▽ 5.覚めざらましを
「じゃんけんにしましょう」
「いや今回ばかりはダメです」
「じゃんけんにしましょう」
「もっと男性に対する危機感を覚えなさいと言ったばかりですよね」
「じゃんけんにしましょう」
「人の話を聞きなさい」
5.覚めざらましを
と、いうことで寝床についてもめています。
そうだよ、そんな重要なことなんで忘れてたんだ私の馬鹿。今に始まったことじゃないけどな。
私は「鬼灯さんは疲れてるんだからここのベッド使ってください」と言おうとしたのだが、「鬼灯さんは」と言ったところで本人から拒否の言葉で遮られた。酷い。
「まだ何も言ってないんですけど…」
「どうせ私にベッド譲ってあなたは床で寝るとか言うつもりだったんでしょう」
「御推察の通りです」
「ダメですこればかりは承諾しかねます」
私のことはいいですからさっさと寝なさい。いやでも鬼灯さん一応お客さん…。さっさと寝なさい、このやり取りが暫く行われること前話と同じくらい。
風呂に続いてこんなことで言い争っていたが、やはり埒が明かないので私はじゃんけんを再び考案。しかし鬼灯さんに認めてもらえなかった。なにゆえ。
「鬼灯さん三徹した後なんでしょう?疲れてるじゃないですか」
「そのあと気を失うように寝たので大丈夫です」
あぁ、本人でもあの爆睡が異常な自覚はあったのか。
「なんでじゃんけんダメなんですか…」
「じゃんけん云々以前に、男が女性を差し置いてベッドで寝るのはいただけません」
「そんなもんですか」
理解できないんですけど。別にいいじゃん。と続けても鬼灯さんは断固として首を縦には振ってくれなかった。
いいから寝なさい、いやでも、といった言い争いの終いには、
「言うこと聞かないならば、殴って昏倒させてでも寝かしつけますよ」
「オヤスミナサァイ!!」
とかなんとか言われたので私はベッドへ向かってダイブするほかない。
そんな乱暴な寝かしつけ方は御免だ!!
ちょうど暑い時期で良かった。最初のように鬼灯さんは私の上掛け布団を床に敷いて、その上で寝ることになる。
部屋の電気を消して、衣擦れの音しか聞こえなくなるとなんだか急に心音が喧しくなってくる。
明確に人を意識する感覚が音だけだというのは、こんなにも緊張するものか。
同じベッドで寝ているわけではないのに、やたらともう一人の存在を意識してしまう。
ぼんやりと暗闇に目が慣れた来たころ、下を見下ろせば、私とは反対側を向いている鬼灯さんの後頭部が見えた。
「あの、鬼灯さん」
「…なんですか」
こちらは見ずに答えが返って来た。
「寝にくくないですか」
「……大丈夫ですから、寝なさい」
と、淡々と返ってくる。「おやすみなさい」というとそれも当たり前のように返ってきて、思わず口許が緩んだ。
幼いころ、家族と川の字で寝たことをうっすら思い出した。何年前のことだったか。もう定かではない。
*
寝苦しい。
じめじめと身体が熱く、だるかった。
身体の感覚はしっかりしているのに、なかなか思うように体が動かない。
必死に目を開けようとするのだが、瞼がいうことを聞かなかった。
やがて、呼吸すらも危うくなってくる。苦しい。
「っ……!!く、っ……!?」
やっとの思いで開いた瞼。私の視界がまずとらえたのは。青白い手だった。
「はっ…!?」
そして長い髪。その姿には見覚えがある。この部屋にずっと住み憑いているあの女幽霊だ。
その幽霊が私にのしかかって、私の首を絞めている。おそらく。
涙でかすむ視界は曖昧で、幽霊の姿かたちも最早曖昧だ。
感覚でわかるのは、右手が動かないこと、首が絞められていること、幽霊がのしかかっている腹から下は重だるいこと。
長い髪がだらりと頬にかかる。それを払う余力なんて、持っていない。
なんとか空いている手で押し返そうとしてみるが、だめだ。手を持ち上げることさえも叶わない。
急速に遠くなる意識。頭の奥から暗転する。
ガンッ!と激しい衝撃音がそれを阻止した。
ベッドのスプリングがひときわ大きく軋んで、自分の上から重みが消えた。それと同時に倦怠感や妙な暑さも嘘のように消失する。
こみあげてきた吐き気に、自由になった両手を首と口それぞれあてて必死にむせ込む。
気持ち悪い、独特の酸っぱさが寸前までせり上がってきたが、身体を丸めてなんとかやり過ごした。
「由夜さん、大丈夫ですか」
鼓膜を揺るがす低音。
生理的な涙は今だ止まらず、曖昧なまま声の方を向けば、さっきと嫌な暑さとは違う、人肌の暖かさを感じてとっさにそれを掴んだ。
ごとんごとん、と荒々しく何かが床を這う音。それはわずかに私から遠のいている。
少し息が整い、視界も曖昧ながら認識できるようになった。
どうやら鬼灯さんが、幽霊から守るように、私をベッド上の壁側に押しつけている状態らしい。
咄嗟に掴んだのは鬼灯さんの裾。
幽霊は鬼灯さんと相対するように、床で四つん這いになってこちらを見上げている。黒い髪が床に散らばり、何かの獣のようだった。
鬼灯さんも、その幽霊から目を離さない。
不意に、幽霊が一度身を低めたのが見えた。それに反応するように鬼灯さんは僅かに身構えたのが、密着している背中を通して伝わる。
しかし、幽霊は闇にとけるように消えていったのだ。姿がぼやけていると思った次の瞬間には、もうすでに消え失せていた。
ようやく生きた心地がした気がする。
思わず目の前の背中にしがみ付いて、溜息を盛大に吐いた。
「あの、暑いんですけど」
「うおぁあすみません!!!」
ものすごく近くで響いた低音に、文字通り飛び上がった。
そして到底女とは思えない叫び声をあげてしまったわけですが、後の祭りですね。
窓から僅かに入る月明かりが頼りの闇の中、目の前の、ほんとに目の前の距離にいた鬼灯さんがすっと離れていった。
少しの間密着していた温度が離れ、私はその後ろ姿をぼんやりと見ていたのだが、いきなり視界が真っ白になった。
まぶしい。
どうやら鬼灯さんが電気をつけたらしく、いきなりの人工の光に慣れない私は何度も瞬きをする。
「怪我はありませんか」
そして再び近づいてきた鬼灯さんに言われて初めて、絞められていた首元へ手をやる。軽く摩ってみるが、痛みはない。息苦しさはあるけど。
しかし首というのは、自分じゃどうなっているの見えない訳で。
「上を向きなさい」
と、言われたので素直に天井を見上げる。顎に鬼灯さんの手があてがわれ、更に首が反らされる。うん、
「ぐっ、ぐるしっ…!!」
「我慢なさい」
私の訴えには聞く気がないようだ。聞こうよ。
どうやら鬼灯さんは私の首元を覗き込んでいるらしく、しばらく私はまぶしい天井と睨めっこ状態になる。
あの、鬼灯さん、そろそろ血が上って頭が爆破しそうです。
危うく鬼灯さんの手で殺されかけたが、寸前でお許しが出たのですぐに首を回してリラックスする。フラフラするよ鬼灯さん。主に貴方のせいで。
「痣にはなってません。大丈夫です」
「ちょっと頭がくらくらして大丈夫じゃないです…」
「あなたの頭が大丈夫じゃないのは薄々感じてました」
「その意味の頭じゃなくて」
ていうか今さらっと酷いこと言いましたよね。
鬼灯さんはどかりと床に胡坐をかき、半ば責めるような視線でこっちを見つめてきた。
うわぁ、またこれですか。
「それで、さっきの幽霊は?顔見知りですか?」
「かっ、顔見知りなんかじゃないですよ!!なんでもかんでも顔見知りにしないでください!!」
「では見覚えはありますか?」
「………私がここのマンションに引っ越してきた時から…住み憑いてて…」
「顔見知りだろ」
「違いますよ!違います!!」
くそう、鬼灯さんの冷徹なツッコミがよけい響く。ていうか今まで敬語だったのに、一瞬すごく自然に標準語だったよ鬼灯さん。
「…で、以前からこんなことが?」
「初めてです」
と言いたかったのだが。
ふとあの幽霊の髪が頬に垂れた感触を思い出す。
…嘘だ。あれは初めてじゃない。多分、昨日の夜かそこらに、今日と同じ目に私は…
「嘘ついたら地獄逝きですよ」
「嘘っ…じゃなくて!今言われて気が付いたんです!記憶になかったんですけど今まで!」
そういって慌てて弁解すれば、ものすごくうさん臭そうな溜息とともにじろりと睨まれた。こっわい。
続きを言えと。そういう事か。
「いや、今まで目につくことはあったんですけど、直接被害を被ってないからいいかなぁって…」
「………なぜあなたのような危機感の欠片もない人間が、自然淘汰されないのか…たいそう不思議です」
「どういう事ですかそれ!!」
なんかものすごく失礼なこと言われた気がする。
とにかく、と鬼灯さんが軌道修正し、話は戻る。
「あの幽霊は暫く私を警戒して出てこないでしょう、ですが見かけたら何があってもまず先に私を呼びなさい。わかりましたか?」
「む…無害でもですか」
「首絞められてんでしょうが有害ですよ思いっきり」
「スミマセン…」
だめだ、この人に反論ができそうにないぞ。多少気分が萎れつつ、再び鬼灯さんが電気を消したので眠ることになる。
ベッドに横になり、そういえば、と思い立った。
さっき、鬼灯さんはあの幽霊から私を助けてくれたんだよなぁ、と。
じんわりと暖かい人肌の温度を思い出す。広い、男の人の背中だった、とも。
改めて思い返すと恥ずかしい。こういうとき布団はあったら思いきり頭からかぶり直すのだが、生憎鬼灯さんが敷いている。
しかたなく頭を抱え込んで丸くなり、睡魔の到来を待ってみたが来そうになかった。
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