しあわせは君のかたち

澄んだ陽の光が眩しくて思わず空を見上げて目を細める。戻した視線の先に、ベビーカーを引いた夫婦がゆっくりとこちらに歩いてくるのが見えた。

「あ、泣いちゃった」

「じゃあ俺が抱っこするよ」

ナマエの近くで立ち止まった二人が覗き込むベビーカーの中からは、小さな泣き声が聞こえてきていた。何よりも大切な宝物を抱え込む丁寧な手つきで、夫の方がベビーカーの中に手を伸ばす。その幸せそうな姿から目を離し、ナマエは三人の隣をゆっくりと通り過ぎた。
ナマエがぎゅっと手の中に抱え込んだものは、あの夫婦のように柔らかな生命そのものでは無かったが、その始まりを告げる一枚の写真だった。

「…いい天気」

まだ点にしか見えないその小さな命の始まりの重さを、ナマエは確かに感じていた。



最近身体が怠いな、と感じたことがきっかけだった。数週間前の季節の変わり目に風邪を引いて、それをしばらく引きずっているのかと思っていたがどうやら違うらしい。
同時に生理が2週間ほど遅れていることにも気がついて、まさかという気持ちで初めて妊娠検査薬を手に取った。

「陽…性…?」

何度もパッケージと手元の検査薬を見比べ、それがまごうことなく陽性を示していることを確認した。
自分が妊娠しているかもしれない、と認識した途端、自身の体がものすごく大切なものに感じてきて殊更丁寧にソファーに腰を下ろす。

「…リヴァイさん」

無意識に呟いた恋人の顔を思い浮かべてそっと目を伏せた。間違いなく彼の子で、思い当たる節もある。
基本的にきちんと避妊をしていたが、時折タガが外れたようにリヴァイがナマエを抱き潰すことがあった。何度も何度も抱かれて意識が飛びそうになるナマエを引き留めるように揺さぶる最後の方、彼がちゃんとゴムを着けていたかは記憶がない。だが熱い飛沫をお腹や首元に感じた感覚だけは覚えていた。
そして三ヶ月ほど前、まさにこの部屋で正真正銘彼に抱き潰された日が運命の分かれ道だったのだろう。

(言えない…よね…)

子どもが出来たと言ったらどんな顔をするだろう。驚くだろうか。戸惑うだろうか。
それを告げた時の困ったような顔はいくらでも想像出来るのに、どうしてもリヴァイの喜ぶ顔だけが思い浮かべることが出来ない。
子どもどころか結婚の話など一度も出たことがないような彼だ。しかも仕事が順調で部下の成長を何よりも楽しみにしているらしい今、子どもや結婚は彼の負担になるかもしれない。
数ヶ月前、部下の結婚式に参列するというリヴァイと話したことを思い出す。

「楽しみだね、部下の方の結婚式」

「…フン。男の俺がはしゃいでたら気持ち悪ィだろうが」

言葉は素っ気ないが紅茶を飲むその横顔は柔らかい。粗暴なように見えるリヴァイだが、誰よりも部下思いでその幸せを心から喜んでいることはよく分かっていた。
ふふ、と小さく笑ったナマエを咎めるように横目で見ていた彼がふと目を細めた。

「そういやエルド…今度結婚するそいつ、結婚式準備の時はヒーヒー言ってたな」

「そうなの?」

「嫁さんになる恋人に、ちゃんと準備に参加しろ!って何度もどつかれたらしい」

「ああ、よく聞く話だよね。やっぱり女性は色々な憧れがあるし、男性側と温度差を感じて喧嘩になりやすいみたい」

「そういうもんなのか?」

「もちろん人によると思うけど。ドレスとかケーキとか花とか…招待状のデザイン一つ取っても自分たちで決めていかなきゃいけないしね。どうしても新婦主体になっちゃって、新郎と大喧嘩したって話、よく聞いたな」

既に結婚した友人たちの話を思い出しながらそう告げる。思えばリヴァイと結婚にまつわる話をしたのはこれが初めてのことだ。他意は無いとはいえ、内心ドギマギしてしまうのは妙齢になる女性なら仕方がないと思う。
何食わない顔をしてリヴァイの表情を窺っていたナマエだが、その顔に何も変化がないことに安心したようながっかりしたような、複雑な気持ちになる。

「…女は大変だな」

そして他人事のようにポツリと呟かれたリヴァイの言葉に確信したのだ。彼の中に「結婚」いうものは無いこと、少なくとも今の段階では考えてもいないのだとナマエは理解した。
だから子どもが出来たと彼に告げて、もし嫌な顔されたり否定されたりしたらナマエはもう立ち直れないだろう。もちろんリヴァイがそんな薄情な人でなしでは無いと頭では分かっている。責任感の強い彼のことだ。色々な思いをグッと堪えて、責任を取って結婚しよう、と言い出すかもしれない。

「リヴァイさんと…」

大好きな彼との子どもを嬉しく思わないはずがない。リヴァイが心から喜んでくれて、順番は逆になってしまったが結婚するという話になればナマエの不安も全て解消されるはずなのに、どうしてもその未来が思い浮かべられない。
ぐるぐると回る思考のまま、まだまだ何の膨らみも見せない下腹部にそっと手を当てた。



ショーウィンドウに映ったウェディングドレスを目にして、リヴァイは僅かに目を眇めた。少し前に参列した部下のエルドの結婚式の前に交わした、ナマエとの会話が脳裏に蘇る。
あの時は彼女の本心を聞き出そうと結婚式の話題を出したのに、結局リヴァイが勇気を出しきれなかったおかげでナマエの本音も何も分からずじまいだった。

「チッ…」

小さく舌を打ってドレスに背を向ける。
ナマエと恋人同士になって数年、そろそろ結婚を、と考えているのに全く動けない自分に苛立ちを募らせていた。彼女に出逢うまで結婚など考えてもいなかったリヴァイからしてみれば、プロポーズはものすごくハードルが高いことのように思えていた。

「リヴァイ、顔が怖いぞ」

「…元からこんな顔だ」

「もしかしてまだ彼女にプロポーズ出来ていないのか」

「ほっとけ」

待ち合わせていたエルヴィンが面白そうに笑うのを軽く睨めつけ、憮然と答えた。どうやらリヴァイの挙動を遠くから眺めていたようで、何を悩んでいるのか全てお見通しなのだろう。

「しかしあまり女性を待たせるのは感心しないな」

「…んなことは分かってんだよ」

エルヴィンに言われなくてもリヴァイが一番歯痒く思っている。いくつか歳下とはいえ、ナマエだっていわゆる適齢期を迎える年齢だ。今まで彼女が結婚話に触れたことは無かったが、リヴァイに気を遣っていることは明白だった。だがナマエが本心でどう思っているのか、それが分からない。

「そういえばお前のところの部下が二人、産休に入るそうだな」

「ああ。体調も良くねぇみてぇだし、あまり無理はさせたくない。可能なら早めに休みに入らせることも検討している」

「そうか。人員補充も考えなければならないな」

「当面は俺らでカバー出来る程度だが、長期的には厳しい。復職する予定らしいが、こればっかりは男の俺らには分からねぇ話だからな…本人たちとよく話をしようと思ってる」

「人員の件は任せろ。お前がそこまで考えているのを知れば、彼女たちも安心するだろう」

そんな会話を交わしながら、幸せそうに笑っていた部下二人の顔を思い浮かべる。吐き気があって大変だ、と嘆いていたが、その顔はまだ見ぬ我が子を思う慈愛に満ち溢れていた。

「…ナマエともそんな話をしてな。気を遣いすぎるくらい気を遣えとキツく言われた」

「ほう…彼女さんか」

「部下が二人、妊娠したって話をした時にな。傍目から妊娠したとまだ分からない時期が一番辛いらしいから、よく見てやれと言われた」

「こればかりは女性にしか分からないからなあ…」

感心したように呟いたエルヴィンに頷きながら、2週間ほど前に会ったナマエの顔を思い返し、表情を曇らせる。あの時の彼女は万全の体調では無さそうで、覇気がないように見えた。
心配するリヴァイに弱々しく笑い掛けたナマエが、気丈に振る舞いながら軽く手を振る。

「季節の変わり目の寒暖差にやられただけ。ちょっと身体が怠いの」

「そうか…無理すんなよ」

「うん、ありがとう」

にこりと笑ったナマエの手をそっと握る。
握り返した彼女がどこか緊張した面持ちでリヴァイの顔を覗き込んだ。

「ねぇリヴァイさん、その妊娠された部下の方、まだ仕事はされてるんでしょう?」

「ああ、ギリギリまで働くっつってたな」

「そっか…」

「めでたい話だが、あいつらが抜ける分これから忙しくなる。人員補充がくるまで暫くバタバタするかもしれねぇ。…なかなか会えなくなる」

「…仕方ないよ。その人たちのためにもリヴァイさんが頑張らなきゃね」

「男の俺に出来ることはそれくらいだからな。俺には、子どもを持つってのは想像も出来ねぇ世界だ」

女は大変だ、といつかの結婚式の時と同じように溢した言葉にナマエが息を呑んだことに、リヴァイは気が付かなかった。凍りつきそうになる表情を何とか動かし、ぎこちない笑みを浮かべたナマエが小さく息を吐く。

「…私の方も辞める部下がいるからちょっと忙しくて。落ち着くまで時間が掛かるかも」

「体調良くねぇんだろ?あまり無理するなよ」

眉間に皺を寄せて気遣うリヴァイに向けられた笑顔が、無理をしているそれに見えたことを思い出し益々表情を険しくさせる。
あれからナマエとは会えていない。メッセージのやり取りからまだ体調が回復しきっていないことが窺えて、今まで仕事終わりに行っていた外食も、やんわりと断られていた。

「…リヴァイ、どうした?」

「っ、ああ、悪ィ…」

何度か呼び掛けられていたのか、エルヴィンが気遣わしげにリヴァイを見下ろしていた。緩く首を振って雑念を追い払うが、一度思い出したらナマエを心配する気持ちはどんどん増すばかりだ。

「珍しいな。彼女のことでも考えていたか」

「…最近体調が悪いらしい。誘っても断られるばかりだ」

「ほう…」

「仕事も忙しいって言ってたからな。チッ…無理してねぇといいが…」

エルヴィンにらしくもない弱音を吐くほど恋人のことが気になっているらしい。そんな彼を興味深そうに見守っていたエルヴィンが、わざとらしく顎に指先を当てた。

「本当に仕事なんだろうな?」

「…なんだと?」

「よく聞く話じゃないか。いつまでも結婚に煮え切らない彼氏に愛想を尽かして、他の男を探す…」

「ふざけんな。ナマエはそんな女じゃねぇよ」

「冗談だよ」

ぎろっとエルヴィンを睨みつけたリヴァイに肩を竦め、「悪かった」と真面目な顔で詫びた。
この強面で無愛想な男が、ナマエという恋人を何よりも大切に思い溺愛していることは、リヴァイに近しい者ならよく知っていることだ。男のプライドとやらでプロポーズにこだわり、未だに結婚願望の片鱗すら彼女に伝えられていないこともよく分かっている。

「だがな、リヴァイ。さっきも言ったがあまり女性を待たせるものじゃないぞ。女性の方が私たち男より切り替えが早いのは事実だからな」

「…了解だ、エルヴィン」

過去に何か思い当たる節でもあるのか、エルヴィンが告げた言葉には妙な実感が篭っていた。色々な思いを呑み込んで、リヴァイも神妙な面持ちで頷く。
脳裏には「愛想を尽かされる」というエルヴィンの先ほどの言葉が、ぐるぐるとリピートされていた。



こみ上げる吐き気を堪えながらナマエはトイレに駆け込んだ。悪阻が本格的に始まったのか、ここ数日は食べられるものがめっきり減っていた。

「っ、けほ…コホッ…」

吐きたいのに吐けない状態が一番苦しいのだと初めて知った。よろよろとトイレから出て、唯一飲める飲料のレモンウォーターを口に含む。
一息ついたナマエの目が、スマートフォンに表示されたリヴァイからの不在着信を捉えた。

「リヴァイ、さん…」

妊娠が発覚してから1ヶ月、一度だけリヴァイに会ったが結局何も告げることは出来なかった。だが彼の「子どもを持つことは想像出来ない」という本音が聞けただけ良かったと思う。
リヴァイに何も告げず、このまま会う頻度を減らして別れるつもりだった。お腹が目立ってきたら気付かれてしまうだろうから、その前にきちんと別れを伝えなければならない。

「…ごめんね」

落とされた謝罪はリヴァイへのものか、それとも先日心拍が確認出来た我が子へか。
生まれてくるこの子には不自由な思いも寂しい思いもなるべくさせたくない。両親は遠方で頼れないが、幸い会社の制度はしっかりしていて育休も取れるし、復職も出来る。辛いことも多いだろうがそれでも一人で育てていく決意を固めていた。
リヴァイの負担にも荷物にもなりたくなかった。親になることを想像もしていない彼を、無理矢理父親にさせることは出来ない。

『体調はどうだ』

待ち受け画面に表示されたメッセージに目を向けて、無意識のうちに唇を噛んだ。
本当は頼りたい。縋りたい。不安で幸せなこの複雑な気持ちを共有したかった。
彼と別れることに色々理由を付けてはいるが、本当はリヴァイに拒絶されるのが怖くて仕方ないだけだ。お腹の子の存在を知った彼が少しでも困った顔をしたら、ナマエの心はきっとズタズタに折れてしまうだろう。
弱い母親でごめん、と小さく呟いてナマエは苦しげに瞼を閉じた。



『心配ありがとう。まだ良くないからちゃんと休むようにするね』

届いた返信に表情を険しくしてしまう。
ここ最近、めっきりナマエとの関わりが減ってしまったことをひしひしと感じていた。今まではどんなに多忙でもその合間を縫って時間を作る努力をしていたのに、今の彼女からはその積極性が感じられない。むしろリヴァイと会うことを億劫に思っているような気さえしてくる。
電話をしてもなかなか出ず、メッセージの返信もかなりの時間が経ってから返ってくるようになっていた。

「…どうしたってんだ」

気付かないふりをしていたが、まさか本当にリヴァイから距離を取ろうとしているのだろうか。
付き合ってから大なり小なり喧嘩をしたり、ナマエを怒らせたこともあったが、こんな風に彼女が素っ気なくなることは無かった。
もしかしたらナマエが自分から離れてしまうかもしれないと思うと、一気に指先が冷たくなったのを自覚した。

「クソっ…」

居ても立っても居られず、リヴァイは立ち上がった。そもそも1ヶ月近くナマエに会えていない。もう限界だ、と彼の心が叫んでいた。
乱暴にスマートフォンと財布だけをポケットに突っ込み、車のキーを取り上げる。
ナマエが何を考えているのかは分からないが、リヴァイが彼女を手放すことなどありはしない。もしナマエがそんなことを考えているのならどうにかして繋ぎ止めなければ、と焦る気持ちのまま部屋を出た。
エレベーターの鏡に映ったその顔はひどく焦燥感に溢れていて、リヴァイは思わず苦い笑みを浮かべる。こんなにもナマエを思っているのだと、彼女に今すぐにでも伝えたかった。



なんとかリヴァイへ返信を送ったナマエだが、倦怠感に耐えきれずソファーへ横になる。鞄も服も帰ってきたそのままで、部屋も暫く掃除が出来ていない。
散らかった部屋を一瞥して深々と溜息を吐くが、片付ける気力は湧かなかった。仕事は何とかこなしているが、その分帰宅してからの疲労感がすさまじい。その時、インターフォンの音が室内に鳴り響いた。

「…誰?」

ふらり、と立ち上がったその瞬間、一気に吐き気が襲ってきて慌ててトイレへ駆け込む。来訪者には申し訳ないが、今この状態で対応出来る気がしなかった。
吐けない苦しさと闘いながらえずいていたナマエの耳に、かちゃりと玄関の扉が開かれた音は届かない。

「…ナマエ?」

何度鳴らしても応答しないインターフォンに痺れを切らし、合鍵を差し込んだのはリヴァイだった。
恐る恐る開いた扉の向こう側には明かりがついていて、ナマエが在宅していることを示していたが出てくる気配は一切無い。
玄関に入り、迷いながらも扉を閉めたリヴァイはゴホゴホと苦しそうに咳き込む声を耳にしてハッと顔を上げた。

「っ、ナマエ!?」

一瞬の逡巡の後、乱暴に靴を脱ぎ捨てて部屋へと駆け上がった。何度となく来たことがあるナマエの部屋だが、どこか荒んでいるように見えて思わず眉を寄せる。

「ナマエ、いるのか?」

「り、ばいさ…ん?」

小さく漏れ出た声は半開きになったトイレの向こうからのようだ。慌ててそこに駆け寄ったリヴァイは、ぐったりと項垂れるナマエを目にして大きく目を見開く。

「オイ、ナマエ、大丈夫か!?」

「ん…リヴァイさ、ん…なんで…」

「そんなに具合悪いのか?ちょっと待ってろ、今病院に…」

「ちが、だいじょ、ぶ…だから…」

「大丈夫なはずねぇだろ!」

鋭い声にびくりと肩を揺らしたナマエに、しまったと顔を歪めた。心配のあまり声を荒げてしまったが、まずは彼女の状態を確認するのが先だとリヴァイは床に膝をついてナマエの肩に優しく手を当てる。

「悪い…大丈夫か?立てるか?」

「ん…大丈夫…」

ゆっくりと立ち上がったナマエの顔色は真っ白で、立っているのも辛そうだ。身体を抱えながらソファーに座らせると、とりあえず水を、と冷蔵庫へ向かった。そんな彼にナマエが弱々しく声を上げる。

「リヴァイさん、ごめん…冷蔵庫の中にあるレモンウォーター取ってくれる…?」

「…これ、か?」

開いた冷蔵庫の中に大量に収納されたそれに唖然となるが、気を取り直して一本手に取る。こんなにレモン水が好きだっただろうか、と記憶を辿るがそんな素振りを見たことは無いと思う。
ちびちびとペットボトルを傾けるナマエの隣に座って見守るが、会わない1ヶ月の間に大分やつれたように見えて眉間に深く皺を刻んだ。

「オイ、ナマエ…ちゃんと病院行ったか?」

「あー…うん…行った、よ」

「本当か?診断は?何か薬はもらったのか?」

矢継ぎ早に聞くリヴァイに思わず口を噤むナマエ。まさかこのタイミングで彼が来るとは思わなかったが、別れを告げるなら今しかない。
子どものことを話すかは未だ決めかねていたが、とにかく冷静に、と大きく息を吸う。

「お医者さんは風邪が長引いてるだけだろうって。だから大丈夫」

「ただの風邪でここまでやつれるはずねぇだろ。んなヤブ医者やめて他のところに行け。調べて明日俺が連れて行…」

「リヴァイさん、話があるの」

凛としたナマエの声に、今度はリヴァイが口を噤んだ。驚いたように揺れるその瞳をしっかり見つめ、告げる。

「…別れたいの」

大きく息を呑んで三白眼を見開いたリヴァイから視線を逸らさない。しん、と静まり返った部屋には時計が時を刻む音だけが響いていた。どれくらいの時間が経ったのか、ゆっくりと彼が口を開いた。

「…理由は」

「…もう疲れちゃった。リヴァイさん、忙しいしなかなか会えないし」

「それは…悪かった。これからはちゃんと時間を作るようにする」

「ううん、もういいの。リヴァイさんに無理させたい訳じゃないから」

「そんなのおかしいだろ。他に何か不満があるのか?それならちゃんと言ってくれ」

「だから…待ってるのは寂しいし辛くなっただけ。もう別れたい」

「…俺のこと、もう好きじゃなくなったのか」

弱々しいその声音にひゅっと喉が鳴る。
今までしっかり合わせていた視線を逸らし、一度小さく頷く。言葉は出なかった。

「本当にそうなら…ちゃんと目を見て言ってくれ」

「…リヴァイさん」

「目を見て、もう好きじゃねぇと言ってくれ」

そうじゃないと諦められねぇ、と呟いたリヴァイの両手が縋るようにナマエの両腕を掴む。
グッと血が滲むほど唇を噛んだナマエは、決意込めた顔を上げた。

「リヴァイさん」

「…ナマエ」

「私、もう…」

唇が大きく震えてしまう。大きく歪められたリヴァイの顔が泣いているように見えて、どうしても言葉が出てこない。嘘でも好きじゃないと、他に好きな人が出来たのだと、そんなことは言えなかった。誰よりも大切なこの人のことを、そんな風に傷つけることはしたくないとナマエは諦めたように掴まれた両腕からだらりと力を抜く。

「…好きじゃないなんて、そんなこと言えないよ」

「ナマエ…ならどうして…」

なんて弱いのだろう、とうっすらと自嘲の笑みを浮かべる。突き放すことも隠し通すことも出来ず、無駄に彼のことを傷つけただけだ。
深く溜息を吐いたナマエがキッと視線をリヴァイに向けた。もうどうにでもなれ、と投げやりにも近い気持ちが湧き上がる。

「子どもが出来たの」

「は……?」

「リヴァイさん、子どもを持つなんて想像出来ないって言ってたでしょ?リヴァイさんには迷惑は掛けない。ちゃんと一人で育てるから心配しないで」

ぽかん、と口を半開きにしたリヴァイがこれでもかというほどその瞳を見開くのを、冷静な気持ちで見つめていた。ずきんと痛む胸は無視して一気に告げる。

「子ども…」

「具合が悪いのも悪阻が始まったから。病気じゃないから薬は使えないし、おさまるのを待つしかない」

「なんで…なんですぐに言わなかったんだ!」

衝撃から覚めたのか、悲痛な声を上げたリヴァイに溢れそうになる涙を必死に堪える。涙を溜めた目でリヴァイを睨むナマエに、彼がハッと狼狽える。

「ナマエ…」

「だってリヴァイさんが子どもを持つのが想像出来ないって言うから!部下の方が産休に入るから忙しくなる、会えなくなるって!そう言ったんじゃない!」

「それは…ナマエ、すまない、悪かっ…」

「だからもう別れて欲しいっ…!リヴァイさんに迷惑は掛けないからっ…だから…」

「っ、何言ってんだ!」

一筋流れた涙をきっかけに次から次へと溢れるそれに耐えきれず、ナマエが顔を覆う。ぎゅっと抱き締めたリヴァイから逃れるように身を捩る彼女を強く、だが負担が掛からないようにしっかり囲い込んだ。

「なんで…別れるなんて言うんだよ…俺らの子どもだろ…」

「だっ、て…子ども、いらないって…」

「そんなこと言ってねぇだろ。大体やることやってんだ。出来たって何もおかしくねぇ」

「え……?」

きっぱりと告げたリヴァイの意外な言葉にナマエが涙に濡れた顔を上げる。そこには若干気まずそうな表情を隠さない彼の照れた顔があった。

「え…リヴァイさん…?」

「…ナマエの承諾もちゃんと取らずに避妊しなかったのは俺だ。だが…生半可な気持ちでお前を抱いたわけじゃねぇ」

「え…え…待って、じゃあ…」

「…ナマエは怒ると思うが。俺は最初からそのつもりだ」

「そのつもり…って…」

「正直言って驚いたのは事実だ。だが、子どもが出来る可能性を全く考えてなかったわけじゃねぇよ。自分勝手だが…出来てもいいと、ナマエとの間に子どもが出来たら幸せだろうと、ぼんやりだが思ってた」

「そんなこと…今まで一度も聞いたことない…」

「言ってねぇからな。ちゃんと伝えなかった俺が全部悪い。こんなに悩ませて辛い思いをさせて…追い詰めちまった」

「リヴァイさん…」

「二度とこんな思いはさせないと誓う。だから…俺と結婚して欲しい」

真っ直ぐにナマエを見下ろすリヴァイの瞳が言葉よりも明白な気持ちを伝えていた。ゆっくりと心に沁み渡るその言葉が、頑なだった彼女の心を優しく溶かしていく。

「あ……わた、し…」

「…本当はちゃんと指輪も用意して夜景の見えるレストランでって考えてたんだがな」

「それ…ベタすぎるし、リヴァイさんらしくない…」

「うるせぇよ。俺だって本気で惚れた女と結婚する為なら…何だってする」

止まったはずの涙がまだ溢れていたことに漸く気がついた。優しくそれを拭うリヴァイの手に頬を擦り寄せれば、強張っていた身体から力が抜けていくのが分かった。

「…リヴァイさん、別れるなんて言って、ごめ…」

「謝るな。俺が悪い」

思い返してみれば、自分が発した言葉にどれだけナマエが傷ついたことだろうと忸怩たる思いしかない。いくら妊娠を知らなかったとはいえ、それに至る行為をしていた男が言っていい言葉ではなかった。
心からの謝罪を込めて優しくキスを落としたリヴァイがそのままそっとナマエの手を取る。

「それで…返事は?」

「…はい。よろしくお願いします」

濡れた瞳で微笑む彼女は何よりも美しかった。堪らなくなって再び彼女の身体を掻き抱いたリヴァイの手が微かに震えていたことに、ナマエは最後まで気付かないフリをしていたのだった。



リヴァイの行動は素早かった。
婚姻届の提出の段取り、引っ越し関係の調整、職場への報告とやることは盛り沢山だったが、持ち前の有能さで次々と調整していったのは流石としか言いようがない。
そして同時に、絶対に結婚式をやると主張した彼に、ナマエは驚いた視線を向けた。

「別にいいよ。今から準備するとバタバタしちゃうし…お金ももったいないよ」

「駄目だ。女にとっては一生に一度の大切なものだろ?それに…ご両親のためにもきちんとやろう」

「でも…」

「もちろんナマエの体調が最優先だが…俺だってお前のドレス姿は見てぇ」

真剣な顔でそう宣った彼に折れて、ナマエの体調に合わせて式場探しも並行することになった。
とにかく無理はするな、と口を酸っぱくして何度も言うリヴァイにこれまた何度も頷きながらも、ナマエはずっと幸せそうに微笑んでいた。
更に、次の検診の予約を聞き出したリヴァイがその場で有休をもぎ取り、今後全ての検診についていくと宣言した。だがそこまでしなくても良いと必死に説得するナマエに渋々頷き、その代わりに医者に言われたことは全て共有することを約束させられる。

「いいな?少しでも体調が悪い時は無理するな」

「うん。でも仕事をしてる方が気が紛れて悪阻もマシになる気がするの」

「だが満員電車だろ?チッ…俺が車で送っていければ良いんだが…」

「リヴァイさんの方が出社早いし、会社は逆方向じゃない。うちはフレックス使えるし、いざとなったら在宅出来るから大丈夫だよ」

「…本当に無理するなよ。キツかったら辞めてもいいんだぞ?」

「うん、ありがとう。でも今のところは続けるつもり。本当に無理だと思ったら相談するね」

漸くホッとした表情を見せ納得したリヴァイに笑い掛ける。とりあえず婚姻届や引っ越し関係は全てリヴァイに任せることにして、最優先事項はナマエの両親への挨拶だと告げる彼に首を傾げた。

「うちの両親は放任主義だから…別に気にしないと思うけど」

「馬鹿。そんなわけにいかねぇだろ。ただでさえ順番が逆になっちまったんだ。一発殴られなきゃ気が済まねぇよ」

「はあ…」

「それに…俺は家族ってものをろくに知らねぇからな。少しだけ…不安はある」

そう言って僅かに怯えたように目を伏せたリヴァイをそっと抱き締めた。怖いのは一緒なのだと、それだけで心強くなる。

「…大丈夫。私も親になるのは初めてだもの。一緒に頑張ろう?」

「…ああ」

「リヴァイさんの叔父さんにもご挨拶しなきゃね」

「いらねぇよ。胎教に悪ィ」

「ふふっ、何言ってんの」

おかしそうに笑うナマエを目を細めて眺めるリヴァイの胸に、今まで感じたことのない温かさが湧き上がってくる。
別れを告げられた時は絶望感から本気で息が出来なくなると思った。それだけ彼女は自分の生きる意味なのだと、それを改めて刻み込んだリヴァイにもう一つ生きる理由が出来たのだ。

「…楽しみだな」

「うん。まだまだ性別は分からないみたい」

「そうか…どっちでもいいが、ナマエに似るといいな」

「リヴァイさんに似てもきっと可愛いよ」

「馬鹿言え。こんな仏頂面の赤ん坊なんて怖ぇだろうが」

「それすら可愛くなるのが親ってものだよ」

そう言って穏やかに笑う彼女は既に母親の顔をしていた。部下の妊娠を聞いた時も、守るものが出来た女性はこんなにも強くなるのかと感じたものだが、それは自分にも言えることなのだと実感する。

「ナマエ」

「うん?」

「…ありがとうな」

幸せを具現化したらきっとナマエの形になるのだと、そんな柄にもないことを思いながらリヴァイは心からの気持ちを彼女に伝えたのだった。



その後も悪阻が酷くて今はレモンウォーターしか受け付けないと聞けば、その味に似た食べやすそうな食材や果物を大量に買ってきて「少しずつ試してみよう」と大真面目に告げた。だがナマエに「ありがたいが今は食べ物を見るだけで気持ち悪くなる」と苦笑いされ、小さく肩を落としてしまった。

「リヴァイ、めでたいな」

ぽん、と肩を叩かれて振り返れば、エルヴィンがいつもの食えない笑みを浮かべて立っていた。
フンと鼻を鳴らしたリヴァイが歩き出すのについてくる彼は、どこまでも機嫌が良さそうだ。

「…なんでてめぇがそんなに嬉しそうなんだよ」

「いや、あのリヴァイが人の親かと思うとな…。感慨深いものがある」

「チッ…お前は俺の親か」

「ひどいな。せめて兄と言ってくれ」

「ふざけんな」

辛辣な返答にも棘が無いことが、リヴァイの心境を表していた。ナマエに言われた通り安定期入るまではエルヴィン以外には告げていなかった。だが漸く安定期に入った今、リヴァイが結婚し、しかも子どもまで生まれるという話は会社中を駆け巡り、至るところで祝いの言葉を投げ掛けられていた。

「部下の二人も無事に産休に入れたようだな」

「ああ。お前が早めに人員補充をしてくれたからな、助かった」

「…実はな。お前のところにも子どもが生まれると聞いたお前の部下たちが、私に直談判をしてきたんだ」

「…なに?」

初めて聞く事実に驚いてエルヴィンの顔を見上げた。その顔は穏やかで慈愛に満ち溢れているように見える。

「子どもが生まれるのはお前も同じだから、なるべく負担を減らしてやりたい。お前に言ってもきっと気を遣うなと一蹴されるだろうから、と私のところに相談にきたんだよ」

産休に入る直前だった彼女たちも一緒だったぞ、と楽しそうに目尻を下げたエルヴィンの話に言葉を失った。リヴァイに何も告げずにいつも通り仕事に邁進している部下一人ひとりの顔を思い浮かべながら、ほんの少し口角を上げる。

「…変な気遣いやがって」

「うちの会社も男性の育休取得を進めていかないとならないからな。どうだ、今後の部下のためにも第一号にならないか」

「…感謝する」

人生でこんなにも人に祝われ、そして感謝を告げたことなど無かった。幸せなのだと、そう心から思える日々をナマエの隣で歩めることへの喜びを噛み締める。

「結婚式のスピーチは任せてくれ」

「…それ、ピクシスにもザックレーにも言われたぞ」

なんだと、と碧眼を見開くエルヴィンに呆れた視線を向け、真っ青な空に目を細める。そこにスマートフォンがメッセージの受信を告げ、ナマエの名が表示された。

『性別分かったよ!どっちだと思う?』

踊るうさぎのスタンプに思わず喉の奥で笑う。
とにかくナマエと子が順調ならどちらでも構わないのだと、心からそう思うのだ。

『そうだな…』

送った性別に、ややあって再び踊るうさぎのスタンプが送られてくる。
正解!の文字が点滅しているのを見たリヴァイの、名前を決めなきゃな、と心のうちで呟いたその横顔を柔らかい陽射しが静かに照らしていた。


-fin




Back


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -