悪意






最寄駅から車で5分の場所にある、4階建ての単身者向けマンション。1DKの千歳さんの部屋には、渡良瀬の部屋以上に何も無かった。

「ここっていつから住んでるんですか?」
「大学のときからだから5年目かな。」

てっきり引っ越したばかりなのかと思ったんだけど、結構長いじゃん。それでこんな状態?

物が少ないってレベルじゃないんだよ。目に付いた家具は冷蔵庫とベッドと机。それだけ。聞くと服やそれ以外の物は全てクローゼットに納まっているらしい。

テレビもステレオも無い。キッチンには調理器具も一切置いていない。本来ガスコンロがあるべき場所にはコーヒーメーカーと食器がいくつか置かれているだけ。

「部屋に一人でいるとき何してるんですか?」
「仕事以外だと読書かな。」
「本棚が無いけど…」
「読み終わったら捨てるから必要ないよ。」
「食事は?」
「買えば済むし。」

なるほど。徹底してるなぁ。物で溢れたごちゃごちゃの俺の部屋を見たら怒り出しそう。

「ごめんね、今回は服まで指定しちゃって。」

「大丈夫ですよ、都合よく持ってたんで。着替えるのにトイレ借りてもいいですか?」

「あ、それならこっち。脱衣所使っていいよ。」

電車で来るから家から女装してくるわけにはいかない。前みたいに手元だけなら男の格好のままで問題ないと思っていたんだけど、今回は指輪と一緒にネックレスもあるからって、喉元で男だっていうのがわからないような服をお願いされていた。

選んだのは首が隠れるハイネックの白いブラウス。下は写らないから別に何でも良かったけど、一応ハイウェストのスカートを履いた。

渡良瀬の前では慣れちゃって平気で着替えてるけど、千歳さんだと少し抵抗があった。

案内された脱衣所に入って扉を閉める。この場所も当然最低限の物しか置かれていない。

ふと、洗面台に置かれたコップと、その中に立てかけられた歯ブラシが目に入った。


……2つある。


色違いで2本。これって、そういうことだよね。

千歳さんみたいな人だったら彼女の一人や二人いてもおかしくないけど。

へぇー。そうなんだぁ。なんとなく恋愛に対して興味無さそうに見えたから、正直意外。渡良瀬と友ちゃんは知ってるのかなぁ。

着替えを終えて、簡単なメイクとウィッグも付けて部屋に戻ると、千歳さんは机の上に今日撮影するアクセサリーを並べているところだった。振り返った千歳さんは俺を見て「やっぱり髪が長い方がモカちゃんて感じがするね。」って言った。

「始めてもいい?あ、椅子無いからベッドに座っていいよ。」

千歳さんが差し出した大き目のチェーンのネックレスを受けとって首に付ける。金具を留めるのに手間取っていたら千歳さんが手を伸ばして留めてくれた。

今までに見た販売用のシンプルなものとは全然違う。胸元で揺れるチェーンの先には青い石が埋め込まれた大き目の飾りがついている。

「……あの、千歳さん。」

「なに?」

「今更なんですけど。わざわざ女装した俺で撮影するより本物の女の人の方が良かったんじゃないですか?」


例えば、彼女とか。

千歳さんの恋人ならきっとすごく綺麗な人だろう。勝手にモデルみたいな人を想像してる。手だって、俺なんかのよりずっと綺麗なんじゃないかな。

「僕は女の知り合いって全然いないんだよね。まぁ女に限らず男の知り合いも少ないけど。」

俺の問いかけに、千歳さんは写真を撮りながら答える。

「彼女さんは?」
「そういうの今いないから。」
「でも歯ブラシ…。」
「歯ブラシ?…ああ。あれはなんとなく。」


なんとなく。

ってなに?


深くは追求しないことにする。なんかこう大人の事情とかさ。色々突っ込んじゃいけないことってあるだろうからね。俺馬鹿だけどそのぐらいは空気読めるんだよ。

その後、撮影は順調に進んだ。ネックレス、指輪、ピアス。凝ったデザインのものが多いから付けたり外したりが結構大変。ここへ着いたのは昼過ぎだったのに、気がつくと窓の外は日が沈みかけていた。


「もうこんな時間か…。モカちゃんお腹すいてない?帰りは家まで送るから途中で何か食べようか。僕奢るし、何か食べたいものある?」

「いいんですか?どうしようかな…、安くて大盛りなのがいいです!」

「ざっくりしてるなぁ…ジャンク系ってこと?そういうの好きなわりに細いよね。腰回りとか。食べても太らないタイプ?」

「そうかもしれない。一応気をつけてはいるんですけど。」

太らないようにとか。できるだけ筋肉がつかないようにとか。可能な限り気にはしてる。食欲の方が勝っちゃうことのほうが多いけどね。

「でもこの先も体つきは変わってくるだろうから…。女装したときの違和感も今よりどんどん大きくなると思うんです。だから体系だけでも太くならないようにしないとなって。」

「どうなんだろうね。元々小柄だし。言うほど悪いようにはならない気もするけど。」

「…そうかなぁ。」

「そもそもモカちゃん自身この先どうなりたいの?」

「どうって?」

「方法は色々あるでしょ。女性ホルモン剤も最近だと簡単に手に入るし。そうなると男でいようとしたときに弊害が出てくるだろうけど。」

「えっと、そこまで深く考えたことなくて。ただなんとなく自分の好きな格好したいって、それだけで…。」


千歳さんの写真を撮る手が止まった。顔を上げた千歳さんと目が合う。


「そっか、完全にに女になりたいってわけじゃないんだね。」
「そこまでは…。」
「じゃあ、そうだな。男の人に自分が女として扱われたいっていう願望はないの?」
「どういう意味ですか?」

カメラを机の上に置いて、千歳さんが俺に向かって身を乗り出す。

「自分がこういう風に、男相手にどうにかされるところとか今まで一度も想像したことない?」

「え?…うわっ!」

肩を掴まれてそのままベッドに押し倒されると無表情な千歳さんが見下ろしていた。こんな冷たい表情、初めてだった。

逃げ出したくても上に乗られて身動きが取れない。スカートの裾が少しだけめくれ上がっている。その隙間から千歳さんの手が太ももに直に触れた。

ひやりとした、冷たい指先の感触。

「あの、ちとせ、さん…?」
「なんだ、下着は男物なんだ。」
「千歳さん!」

大声を出して拒絶しても千歳さんはやめてくれない。下着の布越しに前を掴まれる。指先が先端をなぞるように動く。もどかしいような、微かな刺激が続く。

こんな風に人に触られたことないし。どうしていいのかわかんないよ。


「なんなんですか、何がしたいんですか、ちとせさん…っ」

「なんだろ。嫌がらせかなぁ。」

「俺何かしましたか?」

「……モカちゃんは悪くないよ。そうだよね、僕の頼みでわざわざ家まで来てもらってるのに。ひどいことしてると思うよ。」

「それなら何で、」

「モカちゃんってさ。能天気で楽しそうだよね。自分の好きなことして思いついたことすぐ口に出して。きっと何かあっても周りに助けてもらってきたんでしょ。集君とかさ。無自覚に他人に甘えることができるのっていうのも、ある意味才能かも。そういうところがさ、大嫌いなんだ。」


なんだか、凄いことを言われているのかな。


一ヶ月前に知り合って、まだ数える程しか会っていない。そんな人にここまで言われてる。

言い返そうと思えばできたはずだ。だけどそんな気も起きなかった。

ただ真っ直ぐに向けられる自分への悪意を、まるで他人事のように聞いていた。


「……なんだ。モカちゃん意外と表情変えないね。泣いてる顔の一つでも見てみたかったんだけど。」


つまらなそうな顔で千歳さんが溜息をついた。俺を押さえ込む力はいつのまにか弱くなっている。


「泣かないよ、俺。」


どんなにひどいことを言われても、嫌われても何をされても。期待に答えられなくて申し訳ないけど。

俺を泣かせることができるのはね。


この世界に一人しかいないんだよ。








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