼を近くに感じて、抱きしめられているわけではないのにあたたかい、と思った。余計に涙があふれる。


あの頃は、本当にしあわせだった。何も知らなかった頃。僕の世界はピアノと一哉で出来ていて。”あの日”ではない日のことで、僕が泣くのは初めてだ。悲しいのとはちがう、胸の奥にどろりどろり熱すぎる何かが流れ落ちて、痛い。あの頃は、本当にしあわせだった。だからこそ、こんなにも。


「…今日応援、ありがとな。フリースローんとき、声、届いたよ」
「え、」
「イチ、がんばれって。入ったのはお前のおかげかもな」
「ちが、」


そうか、「イチ」。きっと一哉のコートネームなんだ。さっきも彼のチームメイトがそう呼んでいた。


でもちがうの、僕が呼んだのは一哉じゃないの。いっちーなの。だって僕が、一哉のコートネームなんて知っているはずがないでしょう。

けれど僕はうまく言葉にできない。


「"匠"、お前もピアノ頑張れよ」
「っ」


一哉はそう言って、僕が何度も頷くのを見て安心したのか、チームメイトの方に走って行った。僕はその場に呆然として立っていることしかできなかった。


涙が止まらない。


初めて呼ばれた僕の名前が、特別な響きを持って聞こえた。どうして僕の心はこんなにも揺さぶられてしまうのだろう。


ピアノに逃げるように溺れていた中学生の僕は、一哉が引っ張りあげてくれた。一哉に揺さぶられる高校生の僕は、どうしたら救われるのだろう。


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