▼ H-dur 5
「どうして泣くの?」
だってタクミに対してなにかを言ったわけではないよ。タクミの家をどうにかしようというわけでもないよ。
不思議そうに、ふみくんが言う。
そんなことは分かってる。
きっとお金持ちの社会にはいろんな関係性があって、ふみくんと響会長のおうちはライバルみたいなものだとも聞いたし、
ふみくんが響会長をよく思わないのも仕方ないのかもしれない。
けれど、それでも悔しくてたまらない。
まるで自分のことみたいに、自分のこと以上に感情が揺さぶられてしまって仕方なくて、
誰かに対してこんな気持ちを持つのは初めてのことのように感じる。だから、心が持て余しているのかな。
どう扱っていいのかわからない温度の感情が押し寄せて、それが透明な粒となって瞳からぱたりぱたりと落ちた。
響会長は、頭がよくて、優しくて、穏やかで、背が高くて、小顔で、鼻が高くてほりが深くて真っ黒な瞳には力があって、いつも自信に満ち溢れていて、って、みんなにそう、思われている。
みんなの前で堂々と話をする姿は凛としていて。
けれどその影で、プレッシャーに押し潰されそうになっているのも本当で、いつも自分と戦っているんだ。
僕は最初、みんなに"にせもの"の自分を見せているのは、これ以上人気が出ないようにするためなのかと思った。
レッスン棟に向かうときに通る、白いベンチ。そこで言葉を交わすときの響会長はちょっぴりいじわるだけれどすごく話しやすくて、
この響会長を知ったらみんなもっとすきになるんだろうなって。
実際、"にせもの"の姿を見たときにはなんにも思わなかった僕が、
ここまで響会長のことを考えるようになったのはやっぱりほんものの響会長に惹かれたからで。
けれど、今なら分かる。
"にせもの"は響会長にとっての防御。
ほんとうの姿を見せるのはこわいから。
ほんとうの自分を評価されるのはこわいから。
ほんとうの自分が嫌われたらどうしようって、思っちゃうから。
ほんとうの声を隠して生きている僕と一緒だ。
でもちゃんと、
響会長は変わろうとしている。
「自分を見てほしい」って、ちゃんと伝えられてた。
だから僕も、のむちゃんやいっちー、そして潤ちゃんに、ほんとうの自分を知ってもらいたいって思い始めたんだ。
響会長に、追い付きたい。
「何も、知らないくせに、」
響会長のこと、なんにも知らないくせに、そんなこと言わないで。
言いたいことはたくさんあったけれど、涙がそれを邪魔してしまう。
いつもそうだ。肝心なときに僕はだいじなことを言えない。
自分が一哉の浮気相手だったと知ったときも、
それを謝られたときも。
いつも目頭の温度にくらくらしているだけで僕は何も伝えられなかった。
伝えたいことはたくさんあったというのに。
「…。じゃあ、タクミは?園田の何を知ってるの?」
ふみくんの冷たい、声。
僕の知ってる響会長は、こわがりなひとだよ。
それでも前に進むひとだよ。
よわいひとだよ。
でもそれを隠して笑う、強いひとだよ。
"響"としての自分を見てほしくて、努力し続けているひと。
学園から出られなかった僕の背中を押してくれたひと。
大きな、はなまるくれたひと。
たまに勝手に暴走するけれど、きちんと謝ってくれるひと。
ちゃんと、響会長のこと知ってほしい。見てほしい。
そう思う一方で、僕だけが知っていればいいのにとも思ってしまう。
この、消えてくれない矛盾した気持ちは一体どうすればいいのだろう。
胸の奥がつきつきと痛むよ。
遠いなあ。
こんなに近くにいるのに、響会長が、遠い。
「俺、今日は帰るね」
「…」
「タクミ、よーく考えて。誰を選ぶべきなのか。君にとって、俺にとって、園田にとって、一番いい選択は何だろうね?」
ー "園田"を潰すよ。
「園田、来るといいね」
「へ」
「文化祭」
「どういう意味、」
ふみくんはふふふ、と笑って、またぽんぽんと僕の頭を撫でた。
やっぱり全然違う。
響会長以外はみんな、違う。
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