俗説ハードボイルド(五い)*


 茹る空気に、ため息を吐くことすら後ろめたい。尾浜勘右衛門はすくっと二本の脚で立ち、粘り気も失われた精液が手のひらの側面を滑っていくのをぼんやりと見た。

「……あ。」

 白色が床板の黒に吸い込まれていく。

「あーあー。」

 そそくさと落とし紙を取り拭っていると、がさ、と石が踏まれて、隣の石と擦れた音がする。
 ぽたり。前髪から雫が落ちる。床板の黒は何もかもを呑み込み、存在を拡げてゆく。

「……勘右衛門?」

 いっそおれごと、呑んでしまってはくれまいか。久々知兵助の声を聞き、勘右衛門はそう考える。心音は耳の空洞に満ち、虫の声を殺しては溢れかえる。

「んお、おお。兵助か。どうした。お前も起きたのか?」

 どく、どく。液体は沸騰したまま、細い管の中を巡ってゆく。今すぐ気配を消し、そのイメージのみに成り代わってしまえたらいい。

「うん。勘右衛門居ないから、厠かなって」
「寝れやしないな。参った」

 暑い、ということを言っている。この気温だ。間違いはない。ないはずだ。
 勘右衛門は、不自然さがないかどうか、自らの発話をすぐさま省みている。汗は止まらない、どころか、心の内側にも冷や汗をかく思いである。

「そうだね」

 ──言えやしない。〈さっきまでお前のうなじに汗が浮かんでいるところを想起して自慰をしていました〉、などとは。
 兵助に動く気配はない。もしや自分を待っているのでは、まずい、今面前で相対したら、きっと勘付かれる。
 もう一度、静かに手のひらを拭って確認する。名残は何も無いが、どこか違和感を抱えたままに個室を出ると、

「散歩しないか? 」

と微笑みかけてくる兵助が居る。

「いっそ殺してくれない?」

と軽く頼んでみても、はて、といった表情の兵助は、しかし、

「今度から言ってよ。」

と突如切り込んでくるのである。

「ナ……な、んの話?」
「水臭いな。いや待てよ、水というより、別の匂いか」

 一人で言ってからけらけらと笑う兵助に、勘右衛門は拳を握る。

「馬鹿にするのも大概にしろッ」
「ヒッ、勘右衛門、声を静かに」
「兵助はのうのうと胡坐をかいていればいいさ。次におれがお前の現場を目撃したら……見ておけ」

 そう言って勘右衛門は、人差し指の先を兵助の額に圧しつける。圧しつけられた兵助は「アイタタ」とわざとらしく仰け反ってから、

「違うんだ勘右衛門、落ち着いて」
「落ち着いてなんていられるか!」
「こ、今度はさ、」
「今度……こんど?」

 兵助は「そう」とまた微笑んで、

「今度から、言ってくれたら俺が外すよ、ってこと」
「……ハイ?」
「勘右衛門だって、こんな暑いなか厠でなんてしたくないだろう。部屋でなら幾分マシだろうし」

〜〜〜

 それからというもの、勘右衛門が所謂「気分になった」ときには、行為の前に、兵助への宣言が挟まるようになった。

「兵助、今夜なんだけど……」
「ああ、ね。了解」

 極めて爽やかに受け答えが行われるが、その実は〈自慰をするから部屋を外してくれ〉、と言っている。勘右衛門はこのやり取りをする度(そして兵助の「なんともない」といった応答を見る度)、頭を抱えたい気分になっていた。
 何が楽しくて、他人に、自分の自慰行為のタイミングを知られねばならない。しかも、よりによっておかずにしている相手に、だ。「はかどった?」と翌朝に尋ねられるのには慣れた。けれども、陽光に立つ兵助の姿が、解き放ったはずの性欲を呼び寄せる。勘右衛門はいつも、「ま、まぁね……」と答えることになるのであった。

 ある夜、いつものように(と表現するのも、勘右衛門にとってはうんざりであったが)勘右衛門が頼み事をすると、兵助はこのように答えた。

「俺もしようかな」

 それを聞いた勘右衛門の心中たるや、大変なものであったろう。物分かりの悪い自覚は、勘右衛門にはない。ましてや、五年間寝食を共に過ごした間柄である。兵助が「俺も〈一緒に〉しようかな」と言っていることは、容易に分かった。

「兵助さ、」
「、ウン?」
「どこまで分かってる?」

 かたや兵助の方は、聡明でありながら、どこか螺子が外れていることも多い。先般、厠で相対した際には、自分の行為について見抜かれてしまったものの、頭の中まではどうだ。そこのところを確かめておきたく、勘右衛門は尋ねたのである。

「どこまでって、何が?」

 疑問を疑問で返される。この調子であれば、ばれてはいないだろうか。勘右衛門にとってはほっと胸をなで下ろす場面であるが、そこでむくり、別の気持ちが沸いてくる。

「兵助いま、どんなこと考えてる?」

 純然たる興味。当然のことでもある。自分が繰り返し、相手のあられもない姿を想起する中で、相手はどのように考えているのか。街の女の子。いつか読んだ春画。兵助が何で奮起するのでも、それを知ることは勘右衛門にとっても、興奮材料たり得るものだ。

「な、なんだよ急に。関係ないだろ」
「関係なくないって。ね。教えてよ」

 勘右衛門は兵助の方ににじり寄る。兵助は嫌そうな顔をして、腕を伸ばして拒む。つれないことすんなよ。やだ、勘右衛門、なんかおじさんくさい。

「じゃあさ兵助、」

 じと、と濡れた視線が刺さるが、勘右衛門は構わず、こう言い放つ。

「見ててもいい? おれ」
「え……見てどうすんの」
「見るだけだから」

 とうに頭は沸騰して、その言葉の正常な意味も知れない。渋々了承したのだろう、兵助は自身の袷をくつろげ始める。ごくり、と固唾を飲んだ音が、聞こえてしまっていようが、お互いもう、後戻りもできない。勘右衛門は正座をして、兵助の様子を見守っていた。太股を強く拳で押さえているので、段々と足の裏が痺れてきたように感じたが、それも気にならないくらいであった。
 兵助は頑なに目線を合わせようとしない。下帯が解かれて、膝立ちの状態から腰を下ろし、ゆるく開脚した姿勢となった。

「……たってる」
 
 ゆるく立ち上がった兵助の性器を見、勘右衛門は感嘆してそう言うが、兵助は答えず、代わりにスゥ、と息を吸っただけだった。白い手がそこに伸び、添えられる指は、心なしか震えているようだ。
 勘右衛門は、その光景を目の前にとらえ、想像をふくらませていた。ぺたりと這わされる指にしなやかな質量が乗り、擦るように動かした後には堪えるような声が降る。見ているだけで、自身の体の中心に血が集まっていくのがわかる。自分のそれと同じ機能を有しているはずの性器は、兵助のものであると認識すればたちまち蠱惑的であり、それを自らの手で弄ぶ兵助を観察していると、自分と相手の境目が曖昧になっていくように感じられた。

「……なにが」
「……へ?」

 不意に兵助が声をあげるので、夢中になっていた勘右衛門はそれを恥じ、熱くなる頬を手で仰ぎながら答える。

「なにが楽しくて、こんな……!」

 声と共に何かが飛んできて、勘右衛門の顔にぶつかる。見れば、兵助が先に脱いだ袴であった。

「いった……」
「ごめん、でも」
「……いいよ」

 かかる諾の声を疑問に思い、兵助が顔をあげたときだった。

「っ、むぅ、んん!」

 勘右衛門は、兵助に口づけていた。驚いた兵助が抵抗し、はじめはすぐに離れたものの、続けて二度、三度とくちびるを吸う。

「ちょ、かん……勘右衛門!」
「……ん?」
「ん、じゃな、む……吸うな!」
「いーじゃん。だめ?」
 触らないからさ、お願い。そう上目遣いで頼まれると、断ることができない兵助である。返答がないのをいいことに、勘右衛門はふたたび、兵助のくちびるに自らのくちびるを触れさせる。

「こうしてるとさ、ハ、きもちい、でしょ?」
「…………!」

 勘右衛門の目は、とろけきっていて、それを目にした兵助は慄く。「触らないから」という言葉を守っているつもりなのか、勘右衛門は兵助の手の甲にだけツンと触れ、自慰の続きをするようにと促してくる。

「ほら、兵助。触って……」
「ん……そんな、そんなの」
「そんなの……何? きもちい?」

 言われて、脳が煮えたように思う。勘右衛門は兵助の首に腕を回し、瞬きもせずに見つめてくる。横髪から、汗が滴り落ちている。「近い」と文句を言っても聞いてはくれない。この行為の異常性を、兵助は今更ながら自覚し始めていた。

「ふふ、兵助、嫌そう」
「くっ、見るな、見るなよ……!」
「やーだ。見ていいって言った」
「ふざけんな、へんたい……」
「変態はそっち。俺といない夜、なに考えてた?」
「…………!」

 心当たりは大いにあって、返す言葉もない兵助である。

「ウワッ! 兵助またでっかくしてる、へんたいだ!」
「うるせーっ!」

 後日、「あの嫌そうな顔が抜けるんだよね」、と話す勘右衛門が教室に居て、兵助に殴られていたとか、そうでないとか。

おわり








「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -