▽ 13.寝たる夜は
それは唐突にやってきた。
13.寝たる夜は
まだ視界がはっきりしない。
真夜中、暑さに耐えきれず時々目を覚ますほどになってしまったので、やむを得ずタイマー式でクーラーをつけることになった。
それから数日、安眠という何よりの宝を獲得した私たちは、暑さに妨げられることもなく眠っていたのだが。
聞き覚えのない音が暗闇の底で聞こえ、ゆるりと睡魔から手放される。
「……………。」
目覚めてみれば、もうすでに七時を回っている。
ピリリリリ、という高めの電子音。
聞き覚えがない音だ。
私の携帯の目覚まし音、着信音はとあるCMのメロディである。この着信音は私のものではない。
わずかに安堵したが、合点した途端、すぐさま意識が回復した。
私の携帯ではない、ということは?
衣擦れの音の後、珍しく慌てた様子で起きたような鬼灯さんが、彼の寝ていた枕元をあさる。
黒い携帯。
私が今まで、一度も鳴ったところを見たことのないそれが、着信音を奏でている。それはつまり。
「もしもし」
耳にあてると同時に電波がより届くと思われるベランダへ、早足に向かう鬼灯さん。
その騒ぎで起きたらしい白澤さんが、向こうの布団で頭をかきながら鬼灯さんの後ろ姿を見つめていた。
後ろ手でベランダの窓を閉め、何事かしゃべっている鬼灯さん。
何を話してるんだろう。
「あいつ、携帯繋がったの?」
欠伸をしつつ、そう聞いてくる白澤さん。
「…みたいですね」
「へぇ、良かった。これでちょっとは帰れる目途がついたよ」
と、あっさり言い切る白澤さん。
これは、暗に私に言い聞かせてるようにも感じる。
深追いするなよ、と。
「……………。」
本当は、この二人が帰れることを喜ぶ場面なんだろう。
でも、という気持ちが、白紙に一滴墨を垂らしたように広がる。
それはもうどうしようもない。消すことは、できない。
墨が垂れた紙を諦めて、新しい紙へ描かなければ。
自然と、布団を握る手に力が籠った。
想像する。この二人が帰った後のこの部屋を。
二人が使っていた布団は、もう、暫く使うことはないだろう。
最初と同じく片づけてしまい、二人の使っていた茶碗や橋もそのままとなる。
確かにこの二人がこの部屋にいた、という跡だけを残して帰ってしまう。
それはあまりにも悲しい。
「ねぇ、白澤さん」
「うん?」
「白澤さんって、普段は天国にいるんですよね」
「そうだよー」
「天国っていいとこですか?」
「そりゃもう。これいじょうないくらいにね」
そっかぁ、と頷き無意識に膝を抱え込んで目を伏せる。
ベランダからまだ鬼灯さんも出てこない。
「ダメだからね、由夜ちゃん」
ふと、間近で聞こえた声にハッとして顔を上げた。
そして反射的に身が強張る。
白澤さんが、いつの間にか距離を縮めたのか、目の前にいる。
それは息がかかりそうなほど、という表現を用いるのにふさわしい距離だ。
それに加え、彼の目がいつになく真剣味を帯びている気がしたのだ。
金色の瞳は鋭い色を灯し、心なしか瞳孔もはっきりとみてとれる。獣の色だ。
身を引きかけた私の肩を強く掴み、見下ろす形で続ける。
この間見た、神獣の気配がすぐ近くにある。
「早まっちゃだめだよ」
「え……」
思わず出た声は、予想以上に震えていた。
そしてきっと、白澤さんは気が付いている。
この二人が帰ってしまったあと、私が最悪、どんなことに陥るかということに。
一瞬だ。本当に一瞬。考えてしまった。
確かにこの二人がいる前の生活も楽しかった。きっと周りの、私よりも不幸な人間はたくさんいるだろう。そんな人達に比べれば、私は十分幸せなはずなのだ。
しかし、この二人がきたことで、もう、それ以前の生活が考えられなくなってしまったのだ。
毎日がファミレスかコンビニ弁当で済ませていた私だったのに、この人たちが来てから毎日三食手料理になった。
私はこの二人の手伝いをした。毎日、毎食のメニューを決めるのが当たり前になった。
押入れから布団を出して、三人一部屋で寝るのが当たり前だった。
シャワーを浴びるだけでなく、お風呂も毎回お湯を張り、数日ごとに当番制で湯船を洗った。
朝、鬼灯さんに起こされるのが日課だった。そして私よりももっとひどい起こされ方をする白澤さんを、面白半分心配半分で見るのが朝だった。
私が何か言えば、返ってくるのが当たり前だった。
この二人が来てから、言うようになった挨拶。
それは本当に些細なことだ。おやすみ、おはよう、いってきます。
それが、もう、返ってこないなんて。
これが、なくなるなんて。
二人が、いなくなるなんて。
そう、だから考えた。
この世界で、ずっとこの二人のことを引き摺って生きるよりも。もう、いっそのこと。
「由夜ちゃん」
ぐっと掴まれた肩に力が籠められる。
金色の瞳は相変わらずこちらを射抜いていた。
「僕とアイツは人間じゃないの、わかるよね?」
「わか、りますけど」
「由夜ちゃんが人間なのも、わかるでしょ」
「わかります、」
「だめなんだよ、ずっと一緒になんていられないんだ」
ごめんね、と言われ、更に強い力で引き寄せられた。
温かい
「だから早まらないで」
背中に回された手も、近い息遣いも、体温も、人間と変わらない。
僅かに震えた息が、耳元に近寄った。
何かを言いかけたが、ためらったように口を閉じると背中の手もするりと解く。
そして、眉間に皺を寄せたままベランダへ顔を向けた。
「あと何十年先かわからないけど。由夜ちゃんは死んだ後、必ず天国に来るよ」
「は、はい」
「絶対また会えるから。必ず会えるから。だから、僕とアイツがいなくなったからって」
追いかけて死のうなんて思わないでよ、とつづけられた言葉は酷く辛そうで。
(あぁ、やっぱり)
この人に隠し事は通じない、と。
重く長い溜息をついた後、少し口角を上げて白澤さんは続ける。
「アイツも、多分由夜ちゃんが僕たちを追っかけて死んじゃった、なんてことになったら怒り狂うよ、絶対」
「…そうですか?」
「うん、そう。多分賽の河原でずっと石積させられちゃうよ」
「そ、それはやだなぁ…」
賽の河原って、あれだっけ。親よりも先に死んだ罰、みたいなのだっけ。曖昧な知識のままだが、少なくとも自らやりたいとは思えない。
「由夜ちゃんには、御両親がいるんでしょ?」
「います、よ」
もうしばらく声も聞いてないが。私から電話をするわけでもない、あちらから電話してくるわけでもない。
毎月、仕送りと思われるお金は振り込まれているが。
「じゃあ尚更。親御さん悲しむよ、絶対」
「そうですかね?」
そう聞き返すと、少し驚いたように白澤さんの目が丸くなった。
それから困ったような顔へと変わり、
「うん、ごめん。僕も家族らしい家族がいないから、わからないかも」
といって笑った。
うっすらとは感じていたが、白澤さんは神様なのだ。家族らしい家族がいない、というのもなんとなく納得できる。
ただ、それをこんな形で言わせることになってしまったことには、罪悪感を感じる。
「きっと、こんな感じですよ」
そう言えば、白澤さんは首を傾げて続きを促した。
「家族って、こんなかんじですよ。白澤さんと、鬼灯さんが私のお兄さん。私は妹」
珍しい。不意を打たれたような顔になった白澤さんは、何かを考えるように眉根を寄せた。それでもかすかに口許は笑っている。
そして最終的にはやはり困り顔になって、
「……アイツと同列なのは、癪だなぁ」
「じゃあ鬼灯さんはお母さんにしましょう」
思いついたように言えば、やっといつものようにからりと笑ってくれた。
「そっちのほうが似合ってる」
「ですよね」
じゃあ顔洗ってきますから、と言って私はベランダを盗み見て、二人へ背中を向けた。
*
ぱたん、と脱衣所のドアが閉まる音を聞き流し、ちらりとベランダの方を見つつ声を投げた。
「家族だってさ、可愛いね」
不機嫌さに磨きがかかっている気がする。
静かにベランダからでてきた鬼灯は、敵かなにかのように携帯を握りしめていた。
「聞こえてただろ」
「あんだけ派手に騒げば否が応にも聞こえます」
手ェ出すなっつっただろうがと睨みをきかす瞳から逃れるように目を閉じ、
「繋がったんでしょ、閻魔大王?」
「繋がりました。すでに烏天狗はこちらの調査に回り、あと少なくとも一週間以内には龍が遣わされて帰れるかと」
「ふうん、順調に帰れそうだね」
ふぁ、と欠伸が出た。
とたんに殺気が飛んでくる。相変わらずおっかない鬼だ。
「むしろ問題は由夜ちゃんかぁ。さっきのあれ聞いてたならわかるだろ。あっさり別れられるもんじゃなさそうだけど、なんか考えあるの」
「ありますよ」
即答に、続きを促すように視線を送れば疑問形で返って来た。
「白澤さん、あなた一応神獣ですよね」
「完全に神獣だって」
「ならば、記憶改ざん程度ならできるでしょう」
自分が真顔になったのがわかった。
すばやくそれを消し、こちらを見ている鬼灯へ視線を戻す。
「……由夜ちゃんに?」
「他の誰に施すんです」
確かに彼女を思うのならば、それが一番の手である。
自分たちとは出会ってすらいなかった。
そういうことにしてしまえばいい。
しかし、それを施す前に、彼女はなんていうだろうか。
「鬼灯」
話は終わったとばかりに携帯へ視線を落としていた鬼へ声をかければ、こちらへちらりと視線をよこした。
「前も言ったけどな、お前が黙ってればいいって問題じゃない時もあるんだよ」
「覚えてますよ、珍しいあなたからの忠告でしたし」
しかし、とそいつは続ける。
「彼女の為を思うならば…私とあなたが、この現世で誰とも会わなかった、ということにし続けるのが一番でしょう」
と言い切り、携帯を持って外へ出て行った。
残された部屋の中、僕は溜息を吐き、来るその時へ意識を追いやった。
*
鬱展開申し訳ない
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