▽ 16.暮るるかと
バチッ!という激しい音が耳元で響き渡った。
咄嗟に顔を上げ、手首を見れば赤の瞳が驚いた様に瞠目している。
しかしそれは一瞬のことで、再び幻のように消えた。
術がとけたのだ。
白澤は珍しく舌打ちを一つして、仕方なしにケータイを引っ張り出し、連絡先へのダイアルを急いだ。
16.暮るるかと
荒い息が収まらない。
人通りは少なく、ここを走り続けてから一度も人とすれ違っていない。
もはや痛みの感覚が失せ、ただただ痺れているということしかわからない。
後ろから迫ってくる寒気は相変わらずで、暑いはずなのに暑さは感じず、それどころか流れる汗に寒気すら感じる。
どんどん走る速さが落ちているのはわかっている。
しかし、振り返ってはいない。そんな暇はない。
振り返らずとも、背後から迫るその寒気が、まだ私を追い続けているということをなにより示している。
道がわからない以上、とにかく走り続けるしかない訳で。
もはや冷静な判断を下す余裕なんて持ち合わせていない私は、目に入った道へ次々と入っていく。
正直咄嗟に持ってきた日本刀は訳に立たない。
いざ接近戦になったら丸腰よりはマシかと思ったが、疲労困憊の状態で接近戦になった状態ではもう負けである。
無駄に重いし捨ててしまおうか、と走りながら考えていた矢先、視界の右から迫るものがあった。
それと同時に響き渡る壮絶なクラクション。
「ぅわ…っ!?」
目の前をすさまじい勢いで、車が走り抜けていったのだ。
逃げるこにと夢中だった私は車が来るなんて全く考えていなかったので、不意打ちもいいとこである。
咄嗟に「とまれ」と身体に危険信号を送り、足を前に出そうとしていたのを緊急停止させる。
しかし、やはり体はいう事を完全には聞いてくれなかった。
急ブレーキをかけたのはいいものの、何も履いてない足はコンクリートで踏ん張ることは叶わず。
びりっとした鋭い痛みを足裏に感じ、次いで方向感覚を失った。そして体の横面を激しくコンクリートに打ち付ける。
止まることはできたが踏ん張りが効かず滑ってしまったのだ。
思わず意識が朦朧とするが、なんとか体制を整えて再び走ろうと、
したのだが。
ここで時間をくったのが運の尽き。背後で感じたぞわりとした鳥肌と圧迫感に、私は思わず振り返る。
視認する間もなく、白い手が伸びてきて私の襟に掴み掛った。そのまま仰向けに押し倒され、後頭部を強かに打ち付ける。
視界の暗転。ずっと握っていた物は手から離れ、遠くの方でガシャンと音をたてた。
やっぱり使ったこともない武器なんて捨てておけばよかった。
そんなことを思っていると、額からぬるりとしたなにかが伝う感触。多分、血だろう。さっき強く頭を打った時に出血したらしい。
あの悪霊がついに私の目の前にまで迫り、冷たい手が私の首へあてがわれた。
私を見下す顔は恍惚としていて、真横に裂かれた口許は笑みを浮かべている。
(口裂け女、みたい)
ポマードと唱えれば逃げてくれるだろうか。
そんな現実逃避をしている暇ではないというもはわかっている。
しかし足は動かない、出血したせいで視界が曖昧、というかこのまま血が流れ続けるとこの悪霊に殺されるまでもなく死ぬ気がする、と漠然と感じる。
(死ぬ、か…)
絞められつつある首元に息苦しさを感じつつ、私は他人事のとうに「死」について思いを馳せた。
死ぬ。このままでは殺される。
でも、それでも、いいかもしれない。
意識せずに口許が緩んだのを感じた。
だって、ここで死ねば。鬼灯さんと白澤さんと、すぐにまた会えるじゃないか。天国か地獄で。
私が二人を見送って、悲しい思いをせずとも済むのだ。
二人の後を追って死ねばよかった、なんて思わずに済むのだ。
そんな思いをしたくないならば、どうしたらいいか。簡単なことだ。
二人があの世に帰る前に、私が一足先にそちらへ行って待ってればいいこと。
そう思えば、すぐ近くまで迫っている死は、拒否するものではなくむしろ受け入れるものとなっていた。
何とか抵抗しようと力を込めていた両手の力を抜いた。
悪霊はそれに対し力を緩めるわけでもなく、それどころかとどめとばかりに、絞める手に力を込めた。
身体の中のものがせり上がってくる感覚。
悪霊の狂気に満ちた目と合い、肯定するように私は持てる力を持って頷いた。
黒々とした瞳が、驚いたように細まった。
*
目を閉じれば闇。
のしかかっている「死」が、唐突に跳ねた。
びくん、と痙攣するような動きが直に伝わり、思わず閉じていた目を開く。
真っ先に目に飛び込んできたのは、銀だった。
太陽の光を存分に跳ね返し、鈍い光を放つそれ。
それは今、私の上にのしかかっている悪霊の――胸から突き出ていた。
ずるり、と勢いよくそれは引き抜かれ、それと同時に脱力した悪霊が私に倒れ込んで来る。
思わず悲鳴を上げかけたが、横からやって来た衝撃が、悪霊を私の腹の上から突き飛ばした。
瞬間、嘘のように軽くなる身体。しかし、血を流したこともあるのだろう、身体を起こす気にはなれない。
今にも飛びそうな意識の中、悪霊を蹴り転がしたと思われる人物の足元が目に入る。
「由夜さん!」
鼓膜を揺るがした低音に、自然と身体の力が抜けた気がした。
背中と肩を掴まれ上体を少し起こされて、やっと顔が目に映る。
「鬼灯、さん」
普段表情を変えない彼が、珍しく焦っている。赤黒い瞳は動揺を表すように瞠目していた。
「意識はありますか」
「は…い、なんとか」
正直もう手放しそうですが。
早口で問われた言葉に答えるのが精いっぱいで、口を動かすのももうしんどい。
ふと鬼灯さんの手元を見れば、さっきまで私が握っていた日本刀が握られている。
あぁ、さっきのアレはこの刀か。
肩と背中にあてられていた手はゆっくりと離れていき、私は再び地面に横たえられた。
私の前に屈みこんでいた鬼灯さんは、少し待っていてください、といつもの声音で告げると立ち上がり、片手に握っていた刀を持ち替える。
少し離れたところで、私からは見えないが、おそらくあの悪霊だろう、と思われるそれと対峙している。
刀を下段に構え、腰を落としている姿は、武器を使い慣れているそれだと漠然と感じた。
ほんとうに一瞬。銀色が煌めき、そのあとなにが起きたのかはわからない。
ただ鬼灯さんがそれが転がっているだろう場所を一瞥しただけであった。その後に、まるで興味が失せたように日本刀を投げ捨て、こちらへ駆け寄ってきた。
「怪我は頭部と足の他にありますか」
ふたたび私の前にしゃがみ込み、今度は支えるというよりもしっかり私の背中と膝裏へ手を伸ばした。
答えるのも億劫なので、首を振って示せば伝わったらしい。頷いたのが僅かに見て取れた。
「失礼します」
あぁ、頭がぐらぐらする。そろそろ意識の限界だろうかと思っていると、さらに不安定な浮遊感。
どうやら鬼灯さんに抱え上げられたらしい。地についてない足が怖くて、眉根を寄せたのがわかったようで、
「すぐに迎えを頼みましたから、もう少しの辛抱です」
と、いつになく近い距離から答えらえた。
それだけでひどく安心してしまった自分が情けなく、浮遊感に驚いて込めていた力も抜けた。なんて単純なんだ私。透子に言われた言葉を思い出す。
膝裏と背中に回された手から直に伝わる体温と、心音すら聞こえてきそうな距離。人肌のぬくもり。
離したくない、離れたくない、と思う。
久しぶりに感じたそれらはひどく心地よくて、私の曖昧な意識を奪うのには十分だった。
「ほおずきさ…」
「はい」
自分でも聞き取れるかあやしい音量だったが、鬼灯さんからしっかりと返事が来たことに安堵しつつ、ついに暗転する意識を受け入れた。
「…かえらないで…」
暗闇に飲み込まれる。
気絶するように眠る、というが、まさにそれだ。
しかし心地いい中そうなるのは、なかなか気持ちいいものだと一つ私は学習した。
*
かくんと、まるで電池の切れた人形のように意識を失った由夜に少なからず動揺した。
しかし耳をすませば聞こえてくる規則的な寝息に、命に別状はないと理解して思わずため息を吐く。
それは安堵もあったが、なにより呆れと困惑もあったと認めておく。
それは全て、由夜が眠る前に言った言葉が原因だ。
「言い逃げ、ですか」
卑怯だ、とも毒づきながら。それは鬼灯と白澤が恐れていた言葉でもあり、三人の内では「触れてはいけないこと」と暗黙の了解のような形であったもの。
それを彼女は、こんな形で突いてきた。
勿論、そんな事は受け入れられない。
鬼灯は自分が地獄で必要とされていると理解している。現世でいつまでも彼女と楽しく、現実から目を背けて生活するなど、自分の性格上できないとわかっている。なによりそれ以上に、生きている人間と一度死んだ身の自分が共に長時間を共有するなど、到底無理な話だとも。
埋められない年の差。
昔からこういった話は存在するのだ。
現世に生きる人と、人ならざる者とが恋に落ちるおとぎ話。
大抵この場合、人ならざる者が女のことが多いのだが、毎度そうというわけでもないらしいと溜息を再び吐きつつ。
今の時代でも勿論こういった手の話は存在する。現に数百年に幾人か、現世に降りた獄卒や妖怪達が帰ってこなかった、なんて噂話を耳にするのだ。
そんなことを考えていると、上空から感じた見覚えのある気配に顔を上げる。
ひたすらに白いそれが、空を駆けてこちらへ舞い降りてきた。
地面が近づくと、紫の煙をまとって姿を変えて着地する。その表情は珍しく、怒りを帯びたそれだ。
「…由夜ちゃんの、それ。誰が?」
と、彼女から寸分足らず目を離さず言い放った。
改めて由夜の足へ目を落とせば、自分でもその有様に眉をひそめているのがわかる。
おそらく、なにも履かずに走り回ったのだろう。この炎天下。
白かった足裏は目も当てられないほどすり切れて血が流れ、今は真っ赤に晴れている。爪は割れ、至る所が切れてしまっていた。
頭部から流れた血は鼻筋を伝っている。髪を上げて傷口を確かめたが、早く手当をして止血するに越したことはないだろう。
そして、首には絞められたと思われる跡。
「由夜さんの部屋に、以前から憑いていた悪霊の仕業です」
「…たしかに妙な気配は残ってたけど」
「あなたがこちらに来る前に私が追い払いました」
「…運悪くまた会っちゃったのか、この子は」
それで、と白澤は続ける。
「その悪霊は?」
逃がしたなんて言ってみろ、と半ば脅しが籠っている声に、無言で落ちている日本刀を顎で示した。
「…なんで日本刀?」
「由夜さんが持っていたようで」
「はぁ…マトモに使えないだろうに」
そういって日本刀を拾い上げ、じろじろと物色していたが飽きたように地面へ捨てた。
それと同時に戻るか、と呟いて。
「早急に手当を」
「わかってるって」
ぶわりと舞い上がる白。風になびく鬣の部分へまたがり、由夜を落ちないように抱き留める。
そうすると、鼓膜に直に響くような声が不満そうにつぶやいた。
「お前も乗るのかよ」
「無能な豚が彼女を落としでもしたら困りますから」
「普段から僕を蹴落としてる奴がよく言うよ」
そう言うと同時に、地面を蹴った白澤はふわりと空へ舞い上がる。
心なしか、先よりも良い顔色で眠る由夜に、ほっとした。
やはり吉兆の印が傍にいるからだろうか。
ふと、由夜が眠る前に言った言葉を思い出し、白澤へ声をかける。
「おい。白豚」
「お前だけ落とすぞコノヤロウ」
「由夜さんが意識を失う前に、なんて言ったと思います?」
「さぁ?ありがとう、とか、ごめんなさい、とか?」
「「かえらないで」と」
僅かに乗っている身体が小刻みに揺れた。笑っているらしい。
「そりゃまた。言われたね」
「ええ、言われてしまいましたね」
「で?どうするのさ」
あえてそう聞いてくるのは、やはりからかいだろう。
腹の目がすべてこちらを見つめているのも腹立たしい。
由夜を乗せていなければ、なんのためらいもなく蹴りつぶしたのだが。
「帰りますよ」
決まっているでしょう、と続けた。
勿論それを見越していたようで、鼻を鳴らして白澤は前を向く。
「それより速く、もっとスピードでないんですか。由夜さんの出血も馬鹿になりませんし」
「よく言うよ、お前がもっと早く由夜ちゃん助けに行ってればこんなことにはならなかっただろうし」
「だったらもっと早くに電話しとけよ無能」
「由夜ちゃんの退魔の術式が切れたってわかった瞬間に、お前に電話かけたんだけどねぇこれでも!!」
ぶわっと凪いだ温風に、目を瞑って下を見下ろせば、見覚えのある色のマンションが見えた。
白澤は401号室のベランダへと降りていく。
由夜が怪我をした状態で正面玄関から入るのは、他者の目があると困るからだ。
音もなくベランダへ降り立ち、あらかじめ鍵を開けておいた窓から部屋に入る。
もうこの部屋で夜を過ごすのも、片手で数えられる程だろうと思いつつ。
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