▽ 7.蓮の浮き葉に
木陰に身を隠し、荒い息を整える。
明確に左足の鈍痛が悪化していた。これは、よくない。
一度露に濡れたせいか、包帯はもはやあまり意味をなさなくなっていた。
7.蓮の浮き葉に
「はぁ…はぁ…っ!!」
段々走る速度が遅くなっているのは自分でも感じる。体力がそろそろ限界だ。
この炎天下、水分もろくに摂らないで走り回っているから当然か。
さっきまでは確かに駅の方向へ向けて走っていたのだが、途中また目の前に落下してきたあの悪霊のせいで、道から逸れることを余儀なくされた。
もう、何匹いるのか数えていない。
コンクリートで舗装された未知を歩くことは許されず、獣道を頼りない足取りで走り回る。何度も木の根や藪で蹴躓いた。お陰で服はボロボロだ。
急速なやってきた夕暮れが、空を不気味な赤に染めている。緑だった木の葉が、赤に照らされて最早元の色を失っていた。
獲物になった気分だ、と感じた。
狼の群れに狩られる獲物。集団で一匹を追いまわし、最後、じりじりと追い詰めて喉を食い破られるそれ。
明らかに自分も誘導されている。人気のない場所へ。
もうどちらが正しい方向なのかも定かではない。
「っ、……」
唐突に、かくんと膝が折れたのだ。
一度止まってしまうともう動けない。いう事を聞かなくなってしまった膝を、動かそうとする気力もない。
全身から力が抜けた。近くの木もたれ、冷たい幹に身をまかせる。
一瞬感じた悪寒。
目を開けてあたりを見回せば、少なくとも前方に三匹。
(どうなるんだろ…)
自分。食われたりするのかな。
ごめんなさい鬼灯さん、自分からここにいてくださいなんて頼んでおいて、結局、最後まともなお別れも言えなかったよ。
ちゃんと地獄に帰ってくださいね。そうじゃないと、鬼灯さんの部下の人が大変みたいだし。
首はまわらないが、多分背後に二匹以上いる。重いものを引きずるような音が不気味に響いていた。
円状に囲まれた。これで本当に、逃げられない。
三匹の姿がはっきり見える程度の距離までそれらは近づいて来た。
痛いのはやだな、もうちょっと生きてたかったなぁ。
ぼんやりと思いつつ、ゆっくりと目を閉じ…
ようとしたのだが、いきなり肩に重いものがのしかかる。
い、痛い。こんな乱暴なのか。
「ちょっと、女の子一人に寄ってたかるのはよろしくないんじゃない?」
思わず身体が跳ねた。
ものすごく近くで聞こえた男の人の声。そりゃびびるわ。
なにあの悪霊ってこんなにイケボなんですか、と思って目を開ければ、またもものすごく近くにあった美男子のお顔に吃驚仰天する。
「うおおお!?な、何!?」
「…君ね、もうちょっと女の子らしい声でないの?」
といってこっちを見つめ返してくるその人。
あ、この人、今気が付いたけど、
「…さっき干されてた人だ」
「干された記憶ないんだけどな!!」
ていうか、なんで。どっから来たんですか。
私は今悪霊に取り囲まれているから、こんなに唐突に現れてくるわけがないのだ。
どうやらその人は、私の肩に腕を回しているらしい。どうりでやたらと顔と顔の距離が近いわけだ。
「あの、あなたは…」
「僕、白澤ね。よろしく」
「はぁ、こちらこそ…っていう場合じゃ、ないんですけど…」
周りをちらりと見れば、さっきより悪霊達が私たちから離れているような気がするが、囲まれていることには変わりない。
白澤と名乗った人の袖をクイクイと引っ張り、声をかける。
「うん、なに?随分かわいいことするね」
「違ッ…!じゃなくて!あの、白澤さん…も、あの変な化け物が見えるんですか?」
「もちろん」
笑顔で返って来た言葉に、どこか安堵する。
しかし、安心しきる状態ではない。悪霊達は警戒するように距離をとっているように見えるが、もしかして、白澤さんを警戒しているのだろうか。
「これ…助かる見込みあると思います?」
そんなことをおずおず聞いてみたら、ニッコリとした笑顔が返って来た。
「僕は君を助けるために来たんだよ」
そしてウィンクを決めて見せる。うん、いい笑顔だけど、カッコイイんだけど、なんか胡散臭いんだよなぁ。
「……できるんですか?」
「恐ろしいほど冷めてるね…」
「いやだって、さっきまで気絶してたし…」
むしろ私はあなたを助けるために囮となった結果、こんな目に遭っているんですが。
気絶のことをつっつけば、ぎくりとした身体をこわばらせる白澤さん。視線はあらぬ方向へ向いていますが。
「い、いやさっきはホラ、落下してきたの衝撃で…ね?」
やっぱり落下したのか。そしてひっかかったんだな。ていうか、よく無事だったもんだ。
とにかく、といって私の頭へ手をやる白澤さん。そしてやっと、まわりの悪霊に視線をやった。じろりと舐めつけるような視線で睨みつける。
「どう…するんですか?」
「え、そりゃ逃げようよ」
さっき助けるって言ったのは誰だったか。
なんだかほんとにこの人(?)、信用していいのかな。段々疑わしくなってきたぞ。
白澤さんは私をじっと見つめていたのだが、突然またあの笑顔に戻った。
思わず首をかしげれば、
「一人でよく頑張ったね」
と、言われた。不意打ちだ。思わずこちらを見下ろす金色の瞳を見つめ返してしまった。
唐突に、眠気に襲われた。
抗う間はない。
強制的に睡魔に引きずり込まれる。なんで、と疑問を持つ間も無い。
意識を手放す寸前、白澤さんの金色の両の瞳の他に、もう一つの視線を感じた気がする。
*
糸が切れたように崩れかけたその子を受け止め、抱きかかえる。
いつも抱く女の子と変わらない体温。しかし、まだあちらの世とは縁遠い存在だ、彼女は。
規則的な寝息をたてる口許には泥がついている。口許だけではない。
顔、服、足。左足には、ひっかかっていると形容したほうが的確な包帯が巻かれている。
いっそのこと取ってしまおうと思い、それを引っ張る。
瞬間に感じた、見覚えのある気配に思わず眉根を寄せた。
「あぁもう」
気のせいだったらよかったのに。
恨めしそうに包帯を投げ捨て、改めて悪霊に向き直る。
数が増えていた。ぐるりと周りを見渡せば、二十じゃきかない数だ。皆一様に重たそうな身体を引きずって、声は出ないのか、何事か叫んでいるのか口を動かしながらこちらを見ていた。
珍しく現世に降りてきた神獣を喰らおうと、さまよい出てきた悪霊か。
はぁ、と溜息が出る。
無風の林の中、白澤の三角巾と耳飾りだけがなにかに吹かれて揺れた。
白澤の雰囲気の変化を読み取ったのか、周りの悪霊たちが身をかがめていた。こちらへとびかかるような姿勢だ。
三角巾を外せば、金に近い色の角が外気に露わになる。
もしかしたら、これが神風というものかもしれない。
ふわりと前髪が持ち上げられた。
朱色の参の目が一瞬嫌な光を帯びて光る。
じわじわと、白澤の周りから白が溢れだした。靡くそれは尾、だろうか。
「さて、どうしようか」
あの子には逃げると言ったが、そんな気は毛頭ない。
愚かにも、神に弓引いた化け物が辿る末路というのを、教えてやらねばならない。
*
ふわふわとして心地いい。
自分の体がやけに軽い気がする。
なんだろう、この感覚。今まで体験したことがない。
重い瞼がやっと動いた。ちかりと眩しい人口の光に思わず眉を顰める。
どこかな、ここ。
「おはよー」
「ぅおああぁあ!!!」
思わず思いっきり身体を起こす。そしてガツンという衝撃。頭上で聞こえた「ぐはっ!?」という短い悲鳴。
危うくまた意識が飛ぶとこだった。
「痛っ…!!?ちょ、待って目ェ見えなくなったんだけど…」
「えええ!?ごめんなさい!!」
目覚めてすぐ、白澤さんの顔があった。上から覗き込んでいたのか。それにしても距離が近い。
思わずビビッて身体を起こしてしまったので、白澤さんの頭と勢いよく衝突したのだ。ごめんなさい白澤さん。私も一瞬星が見えたよ。
そして今理解したけど、どうやら私は白澤さんに世で言う膝枕をしてもらっていたらしい。白澤さんは横長のベンチに座っていて、そこに私を横たえる形で。ひぃい恥ずかしい!!
白澤さんはよく見たら白衣を着ていなかった。白い服ではあるのだが、中華風のあしらえの服。チャイナ服でいいのだろうか。
そして今チャイナ服の白澤さんと聞いて女物を想像した人。絶対いるよね。私もです。表現がまずかった。
「いや、大丈夫…君は?」
苦笑いしつつ額を抑える白澤さん。よく見れば、白澤さんの膝に白衣が畳まれていた。どうやら、私の枕代わりに敷いておいてくれたらしい。しかもご丁寧に、汚れていない裏面にして。(そういやこの人も泥まみれだったな。)
うん、この人、やっぱりいい人だよ。
「だ、大丈夫です」
「そっか。よかったよかった」
「あの、白澤さん」
そこでやっと気になっていたことを聞こうとすれば白澤さんは「なーに?」と首を傾げて先を促す。
「私、あの悪霊とかに囲まれてから記憶が曖昧なんですけど…」
「あー、なんかね、いきなり気ィ失っちゃったんだよね。疲れてたみたいだし、しかたないよ」
「すみません足手まといで…!!」
「気にしない気にしない。ちゃんと逃げ切れたしね。結果オーライだよ」
…どうやって逃げたんだろう。しかも私は気絶してるときた。
「僕、神様だからさ。あんなの余裕余裕」
聞こうと口を開いた瞬間、聞き捨てならない言葉が聞こえた。
開いた口は間抜けに空いたままだ。きっとすごく間抜けな顔を晒しているに違いない。
「……かみ…?」
ぼくはしんせかいのかみとなる!!
みたいな?
「………なんでそんなに疑わしそうなのさ……」
さっきからちょいちょいそうだよね君、と突っ込まれてスイマセン、と謝る。
だって、いや、いきなり「私は神だ!!」とか言われて「へぇすごいですね!!」ってなる流れの方が違和感ありまくりだ。おかしい。
「知らない?中国神獣白澤。一応吉兆の印とかよばれてるんだけど」
「神獣…」
ニャンコ先生みたいなイメージでいいのか、神獣って。いまいち実感が湧かない。そりゃそうだ。
しかしこの人は妖怪や幽霊が視認できて、尚且つ私をあの悪霊から救ってくれた人だ。
悪い人ではないんだろう。
「…ま、生きてる君に言ってもね。納得しろっていうほうが難しいか」
なんか怖い一言が聞こえましたが。
てか、死んだら神様の存在を認めるような出来事があるのだろうか。そんな伝説の生き物がたむろしてるとこなの?あの世って。
「あ、そうだ。名前教えてよ」
私がもんもんとそんなことを考えていたら。白澤さんから名前を尋ねられた。
「橘由夜です。白澤さん、助けてくれてありがとうございました!」
「不客气」
にこりと人懐っこいような笑みと共に返って来たのは流暢な中国語(多分)。え、なにそれかっこいい。
この人ホントに中国の神獣なんだなぁ。
***
白澤さんの最後のあれは「どういたしまして」です。
鬼灯さん、すみません。ほんと、すみません。
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