019.夜狩りの狗〈4〉

 ――要点だけを抽出すると、クラウンと名乗る女は誰の味方でもあり、誰の敵でもある、実にあやふやな立場の人間である事が判った。
 彼女は多重スパイとでも言うべき人間で、どこの組織にも属しているが、どこの組織にも関心が無い、得体の知れない存在である事が浮き彫りになった。併もどの組織からも或る程度の信頼を獲得している風なので、それが益々不気味さを演出している。
 多重スパイは重宝がられるが、但し手のひらを返され易い一面もある。一切の躊躇無く切り捨てられる、使い捨ての間者。クラウンの真意は結局覗けぬままだが、彼女はその地位を“嬉々として愉しんでいる”……ように、ヴェルドには映った。
 彼女を形容すべき言葉をヴェルドは有していない。ただ不気味、ただ不思議、ただ未知数としか表現できない。狂っているとも言えるし、壊れているとも言えるだろう。厳格に彼女を指し示す単語が見つからない程度に、彼女は雲のように手が届かず、且つ雲のように実態が掴めない人物だった。
 クラウンの冗長的な話は聞くに堪えない戯言に満ちていたが、刻限ギリギリまで吟味した結果、ヴェルドはこの事件の黒幕に繋がるであろう手掛かりの切れ端染みたモノを認識した。
 それはあくまでクラウンの虚妄に満ちた台詞の中に混在した真実を、正確に汲み取れ、“誤認していなければ”と言う前提が必要になる、実に焦点の合わない事象ではあったが。
 クラウンの一方的な座談会が白昼夢のように消え去ったのは、部屋が光で満たされた瞬間だった。直後に、先刻携帯電話越しに話した武器商人の声が大音量で降り注ぎ、ヴェルドはもぬけの殻になった部屋を脱すると、急ぎ足で目的地に向かった。
 一切の妨害が入らない行程を終えてモーテルに辿り着いた時には刻限を既に過ぎていたが、己以外誰もいない事を確認し、再度頭の中で演算する。三人が刻限通りに目的地に到達できるか否か。アンサーは即座に現出する。――ネガティヴ。彼らに刻限通りの動きが出来るとは想定し難かった。
 直後にロケット弾がモーテルに撃ち込まれ、モーテルは倒壊。ロケット砲を所持した傭兵を敵性人物と判断し、排除してから三人を迎えに行く、と言う行程を経て、ようやく三人と合流したヴェルドは、夜間に無灯火でジープを駆っていた。
 神経が昂ぶっている。五感にも誤差程度ではあるが差異が生じている。今すぐに休息を必要とする訳ではないが、生存率は確然と低下しているだろう。刃蒼の言うとおり一度休憩を挟むべきだと心中で結論が出た。
「……お、臥堂くんも寝るの早いんやなー。こういう所だけ良い子なんやから〜」
 バックミラーで臥堂の寝顔を確認した刃蒼が、欠伸交じりに苦笑を覗かせた。十二時間近く緊迫した戦場の空気に晒されているのに、未だに余裕の態で呟く刃蒼の心胆には、ヴェルドも感嘆の意を覚えた。
 如何なる人間でも戦場の空気に晒され続けると、人格が緩やかな壊滅の道を辿る。たった一度の戦闘行為でも、人によっては動けなくなり、精神的外傷で二度と戦場に赴けなくなるのだ。それを一日に何度も体験しているにも拘らず、未だに軽口を叩けるだけの泰然たる余裕を見せられるのだ、鋼の心と呼んでも差し支えあるまい。
「……刃蒼さんも、どうか休める内に休んで下さい。問題が有ればすぐに起こしますので」
「僕はええよ、ヴェルドさんが休む時に一緒に休むから」
 即答され、ヴェルドは冷淡な想いを覗かせぬまま、「――判りました。ただ無理だけはしないようお願いします」と、前方を見据えたまま、心持ち穏和な語調で応じる。
 一方的に刃蒼がヴェルドに不信感を懐いている、と思うのは被害妄想も甚だしい。仮にそう思っているのだとしても、二人ずつ休憩した方が効率的だと考えるべきで、そう対応すべきなのだ。
 刃蒼は信任の置ける人物であるとヴェルドは認識している。故に己がクラウンと言う輩から獲得した情報を共有する事に関しては異論は無く、可能なら迅速に行いたいところだった。
 だが通信機と言う枷がその行為を阻害する。本当にクラウンとの邂逅時の情報がマスターシックスに筒抜けになっていなかったのかも、真偽の程は測れないのだ。全ては闇の中で、ヴェルド自身アクションを起こす機会を覗うしか出来なかった。
「ところで――先程轢殺した彼は、何者なのですか?」
 黒衣を纏った人物……と言うには、些か不思議な映像を観た気分だった。まるで影が存在感を持ったかのような、人間とは言い難い人型……そして違和はそれだけでなく、人影を轢いたにも拘らず、人影は霧散しただけで、別の所から衝撃が現出したような気がしたのだ。
 銃火が轟く闇に満ちた街を疾走するジープの助手席で、刃蒼は「んー、今はまだ判らんって言わせてくれへん?」と意味深な笑みを浮かべて首を横に振る。ヴェルドはその反応だけで、「――なるほど、判りました」と小さな笑みを口唇に刻み、それ以上その話題に触れようとはしなかった。
 無音のままに戦場を疾駆するジープ。刃蒼はゆったりとシートに凭れかかると、「ヴェルドさんって、タフいんやなぁ」感傷に浸るような雰囲気で感嘆の吐息を漏らした。
「刃蒼さんこそ、ですよ」ニコリともせずに応じるヴェルド。「元は科学者だったのでしょう? それだけの胆力を有しているのは、生粋の傭兵でもそうそういませんよ」
「僕はほら、兵器の実験って名目で、よー人死には観とったから」
 遠くを見る目で、刃蒼は静かに声を落としていく。その様子を視界外に捉えながら、ヴェルドは運転に集中しつつも刃蒼に意識を傾ける。
「実験と戦闘は別物です。実験場と戦場が似て非なるように」前方に映った銃口炎を避けるように迂回し、再びアクセルを踏み込む。「以前特殊部隊にでも属していた、と言うのなら頷けますが」
「うんにゃ、僕は実験用の兵器と一緒に戦場を回ってただけや。特殊部隊なんて大それたトコに配属された事は一度もあらへん」緊張感が徐々に弛緩していってるのか、表情が普段以上に緩んでいる刃蒼。「ただまァ、地獄は何度も体験しとる。何度も殺されそうになったし、死に物狂いで敵陣を横断した事も数知れず。修羅場は体験せな、理解できんもんやしな」
 一介の科学者が傭兵に転属すると言う話自体が稀有にも拘らず、幾多の戦場を経験し、学び、生き存えてきたと胡乱な微笑を浮かべて語る。ヴェルドが経験則として獲得した技術を以てしても、刃蒼が虚偽の体験談をしているとは認められなかった。
 傭兵の生存率など高が知れている。多くの人間が傭兵を志し、幾多の戦場を駆け抜けるが、その度に人員は加速度的に損耗していく。十人いた傭兵が一夜で数人になる、どころか絶滅する事だって有り得る世界だ、その中で華奢な肉体の元科学者がどれ程貢献できると言うのか。
 刃蒼は爆弾のエキスパートと言う位置付けになるのだろうが、戦闘行為自体は不得手に観える。つまり彼は、戦闘行為ではなく罠や爆破技術のみで今日まで生き延びてきたと言う事になる。常軌を逸した話だと、ヴェルドは思わずにいられなかった。
「そういうヴェルドさんも、普通の傭兵とは一線を画す技量持っとるんやない? 今まで観てきた傭兵とは、ちょと雰囲気がちゃうし」
 水を差し向けられ、ヴェルドは刃蒼に関する沈思を一旦浮上させ、ジープを駆りながらチラリと助手席の科学者に視線を向ける。悪意の無い、無垢な好奇心でこちらを見つめる刃蒼に、ヴェルドは感情を表に出す事無く、小さく鼻息を漏らした。
「――傭兵稼業を始める前は、特殊部隊にいました」必要の無い情報を与える行為だと気付きながらも、刃蒼になら……三人になら聞かせても良いかも知れないと、ヴェルドは重い口を開ける。「私の理念と乖離した部隊にいるのが苦痛で辞めてしまったのですが、今になってその時培った技術が活きてくると言うのは、何とも皮肉な話です」
 今朝観た悪夢が脳裏で蘇る。業火に侵された町の中で一人取り残される幼い自分の姿。あの時の地獄が、既にこの町で再現されつつある。……否、己の手で幾度と無く再現してきたのだ、“二度と奪われないために”。
 奪われないためには、強くなるしかなかった。誰にも奪われなくするためには、誰よりも強くなる必要が有った。誰よりも研鑽を積み、誰よりも鍛錬を重ね、幾多の地獄を潜り抜けて辿り着いたその先に、平和も安穏も存在しなかった。そこに有ったのは、築き上げた屍山血河と、見渡す限りの焼野原と、空虚な喪失感だけ。
 奪われないために強くなった。但し、それは奪うための強さでもある。武力で和平を勝ち取るとはつまり、和平を奪い取られた者が生じる結果の成立だ。己は人を救っているように見せかけて人を殺している。
 その結論に達するまでに時間が掛かり過ぎた。略奪者の烙印が灼きつけられ、戻るべき人道は既に閉ざされていた。殺め過ぎた人間に、罪を犯し過ぎた罪人に、安穏たる平楽は望めない。
 思考がそこに到って尚ヴェルドが出した結論は、殺人を敢行する事だった。己のためでも、平和のためでも、大義や正義のためですらない。要素を全て天秤に載せ、己が見出した“価値”がそこに存在するか否か。到達点に辿り着ける工程がそこに見出せるか否かしか観点は無い。
「この謎のゲームでは力や技術、知識や情報が殊更に求められる」独語するように、ヴェルドはハンドルを切りながら呟きを続けた。「私が今まで得てきた含蓄が活かされるのならば、喜んで差し出すつもりです。それが恐らく私がここにいる理由ですから」
 正確には真意ではない。必要ならばゲームを降りるし、彼らを裏切る算段も企てる。三人が如何に有能な人員であっても、己の策に運用すべき戦力であっても、不要ならば切り捨てるし、阻害になるなら排除も辞さない。極限まで利己的に思考を費やし、最善を獲得する。二元化した世界には善と悪、或いは勝と負しか残らない。
 刃蒼の表情は読めなかったが、彼は正面を見つめたままどこか寂しそうな眼差しで溜息を零した。残念とか無念とか言った感情は感じ取れなかったが、寂寥とした物悲しさが漂っていた。
「なんかなぁ、ヴェルドさんって確りしとる割には、誰にも頼らへんよね」
「……人は迷惑を掛けながら生きる生き物です。最低限の迷惑で済むなら、それに越した事は無いのでは?」
 交差点の赤信号を観るも、己の聴力を信じて周囲に走行する車両がいない事を確信すると、アクセルを踏み込んで交差点を横断する。刃蒼は一瞬目を瞠らせて身を竦ませるも、何事も無く通過した交差点をバックミラーで見やり、胸を撫で下ろした。
「……ヴェルドさんの言う事は正しいよ、ご尤もや。でもな、そう巧く行かんのが人間やで。ロボットや無いんやから、もっと柔らかく行かん? そんな“模範生みたいな回答”やのうて、僕は“ヴェルドさんの言葉”が聞きたいんよ」
 時折通過する街路灯に照らされた刃蒼の表情は、普段の穏和な表情を映さず、どこか真剣みを帯びた、或いは醒めた印象を与える、鋭い眼光を宿していた。
 ヴェルドは数瞬沈黙を返した。それが即ち正答であり、己の不手際の末路だった。刃蒼は気付いている。今まで己が告げるべき答のみを告げていた事を。それは確かに間違いではないし、人間関係にも影響を与えないレヴェルの誤差だ。
 併し刃蒼はそれを指摘できる程には察し、そして嫌悪感を示した。己の話術に絶対の信頼を置いている訳ではないが、そういう風に切り返されたのは初めてだった。
 戦場では必要な文言だけを求められる。相手が要求する台詞を吐き、信頼を築き上げる。その技術が、彼には通じない。彼は、もっと素の状態での、奥底を浚うような対話を求めている。ヴェルドが他者に求めていない、根っ子の部分を。
 ゲームが終わるまでの付き合いだと、ヴェルドは考えている。そもそもこのゲームで最後まで生き残れるか判らない相手に情を移すなど考えられない。最低限の環境で、最大限の力を引き出す事こそが、戦場での最善だ。彼らと仲良しごっこをするためにゲームに参加している訳ではない。
 榊との関係もドライなモノだ。彼は殺戮を欲している。己は作戦を成功させる事に重きを置いている。両者の利害が一致すれば当然助勢を求むし、己も助力を惜しまない。それ以上の関係など煩雑で鬱陶しいだけだ。
 刃蒼はこちらを観る事無く、アズラク市の夜景に意識を向けているように観える。己の返答を期待していない訳ではないだろうが、冷然とした意志が見え隠れしていた。彼は既に気付いている。そしてヴェルド自身も察した。両者の間に確然たる溝が有り、分厚い壁が立ち塞がっている事に。
 良好な関係を築かなくては、作戦の達成率にも影響する。併しその思考は、今刃蒼が明示した「模範生の回答」でしかなく、ヴェルドの意志は介在していない。そこまで思考が到ったヴェルドは、大きく嘆息を落とし、緩やかにジープを停車させた。
 アイドリングする車体に揺られながら、ヴェルドはシートに凭れかかり、眼球を揉み解すように指を宛がった。短時間とは言え、視野の利かない暗がりを走行したのだ、眼精疲労は蓄積されているし、神経も相当消費している。
「……貴方の信頼を獲得するのは、骨が折れそうだ」
 苦笑を滲ませ、ヴェルドは夜天を仰いだ。雲間に隠れた星辰。その輝きは今も昔も失われてはいない。
「僕もヴェルドさんの信頼を得るんは難儀やと思とるで」
 したり顔でヴェルドの横顔を見やる刃蒼に、ヴェルドは思わず微笑を覗かせた。
 壁を作るのは簡単だ。そしてその壁は一方的に出現するモノではない。相手もまた、その壁越しに自分を観ている。その壁に気付く者が今初めて現れただけで、もっと以前にそういう者が現れても不思議ではなかったのだ。
 細く長く気息を吐き出し、爛れた思考回路の熱を排出すると、ヴェルドは改めてハンドルを握った。アクセルを緩やかに踏み込み、ジープをアズラク市の外へと走らせる。
 刃蒼は何も言わない。何を考えているのか判らない惚けた表情でシートに凭れ、夜景を眺めている。時折上がる爆撃音に視線を向けるだけで、反応らしい反応も見せない。
「――私は、私が為すべきと思った仕儀を為すだけの装置です。人間性など必要が無いと認識し、作戦の実行と達成だけが全てと考えています。達成するためには仲間を切り捨てもするし、裏切りもする。私が求めた結果が得られるなら、その工程で私が死ぬ必要性が生じても、躊躇無く捨てる覚悟も出来ています」
 走行音に負けない、確固たる意志を以てヴェルドは告げる。誰にも明かした事の無い、明かす必要が無かった本心を。獲得すべき信頼を得るべく、己の臓腑の底を浚うように、改めて己の認識を確認するように、舌を走らせる。
「私はそういう人間です。結果を得るためには犠牲も辞さない、人道さえも踏み躙る装置です。……と言ったら、貴方は私を信頼できますか?」
 横目で刃蒼を見やるヴェルドに、元科学者の傭兵は意地の悪そうな笑みを浮かべて振り向いた。「そんな外道は信じられへんなぁ♪」
 刃蒼の愉しそうな笑顔を見やったヴェルドも、釣られるように口唇に笑みを刻む。「私もそう思います」
「せやけど、ヴェルドさんのそういうトコ、嫌いやないで」満足そうにシートに凭れると、刃蒼は欠伸を噛み殺した。「非情になる事自体は悪い事やあらへんし。あとな、そもそも人間性失っとったらそんな事言わへんて。ヴェルドさんはちょっと中二病が入っとるフツーの傭兵さんや。なんもおかしない」
「……そう解釈されると、流石に恥ずかしいですね」苦笑を浮かべ、思わず刃蒼とは反対の方向に視線を向けてしまうヴェルド。「そんな事を言うのも、貴方が初めてです」
「せやろなぁ。僕思った事はすぐ口にしてまうし」惚けた風に剽げると、刃蒼は人差し指をクルリと回して得意そうにヴェルドを見やった。「まー僕は任務が失敗しようが成功しようが、自分と仲間さえ無事やったらそれでええって考えるタイプやけど、どっちが正しいって訳やないやん。どっちも自分が信じる考えなんやから。せやったら互いに違う主張同士で認め合えれば、素敵やと思わん?」
 ――そんな考えの人間が溢れていたら、そもそも戦争など勃こらない。
 民族や宗教の違いとは即ち主張の違いでしかない。どちらかが主張を押し通そうとし、反発するように別の主張が湧き上がれば、それだけで争いは生じる。どちらも自身が正義と信じるがために、相手の主張を受け入れられない。そして相手の主張を打ち負かすまで、戦いを止められない。
 刃蒼の主張は悪く言えば平和ボケした、良く言えば聖人的な考えだ。人道を踏み外した殺戮兵器を考案する科学者が懐く主張とは縁遠い思考だと言わずにいられない。
 変わった人間だとこの一日で嫌と言うほど痛感している。そして今はそれ以上に、刃蒼瑞賢と言う元科学者の傭兵に興味を覚えた。どういう経緯でそんな主張を得て、こんなゲームに参画してしまったのか。
「……面白い考えですね。私一人では、絶対に到達できなかった考えです」
「せやろ?」愉しげに口唇に喜悦を刻む刃蒼。「一人で悶々と考えとっても、わんこみたいに同じトコをグルグル回るだけや。何のために人には口と耳と脳みそが有る思うん? もっと話さな。もっと聞かな。もっと考えな。そしたら勝手に世界は広なる」
 満足そうに、出来の良い生徒を見つめる教師のような表情で瞑目する刃蒼。己の考えを一通り語ったためだろう、「ちょと熱くなり過ぎたわ。神経昂ぶっとるせいやって事で、許したってな?」と視線を車外に逃がし、それ以上ヴェルドに声を掛ける事は無かった。
「……いえ、榊の説法に比べたら確実に有意義な話でした」
 一から十まで刃蒼の考えに賛同できる訳ではない。彼がその説話の中で語ったように、人それぞれ固有の信じる道が有り、全てを肯定・否定など出来る訳が無い。そういう考えも有るのだと認知し、許容する。それもまた、一つの真理なのだとヴェルドは認識した。
 自分にも信じる標が有る。誰に否定されようが阻害されようが構わず貫くべき指針だが、肯定された訳ではないにしても、その標が許容されれば、悪い気はしない。
 未だに頭の中では彼ら三人をどう巧く運用すべきかと言う思考が澱み無く稼働し、切り捨てる算段も並列で思索している。刃蒼はそんな己を信じられないと言ったが、それでもその考えを認めてくれた。それは信頼に向けての大きな前進だ。
 こういう手法で信頼を獲得する術も有るのかと、己にはまだ吸収すべき点が有るのだとヴェルドは改めて自覚した。それは機械的な模範解答では得られない、全く別種の観点。そこに気付けただけでも、確然と己が進化した証明になる。
 再び夜空を暴き出す爆炎が立ち上がる。鮎川の爆撃は止まないどころか激化していく一方だった。彼女に自分達を認識する術が有るのか判然としないが、今はアズラク市を脱出する事が最優先だった。焦土に巻き込まれる前に、地獄を脱しなければならない。
 そうしてヴェルドの意識が再び運転に傾注しようとした、その時だった。不意に耳元から幼い男声が這い出てきたのは。
「――どうやらゲームにイレギュラーが発生しているようだね。それも一つや二つではない」
 マスターシックスの大人びた発声に、後部座席で丸くなっていたマーシャが突然「敵襲デスカーっ!?」と飛び起き、その声に驚いた臥堂が寝惚け眼で「ほあぁ!? な、なんっ、えっ? なん……だ?」訳も判らずあちこちに視線を向けるも、事情が呑み込めない様子で困惑している。
「ちゃうちゃう、マスターシックスからの入電や」と軽い仕草で通信機をコツコツ叩く刃蒼を観て、やっと事態を把握したのか、臥堂は「あ、あぁ、そうかよ……」と落ち着いて座り直し、マーシャは「敵襲じゃないんデスカ……」と寂しそうに腰を落とした。
「意図的な通信不良が何度か起きたようだが、ゲームに支障を来たす情報を吹聴されたのではないかね?」疑り深い声調で、マスターシックスは質疑を続ける。「こちらとしては、必要の無い情報を吹き込まれる事は良しとしていない。私は純粋にゲームを愉しみたいだけなんだ、余計な事をされては困るのだよ」
 マスターシックスは恐らくクラウンとの接触の事を警告しているのだろう。あの瞬間通信が遮断されていた事が明確になったが、その事でマスターシックスが不審を覚えるのは自然な流れだ。
 クラウンがどの組織に属している、否、どの組織にも属していないとしても、彼女の情報を漏洩させるには段階が早過ぎるとヴェルドは考えていた。彼女はどこの組織にも或る程度通じているからこそ利用価値が有る。特に今回のような目的が不明な任務に新鮮な風を吹き込んでくれる存在は重要だ。それが己にとって不利益な要素となっても、だ。
 だんまりを決め込むつもりで沈黙していたヴェルドだったが、不意にバックミラー越しに臥堂の様子がおかしい事に気付いた。車外に視線を逃がし、落ち着きが無い。その所作だけで充分だった。彼も腹に一物を抱えている事は瞭然である。
 臥堂がどういう秘密を隠しているのか、そこまでは判然としないが、予兆は有った。彼が一人で行動していた時間で、不自然な様子が見て取れたのは、ホテルの中でジャッジメントの死体が転がっていた、あの時が一番可能性が高い。
 あの瞬間、臥堂は通信に応答しなかった。その点を鑑みるに通信障害が起こっていた可能性が出てくる。現状ヴェルドが知り得る、通信を遮断できる装置を有している人間は一人だけ。同一人物が臥堂に接触していたとしても何ら不思議ではない。
 ――トリックスター。この戦場を引っ掻き回したいだけなのか、それとも……別の狙いが有るのか。
 道化師の意図を探る事は不可能だとヴェルドは心中で否定する。そもそも彼女には狙いなど無く、ヴェルドと似て非なる行動原理で、“己の欲求を満たすために愉しんでいる”に過ぎない。考えるだけ時間の無駄だ。
 四人の内誰もが口を噤んでマスターシックスの言葉を流そうとしていると、初めて見せる落胆の感情を伴った溜息が聞こえてきた。
「非常に遺憾だが、プレイヤーがマスターに反抗的ではゲームが円滑に進行できないと判断せざるを得ない。そこで、更なるルールを課そう」幼い男声は、醒めきった語調で滔々と説明を続ける。「通信不良が七秒以上続いた場合、ゲームを正常にプレイする意図が無いモノと見做し、即時リタイアして貰おう」
 実質、秘密回線は絶たれたと言っても過言ではないルールだ。予期できていた事だけに、ヴェルドの胸中に漣が立つ事は無い。隣の刃蒼は「あちゃぁ、先越されてもたかー」と残念そうに頭を掻き、臥堂は難しい表情で冷や汗を流し、マーシャはよく解ってなさそうな表情で頭を左右に振っていた。
「それではプレイヤー諸君の健闘を祈る。――くれぐれも、私の愉しみを壊さないようにしたまえよ」
 通信が一方的に切れたのを見計らい、ヴェルドは小さく嘆息を落とした。この時点でゲームからの落伍も充分に想定できたが、何とか命が繋がったと観ていいだろう。
 マスターシックスもこちらのイレギュラーに対する明確な証拠を有している訳ではなさそうだと思考が擡げる。通信不良が起こった事自体は関知しているが、誰が何のために起こしたかまで想定が到達していない。
 これから通信不良を意図的に起こして秘密の会議を行う事は事実上不可能となった。彼らとの情報共有は更に難度を増したと言わざるを得ない。
「もし電波障害が起こったら、ボクタチどうなっちゃうんデショウカ……」難しい表情で腕を組むマーシャ。「この通信機、爆発でもするのカナ?」
「或いは毒電波が流れ始めて頭が破壊されるんかも知れん」意地悪な笑みを浮かべて夜空を見上げる刃蒼。「何にせよ、これで秘密のお話は出来んようになった訳や。抜け駆けは許さへんで?」
 刃蒼が釘を刺すように告げた次の瞬間、ヴェルドとマーシャの意識が空に向いた。高層ビルの一角に一瞬だけ観えた光点。マーシャは刹那にフィズィーを組み上げて構え、ヴェルドはジープを急旋回させて回避行動に映る。
「何だ――ッ!?」臥堂が振り飛ばされないようにシートにしがみつく。
 白煙を上げてスリップするジープの間近に飛来する弾頭。暗所故に正確には見て取れないが、アスファルトの破片が舞い、大きな弾痕が穿たれていた。その破片がジープの車輪に噛みつき、――動きを停止させる。
 路面を爆砕した衝撃と、一瞬遅れてやってくる砲声に、ヴェルドは運転を放棄して車外に飛び出していく。マーシャは乱暴な運転にも構わず、スコープに目を宛がって愉しそうに「み〜つけたっ!」と囁いている。
 突然の旋回に加えて急停止したジープの上で、臥堂が「何してやがんだッ!? 何が起こってんだ!?」とマーシャとヴェルドを見据えて恐慌状態に陥っていた。
 助手席の刃蒼は「狙撃されたんかな?」と余裕を以てジープを降り、ヴェルドと同じ側の車両の陰に座り込む。「臥堂くんもそこ危ないんやない?」
「そういう事は早く言えッ!!」慌ててジープを飛び出して車両の陰に隠れる臥堂。「おい、お前もさっさと隠れ――」
 臥堂が声を掛けた瞬間、フィズィーから弾頭が射出され、高らかな銃声が鳴り響いた。遠くから聞こえる爆発と銃火の旋律に紛れて溶けていくフィズィーの余韻に浸る事も無く、「ハラショー☆ もう大丈夫デスヨっ!」とガッツポーズを決めて宣言するマーシャ。
「大丈夫って……まさか仕留めたのか!?」驚きを隠せない臥堂。
 ヴェルド自身、銃身から外したスコープでその様子を眺めていたが、マーシャの言葉に偽りは無かった。狙撃手が斃れた事を目視し、スコープから目を離す。
 本来なら危機的状況に陥る筈だった。夜間の逆狙撃は難度が高い。相手を捕捉する事が艱難に尽きるためだ。狙撃手は一撃必殺でこちらを仕留めに掛かるのだ、感知する事がそもそも不可能に等しい。
 それをこの女は恐らく感覚のみでクリアしてみせた。天稟の武才とは彼女のためにある言葉だと、ヴェルドだけでなく三人ともが思わずにいられなかった。
「ヴェルドさん、これ直せるんか?」破壊された車輪を観て、刃蒼が溜息混じりに尋ねる。「替えのタイヤを積んどるとか」
「予備のタイヤを積んでいます。交換するのに十分ほど待って下さい」
 言いながら即座に交換作業を始めるヴェルドを観て、マーシャがジープから飛び降りる。手早く進めていく作業を眺める三人が、手持無沙汰に顔を見合わせた――その時、マーシャがハッと鼻をひくつかせて視線を街灯だけが頼りの夜闇に向けた。
 遠くから響いてくる銃火と爆発の音色に紛れて、それは近づいて来る。獣臭を帯びた、黒衣の狩人が。
 音も無く、濃密な気配だけを漂わせて、それは街路灯を避けるように三人の視界に現れた。
 ヴェルドも三人の反応に気付き、作業の手は止めずに肩越しに振り返ってその異形を視野に捉える。先刻は運転中故に注視する事が出来なかったが、改めて見据えるとやはり違和感が有った。
 そこには確かに黒衣の姿が認められるが、それは人の存在感とは別種と認識せざるを得ない。人であって、人ではない。そこにいるのに、そこにいない。
「おい、出てきたぜ件のお化けが」アサドを引き抜いて指で遊び始める臥堂。「さっきは轢き殺したみてえだが、撃ち殺せはしねえのか?」
「そう、ボクのユーレイが囁いてる……アレはわんこのお化けだとっ!」黒衣を指差して高らかに宣言するマーシャ。「あのフィルムカメラはどこデスカっ! アレが無いとお化けの呪縛を解けませんっ!」
「いやいやアレはお化けちゃうから、撮影したところでアレは消えへんて」苦笑を浮かべて小さく手を否と振る刃蒼。「ま、論より証拠。ちょっと僕の言うとおりに動いてみ? 労せず斃せる筈やで」
 ――お手並み拝見、だな。
 ヴェルドは一切手を出すつもりは無く、淡々とタイヤの交換作業を続ける。自分が手を出すまでも無く、彼らならあの不可思議な存在の正体を突き止め、征伐できると信じて。


【次回予告】

「――君に救って欲しい人間がいる」

「――ボクデスカ?」

「心得た」

 夜狩りの宴に狂犬が交わり、狩人は更に嵩を増す。

「こいつら本当に人間なのかよ……?」

「――なるほど、そういう絡繰りですか」

「ビンゴ!」

 黒犬は踊る。狩人と共に、暗闇に導かれ。

「もしかせんでも、ジャッジメントさんなんか……!?」

Continued on the next stage……

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