017.夜狩りの狗〈2〉

「おいッ、いつまであいつら放っておくんだよ!? とっとと撃ち殺せば済む問題だろ!?」
 宵闇に沈んだ市街地は、銃火の華が随所で咲き誇り、視界が度々眩む鮮烈な世界を描き出している。崩落したビルの瓦礫や剥き出しになった鉄筋に躓きながら、二人はマーシャに導かれるまま走り続けていた。
 逃走を始めてから時間にして三十分と経っていないだろう。背後には絶えず追撃する民警の姿がちらつき、隙あらば機動力を奪おう、或いはそのまま殺害に到ろうとも構わないと言うような射撃に間断無く襲われていたためか、遂に臥堂がアサドを振り回してマーシャの気を引こうと声を荒らげた。
 頼りになるのは罅割れたアスファルトに幽微な陰影を刻む街路灯だけ。住宅地へと入り込んだ三人の視界には、在宅を示す照明は一切映らない。住民は残らず我関せずを貫く心算なのだろう。当然と言えば当然だ、寧ろ玄関や勝手口にはバリケードが張られていて然るべきと言っても過言ではない。
 斜陽は地平線に没し、世界は夜陰に塗り潰されている。宵を迎えた世界は視界が不明瞭だったが、マーシャは躊躇とは無縁の足取りでひたすら走り続けている。今まで刃蒼も臥堂も疑念を呈する事無くその背を追い続けていた。
 そんな最中、突然臥堂が不満を漏らし始めたのは、制限時間が間近に迫っているにも拘らず目的地が影も形も観えない事と、追走する民警の一団を意図的に無視し続けている現状にストレスが上限を突破したためだろう。
 刃蒼は彼の内心が現在進行形で爆発寸前である事を改めて意識し、努めて明るい声で振り返る。
「相手はゲーム参加者とは違う、正義の使者なんや、民警だけは出来る限り殺さん方向で行かん? 僕らは実際悪い事しとるけど、民警はその限りや無いやろ?」
 刃蒼自身、常に背後を取られている事に危惧を覚えていない訳ではなかった。追撃戦は双方共に神経を使う。追われている側は絶えず命の危機に晒され、追う側は追っている獲物が仲間と合流し、いつ相互の立場が逆転するか引き際を考慮しなければならない。
 個人的な見解を挟むとすれば、刃蒼の体力は既に尽きかけており、もうこれ以上走り続けるのは無理と宣言したい気持ちで一杯だった。或る程度の応戦を覚悟した上で、休息を挟みたい。併しそれでは善意で探索を手伝ってくれた民警を真っ向から敵に回す事になってしまう。善意を裏切る行為は、出来る事なら忌避したい。
 刃蒼の忠言に対し、臥堂は不快感を満面に塗った表情を貼り付けると、苛立ちの混ざった溜息を零した。彼の意見は聞くまでも無い。“脅威となるなら殺す”――臥堂にとって敵が何であるかなど一考の余地すら無いのだ。
 いっそ清々しい程に徹底して人非人を貫く臥堂に、一種の羨望すら懐く。臥堂が観る世界とは敵と味方の二元論でしかないのだろう。傭兵稼業をしていれば、そういう認識で世を渡る者も少なくないが、それでは大事なモノも敵に回してしまう――そう、説いてやりたくなる。
 相手が自らの窮地を助けてくれた民警でなければ、刃蒼とて遠慮も容赦もするつもりは無かった。持ち前の爆弾を地雷代わりに設置し、足を吹き飛ばして永遠に追跡不可能な体に仕立て上げる事も、戦場ではごく有り触れた光景であり戦術である。併しそれを顧慮無く運用するのは、人として間違っている事は揺るぎ無い事実だ。
 何度目になるか判らない路地を右折し、街路灯の届かぬ薄闇を直進していたマーシャが、不意に立ち止まった。息を切らしていた刃蒼はその背中に凭れかかるようにぶつかり、「な、何や?」と思わず驚きの声を上げてしまう。
「――獣の匂いがしマス」
 マーシャの表情は薄闇に閉ざされた世界では幽かにしか映らないが、普段の和やかな雰囲気が一変、餓えた肉食獣のような鋭さで鼻をひくつかせている。臥堂は刃蒼の隣で怪訝に眉を顰め、同様に鼻をひくつかせるも「……そんな匂いするか?」と疑念を表する。
「獣もええけど、こないなところで立ち止まっとったら民警にやられてまうで!」
 荒げた呼気を静めるように膝に手を突いて体力回復に専念する刃蒼に、臥堂が「そりゃそうだけどよ、お前もうヘロヘロじゃねーか。体力無さ過ぎだろ」と汗だくの態で応じる。
「……臥堂くん、自分もあんまり体力無い方やろ?」強がってニヤニヤ笑む刃蒼。
「う、うるせーな! このぐらい大した事ねーよ!」同様に強がってそっぽを向く臥堂。
「コレは……狗の匂い?」
 マーシャが小首を傾げて呟いた瞬間だ。背後から銃声が轟いたのは。
 一瞬こちらに向けて発砲したのかと思って身構えたが――違う。刃蒼はその銃声を刹那に解析する。風向きや距離を換算しても、威嚇や攻撃の意図は感じられない。――別の敵が生じたのだ。
 民警が何らかの敵に襲われている事は明白だった。断続的にレプスの銃声が轟き、宵闇に銃火の閃光を奔らせている。銃声の音源を辿らずとも、先刻の追手が応戦している事は自明の理だった。
「おい、何か知らねーがチャンスじゃねえか? 逃げるにしても、殺すにしても」
 銃撃の音色を聞きながら口唇を釣り上げる臥堂に、刃蒼も似て非なる感想を懐いていた。そう、これは確かに好機だ。逃げるにしても、――“助ける”にしても。
 マーシャに視線を転ずると、その野獣染みた瞳には好奇の光が点っていた。この表情は刃蒼にも見覚えが有る。面白いモノを見つけた時の、好奇心が露わになった子供の笑顔だ。
「マーシャさん、もしかして……?」刃蒼がやっと落ち着いてきた呼気を正し、ゆっくりと膝から手を離す。
「民警サンは、わんこに襲われてマスネ……!」
 マーシャの嬉々とした発言に臥堂は醒めた表情で「わんこ……?」と小首を傾げる。臥堂が当惑しているのをよそに、刃蒼は落ち着いた所作で二人の顔を見やり、徐に口を開いた。。
「マーシャさん、臥堂くん、僕らで――“民警を助けよ”」
 臥堂は更に表情を歪ませ、マーシャは「了解(ポニョ)ーっ!」と元気良く敬礼を返した。

◇――◇――◇

 宵を迎えた住宅地で、影狼はレプスを構えたまま路地の一角で立ち往生に陥っていた。隊士の一人が事切れて斃れている姿が、否応無く視界に映り込む。頸動脈をバッサリと切り裂かれ、鮮血の水溜まりを今も着々と拡げている。
 残った三人の隊員は視界に敵影が映り込む度に単発的に銃撃を加えているのだが、手応えが無く、且つ相手は適確にこちらの隙を衝いて襲い掛かってくる。銃器で武装した四人の兵士に対し、敵は大振りのナイフ一振りで襲い掛かってくるのだ、恐慌に陥っても不思議ではなかった。
「距離を取れ! 味方の死角をカヴァーしろ! 怖気づくな、私が付いている!」
 怒号を張り上げ、更に味方の恐怖で生まれた隙を庇うように銃撃を敢行する影狼によって、味方は正気を失う直前で留まっていられた。併しそんな影狼の正確無比な射撃ですら、影に潜む凶手を捉えるには到らない。
 影から影へ。決して光の有る場所には近寄らず、死角から死角へ移動し続ける謎の敵兵。銃器を武装していないのか、銃撃してくる気配は無く、一瞬の油断に向かって狙い違わず飛び掛かる。まるで獣のような存在だった。
 銃口炎で生じる刹那の光に照らされた敵影は、まるで影の怪物だった。全身を黒衣で隠し、真っ黒に塗り潰されたナイフを構えてこちらの様子を窺っている。
 獣と表現したが、沸き立つ悪臭がその感想を強くしている。まるで獣臭の塊が動き回っているかのような次元の強烈な臭気に、目出し帽で覆っている鼻ですら過敏に嗅ぎ取ってしまう。
 今まで相手にしてきた傭兵や強盗の類いとは別次元の存在感を、影狼は感じずにいられなかった。相手から人間らしさを全く感じられない。餓えた肉食獣を相手にしているかのような違和感が全身を覆っていた。
 声も無く、足音も無く、影のように襲い掛かり、闇に侵されるように殺される。まさにそれは人間と言うカテゴリから外れた、怪物と呼ぶに相応しい――“狩人”を連想させる存在。
 先刻のテロリストの一派であるか否か判然としないが、仮にこの怪物と遭遇させるためにここまで誘き寄せられたのだとしたら――完全に潮時を誤ったと言わざるを得ない。
 たった一人の人間に五人の部隊が全滅させられるなど聞いた事が無い。が、影狼はその展望を想起せずにはいられなかった。奴は鏖殺を所望している。戦いの終着点は、一方の死滅以外に有り得ない。
「――隊長! 隊長だけでも離脱して下さい!」フクスが影に向かって銃口を向けながら吼える。「この場は自分達に任せて、早く!」
 フクスの想いを、二人も継いでいるのだろう、誰も彼の宣言を覆すような文言は唱えない。その意志は統一され、隊長の生還のみを願っている。彼らも気づいているのだ、己達の技量ではこの化物は殺せない、喰われるのを待つ獲物に堕してしまっている事に。
 併し――それでも影狼に、逃避の道は有り得なかった。
「世迷言を吐かすな、仲間を今眼前で殺されたのだぞ? このままおめおめと逃げ帰るなど出来る訳が無かろう」厳格な表情で影を睨み据えたまま、影狼は囁く。「一矢報いねば民警の名が廃ると思わんか?」
「隊長……!」隊士の瞳に燦然たる輝きが戻り、煮え滾る闘志で砕けかけた心を繋ぎ止める。「失礼しました、奴の仇は自分が――“我々が”、討ちます」
「……それでいい」口唇に挑戦的な笑みを刻み、影狼は退路を確保しながら影の魔物を見据える。「ひとまずテロリストの追跡は中断だ。眼前の敵影を全力で屠れ。容赦はするな、呵責無く殺し尽くせ」
「「「了解」」」
 三人が同時に銃撃を加え、影の魔物を強制的に暗がりから燻り出す。敵影は音も無く影を滑り、一番近かった隊士に向かって牙を剥く。影から躍り出たその人影に向かって影狼が銃撃を加え――黒衣を貫通したにも拘らず、何の反応も返さずに、ナイフで隊士の首が掻っ捌かれた。
 見間違いではない。幻覚でもない。確実に人影の心の臓を過たず穿った。にも拘らず手応えが全く無い上に、何の損傷を負った様子も無かったようにさえ観えた。同胞にも同じ光景が観えていたのだろう、恐怖に動きを硬直させ、刹那の隙が生まれていた。
「く――ッ!!」
 咄嗟にレプスの引鉄を絞り、影の化物に銃弾を叩き込む影狼だったが、影は再び闇の領域に引き返し、音も無く、気配も一切感じさせずに、禍々しい獣臭を撒き散らしながら、こちらを凝視している。頸椎を捌かれた仲間は助かる余地が無く、痙攣を繰り返しながら血泡を口腔から吐き出していた。
 相手は人間ではない。確信せざるを得なかった。では何だ? 脳髄が理解不能だと懸命に訴えかけている。己は今、何と戦っているのだ――!? 脳内で赤色灯が必死に回転している。戦うべきではない、“戦って勝てる相手ではない”――生存本能の泣訴に、影狼は心が折れる寸前だった。
「隊長……ッ」
 悲愴感に充ち満ちた隊士の声調に、我に返る。己が折れてしまえば、この部隊は壊滅だ。“誰も生き残らない”。勝てないのなら、殺せないのなら――敗走も、選択せざるを得ない。
「……私が時間を稼ぐ。二人は全力で逃げろ」レプスの残弾を脳内で数え、影狼は呟いた。「この事を本部へ伝えろ。頼んだぞ」
 隊員にとって思考を挟む余地など無かった。隊長に全ての責を被せて逃げるなど出来ない――併し、隊長が命を懸けて稼いだ時間を無駄には出来ないと、“この地獄から一人でも生還しなければならない”と考えた二人は、恐怖に彩られた表情を懸命に引き締め、駆け出した。
 ――それでいい。恥じる事は無い、生きる事こそが勝利だからだ。
 胸裏で二人の判断に賛辞を送り、影狼は眼前に蟠(わだかま)る闇に潜む怪物を視認する。幾ら宵闇に紛れているとは言え、光源が街路灯だけとは言え、その姿を見失う事は無い。薄闇に佇み、凝然とこちらを見据えている怪物は、二人を追わずに影狼を見据えている。
 気配も足音も無い影の使者が再び動きを見せた瞬間、影狼は死を覚悟した。奴に銃撃は通じない。己も同胞のように頸椎を捌かれて死ぬ――併しその正体だけでも暴いてみせる――ッ!!
 そう念じ、レプスを閃かせる。銃声と共に黒衣に弾丸が吸い込まれ、突き抜けていく。どれだけの弾丸を受けても黒衣の人影は一度も怯む事無く影狼に肉薄すると、ナイフを振り抜き――――“バギンッ”――と、ナイフの刀身が砕け散った。
 同時に弾けた銃声に、影狼は己の意識が急速に現実に戻される感覚に満たされた。今己は死の世界に足を踏み入れた、半分亡者だったのだと思い知らされ、忸怩(じくじ)たる想いに身を焦がさずにいられなかった。
 影の使者は砕け散ったナイフの反動でフワリと後退すると、射線上に意識を向け――着物姿の女を捉えた。アサルトライフルを構えた女は、「アレデス! アレから狗の匂いがするんデスヨー!」と再び銃撃を敢行、影は素早く後退し、その姿を闇に消した。夥しい獣臭も霧散していく。
 黒衣の人影が消える瞬間、女が放った銃弾は確実に胴体に着弾していた。にも拘らず血液が噴き出す事は無く、どころか一切の手応えを与えず、挙句一切の反応も見せずに姿を消した事に、影狼は慄然とする想いで闇を見据える。
 アレは何だったのか。人間ではない人型の生命体がこの世に存在するのか――そんな疑心暗鬼に囚われ、呆然自失の態でその場に立ち尽くしてしまう。
「えーと、大丈夫か? 怪我しとらん?」
 不意に声を掛けられた事で我に返ると同時に、形容しようの無い想いに身を焦がされた。
 先刻まで追い駆け回していたテロリストが、こちらを心配そうに見上げていたのだ。
「な……な……ッ」思わず言葉が喉に詰まってしまう。
「うん、大丈夫そうやな」影狼の反応に一つ頷くスーツ姿の青年。「えとな、信じられへんと思うけど、僕らテロリストや無いんよ。テロリストに仕立て上げられた、ちょっと変わった一団なんや」
「信じられる余地がねーと思うけどな」隣に立っていた黒衣の少年が先を繋ぐ。「ま、どうしても俺達を殺す気でいるッつうんなら、こっちも容赦なんざしねえって事は憶えとけよ」
「自分はちょっと黙っとって」ポン、と黒衣の少年の頭を叩く、苦笑気味の青年。「民警としては僕らを追わざるを得んのは判るんやけどな、僕らは民間人を殺すつもりは無いし、民警を敵に回すつもりもあらへんねん。……“よう判らん連中に、よう判らんゲームをさせられとるだけやねん”」
 その時だ、影狼の脳髄に不意に電流が走り抜けた。青年の発言に思わず己の状況を鑑みる。あの道化は、自分に何をしろと宣った?
 ――“お客様には斯様な舞台で演じて頂きたいのです。一人の演者として、ショータイムに彩りを加えて欲しいのです”
 まさかと、信じ難い想いで影狼は生唾を飲み込んだ。彼らも、――あの学舎占拠のテロリストですらも、道化に弄ばれている駒だと言うのか――?
 道化はショータイムだと言っていた。ロールを演じろと。狩人が兎を狩る、その行き着く先は何だ? 自分は何を演じさせられ、どこに向かうと言うのか? 全ては予め定められた、何らかの陰謀なのではないか――?
 影狼は口を開きかけて、躊躇した。通信機は付けたままだ。恐らく道化に聞かれている筈。それは相手も同様だと思わざるを得ない。スーツの青年が耳に装着している通信機も、黒衣の少年と着物の女が装着している同様の通信機も、恐らくは同一の規格。全ては筒抜けなのだ。
 影狼は難しい表情を浮かべたまま、己が“演じるべきではないロール”を手繰り寄せ、青年の発言に驚いた事で生まれた空白を埋めるべく、意識を改める。
「……助けて貰った事には、感謝しよう。併しそれは鵜呑みに出来る類いの話ではないな。詳しい話を聞かせてくれないか?」
 言いながら、影狼はスーツの青年の内ポケットにするりと手を忍ばせ、すぐに離れる。青年は一瞬驚きに目を瞠ったが、こちらの事情を悟ったのか、曖昧な笑みを浮かべて小さく頭を否と振った。
「ごめん、それは無理や。このゲームがどこに向かっとるか判らんけど、今は急いで逃げなアカンねん」
「……そうか」慎重に言葉を選びながら、影狼は緊張した面持ちで言葉を連ねる。「ならば今の借りは今返すとしよう。――とっとと失せろ。私の気が変わらぬ内にな」
 言いながら、影狼は走り出していた。三人が向かうであろう方角とは逆の、隊士が退避した方角に向かって。
 屈辱だが、今の己では彼らを殺す事も、況してや救う事も不可能だ。今はとにかく生き延び、信頼に足る人物にこの不可解な状況を説明せねばならない。それが己に出来る最善、最良の手段だと影狼は断じた。
 あの三人が被害者だと考えた訳ではない。彼らは少なくとも学舎占拠をした罪だけは免れない、加害者だ。併し彼らを捕縛しただけでは、殺害しただけでは、この事件は終息しないと判った。彼らの背後を捉えねば、本当の意味での解決は訪れないと。
 あの影の怪物に関しては何もかも理解の範疇を超えていたが、それでも判る事は一つ有る。このテロリズムの一角を為しているであろう事は、最早疑うまでも無い。
 闇に沈んだ町は、未だに銃火の連奏が間断無く掻き鳴らされている。現実とは、こんなにも簡単に崩れ壊れるモノなのだなと、影狼は歯を食い縛り痛感せずにいられなかった。

◇――◇――◇

「さっきの獣臭ェまっくろくろすけは何だったんだ?」
 女隊長が全力疾走で立ち去った後の街路で、臥堂が難しい表情で呟いたのが、刃蒼の鼓膜に届いた。
 内ポケットに差し込まれた紙片に触れないように臥堂が気を遣ったとは思い難いが、今は彼の話題に乗る方が良いだろうと心内で首肯し、彼に向き直る。
「マーシャは狗の匂いがするっ言ってたけどよ、どう考えてもアレ狗じゃなかったぜ?」呆れた仕草でマーシャを見やる臥堂。「確かに狗の匂いか知らねえが、クソ臭かったけど」
「でも狗の匂いがしたデスヨ! 間違いないデスヨ!」必死に己の意見を主張するマーシャ。「あと、確実に心臓を撃ち抜いたと思ったのデスケド、手応えが全く無かったデス。もしかしてお化けだったのデショウカ?」
「お化けが襲ってくるのかよ、そりゃおっかねえな」小馬鹿にするように吐き捨てる臥堂。「だが銃弾が効かねえとなると厄介だな。殺せねえじゃねえか」
「臥堂くんならいつか幽霊でも撃ち殺しかねへんな」苦笑を見せる刃蒼。「臥堂くんの言うとおり、銃弾が通じん相手やと困るな。僕らじゃ相手に出来んで」
 刃蒼としては二人にもう少し非科学的なモノに対する恐怖を見せて欲しかったところだが、マーシャも臥堂も全く怖がらないどころか、マーシャは相手が幽霊であろうと化物であろうと普通に接しそうで、臥堂に到っては殺せるか殺せないかの二元論でしかモノを観てない節が有って、何とも言えない気分にさせてくれた。
「もっと詳しく観ん事には判らんし、今は保留やな」二人が難しい表情で考えているところに手を合わせて意識を向けさせる刃蒼。「もう待ち合わせ時間にギリギリなんや、はよ目的地に急ご。あの幽霊モドキは、また現れた時に考えよ」
「了解デスヨー!」「そうだな、こういうのは手前やヴェルドの仕事だしな」
「……いや、臥堂くんはもうちょい考えような? な?」ニッコリ笑顔で臥堂の肩を叩く刃蒼。
「……どういう意味だよ?」怪訝な面持ちで刃蒼を見やる臥堂。
「よし、ほんなら出発しよ! マーシャさん、頼んだで!」マーシャの背中を叩いて駆け出す刃蒼。
「了解(ポニョ)ーっ!」手を振り上げて駆け出すマーシャ。
「無視するなよ!? どういう意味だよ!? おいッ、グルァッ!!」
 喚きながら二人を追い駆ける臥堂の遥か後方――闇に沈んだ影溜まりに、再び黒衣の人影が佇んでいた。生気を感じさせない、音や衣擦れとは無縁の、悪臭を撒き散らす漆黒の塊。それが緩やかに動き始め、気配も足音も無く行動を再開する……

◇――◇――◇

 仄紅く染まる月光が満ちる、不浄の世界。生き得る全てが済度される、尊く凄艶なる除夜。
 穢土(えど)に巣食う俗人では悟得(ごとく)にまで到れない。その真理を悟得してしまった榊は、彼らを済度するためには肉体の理から乖離しなければならないと悟った。
“人は死ぬ事で俗世から解き放たれる”――仏道を極めた覚者としてその真言を手に入れた榊は併し、手当たり次第に人を滅す仕儀は為さなかった。苦を脱しなければならない人物を淘汰し、解脱へと導く。ただ、その過程に如何な犠牲が生じようと榊の与り知るところではなかったが。
 貪欲に仏道の知識を得るべく、数多の宗派に身を置いた榊は、最終的に独自の宗派を創造し、そこで己の道を歩み始めたのが――五年前。その思想は何者にも受け入れられなかったが、榊にとって他者に認められるか否かは問題ではなく、如何に多くの人間を済度させるか、そこに集約されていた。
 五年の歳月で解脱に到達させた人間は優に千を超えた。戦地に赴く事で、無尽蔵に解脱を待つ人間と逢う事が出来た。彼らは貪欲に解脱を欲し、渇望するように神の施しを求めた。故に、榊は清らかなる精神で彼らを説き、須らく諭した。
 俗人を救うのは神などと言う蒙昧たる偽善者ではない。“己を信じなければ不幸になる”などと妄言を吐き散らす愚昧な扇動者に耳を傾けるまでも無い。この世に蔓延る苦からの脱離とは、真理の正しい理解と洞察……つまりは個々人の実践によって到達できるものだ。
 仏自身、救いの手を差し出したりはしない。自ら悟りに辿り着けるように教えを説き、真理に導くだけ。到達点へと辿り着いた榊にとって、苦とは自らの内には存在せず、ただ世界に蔓延する苦の腐臭に憐憫を懐いているに過ぎない。
 この世界には苦が横溢(おういつ)し過ぎている。神などいないのだ、誰かが――人の手で済度しなければ、何れ人界は破綻する。榊にとって殺戮とは善行であり、最も功徳の多き仕儀だった。
 アズラク市に写経の施されたワゴン車で辿り着いた榊は、その足で傭兵の一団を轢殺してからワゴン車を放棄、その後は夜闇に沈んだ町を袈裟を纏って徘徊を始めた。
「何だあの坊さん……?」「おい止まれ、動くと撃つぞ」
 四人組の傭兵が声を掛けてくる。榊は念仏を唱えながら、合唱を続けた。
「聞こえてんのか? 頭おかしいのかこいつ?」
 若輩の傭兵だろう、目出し帽で顔を隠してはいるが、その声の若さから二十代になって間もない事が覗える。榊は薄っすらと両眼を開くと、深く辞儀をしてみせた。
 笠を被っているため、榊の表情は傭兵には窺い知る事が出来なかったが、無感情に等しいその能面に、薄ぼんやりと喜色が満ちたのは、次の瞬間だった。
「厭離穢土(えんりえど)より解脱を望む者よ。今その苦から解き放って差し上げます」
 榊の動きに、予備動作など無い。自然体から一切の無駄を省いた所作で袈裟の内側より金色に輝く利剣を引き抜く。相手に動きの意味を悟る暇を与えずに、滑らかな動きで、撫でるように首を捌く。
 男が呆気に取られて喉の違和感に気付く前に、榊の利剣は更に舞う。隣に佇んでいた男の目線を一直線に切り開き、流れる動きで三人目の顔を縦に断ち切る。四人目の男が驚きに目を見開いた瞬間、一人目の男の首から鮮血が噴き上がり、四人目の男の心臓が容易く刺し貫かれていた。
「――――ッッいッ、ぐァ――――ッッ!!」
 両目を捌かれた男が絶叫を奏で、咄嗟に武装していた突撃銃を乱射しようとして――両腕が、利剣によって切り離される。
 ボトリ、と肉袋が落下する音と共に、男の恐怖に染め上げられた喚声が宵の町に響き渡った。併しそれも一瞬の出来事で、次の瞬間にはその頭部は胴体から生き別れになっていた。
 更に流れる動きで顔面を縦に割られていた男の頭を頭蓋骨を断ち切る形で、横一文字に両断する。男は悲鳴を上げる事すら無く、べちゃべちゃと肉片をばら撒きながら頽れた。
 一瞬の出来事だった。何の予兆も無く、四人の男が肉塊に成り果てた。全身に鮮血を浴び、咽返る程の血臭を漂わせながら、榊は利剣をするりと袈裟に戻し、合唱をする。
「――南無阿弥陀仏。此れにて衆愚の悟得能わん」
 彼らの死は始まりですらない。幾千と積まれた功徳の延長線に位置する、救済の工程の一つに過ぎない。
 己がこの世を去るその瞬間まで、人を救い続ける。救世の理念を掲げた榊に心境の変動など有り得ないし、今までも、そしてこれからも、変わらず人を殺し続ける。それが超越的な善行だと盲信しているのだ、世界が覆らない限り榊の蛮行を止める事など不可能だった。
 仄暗い死の臭気に満ちる、悪夢の都。あちこちで上がる戦火の唸りに、榊は走り出した。一人でも多くを救い、一人でも多く真理に導くために、悪鬼羅刹は動き出す。
 そして榊が再び人間の群れ――民警の一団を視野に納めた瞬間だった。夜目に慣れていた彼の視界に、“影の塊”が過ぎる。
 生気を伴わないその物体は民警の一人を貫通すると、容易く頸動脈を切り裂き、死に到らしめた。刹那の出来事に、民警も、そして榊さえも驚きを隠しきれなかった。
 榊は鼻を衝く異臭に気付く。鼻腔を侵す、獣の臭気。あの黒衣が発しているのだとは即座に察せられたが、その挙動に違和を覚えずにいられなかった。アレは――“人間ではない”。
 利剣を引き抜くも、黒衣に襲いかかる真似はしない。具にその様子を覗う。その間に、秒単位で民警が斬殺されていくも、榊は一切手出しも口出しもせず、静観を徹底した。
 やがて民警が余さず斬り殺され、黒衣の意識が榊に向く段階になっても絡繰りは解けなかった。榊は明鏡止水の態で利剣を構え、戦う意志を見せる。相手が人間でなくとも、徒に救われるべき人を勝手に救って貰っては困るのだ。己の手で、確実に、済度しなければ、ならないからだ。
「……よもやこの期に及んで怪異と遭遇するとは、長生きはするものです」
 呟きを落とし、榊は動き出す。怪異であれ、神であれ、生きているのならば済度する。その通念に罅は入らない。済度の阻害を働くと言うのであれば尚更、救済の余地が有る。
 そうして人外同士が殺し合いを始めようとした、その時だ。闇に染まった空に、白昼宛らの眩いばかりの閃光が弾けたのは。地上に鋭い陰影が刻み込まれ、天に在す御使いを暴き出す。
「あーあーテステス。うん、感度良好のようね!」突如響き渡る大音声の女声に、榊は併し意識を奪われる事も無く、黒衣の正体を見極めていた。「これよりアズラク市を段階的に焦土にしまーす。傭兵の皆さんは頑張って逃げて下さーい。それではー、ドロン!」
 女声が止むと同時に閃光も消え失せ、世界は時刻通りの闇に満たされた。眼前に佇む黒衣も元通りに復元し、榊を捉えている。榊はそんな黒衣に敵意も殺意も懐かず、利剣を構えたまま慈愛に満ちた眼差しで小さく呟きを落とした。
「絡繰りは明徴、疾く済度しましょう――救済の御使いは、拙僧だけで十全です」
 榊が利剣を振り薙いだ瞬間、再び世界は閃光に包まれた。煌々と燃え盛る、紅蓮の空が現世に生じた瞬間だった。


【次回予告】

「この戦場の支配者はよっぽどのロマンチストみたい。そう思わない?」

「夢をお持ちになるのは結構な事では御座いませんか」

 悪夢を引き連れ舞い寄る天空の使者が、闇壺に一縷の光明を切り開く。

「――吹っ飛ばしていいんは、吹っ飛ばされる覚悟の有る奴だけや」

「よく判らねえが、殺して良いんだな?」

「貴様達は、死ねッ、デスっ!!」

「榊なら問題無い。彼は地獄からでも帰還する」

 夜狩りの混沌は、やがて一つの因果を穿ち出す。

「そうね、――選定を始めましょう。人殺しには人殺しの流儀で応じなきゃ、――ねっ♪」

Continued on the next stage……

前回次回
戦戯
作品一覧
風雅の戯賊領P

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -