018.夜狩りの狗〈3〉

 時刻は少しばかり遡行する。茜に染まる幾許か前のアズラク市に建ち並ぶ家々のテレヴィ、そして忍び寄る不穏な空気に身を潜めていた一般人の携帯端末に、不思議な電波が入り込む。
 音声は無い。ただ映像及びメールの文面として、それは表示された。アズラク市に住まうあらゆる傭兵“以外”の民間人に届けられた怪文。そこには端的に「非武装及び軽装でアズラク市を離れよ。間も無くアズラク市は焦土と化す」とだけ記されていた。
 迷惑メール、或いは電波ジャックと思われても仕方ないそれは、併し直前の事件で過敏になっていた民間人に直接的な危機感を促した。直前の事件――学舎占拠事件、更にそれが世界的な規模で行われている事が、直前のニュースで語られていたためだ。
 家の外に出ると、謎の文章が強ち間違っていない事が判明した。武装して徘徊する傭兵、そして警戒心を露わに武装している民警の隊士達。どこに行っても彼らの姿を視認でき、現状既にアズラク市全域に危難の臭気が充満している事が覗えた。
 文面には個々人の辿るべきルートさえも明記されており、民間人はその謎の文面通りの動きを見せ始める。文面に記された時刻は人によってバラバラで、市民を丸ごと移動させる事になったにも拘らず、大きな混乱や暴動は起こらなかった。
 生命の危機を肌身で感じた瞬間、定められたルートが与えられれば、人間は蟻の行列を作るが如く動き出す。誰かが移動を始めたと知れば、己も移動を始める意志が芽生える。その連鎖がアズラク市全域に拡散し、十八時を迎える頃にはゴーストタウンが醸成していた。
 人がいなくなった、と言う違和感は傭兵や民警達の間に広がる事は無い。町中に人影が無いのは、国営放送で外出の自粛が流れているからだと考えざるを得ない。そもそも学舎占拠事件の犯人が未だ捕縛されていないのだ、危険人物が徘徊する町中に出ようと言う酔狂な者はそうそういまい。
 それ故に、国営放送が流れる前に、謎の文章は民間人の間に広がった。国営放送で外出を禁じられる前に、町から遠ざけようとしたのだ。あらゆる情報に通じ、且つ即座にアクションを講じる。予め何かが起こる事を予期していなければ為せない仕儀だ。
 そうしてフィールドはプレイヤーに感知されないまま涵養(かんよう)した。企図した者の意図通りに、アズラク市と言う名の戦場は生成されたのだ。

◇――◇――◇

 高速ヘリ“オウル2”。同軸反転ローター式の攻撃ヘリを改良したそれは、最大速度時速四百km、横方向に時速九十km、後方へは時速百kmで移動可能。燃料は約二千kg、航続距離は千kmを優に超える。現在では一般化している高速ヘリと同等の性能を有する機体である。
 最先端の技術を施した高速ヘリであり、攻撃ヘリでもある、最新鋭の汎用ヘリのコックピットには黒いワンピースを着た女が座っている。操縦自体は半自動になっているのだろう、計器に素早く目を走らせる以外の操作は行なっていない。
 代わりに膝の上に乗せられた携帯端末のパネルに指を走らせていた。隣に座す主君の命に従い、モニター上にアズラク市全域の3D画像を表示させている。そこには無数の緑色に輝く光点が犇めき合い、少しずつだが数を減らしていく様が見て取れる。
 光点減少の推移を見守りながら、全身を青い衣服で固めたミニスカートの女は、ブーツの紐を改めて固めながらインカムに声を掛ける。
「良からぬ玩具で遊んでる悪戯っ子がいるようね」青い衣服の女――鮎川(アユカワ)八恵(ヤエ)は爆音で掻き消されそうになりながらも指を鳴らす。「――月(ツキ)さん、花火の準備!」
「畏まりました」
 応じる黒いワンピースの女――月は手早く携帯端末を操作、同期していたオウル2の装置を稼働させ、照明弾を射出した。
 白昼も斯くやと言う眩い光源が闇夜を暴き出し、世界が白く反転する。その間、鮎川はモニターに映し出された映像を注視し、アズラク市の現状を正確に把捉して行く。
「……ふぅん、“幻獣”と“ゴースト”ってそんな使い道が有ったのね。この戦場の支配者はよっぽどのロマンチストみたい。そう思わない? 月さん」
 したり顔で嘯(うそぶ)く鮎川に、月は「夢をお持ちになるのは結構な事では御座いませんか」と怜悧な表情を崩さずに淡々と返すに留めた。
「それもそうね」コックリ頷く鮎川。「――っと、種も判った事だし、やえちゃん登場を謳わないとっ! 月さん、マイクをお願い!」
 手を差し出した直後にハンドマイクを手渡す月。「どうぞ、八恵様。存分に轟かせて下さい」目礼し、再び端末の操作に戻る。
「あーあーテステス」ハンドマイクに声を吹きかけると、プロペラの旋回音に負けない大音声が機内にもビリビリと震動として伝わってきた。「うん、感度良好のようね!」確認すると、改めて気息を肺に送り込み、普段の気概で声を浴びせる。「これよりアズラク市を段階的に焦土にしまーす。傭兵の皆さんは頑張って逃げて下さーい。それではー、ドロン!」
 ハンドマイクの電源をオフにし、「はい!」と月に手渡す鮎川。月は即座に視界を持ち上げ、ハンドマイクを手にすると、素早く片付けて鮎川に端末の画面を見せた。
 照明弾の光源は既に絶たれ、世界は再び暗黒に落ちている。街路灯だけが胡乱に照らす常闇の世界の頭上を旋回するオウル2だが、その旋回音は地上まで届かない。消音に特化した造りをしているオウル2の旋回音は、低高度で飛翔しない限り、地上の人間には感知できない。
 併しつい先刻の照明弾で頭上に何かが飛んでいる事ぐらいは感づいた筈だ。更に言えば、聴覚が鋭敏化された人間であれば気付いていてもおかしくない。……併しここは戦場。過剰に反応できたとしても、場所が戦場である限り、人間の五感は信用ならない。
 どれだけ肝が据わっている人間であっても、どれだけ戦場に順応した人間であっても、どれだけ鍛錬を積んだ人間であっても、スクリーンで観る戦争の光景とは感覚が画然と異なっている。自分の感覚に最大の信頼を置いている傭兵がいたとしても、戦場ではその八割……いや、七割ですら力を発揮できていない。
 安全地帯が急に戦地に変貌した事に因るストレスは無視できない。更にこの戦場は出来上がってから数時間が経過している。五感は擦り切れ、マトモな通念は既に破綻し掛けている事だろう。そんな状況の人間が先刻の突然の光源に加え、小さな黒点を捉えられる確率は――精々で二割、多くて三割と言ったところか。
 勿論その三割が携帯地対空誘導弾を有していれば話は変わってくる。レーダー機器で感知が可能で、更にフレアを焚く事で回避は出来ると言っても確実ではない。当然そうなった時は真っ先に該当勢力を叩き潰す心算ではある。
 そして恐らくその当該勢力こそが鮎川にとっての“敵”であり、この戦場を掌握しているキングだ。その支配者にこそ最大の用が有ると言っても過言ではない鮎川は、モニターに映る緑色の光点に目を光らせる。
 セカンドサイツレーダー――刃蒼瑞賢が手掛けた生命体を瞬時に把捉する高次元の探査装置。生体反応をロックオンするレーダー故に、モニターに映し出される光点は全てが生命体である事を証明する。熱源や音源を探知するのではなく、純然たる“生命体としての生体反応”のみを感知するため、人間以外も当然捉えられる。
 セカンドサイツレーダーには生命体の形状も正しく計測されるため、探査する存在が人間であれば人間の形として表示されるし、野犬や鴉であれば当然その形をそのまま表示する。故に対象がどういう動きを行なっているかも瞬時に把握され、距離や障害物を無視する事が可能ならば無敵の捕捉装置と相成る。
 これを製造した刃蒼の功績は非常に大きいが、使用者次第では世界を混沌とさせる程の悪魔的兵器と成り代わる。現在は民警にのみ流用を許されているが、今後の展望次第で、第三勢力・ならず者国家が手に入れれば大規模な殺戮は避けられまい。
 現状最高峰のレーダー装置で映し出された丸裸も同然の人間の映像を俯瞰していた鮎川は、先刻己の眼で捉えた映像と対比し、脳内で素早く演算して行く。必要な情報は既に手元に揃っている。全ては月の情報収集能力の賜物だ。
 ならば後は己の意志で実践に移すのみ。
「刃蒼君は、ちゃんと気付いてくれたかしら?」ポツリと、吐露を零す鮎川。その瞳には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。「やえちゃんからの特大スペシャルヒントなんだから、気付かなかったらお仕置きよねぇ」
「あの方は極めて聡明ですし、今はヴェルド様の随伴も有ります、問題視する程の事ではないでしょう」端末を操作する手を止め、鮎川に涼しげな瞳を見せて応じる月。「八恵様、交戦の支度は整いました。――ご命令を」
 冷然とした態度で月が示すのは、液晶画面に映る無数の光点。蠢く緑色の光の塊に対し、鮎川は柔らかな笑顔で小首を傾げた。
「そうね、――選定を始めましょう」タッチパネルとなっている液晶画面に触れ、鮎川は嗤った。陰惨で、残虐な笑みで、朗らかに告げる。「人殺しには人殺しの流儀で応じなきゃ、――ねっ♪」

◇――◇――◇

「――何だったんだ、今のァ……?」
 戦火による銃声砲声喚声怒声が一瞬遠退き、微かな静夜を取り戻した市街。その僅かな空隙も数瞬と経たず、蘇る銃火の灯火に因って、胡乱になっていた意識が急速に戻ってくる。
 臥堂が驚きと惑いを覗かせて周囲に気配を巡らせている隣で、刃蒼は目元を覆うように手を当てて「あちゃー……」と現実逃避するように疲弊した嘆息を落とした。
「次のボスサンの登場デスネっ! ボク頑張っちゃいマスヨ!」
 張り切ってクナイを振り回し始めるマーシャを観て、刃蒼の顔に更なる疲労が蓄積して行く様子が傍目にも判った。併し現状、気付く者は居合わせず、臥堂ですら「どうでもいいけど、どうやって殺すんだ? 相手は空飛んでんだろ? また撃墜か?」とツッコミを入れるどころか乗っかる形でマーシャの話に合わせて応じている。
「待って待って、ちょお待って自分ら」ぺしぺしと二人の頭を同時に叩いて意識を向けさせる刃蒼。「今の声がアレや、件の鮎川さんや。殺しちゃいかん鮎川さんや。判るな? 判るな? 大事な事やから二回言うたで?」
「その、人を馬鹿にしたような言い草はどうにかならねえのかテメエ……」ブルブルと怒りに震える臥堂。「だがその鮎川って奴はこれから段階的にここを焦土にするっつってんだぜ? 俺達の敵じゃねーのかよ」
 アズラク市全域に響き渡るであろう放送では、鮎川は確かにここ――アズラク市を焦土にすると明言した。刃蒼瑞賢と言う科学者の価値を正しく理解……否、自惚れかも知れないが“贔屓目で”理解している武器商人が、無差別に爆撃を敢行するとは考え難い。
 彼女は己にとって益になる事に着手する。商人として当然だ、利が無いアクションはそもそも取らない。ならばここを焦土にする事で純益が出る算段が有るからこそ――或いはそう騙る事で何らかの利益が生じるからこそ、態々己が危険に晒される覚悟をしてまで、照明弾と放送を敢行したと考えるべきだ。
 鮎川が保有する兵器にはセカンドサイツレーダーが内蔵されている事は言うまでも無い。彼女は闇に満ちたこの市街戦に於いて何らかの答を自分に導かせようとしている。その暗示が照明弾であり、放送だ。直接伝えないのは、伝えられないファクターが存在するから。
 二人の傭兵に見つめられながら、刃蒼は沈思する。時間にして十秒と経っていないだろう。現状に到るまでに与えられた情報を脳内で組み上げ、ピースを当て嵌めていく。
 暗闇に存在する、銃撃が一切通じない、獣臭を放つ暗殺者。メカニズムを分離して考える。何が真で、何が偽か。何を使えば、どうなるのか。照明弾で辺りを照らせば何が観える? 焦土にするとは――――
「――――なるほど、そういう事やったんか……!」
 導き出された解に、刃蒼は瞳を輝かせて指を鳴らした。二人の傭兵が互いに見つめ合って小首を傾げている姿を見た刃蒼は、「謎は解けた! せやから合流地点に急ぐで!」と言ってマーシャの肩を叩き、「はよはよ!」と急かし始める。
「謎って何だよ? 何が解けたんだ?」訳が判らない様子で、駆け出したマーシャの後を追う臥堂。
「眠りの瑞賢デスネっ!? 是非その名推理を聞きたいデスっ!」愉しげな様子で夜の市街を駆け抜けて行くマーシャ。
「うん、まぁ、答え合わせはその時になったらやな」ニヤリ、と臥堂に意味深な笑みを覗かせた後、マーシャに向かって、「あと僕は居眠りせんでも頭冴えとるから!」と後頭部を軽く叩いた。
「……よく判らねえが、取り敢えず合流地点に向かやいいんだな?」言いながら臥堂がポケットから携帯端末を取り出して時間を確認する。「……おい、時間もう過ぎてるぞ」
 十九時十五分を表示する液晶画面を観て呟きを落とした臥堂に、刃蒼が爽やかな顔になった。
「臥堂くんのせいで遅刻やー! マーシャさんもっと飛ばしたって! ヴェルドさんに怒られてまう!」マーシャの背を押しながら更に加速する刃蒼。
「おいィッ!! 俺だけのせいにすんじゃねーよ!! つーか俺のせいじゃねえだろ!? ぶち殺すぞ!!」全力疾走する二人を追い駆ける形で加速する臥堂。
「目的地はすぐそこデスヨー! ほら、アレデスっ! もう観えてきマスっ!」
 そう言ってマーシャが角を曲がった瞬間、目的地が――ヴェルドが宿泊していたモーテルが視認できた。闇夜に紛れてぼんやりとした電飾で彩られたモーテル。間違い無い、つい数時間前に観た建造物と一致する。
「十五分の遅刻やけど、この位遅刻に入らんやろ」ほーっと安堵の溜息を零す刃蒼。
「遅刻は遅刻だろ……」ゲンナリと刃蒼を見やる臥堂。
「細かい事は言うたらアカン! 自分、いい加減禿げるで?」ニッコリ笑顔で臥堂の肩を叩く刃蒼。
「何かにつけて俺を禿げさせるんじゃねえよテメエはッ!!」刃蒼の手を振り解く臥堂。
「――誰かいるデスヨ」
 不意に殺気立ったマーシャに釣られるように二人が身構えた、その時だ。路地の先――モーテルの近くに数名の人間の姿が見受けられた。数にして五。全員が火器で武装し、モーテルを覗き込んでいる。
「……ヴェルドさんのお客さんかな?」おどけるように呟く刃蒼。
「あいつらは殺してもいいんだろ?」アサドの動作を確認しながら、五人の武装した人間を眼光鋭く睨み据える臥堂。
「ウーン、あんまり無辜の人間を殺したくないのデスガ……」言いながらリュンクスを構え始めるマーシャ。
「二人とも殺す気満々やん! ちょっと落ち着こうや、何も悪人と決まった訳じゃ――」
 刃蒼が宥めるように二人の肩を叩いた瞬間、五人の内の二人が無反動砲を構え、微塵の躊躇も無く砲撃――モーテルが木端微塵に消し飛んだ。爆音と熱風が三人の元まで駆け抜けると、靡く黒髪に半分白目を剥いていた刃蒼は、次の瞬間爽やかな表情になり、据わった目でスーツのポケットにしまっていた爆弾を手にした。
「――吹っ飛ばしていいんは、吹っ飛ばされる覚悟の有る奴だけや」小さく言葉を落とすと、刃蒼は改めて二人の肩を叩いた。「自分らが何したか思い知らせなアカン、――始めるで」
「お、おう」刃蒼の変質した雰囲気に気後れを見せる臥堂。「よく判らねえが、殺して良いんだな?」
「マーシャ・チェルニャフスカヤが命じる!」左目に指を添え、マーシャが声高らかに宣言する。「貴様達は、死ねッ、デスっ!!」
「……お前ら時々訳の判らない事で意気投合するよな……」
 二人の勢いに付いて行けず、一人どういうテンションで行けばいいか迷って動きがまごつく臥堂だった。
 マーシャがリュンクスを構えて狙撃を敢行しようとして――爆破魔の二人が突然頭蓋から鮮血と脳漿をばら撒いて斃れた姿が視界に飛び込んできた。刃蒼が思わず二度見し、マーシャに視線を転ずるも、彼女も驚きに目を瞠ってこちらを見返すばかりだった。
「――状況が変わりました、迎えを出しますので場所を教えて下さい」
 通信機から這い出た声の主はヴェルド――音声が途切れる度に銃声が轟き、影に潜んでいた狩人が次々と破壊されていく。三人は互いに顔を見合わせ、焼け落ちたモーテルに向かって駆け出した。
「こちらマーシャ! 遅刻してゴメンナサイデスっ! 現在地は目的地まで約四十メートル南西のポイントデスっ!」
 通信機に触れて大声を張り上げながら、片手でリュンクスを繰り、瞬く間に間引きされた最後の一人を射殺――脅威の立ち去ったモーテル跡地で、最後の一人である仲間の姿を探す。
 三人がモーテルの前まで辿り着くと同時にエンジンが猛る音が走り、三人の前に一台のジープが回り込んで来た。運転席に座っているのは当然、彼以外に有り得なかった。
「お待ちしていました。さ、乗って下さい。一気に市街を抜けます」
 穏やかな声調とは裏腹に、表情は厳しいままのヴェルドに、状況がまたも悪化の一途を辿っている事を把握する三人。助手席に刃蒼が納まり、後部座席に臥堂とマーシャが乗り込んだ瞬間、アクセルが強く踏み込まれる。
 見る見る加速して行くジープだが、ヘッドライトは点灯していない。車内は猛るエンジン音以外は静かで、暗闇に浸されている。街路灯は確かに点在するが、それでも前方十メートルですら視界は不鮮明だ。
 にも拘らずヴェルドは一切の障害物を物ともせず、巧みなハンドル捌きで市街を駆け抜けて行く。最短距離で市街を抜けるつもりなのか、迷いが微塵も感じられなかった。
「やっと一息付けるみたいやな〜」シートに深く背を預ける刃蒼。「流石に疲れたで……」
「アズラク市を抜けるまで……いや、空港に着いたとしてもフィールドに指定されていますから、安息の地はまだ程遠いですよ」前方に視線を向けたまま、ヴェルドは小さく苦笑を刻んだ。「寧ろこれから危険が加速度的に増えていくと観ていいでしょう」
「……せやな」瞼の上から瞳を揉み解す刃蒼。「緊張感の欠落、注意力の散漫、五感もだいぶ狂ってきとるやろうし、どっかしらで休息取らな、ホンマに死ぬで」
 戦場に立つだけで過大な緊張感と重圧を背負わされる事になる。いつ流れ弾で死ぬか判らない、生と死の境界線で戦い続けるのだ、精神もそうだが肉体に於いての疲労の蓄積も馬鹿にならない。
 幾度と無く戦場に馳せ参じ、感覚を順応させた刃蒼でも、戦場に於ける己の五感を一から十まで信じられるかと問われれば答は否だ。擦り減らした神経は次第に狂い始め、悪化すれば幻視や幻聴などの幻覚作用を齎す。
 同じ人間が己を殺害しようと襲い掛かってくると言うプレッシャーは、訓練では体感し得ない悍ましい感覚だ。五感の異常だけではなく、生理現象も狂わされてしまう。幾度も経験して初めて順応できるのだ。壊しては組み上げる、その繰り返し。
 傭兵なら、そういった経験は幾度と無く浴びている筈だ。それでもその瞬間――人を殺害する瞬間、己が殺害される瞬間に立ち会った時、何度だって人は狂れる。尋常ならざる残虐性を見せたり、その瞬間の記憶が欠落したり、泣きながら失禁したり……
 そうと判っていながらも、戦場に再び戻ってくる。恐怖と悪意と狂気に導かれるように、刃蒼は幾度も戦場を体験し、体感し、体現した。死と触れ合い、殺戮を理解し、地獄を観測した。
 幾年の月日を経て戦場を理解した刃蒼ですら、何時間も戦場に留まれば思考が逸れ、生存率を瞬く間に下落させる事を知覚している。彼らもその情報を知識として獲得している事は想像に難くなかった。
「……確かに、これ以上疲労が蓄積しては戦果にも影響が出るでしょう」ハンドルを捌きながら、アクセルから足を離さないまま、ヴェルドは淡々と応じた。「各自休める時に休んで下さい」
「ヴェルドサンは休まないデス?」後部座席から顔だけ乗り出して尋ねるマーシャ。「運転代わりマスヨ!」
「お気になさらず」小さく右手を挙げて制するヴェルド。「休息は、ひとまずアズラク市を出てから考えます。なので私には構わず、どうぞ休んで下さい」
「了解(ポニョ)! ではお言葉に甘えて一眠りするデスヨー!」
 言いながら後部座席で丸くなり、五秒と経たずに寝息を漏らし始めるマーシャに、隣の臥堂が呆れ返った表情でその寝姿を見やっていた。
「臥堂くんは寝んでもええの?」バックミラー越しに覗いてくる刃蒼。
「このアホみたいに即寝られるとでも思ってんのかよ?」ツンツンとマーシャの頭をつつき、嘲笑を浮かべる臥堂。「そこまでおめでたい頭してねえぞ、俺は」
「休める時に確り休めるのは一種の才能だ。残念ながら、君には備わっていないようだが」ボソリと呟きを落とすヴェルド。
「この距離なら幾らテメエでも撃ち殺せるんだぜ……? あんまり巫山戯た事吐かしてると、その脳天ぶっ飛ばすぞ」アサドをヴェルドに向けて睨み据える臥堂。
「その距離で外さない腕が有れば、――だろう?」「テンメエ――ッ!!」「あーもー鬱陶しいわ!! そんな犬も食わんような喧嘩せんでくれ頼んから!!」
 一触即発の空気を、二人に手刀を落として鎮圧する刃蒼。臥堂が更に怒りを露わにして「何しやがるッ!!」と立ち上がろうとした瞬間、ヴェルドが「――済みません、やはり早急な休息が必要ですね」と鼻息を落として呟いた。
「何だよ、急にしおらしくなったな?」ヴェルドの急激な態度の軟化に、毒気を抜かれたように腰を下ろす臥堂。「初めからそうしてりゃ――」
「緊張の連続で皆神経が昂ぶっとるだけや、そりゃ怒り易くもなるわ。……その点マーシャさんと来たら……」バックミラー越しに、丸くなってスヤスヤ眠るマーシャを見据える刃蒼。「この娘を皆見習お、な?」
「そういう訳だ。悪かったな臥堂、私も言い過ぎた」バックミラー越しに目礼を見せるヴェルド。「だが君も無益に強い言葉を使わない事だ。要らぬ火種を生んでいる事にいい加減気付いてくれ」
「……ちッ、」居心地悪そうに舌打ちを返し、臥堂は腕を組んでバックミラー越しにヴェルドを睨み据える。「わぁーったよ、俺も悪かった。すぐにカッとなっちまうんだよ、仕方ねえだろ」
 ――仕方なくは無いやろ。
 とツッコミを入れたい所だったが、また彼の不興を買うのにも飽いていた刃蒼は、盛大に溜息を落としてその話を終わらせる事にした。
「てかヴェルドさん、よーこんな暗闇の中迷わんと進めるなぁ」前方に広がる広大な闇に目を凝らす刃蒼。「僕やったら走って三分と経たずに事故起こす自信あるで?」
「人より少し夜目が利くんです」端的に応じるヴェルド。「大体の地理も記憶していますし、時速五十キロ程度なら問題無く走破できます」
「これで五十キロだったのかよ。もっと速度出てると思ってたぜ」緊張感が抜けてきたのか、欠伸を噛み殺しながら呟く臥堂。
 眼球を休ませようと瞑目した臥堂の鼓膜に爆音が突き刺さり、全身を震わせながら立ち上がりかける。音源を辿らずとも即座に知れる。橙色の大火が聳え、濛々と黒煙を棚引かせている。
「そ、そう言えばあいつはいいのか? 何だっけ、アユサワ?」劫火を眺めながら呆然と呟く臥堂。
「鮎川さんな」透かさず訂正を挟む刃蒼。「あのお嬢様に限って無差別に民間人を攻撃する事は無い思うし、きっと傭兵でも狙い撃ちにしとるんやないかな」
 その時ヴェルドが一瞬だけ表情に機微を覗かせたが、臥堂は無論の事、刃蒼も気付く事は無かった。ヴェルドもその機微が神経の摩耗によって露出した事に気付かず、平静を装ったまま運転を熟す。
「じゃあ何だっけあいつ、あの生臭坊主はあのまま放置するのか?」黒煙から目を離した瞬間、再び爆撃の轟音が響き渡り、思わず視線を泳がせる臥堂。「本当に無差別じゃねえんだよな!? ガチで焦土にする気なんじゃねえのかあいつ!!」
「榊なら問題無い。彼は地獄からでも帰還する」端的に応じるヴェルド。
「鮎川さんなら問題あらへんやろー。焦土にしても他人のふりして復興に手ぇ貸す思うし」楽観的に応じる刃蒼。
「……」再び爆撃が地上を破壊する地鳴りがジープ越しに臥堂に伝わる。「……何つーか、お前らスゲーな。信じられねーもんを信じてるって感じが、何つーか、ヤヴァい」
 考えても無駄だと悟ったのだろう、再び臥堂が少しは休もうと瞑目した瞬間、隣で丸くなって眠っていたマーシャが突然「ワンコ臭いデスー!」と飛び起きたのを聞き、彼の口から危うく心臓が飛び出るところだった。
「驚かすんじゃねえよ!! もっとそっと起きやがれ、そっと!!」驚きを全身で体現し、胸に手を添えて吐きそうになる心臓を留めようとする臥堂。
「――あれか」
 マーシャの宣言が何を意味するか察したのだろう、ヴェルドの視線の先には暗闇――否、暗闇に紛れて佇む人影が確かに観えていた。
「おいヴェルド、そいつには攻撃が通じ――」「ヴェルドさん、そのまま轢き殺したってええで」「――了解」「――ねえから……はァ?」
 臥堂が珍しく忠告しようとしたにも拘らず、刃蒼は冷淡な態度で特攻を命じ、ヴェルドも臥堂の言葉には一切耳を貸さずに遂行する気概を見せている。それが臥堂には面白くなかったのだろう、怪訝な面持ちでシートに座り直し、姿勢を低くして頭を出さないようにする。
「どうなっても知らねえぞ? 俺は伏せてるからな!」
「別にこないな所でまで死亡フラグ立てんでもええんやで?」苦笑を禁じ得ない様子の刃蒼。
「――衝突まで二秒」端的にヴェルドが呟いた――次の瞬間、鈍い衝突音と共に何かが吹き飛ばされる音が弾け、フロントガラスに蜘蛛の巣状の罅が走った。
 目に観えない何かが頭上を飛び越え、肉袋が路上に叩きつけられた鈍い音が続き、臥堂が「……は?」と間の抜けた声を漏らして、身を起こした。死人は一人として出ず、皆健常な様子で臥堂の痴態を見つめている。
「ど、どうなったんだ……?」訳が判らないと言った様子の臥堂。
「ワンコを轢き殺して、動物愛護団体に訴えられる前夜、ってとこやな」ニッコリと得意気な笑顔を浮かべて応じる刃蒼。
「大型犬と言うより、人間のようでしたが」フロントガラスに入った罅を見やり、淡々と告げるヴェルド。
「ワンコの匂いが遠ざかっていきマス……お休みナサイ……」再びクルクルと丸まってスヤスヤ眠りに就くマーシャ。
「……」名状し難い想いを懐いた臥堂だったが、「――ま、何でもいいか」と即思考を打ち切り、再度瞑目し――轟く爆音を無視して、緩やかに意識を体の淵に埋没させていった。
 訪れる微睡みは、いつも以上に泥濘の様相を呈していた。


【次回予告】

「……貴方の信頼を獲得するのは、骨が折れそうだ」

 兵器は唸る。語るべきか、搾るべきか。

「そんな外道は信じられへんなぁ♪」

 賢者は囀る。信に足るか、任に足るか。

「み〜つけたっ!」

「ほあぁ!? な、なんっ、えっ? なん……だ?」

「――くれぐれも、私の愉しみを壊さないようにしたまえよ」

 黒狗は再現する。屠殺の劇か、狩猟の宴か、――終焉の標か。

 ――お手並み拝見、だな。

Continued on the next stage……

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