▼ F-dur 8
「アヤ」
「、カナメ…」
カナメと呼ばれたその人は、僕たちの方をちらりとも見ることなく通りすぎ、車の中で小さくなるふみくんに近寄った。
「"おかえり"、アヤ」
「か、カナメ、カナメ、カナ…」
本格的に泣き始めたふみくんの腕をカナメさんがつかむ。さっきまで頑なに車を降りようとしなかったふみくんが、するりと車から出てきた。
(ね、どうする僕ら、帰る?!)
そんなアイコンタクトをのむちゃんに送ってみても、のむちゃんはうっとりとした顔で2人を見ていて伝わらない。
車から降りたふみくんを、カナメさんはしっかりと抱きしめた。2人の身長は同じくらいで、ふみくんの涙はその人の肩に吸い込まれていく。
きらきらの金髪を、カナメさんは愛おしそうに撫でて「アヤ」と優しく名前を呼んだ。
「カナメ、俺っ…」
「うん」
「やっぱり、苦しい…っ」
「うん」
「カナメがいないと、ずっと、苦しくてっ…」
「うん、知ってる」
俺のおさかなちゃん、とその人は抱きしめる力を強めたようだった。
ちょっと、ちょっと、ちょっと!
のむちゃんじゃないけど、この神々しい絵は何?!ちらりとのむちゃんを見ると、もはや泡を吹いて倒れそうになっている。
一哉はその神々しい2人を、複雑そうな顔でじっと見ていた。何かしら思うことはあるのだろうけれど、きっとそれは、彼が自分で解決するしかないのだろう。
っていうか本当に、ものすごく単純すぎだよね?!何をどうしたら、そんなにこんがらがっちゃってたんだろう。
「話は部屋で聞くよ、アヤ」
「…もう一回」
「ん?」
「もう一回呼んで」
「アヤ?」
「カナメ、」
「何、アヤ。もうどこにも行かないで。」
まって、まって、まって!!!それも部屋でやって!!!
「あのー、では我々はそろそろ帰りますね…」と一応声をかけて、失神しそうなのむちゃんを引っ張って車を目指す。
「待って」
「はいぃっ!」
カナメさんに呼び止められて、思わず変な声が出た。ぽんぽん、とふみくんを撫でながら僕らをじっと見る。え。その体制のまま話すの?!
「君って、」
「あっ、僕らはっ、ふみくん…いや、城崎さんが、一時期転校してきた丘の上の学園の1年生で、城崎さんにはすごく、お世話になったんです」
「…そうか、」
「今日たまたま街で会って、なんか、悩んでたみたいだったから…ここまで連れてきちゃいました」
勝手なことしてすみません、と謝ると、
「アヤ、そっちの学園でも楽しく過ごしてたんだな、よかった」とカナメさんは穏やかに笑った。
それを見たのむちゃんは「あぁ…」と拝み始めたけど、今回だけは、その気持ちがちょっとわかる気がした。
カナメさんは僕たちに一礼すると、ふみくんをつれて校舎の方へ歩き始める。
「タクミ、またね」
「ん、またね」
振り返ったふみくんは、泣き腫らした目だったけど、その顔はすごくすっきりしていて。
「カナメさん、これからさらに大変だろうな〜」
ふみくん、きっと最初からモテるタイプだろうけど、さらにモテそうだ。…って、思考がのむちゃんに寄ってる?!
「橋本、なんか色々、ありがとうな。」
「あ。一哉、」
俺も戻るわ、と一哉は言った。
「…図星だった」
「へ」
「橋本に言われたこと。ただリンと向き合うのがこわくて、また同じ間違いしようとしてた気がする」
「一哉…」
「リンと話してみる」
「ん」
「気をつけて帰れよ」
「ありがとう。一哉も、元気でね」
ある、冬の日。
僕たちはそれぞれの思いを胸に、学園へと帰ったのだった。
このことが、ひびきとのぎくしゃくに繋がるなんて、思ってもいなかったのだけれど。
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