▼ H-dur 9
僕はずっと逃げていた。
学園になじめないことも、勉強についていけないことも、自分のがんばりが足りない部分はきっとあって、
けれどそれを変えようとせずに、その場しのぎの逃亡劇。
人魚姫は、お魚のしっぽだった自分の体を、人間の脚にした。それくらいの覚悟だった。
じゃあ僕は?何かを変えようとした?
誰かがいってたよ。周りを変えるのは、環境を変えるのは、ちっぽけな自分にとって大変なことだって。
でもだからこそ、ちっぽけな自分くらいなら変えることができるんじゃないの?って。
きっとそうだ。
僕だって、変わりたい。
「1年B組、橋本匠さん。」
司会をつとめる、咲月さまの声を合図に、僕は舞台袖から出た。
とうとう文化祭の日がやって来た。始業式や全校集会で使われる会場だから、いつもなら僕はステージを眺める側の人間で。
でも今日は違う。みんなに僕のピアノを聴いてもらえる日。
「ピアノによる演奏です」
拍手。
僕はステージに向けて、お辞儀をした。ここから見える景色は、生徒会長であるあのひとがスピーチをするときに見ているもの。
そう考えると、ちょっと緊張が増して、僕はこくりと唾を飲んだ。
視界のはしで蛍光色がちらつくので目をやった。【タクミ LOVE】のウチワが揺れている。
…待って。のむちゃん?!?!そのウチワ、どこから持ってきたの?!まさか手作り?!
そしてその隣には、いっちーの姿。【がんばれハシモト】のウチワを持っている。いっちーって、のむちゃんのストッパー役じゃなかった?いつのまにそんなノリノリになったのさ!!
僕は笑いそうになって、あわてて席についた。
ー あとで見る。おまえが緊張でかちんこちんになるとこ。
響会長、残念でしたっ。だいすきな友だちのおかげで、全然かちんこちんにならないみたいです!
からかうように笑う響会長の声を、僕は鮮明に思い出すことができる。ピアノのレッスンから帰る僕を、待っていてくれた彼。
あれが、ちゃんと話せた最後だった。
でも。
この文化祭が終わったら、ちゃんと僕の音が"響"いたら、もう一度。会って話がしたい。
僕は深呼吸をした。1曲目は、ワルツ。
ファンファーレが響く。3拍子のリズムに乗って、僕の音が、気持ちが、会場に響きますように。
「すごい…」
そう呟くのむちゃんの声はもちろん僕には聞こえなかったけれど、絶対に、確実に、8月のコンクールよりも上達している僕がいた。
一哉が来られないと知って、一瞬でどんよりと曇った音を出してしまったあのコンクール。
聴いてほしかった人が、来られない。それは今の状況も同じだけれど、もう負けない。引きずられない。
僕はもう、いろんな気持ちを知っている。
こめたい"心"だってある。
過去に、いっときの感情に縛られる自分はもういないんだ。
最後の低音で、曲が終わる。シン、と一瞬の静寂のあと、拍手をもらった。ブラボーたくみちゃーん!!という声は、言わずもがな、のむちゃんで。
拍手の最中に、ゆっくりと暗転。譜めくりのすみれさんが舞台袖から出てきて、僕の隣に腰かける。
はずだった。
「あれ…?」
暗転しても、すみれさんが来ない。
リハもやったし、段取りだって何回も確認したはずなのに。
振り返った先にもすみれさんはいなくて、どうしたんだろう?と思っている間にプロジェクターが映像をうつし出した。
【以上、1年B組、橋本匠の演奏でした。】
黒地の背景に、白い文字が流れる。これは響会長親衛隊1年のみんなに協力してもらってつくったもの。
【ここからは、園田会長親衛隊としての演奏となります】
少しだけざわつく会場。そのなかに、僕が本当に聴いてほしいひとはいないのだけれど、それでも僕は、全力で弾くよ。
【みなさーん!!】
ここからは、親衛隊1年みんなの声。会場にいるひとたちへ語りかける。
【文化祭、楽しんでますかー?】
「とってもたのしいよーー!!」とのむちゃんの声がしたと思ったら、口々にみんな「楽しい!」「イエーイ!」と声をあげてくれる。
さすがだなあ、のむちゃん。やさしい。
【実は!
今日は、文化祭を支えてくれた、生徒会長兼、文化祭実行委員長である園田さまのお誕生日なのです!!
園田さま、おめでとうございます。】
親衛隊より、愛を込めて。という言葉を最後に、映像は終わり、照明が明るくなった。舞台上には親衛隊のみんな。
わーーー!!!!!と会場が盛り上がり、僕は鍵盤に右手を置いた。
ドタドタドタ、と後ろから足音がして、僕の横にすみれさんが座る。
「すみれさん?」
「わっ、わり…」
かなり息を切らしているすみれさんはちょっと心配だけれど、僕は最初のアルペジオを弾き始める。
きらり、きらり。
僕のピアノよ、響け!
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