020.夜狩りの狗〈5〉

 黒衣の獣を切り伏せると、榊は静かに合唱し、速やかに殺戮を再開した。
 絡繰りが判れば済度は容易い。その絡繰りを暴いた張本人は己ではなく、天に君臨する支配者の一人だ。彼女が明かさねば、或いは己も黒衣の獣に引導を渡されていたかも知れない。
 爆音が地上を覆っている。幾度も幾度も重ねるように響き続ける爆撃の雨。天空の君が何を救済しているのか杳として知れないが、推察するに大量殺戮ではない。この穢土に巣食う獄卒にだけ天誅を下している……そう榊は捉えた。
 そう把捉した時点で、空の覇者は榊の眼中から消失した。彼女は救済の御使いではあるが、己の仕儀を妨害する煩悩の類いではない。ならば救う道理は無く、彼女が為すべき済度を阻害せぬよう、己の仕儀を全うすべきだと即断した。
 傭兵が、民警が、混乱に惑いながら殺戮の饗宴を催している。救うに値する、救済の余地が有る有象無象を観て、心が逸らずにいられる訳が無かった。一人でも多くの人間を悟得に導く、それこそが己の信心であり、根幹である。
 盲目的に、直向きに、無邪気も斯くやと言わんばかりに、人を殺める。それこそが至上で、最上であると頑なに信じて――榊の瞳は憂いで満ちていた。この世界はあまりにも救いが無いと、己が救わねば救われないと、厳格な意志で充溢したその瞳に、迷いなど、惑いなど、微塵も介在する余地は無い。
 そうして、彼の救済は再び幕を開ける。断末魔と阿鼻叫喚を経文にして、虚無なる悟得への道にまた一人、導くのだ。
 充足した表情で新たな命を刈り取った榊の携帯電話が着信を知らせたのは、そんな最中だった。音は無く、ヴァイブレーションだけで応答を訴える携帯電話を袈裟から抜き出し、相手の名前も観ずに通話に出る。
「――苦から脱しましたか?」
「……なるほど、噂通りの人物のようだね。私の言葉は通じるかね?」
 幼い男声だが、老成した含みを帯びた、落ち着いた語調で榊の鼓膜に忍び込む。聞き覚えの無い声だと記憶回路が即断し、榊は据わった目つきのまま、戦場に棒立ちで通話の相手に意識を傾ける。
「言語に問題は有りません。話法も然して違和を覚えませんが」
「それは何よりだ」途方に暮れるように幼い男声は嘆息を挟んだ。「――君がヴェルド君――ヴェルディエット・ガレイアの命でその場にいるのは知っている」
「……」肯定も否定も返さず、榊は棒立ちのまま携帯電話を耳に当て続ける。
「彼が今どんな状況に在るのか知り得ていないのだろう? 興味は有るかね?」
「――有りません」
 感情の起伏が一切糊塗されない平淡な語調で即答する榊に、相手は意表を衝かれたのか数瞬沈黙を返した。
「……面白い人間だよ、君も」幼い男声が苦笑を浮かべている様子が引き攣った語調から見て取れた。「君の事は少しばかり調べさせて貰った。元は医者だったそうだが、今は全世界で指名手配される殺人鬼のようだね。――どうかね? 君が欲する贄をこちらで提供させては貰えないだろうか」
「私は贄など欲していません。済度の余地が有る衆愚を悟得に到らせる事こそが至上命令。貴方に便宜を図って貰わずとも、私には済度の手法が既に確立されていますので、気遣いは無用です」
 微動だにせず携帯電話を握り締めたまま淡々と応じる榊。通話口の男は辟易した様子で「……言葉が悪かったようだ、訂正しよう」と絞り出すように返してきた。
「――君に救って欲しい人間がいる。君が救うに値する人間だと保証しよう。どうかね? 頼まれてはくれないだろうか」
「請求する必要は有りません。私が済度すべきと判じた衆愚を須らく済度するだけの事。真名を教えて下さい」
「……」頭が痛そうな沈黙を置き、相手は厳かに告げた。「ヴェルド君、及び臥堂征一と言う傭兵……彼らの周辺を嗅ぎ回る人物を消し……いや、救って欲しい」
「心得た」
 一瞬すら間を置かずに即答する榊に、相手が一瞬以上の沈黙を返してきた。
「……では、お願いしよう。精良な結果が聞ける事を愉しみにしているよ」
 そこで通話は一方的に切れたが、榊は一切余韻を残す事無く携帯電話を袈裟の中に戻し、機械染みた速さで夜の町を疾駆する。
 救うべき人間は、依頼主が告げた人間以外にも無数に現存する。その一人を紹介されたに過ぎず、己の為すべき仕儀は不動であり、平素と何も変わらない。済度すべき人間は済度し、必要が無ければ無用を為さない。
 再び轟音と共に視界外の建造物が炎上を始める。伏魔殿の滅却と言う讃美歌染みた快音をバックミュージックに、榊は駆る。為すべきを為すべく、済度すべきを済度すべく、闇に体を染み込ませる。

◇――◇――◇

 黒衣を纏った人影は右手に大振りなサヴァイヴァルナイフを携え、陽炎のように揺らめき、外見は見失いそうな程に希薄にも拘らず、濃厚な獣の気配を携えて三人の前に佇んでいる。
 影に潜んだまま、決して明るみには出てこない。跫音どころか衣擦れの音さえ出さずに、距離を徐々に殺してくる。常人であれば、先刻の邂逅で既に心が挫けていてもおかしくない程の恐怖を覚えるにも拘らず、現状この場に居合わせる四人の誰もが恐怖心など微塵も覗かせなかった。
 一人は無知故に恐怖を感じる余地が無いため、一人は異なる現実感を懐くため、一人は経験則に基づく事実を実証するため、一人は三人の実力なら看破できると放任しているため。
「……それで? あいつを殺すにはどうしたらいいんだよ?」
 ジープのタイヤ交換を高速で熟すヴェルドには視線も向けず、臥堂は刃蒼に意識を傾ける。眼前に佇む幽体染みた脅威から容易に視線を逸らす泰然自若ぶりに、ヴェルドと刃蒼は感嘆を覚えずにいられなかった。
 刃蒼自身は、大概の事態に即応できるだけの判断力を有していると自負している。併し臥堂のそれは己とは似て非なるモノだろう。彼は明らかに緊張感が欠如し過ぎている。それはまるで、“自分が死ぬ事など有り得ないと予め想定している”かのような態度とも取れる。
 ヴェルドやマーシャにしても緊張感が無さそうに観えるのは、彼らが相応の実力を有しているからだと判断するのは難くない。特にヴェルドはそう言った感情を殺す術に長けていると言っても過言ではない事は、今日一日でよく解っているつもりだ。
 この半日で三人の大体の人格は把握しているつもりだが、その中で臥堂に付けるべき評価は、総合的に観て高くない。すぐ殺人を犯そうとする思想以外は凡人、或いは凡人の能力すら満たしていないと思われる。
 にも拘らず彼はどういう理由か死なない。刃蒼の想定を正確に辿っていれば、臥堂がここにいる可能性は低率……既に戦死していても全く不思議ではないのだ。それでも生き存え、剰え余裕さえ覗かせる状態は、刃蒼に言わせれば異常だった。
 ただ、正確には異常とは言えない。臥堂の死とは所詮、刃蒼の思考上の、机上の空論でしかないのだから。あらゆる要素を加味して、絶対的に死が確定している人物ですら、針の穴を通すしぶとさで生き残るのが戦場で、事実は小説より奇なりが現実だ。
 臥堂がそういうタフネスな存在である、と言う証左は無く、事実も異なると推察できる。彼はあくまで“偶然”ここにいる、稀なサンプルでしかない。その事を彼が自覚している素振りは無いし、知覚も出来ていないだろう。刃蒼が観察した限りでは、彼は自分が今ここに来ても存命している事実を“当然の帰結”と捉えているのだから。
 臥堂には何らかの秘密が有る。刃蒼自身、秘密を暴くつもりは無いが、一人の学者として彼に興味が尽きなかった。臥堂が何を内蔵し、何を盲信し、何を道標とし、何故彼は今まで平然と戦場を渡り歩いて来られたのか。
「その前に一つ訊きたいんやけど、マーシャさんにはアレ、“何に観える?”」
 にじり寄る闇の使者を指差し、刃蒼はマーシャに意識を傾ける。中折れ式のアサルトライフル・リュンクスを携えたマーシャは、目を凝らす素振りをして、疑念を纏わせた声を落とす。
「さっき遭遇した時にも変な感じはしてたんデスヨネ……“ブレてる”、とでも言うんデショウカ……」独白染みた声調で、マーシャは呟きを漏らす。「わんこが大き過ぎて、よくワカンナイケド……」
「流石やなー」うんうんと感心して首肯を返す刃蒼。「流石マーシャさんや、女の勘……じゃなかった、野生の勘は侮れへんなー」
「おい、どういう事だよ?」臥堂が焦れったそうにアサドの銃口を影の塊に向ける。「観たまんまの感想だろ? 実体が無いような霧みたいな奴なんだから、体がブレるのも当然だろ?」
「臥堂くん、よく考えてみよう」教諭のような態度で人差し指をピンッと立て、その人差し指を“敵”に向ける。「人間はそもそも姿がブレたりせえへん。弾丸が撃ち込まれても吸い込まれるように背後に貫通して行く事も、当然有り得へん」
「じゃあアレは何だよ? 現に俺達の前で姿がブレッブレだし、弾ァ撃っても血が出ずに貫通しただろ」そこで臥堂は小馬鹿にする表情を浮かべ、鼻を鳴らした。「お前もお化けだと思ってるのかアレ? 科学者の割には、ファンタジーな事を宣うんだなァ?」
「科学者が皆リアリストやと思とるんか?」呆れた風に嘆息を零す刃蒼。「そやけど、強ち間違いでも無いんやなー、これが。臥堂くんの言うとおり、アレは人間やあらへんよ」
「やっぱりお化けサンなんデスカ!?」嬉しげな声を上げるマーシャ。「ボクっ、ユーレイサンは初めて観マシタっ! サ、サインとか書いてくれるカナっ!? 握手して貰えるカナっ!?」ワタワタ騒ぎ始める。
「うんにゃ、お化けでもない。――っと、相手も流石にこれ以上は待ってくれへんか」
 刃蒼の視界に映る影の塊は、既に十メートルの至近距離にまで接近して来ていた。咽返るような獣臭に臥堂は眉を顰め、マーシャは「臭いデスーっ!」と喚き、刃蒼は確信した表情でスーツのポケットに手を突っ込む。
「多分狙いは僕やろ? これだけご高説垂れてたら流石に狙わずにはいられへんやろうし」平生と変わらぬ声量で刃蒼は告げる。「臥堂くん、あのわんこに銃撃お願い!」
「はぁ? お前今銃弾は効かないって――」「来るで!」「――お前こそ人の話を聞けよッ!!」
 暗がりから躍り出た黒衣が狙ったのは、やはり刃蒼だった。一直線に先行し、サヴァイヴァルナイフを閃かせる。刃蒼はバックステップを踏みつつ、ポケットの中に忍ばせていた手製の手榴弾を跳ね上げる。
 距離にして三メートルも無い。眼前に浮かんだ手榴弾に対し、黒衣は回避も防御も取らない。併し――サヴァイヴァルナイフだけが黒衣から先行するように飛び出して行く。
「いィ!?」思わず目を疑う臥堂に、刃蒼は「はよ撃ったって!」と喚声を張り上げる。「それが“本体”や!」
 刃蒼が張り上げた文言を理解した瞬間、臥堂の思考は停止した。このサヴァイヴァルナイフが本体? 意味が解らない。併し思索は凍結しても、臥堂の体は刃蒼の指令に恭順に活動を続行する。本体――サヴァイヴァルナイフを目掛けて銃撃を敢行する。
 アサドから放たれた銃弾の数は三発。その何れもがサヴァイヴァルナイフに当たる事は無く――“不可視の人間に着弾した”。
「ぐ、ゥ……ッ!」と漏れ出た呻き声で我に返る。マーシャとヴェルドが瞠目し、刃蒼は「ビンゴ!」と軽やかに指を鳴らした。
「こいつは……っ!?」中空から血液が雫となって路上に滴る光景を目の当たりにした臥堂が息を呑んでいた。「透明人間だったのか……!?」
「――なるほど、そういう絡繰りですか」得心したとばかりの声が、ジープの方から聞こえてきた。「つまりあの黒衣は――臭気の塊」
「流石やな、ヴェルドさんならきっと知っとる思たけど、案の定やったか」したり顔で振り返り、ヴェルドに挑戦的な微笑を見せる刃蒼。「種明かしの前に、――臥堂くん、待望の贄や、喰らっとき」
「――殺して、いいんだな?」残忍な笑みを覗かせ、臥堂がアサドの銃口を差し向ける。
 銃声が六回響き渡り、肉袋の崩れる音が続いた。臥堂としては物足りないのだろう、弾倉を再装填して更なる銃撃を加えようとしたが、無駄に銃弾を消費する必要は無いだろうと、刃蒼が止めた。
「……」
 流血が闇に溶けて拡がっていく。荒々しい息遣いが聴覚を刺激する。透明人間は未だ存命で、生存本能を覗かせている事が気配として知れた。刃蒼はサヴァイヴァルナイフを蹴り飛ばしてから、若干距離を置いて鮮血の源泉を見下ろした。
「……光学迷彩“ゴースト”。簡単に説明すると、周囲の風景に同化して姿を消す迷彩服やな。特殊部隊ではもう運用されとる兵装やから、然程珍しい代物や無いんやけど、問題はあっち――」刃蒼の視線が、身動ぎ一つ取らなくなった黒衣を刺す。「“幻獣”言う装置なんやけどな、アレは態と気配を知らせる代物なんよ」
「気配を知らせる装置?」臥堂が理解に苦しんでいるのか、眉根を寄せて怪訝そうに復唱した。「確かに、気配っつうか、匂いは嫌でも感じるけどよ……そんな装置、何の役に立つんだよ?」
「――本来は警備会社で運用される類いの機械だ」刃蒼が口を開くより先に、ヴェルドが歩み寄りながら呟きを漏らした。「上空に目を凝らせば判ると思うが、飛行する装置が地上にガスを噴射し、人型に観えるような色素を伴ったガスで形作られている」
 臥堂が上空に目を凝らし始めるも、「そんなの観えねーよ……」と途方に暮れる隣で、「あっ、アレデスネーっ!」と嬉々とした声を上げるマーシャが続き、益々面白くなさそうに、「こいつら本当に人間なのかよ……?」と呆れた声を漏らした。
「ヴェルドさんが言うように、この幻獣言う装置は、警備員の代わりに外回りをさせるためのモンや。空飛ぶ監視カメラと、人間では倒せない、併し人間にしか観えない、存在しない警備員を合体させた、夢の装置やな」得意気に語る刃蒼だったが、すぐに残念そうに鼻息を落とす。「……ま、こんな形で実機を観たくは無かったんやけどな」
「実機を観たくは無いって……お前、その装置の名前だけ知ってたって事か!?」思わず声を張り上げる臥堂。「そんな嘘かも知れねえ話を信じてたのかよ……」
「兵器商の友達……まぁ鮎川さんなんやけど……が話しとったんを憶えとっただけや。一傭兵として、最新の兵器や装置を知っとくのは当然やろ?」得意気に臥堂を見やる刃蒼。
「……何でもいいけどよ、そんな回りくどい手を打たなくても、単にこの……えーと、この透明人間が単品で襲ってくる方がよっぽど恐ろしいと思うんだが」透明人間の頭が有る辺りに蹴りを突き込む臥堂。鈍い音と共に再び血液が漏れ出た。鼻に直撃したようだ。「態々、あの、気配を出す装置を使う意味が解せねえ。自ら“ここに敵がいますよー”って知らせるようなもんじゃねえか。俺なら透明で気付かれないまま暗殺する方が楽だと思うがな」
「僕もそれは思った」透かさず臥堂を指差す刃蒼。「こんな策士策に溺れるみたいな作戦使わんでも、普通に姿消したまま襲えば僕らなんか簡単に暗殺できるやろって。でもな、僕らには優秀なセンサーがおんねん」
 そう言って刃蒼が視線を向けた相手は、自称ニンジャの女だった。
「――ボクデスカ?」キョトンと自分を指差すマーシャ。
「せや。だってマーシャさん、今この透明人間の気配、判るやろ?」
「気配が判ると言うか、あのわんこさんと分離したように感じマシタネ!」臭気の塊を指差して告げるマーシャ。「てっきり多重影分身の術を習得してるのかと思いマシタヨ!」
「……嘘だろ……」臥堂が天を仰ぎながら呆然とする。
「僕も嘘かと思たけど、マーシャさん自身言うとったやん。“ブレてる”って。アレな、ゴーストがサヴァイヴァルナイフを左手に持って、幻獣の右手と合わせるように隣り合わせで立っとったから、そういう風に感じたんや。その前にも、ヴェルドさんが轢き殺した時もそう。若干ズレた箇所に衝撃が走ったのも、それが原因やな。そこで推測は確定。後はご覧の通りや」
 臥堂は言葉を失い、マーシャが「凄いデスー! 名探偵刃蒼サンの誕生デスネっ!」と有りっ丈の賛辞を謳い、「流石です。お見逸れ致しました」とヴェルドも感服の意を表した。
 刃蒼は満足そうに親指を立て、「ふふり、どや? どやぁ!」自信満々にドヤ顔を見せつけてきた。
「――流石だよ、刃蒼君。君なら或いはと思っていたが、被害を一切出さずに正答に到達するとは、君の慧眼には敬意を表するよ」
 四人の鼓膜に響く幼い男声に、全員の表情に一瞬だけ緊張が過ぎる。このゲームの主である男は、通信機の向こう側で拍手をしていた。実に愉しげに、実に空々しく、刃蒼に称賛を送っている。
「そりゃどーも」軽薄に刃蒼は返し、ちろ、と三人に小さく舌を見せる。「この位ならお茶の子さいさいやで。次はどんな謎解き要素を提供してくれるんや?」
「私からはゲームに関する情報の開示は出来ない。私はあくまで君達が愉しむ姿を愉しむだけの観覧者だからね。その調子でゲームを攻略してくれたまえ。不正行為をせずに、ね」
 それだけ言うと通信が一方的に切れるのかと思いきや、マスターシックスは咳払いを挟み、「それと、」と話を繋げた。
「不正行為を働く者には当然の報いを受けて貰うべく、猟犬……いや、狂犬の参戦を許可した。ゲームを滞り無く進めるための措置とは言え、知らせておこうと思ってね。それでは、プレイヤー諸君の健闘を祈るよ」
 そこで通信は途絶え、爆撃と銃声だけが遠くから聞こえてくる世界に戻った。最後にマスターシックスが付け加えた「狂犬」と言う存在に、刃蒼は怪訝な想いを懐いたが、悟られる事の無いように胸の内に沈め、ジープに向かって歩き出す。
「ほんなら行こか、また新しい敵が現れてもおかしないし、パパッと済まそ?」
「タイヤの交換は終わっています、すぐにでも出立しましょう」ヴェルドが運転席に戻り、エンジンを掛け直す。
「おい、この透明人間にトドメささなくてもいいのかよ?」血液を滴らせている空間を指差して声を上げる臥堂。
「? もうその方、死んでマスヨ?」ジープのドアに手を掛けながら、キョトンと返すマーシャ。「生者の気配はもう途絶えてマス!」
「……そうかよ」呆れた表情で嘆息を零すと、駆け出してジープのドアを飛び越えて座席に戻る臥堂。「もっと判り易い敵を用意して貰いたいもんだな。死んだかどうか一目で判るような奴を」
「生死が曖昧な方が都合の良い時も有ると言う事だ」
 呟くと、アクセルを踏み込む。緩やかに加速し、アズラク市の闇に沈んだ町を背景に直走る。
 ゲームは恙無く進行する。着地点がどこなのか、目的は何なのか、未だに杳として知れない謎のゲーム。刃蒼は勿論その両方を気に掛けていたが、そもそもこのゲームをする事で何が起こるのか、ぼんやりと思考を続けていた。
 これだけ大規模な暴動を起こしたのだ、この町だけで騒ぎは収束する訳が無い。波状的に暴動は拡大していく事が想定される。それがこの町、この国に留まらないのであれば、世界を巻き込む戦争になると言っても過言ではあるまい。
 基本的に人間は、正義感や義理人情では動かない。損得勘定で考える者が殆どだ。特に戦争ともなれば、自らの正義を貫くために戦争を勃こす事は当然有るだろうが、自分に利する陣営に就くのが定石であり、負け戦に首を突っ込む者はそもそも戦争を理解していない痴愚だ。
 これから世界を席巻するであろうトップニュースの当事者として、刃蒼は首謀者とも呼べるマスターシックスの存在がどうしても理解できなかった。損得勘定でこの問題を考えるとしたら、マスターシックスの立場と言うのも或る程度は限定されるのだが、であるなら今まで“ゲーム”と称して行ってきた数々の襲撃に理由が付かない。
 そう、これは“ゲーム”なのだ。遊びでしかないとしたら、今自分達が行っている暴動は全て……損得勘定とは縁遠い、稚気による戯れである可能性が、存在する。
「……」
 ふと、ポケットにしまっておいたディスクを取り出してみる。何の変哲も無い、USB端子のリムーバブルディスク。この中には、弾道ミサイルの発射スイッチが内蔵されている。世界のどこにでも、いつでも、ネットワークさえ繋がっていればどこからでも、このディスクさえあれば誰でも、弾道ミサイルを撃ち込める、名も無き“矛”。
 このディスクを紛失する事無くニーリー市の空港に辿り着く事が、二回戦のルール。何を、いつ、どこから、何のために、攻撃するのか、未だに見当すら付かない。そんな兵器を持って空港に向かい、そこで何を始めるつもりなのか。
「……アカンわ、眠くて頭回らへん」
 座席に凭れかかり、小さく伸びをする刃蒼。その時だ、ディスクを思わず手放してしまい、ポトリと後部座席に落としてしまった。
「あちゃ、ごめん、後ろにディスク落としてもた。拾ってくれへんー?」
 バックミラー越しに後部座席を見やると、マーシャは丸くなって既に夢の国に旅立った後で、ぼんやりと外の景色を眺めていた臥堂が「何やってんだよ……」と漫然とした動きで体を屈めて、一瞬動きが止まった。
「ん? もしかして見つからへん?」思わず座席から乗り出して後部座席を見下ろす刃蒼。「ヴェルドさん、車内灯点けて貰ってええか?」
「いいって、見つかったって」そう言って体を戻し、ディスクを見せる臥堂。「これだろ?」
「それそれ、ありがとなー♪」と言って臥堂から返して貰い、再びスーツのポケットに戻す刃蒼。
「……頭が回らないのは私もです。本格的に一度休息を取った方が良さそうですね」
 ヴェルドがそう呟いたのは、アズラク市の外れまでジープが辿り着いた時だった。爆撃が未だに地鳴りを伴って聞こえてくるが、銃声はともかく人の声は殆ど聞こえなくなっていた。
 荒れ果てた工場跡が立ち並ぶ一角の駐車場へと入り込み、人気が無い事を確認してエンジンを止める。元々ヘッドライトを点けずに走行していたため、刃蒼の眼は闇に慣れていた。
 ボロボロに破れたフェンス、無造作に放置されている背の高い雑草、赤錆の浮かんだ廃車、鉄筋が剥き出しのコンクリート塀。使われなくなって何年も放置されていたのだろう、昔日に栄えた姿が見る影も無く零落した光景が、闇に沈んだ中でも浮かび上がるようにして映り込む。
「二時間だけ睡眠を取らせて頂きます」そう言ってヴェルドは座席に凭れかかり、瞼を下ろした。「可能なら二人、無理なら一人、警戒をお願いします」
「俺が起きててやるよ」そう言う臥堂は欠伸を漏らしていた。「ヤヴァくなったら起こすから、熟睡はするなよ?」
「じゃあもう一人は僕が担当しよかな」そう言って目を擦る刃蒼。「マーシャさん爆睡しとるみたいやし」
「お願いします。トラブルが起きたら、すぐに知らせて下さい。では」
 それだけ言うと、ヴェルドの声が止む。遠くで爆音と銃声が響く以外に音が無い、静かな時間が緩やかに流れ始めた。
「……」
 臥堂に話題の提供など期待していなかった。彼はそういう融通の利く子ではないと、今日一日で何と無く察している。夜の帳が下りた静かな世界で、刃蒼はぼんやりと星空を見上げる。
 宝石箱をぶちまけたような綺麗な夜空に、刃蒼は小さく感嘆の吐息を漏らす。星座や天文学に詳しい訳ではないが、眺めているだけで癒されるような想いを感じる。大気汚染で徐々に観えなくなりつつある夜空だが、こちらの事情などお構い無しに星達は昔と変わらず瞬き続けている。
 自分は、後どれだけの間、輝いていられるだろうか。
 ふとそんな独白が胸中で漏れ、何をポエムっとるんや自分、と苦笑を滲ませてしまう。
 謎のゲームは一日目を終えようとしている。……それは己がそう思いたいだけで、まだ終わらないどころか、始まったばかりなのではないかと言う反発が湧く。
 考える。本能に委ねるままではなく、理性的に、冷静に、この状況の推移を観察し、思考する。考えても意味が無いと、その事実が断定されるその瞬間まで思考を費やす事は、決して無駄ではないのだから。
 ――じゃり、と砂地を踏み締める音が、確かに聞こえた。
 刹那に意識が沈思から浮上する。誰かが近くにいる。何者か定かではないが、足音の聞こえる間隔は野犬などの四足歩行のそれではなく、二足歩行――人間のそれだ。己の感覚に狂いが無ければ、間違い無く至近距離に何者かが存在する事を示している。
 バックミラー越しに臥堂を捉えると、彼も緊張した面持ちでアサドを引き抜いている様子が覗えた。闇に沈んだ場所でも、既に視覚素子は順応し、或る程度の視野は確保されている。足音の音源を辿れば、自ずと場所は割り出せる。
 視線を向けると、確かに人影が観えた。闇に潰れた人影。確然とした意志を持ってこちらに向かってくる。臥堂がゆっくりとアサドを構え、「――止まれ」と冷たく言い放った時、人影は言われたとおりその場に立ち止まった。
「誰だ?」殺意の糊塗された声調で、臥堂が尋ねる。「変な動きをしたら、殺すぞ」
 人影は両手を頭の上に上げ、抵抗するつもりが無い意志を示し、“くぐもった声”で、こう告げた。
「警戒させて申し訳ありません。遅くなりましたが、刃蒼さんの武装を持って来ました」
 そう言って暗がりの中でアタッシェケースを示す人影に、刃蒼は思わず声を上げてしまった。
「もしかせんでも、ジャッジメントさんなんか……!?」
 暗がりの人影が、軽く会釈を返すのが見て取れた。


【次回予告】

「――また遠くを観てるね、隊長」

 遥かなる追憶の先で、重ねて煉獄に警醒する。

「ホンマ頼むで、期待しとるんやからな……!」

「……トラブルですか」

「――まさか“根源”の仕業……ッ!?」

 ――どうしてそんな事まで知ってんだ、こいつ。

 潜み寄る影は視る――祈祷者を具に、骨の髄まで……

「――相手が人間でなければ、敵視が生じない可能性は有りますか?」

Continued on the next stage……

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