不変の月を手に入れる(前)

訓練場全体を照らすような満月の下をリヴァイは走っていた。
立体機動装置を持ってくるべきだったと己の失態に舌打ちを溢すが、今から取りに戻るよりもこのまま走った方が早い。
夜の帳の中とはいえ慣れ親しんだこの地形に迷うことはない。これくらいで息を乱すこともないが、心臓だけは煩く脈打っていることは自覚していた。
ぱっと視界が拓けたその先に、今まさに立体機動で飛び立とうとしている女の姿を捉える。走る速度を一気に加速させ、リヴァイは声を張り上げた。

「ナマエっ!!」

驚いたように振り返った彼女の瞳が、夜空の満月のようにまんまるく見開かれるのが分かった。



変わり者の集団だと揶揄されることが多い調査兵団は、それを否定出来ないほど個性が強い者の集まりであった。その中でもハンジにも負けず劣らずの強い信念を持つ、ある意味一番の変わり者がいた。

「リヴァイ兵長、おはようございます!今日も素敵です大好きです!」

ナマエ・ミョウジ。
ハンジ班所属の古参メンバーで、いくつもの壁外調査を生き残ってきた精鋭の一人である。

「…ああ」

「昨日気にされていた階段部分の掃除は済ませてあります。あ、あと商会から色々差し入れがあったので紅茶だけこっそり抜いておきました!あとで部屋にお届けしますね」

「ああ……ってオイ、さすがにそりゃまずいだろうが」

「いえ…実はその場面をエルヴィン団長に見つかってしまいまして。今回だけは特別だと見逃して頂きました!」

「…オイこら、エルヴィン」

呆れたように呟いたリヴァイに満面の笑みを向けたナマエが、「では失礼します!」と綺麗な敬礼を捧げて去っていく。
ちなみにここは団長室で、リヴァイの目の前には先ほど名前を出されたエルヴィン、ミケとハンジも揃っていた。

「オイ、エルヴィン。俺が言うのもなんだがいいのか、アレ」

「まぁいいじゃないか。お前に喜んでもらおうと必死なんだろう」

「ナマエは私の班なのに私にはめちゃくちゃ厳しいんだよ?紅茶なんて横流ししてくれたことないしさ」

「…それはお前があまりにサボるからだろう」

「そりゃそうだけど!あーあ、リヴァイに向ける愛情の一欠片でも私に向けてくれたらなあ」

ミケの的を得た言葉にハンジが大袈裟に肩を竦める。さっき言っていた階段の掃除も、わざわざ早起きをして業務時間外に行っているのだ。抜け駆けに思える紅茶の抜き出しも、どうせ他の差し入れ品は全て部下に配ってしまうリヴァイの心遣いを見越した上でのことだ。

「ナマエはほんっとにリヴァイが大好きだからなあ」

「ああも毎日毎日、大好きだなんだと言われる気分はどうだ?」

「どうもこうもねぇよ。あいつがあんな風に言い始めてどれくらい経つと思ってんだ。とうに慣れた」

エルヴィンの楽しそうな声にうんざりとした表情で答えるリヴァイ。
ナマエがリヴァイへの好意を隠さないどころか、一日に一回はああして大好きだと言って笑顔を向けるようになってから、もういくつもの季節が過ぎた。
最初はきつく睨みつけ辛辣な言葉を吐いていたリヴァイも、それだけの時間が経てば慣れてくるものだ。もはや朝の挨拶のようになっているそれに、いつからかリヴァイの周りの者も温かい目で見守るようになってしまっていた。

「確かにナマエのあれが聞けないと一日が始まった気がしないもんなあ」

「はっ…お前にも日付の感覚があったとは驚きだな」

珍しく風呂にでも入ったのか、さっぱりとした小綺麗な身嗜みのハンジを訝しげに見遣る。以前はハンジの汚さにリヴァイが激怒して風呂に放り込む姿がよく見られたが、そういえば最近はそうなる前に彼女の身が整っていることが多かった。
視線の意味を正確に捉えたハンジが再び肩を竦めて口を尖らせた。

「ナマエに『リヴァイ兵長に会う前はちゃんとしてください!』って言って風呂に連れ込まれるんだよ」

「…ほう。悪くない」

「ナマエの行動基準はリヴァイだからな。どんなにすげなくされてもへこたれないのは大したものだ」

今では華麗に無視するか短い返答でナマエの告白を受け流しているリヴァイだが、最初はそうでは無かった。彼女がいきなり「リヴァイ兵長、大好きです!」と言ってきた時は面食らったものだ。
しかもそう言って満足そうな笑みをリヴァイに向けた後、ドンっと心臓を捧げて去っていったのだ。リヴァイの返事を聞くどころか一言も会話は交わさずに背を向けたナマエに、さすがのリヴァイも唖然としてしまった。

「リヴァイ兵長、おはようございます!今日も大好きですっ」

顔を合わせる度、輝かしい笑顔でそう伝えてくる彼女にリヴァイの堪忍袋の尾が切れるのは早かった。
その頃には幹部組を始め、主だったメンバーにはナマエの存在は知られていた。ニヤニヤ笑う仲間に苛立ちが募り、それは全てナマエに向けられるようになった。
大体毎回言い逃げをしているのは彼女の方だ。ここらでしっかり伝えなければ、とリヴァイは元から険しい顔を更に険しくする。

「オイ、お前」

「はいっ、兵長!」

「てめぇ…毎度毎度好きだとかなんだとかほざきやがるが、俺にただの部下に手を出す趣味はねぇ。諦めろ」

「もちろん承知しております!」

「…は?」

「リヴァイ兵長がただの部下や仲間に手を出す方でないことは重々承知しております!」

「…てめぇな。じゃあなんでいつもいつも告白しやがるんだ。まさか揶揄ってんじゃねぇだろうな」

きょとんと不思議そうに首を傾げたナマエに、何故か自分の方が間違っている気になってくる。ぱちぱちと何度も目を瞬かせるナマエの顔をこんなに真っ直ぐ見たのは初めてのことだ。
リヴァイの視線に気がついたナマエがほんのりと頬を染め、もじもじと手を捏ねる。

「揶揄うなんてそんな…。あの…リヴァイ兵長のことが好き、だからです…」

「何度も同じことを言わせんな。俺は誰とも付き合う気はねぇ」

「分かっておりますよ?私なんかがリヴァイ兵長とお付き合いできるわけないじゃないですか」

「…は?」

全く話が噛み合わない。痛んできた頭を労るようにこめかみを揉み込むリヴァイ。それを心配そうに眺めるナマエに、お前のせいだと大きく溜息を吐いた。

「あの、リヴァイ兵長とお付き合いできるなんてそんなこと少しも思っておりません。私は兵長が好きだから、好きだとお伝えしているだけです」

「お前…」

「こうしてお話して頂けるだけで感謝いたします。ありがとうございます」

完全に毒気が抜かれたとはこのことだと思う。
リヴァイを揶揄するわけでも恋人にしろと迫るわけでもなく、ただただ好きだと伝えるだけで満足なのだと、その邪気のない笑顔から伝わってきた。
言葉を失くしたリヴァイにもう一度笑い掛け、ナマエがいつものように明るく声をあげた。

「大好きです、リヴァイ兵長」

絆されたわけでも気持ちが傾いたわけでもない。ただ単純に呆れてしまっただけだ。だからリヴァイは、こう呟くしかなかった。

「…好きにしろ」

ぱっと目を輝かせたナマエの挨拶代わりの告白は、それからずっと続いている。



そうしてリヴァイもその周りもナマエの奇行に慣れてきた頃、ある壁外調査でリヴァイの部下たちが全滅した。
前に進むためには必要な犠牲だと理解していても、心が受け入れるには時間が掛かる。表面上はいつも通り冷静に、だが渦巻く激情を胸に秘め、リヴァイが中庭で一人酒を飲んでいたその時、ナマエがふらりと現れたのだ。

「…リヴァイ兵長?」

まさかここにリヴァイがいるとは思ってもいなかったらしい。掠れた声で驚いたように目を見張る彼女は、月の下だからかいつもの明るさと騒がしさを潜めているように見えた。

「…てめぇか」

「お風邪を召されますよ?何か羽織るものを…」

「ほっとけ」

「ですが…」

「ほっとけっつってんだろ!」

ダン、とグラスを乱暴に置いたリヴァイの鋭い声が夜の闇に響く。びくりと肩を震わせたナマエにひどく苛立った。

「はっ…そうやって気遣えば俺がお前のことを好きになるとでも?」

「…そんなこと思っていません」

「どうだかな。女はクソみてぇに馬鹿な考えを持つことがあるからな」

八つ当たりだと分かってはいても言葉が止まらない。ここに来る直前、部下が死んでリヴァイが傷心だと思い込んだある女兵士があからさまに誘いを掛けてきていた。曰く「自分が身体で慰めてやりたい」とのことらしいが、吐き気を催すほどの嫌悪感を抱いたリヴァイに冷たい視線を向けられてすごすごと退散していった。

「お前みたいに本物の地獄を知らないでヘラヘラしてる奴を見ると、虫唾が走る」

吐き捨てた言葉は冷たい地面に落ちた。
一切ナマエの方を見ないリヴァイには彼女がどんな顔をしているか分からない。泣いているのか怒っているのか、そんなことすらどうでも良かった。
生きるか死ぬか、喰うか喰われるかの世界でずっと生きてきたリヴァイにとって、愛だの恋だのは無縁のものだ。そんなものに現を抜かしてヘラヘラ笑っていられるのは本物の地獄を知らないからだと、止まらない口がナマエを罵り続けた。

「分かったら金輪際俺に構うな」

リヴァイの一方的な罵倒を一言も口を挟まず聞いていたナマエに、最後の科白を吐き捨てる。最低なのはどっちだ、と一欠片の理性の片隅が訴えるが発した言葉は戻らない。
その時、ふとナマエが身動きした気配がした。そして小さいが凛とした声が響く。

「自分と同じくらいの地獄を見て苦しんでいないと嫌だなんて、リヴァイ兵長も意外とお子ちゃまなんですね」

「…なんだと?」

泣くか喚くかすると思っていたナマエの予想外の言葉に咄嗟に顔を上げる。暗闇で分かりにくいが、彼女が真っ直ぐにリヴァイを見つめていることは分かった。

「人には多かれ少なかれ見えない傷はあるものです。それは人と比べるものじゃない」

「…随分偉そうなこと言うじゃねぇか。てめぇみたいに毎日色恋にヘラヘラしてるやつがどんな傷があるって言うんだよ。ふざけんじゃねぇ」

今思い出しても、この時ほど荒れていたことは後にも先にもあまり無い。
兵士長になって一年ほど経っていたあの頃、理想と現実の差、救えない命、縋ってくる兵士たち、そして名が売れるほど寄ってくる女、その全てに嫌気が差していた。それでもあんな風にナマエを罵倒し、蔑めていいはずがなかった。
だが並の兵士なら震え上がって動けないだろうリヴァイの睨みを気にする様子もなく、ナマエはゆっくりと口を開いた。

「そうですね…。私の地獄なんて確かに大したことないと思います。何より今、こうして生きている」

トン、と軽く左胸に手のひらを当てたナマエが目を細めたのが分かった。

「私の父は調査兵団でした。母はそんな父をすごく愛していて…壁外調査の度に泣いて縋るような人でした」

唐突に話し始めたナマエに更に視線を鋭くする。自分で聞いておいてなんだが、他人の不幸話を聞く気分ではない。遮ろうと唇を開いたリヴァイだが、次の言葉に思わず口を噤む。

「だから父が死んだ時、母は後を追って死にました。私を置いて」

リヴァイが向けた視線をしっかり捉えたナマエに感情の起伏は見えない。雲がかかった月の淡い光が二人を照らす。

「なかなか壮絶な死に方でした。父は右腕と左足を除いて全て巨人に喰われていたので…私たちの元に戻ってきたのはその二つだけです」

「…戻ってきただけマシだろ」

「仰る通りです。でも受け入れられなかった母は、命を断ちました。右腕と左足を自ら切り落とそうとして」

絶句したリヴァイを鈍色の月が見下ろしていた。
肩を竦めて告げたナマエの顔に未だ涙も何も見えないことが、彼の胸を鋭く貫く。

「私が買い物から帰った時には家は血塗れで…現実を受け入れられなかった私は、暫く母の近くで座り込んでいたんです。近所の人が見つけてくれた時には母はもう死んでいました」

あの時助けを呼んでいれば助かったかもしれない、とそう囁いたナマエが初めて目を伏せた。そして再び顔を上げ、リヴァイに柔らかく微笑みかけた。

「…これが私の経験した地獄です。私が調査兵団に入ったのも、別に父の意思を継いでとか、巨人に復讐したいとかじゃないんですよ。私を引き取ってくれた親戚が厄介払いをしたいからって、私を無理矢理兵団に入れたんです」

「お前…」

「ですからリヴァイ兵長の仰る通り、こんな中途半端な自分のことは…私が一番嫌いでした。でも兵長…あなたに会って変わったんです」

「…なに?」

「どんな逆境でも絶対に諦めない。目的のためなら時に冷徹な判断も下し、それでも守れるだけの命を救おうとする…そんなあなたに私は惹かれたんです。いつかそうやって戦う兵長の力になりたい、そんな思いだけで今までやってきたんですよ?」

静かに微笑むナマエを呆然と見つめてしまう。月を覆っていた雲が一気に晴れ、そんな彼女の顔を完全に照らしていた。
漸く見えたその顔に涙の跡を見つけたリヴァイは息を呑む。赤く腫れた目蓋と目尻は、今のリヴァイとのやり取りではなくもっと前に彼女が泣き尽くしたことを表していた。

「…後悔だけはするな。兵長はいつもそう私たちに言ってくださいます。だから私も死ぬその時に…巨人に喰われるその瞬間に後悔しないよう、兵長に愛を伝えようって決意したんです。思ったより生き残っちゃったので、もう兵長は聞き飽きちゃったと思いますが」

そう言って照れたように首を傾けるナマエの自嘲に、唐突に思い出した。
彼女の手のひらが豆だらけなこと、そして以前怪我の手当てで目にしたナマエの腕や足もあざだらけなことを。ハンジが「ナマエってば夜間の自主練が多すぎる」とぼやいて心配していたことも、同時に蘇る。

「…ナマエ」

「え、あ、やだ兵長っ…初めて名前を呼んでくださいましたね!」

泣いた跡を隠せないまま嬉しそうに笑い、身をくねらせるナマエにぎりっと拳を握り締める。
情に厚い彼女が今回の多大な犠牲を何とも思っていないはずがない。死んでいった部下の中には、ナマエの同期もいたはずだ。
泣いて泣いて、声が枯れるほど泣いて前を向いたナマエに、自分はなんてことをしてしまったのか。

「兵長、大好きです」

風に乗って不意に届いた愛の言葉にハッと顔を上げる。いつも通り、幸せそうな笑みをリヴァイに向けて愛を囁くナマエを満月が明るく照らしていた。



それ以降も二人の関係は何も変わらない。
ナマエが毎日愛を伝え、それにリヴァイがどうでも良さそうに答える光景は兵団の名物といってよかった。それでも少しだけ変化したのは、リヴァイがナマエの名を呼ぶようになったこと、そして彼女が自らリヴァイの役に立とうと奮闘するのを何も言わなくなったくらいだ。

「ナマエ、懲りないねぇ」

「思った時に伝えないと。死ぬ間際に伝えておけば良かった、って後悔したくないんです」

ほとほと感心したように言ったハンジと満面の笑みで答えたナマエの会話が耳に入ったこともある。
なんだかんだ生き残ってるじゃねぇか、と小さく呟いたリヴァイの横顔はとても穏やかだった。



「兵長…素敵です、大好きです…」

目の前でうっとりとした表情を隠さず、頬を赤らめるナマエに背中がむず痒くなる思いがした。エルヴィンと共に夜会に招かれている今日、ナマエが二人の準備を手伝っていた。
正装姿のリヴァイを穴が空くほど見つめ、何度も格好いい、好きだと呟いている。

「…そうかよ」

「こんな素敵な兵長にきっと貴族の皆さんも釘付けですね」

「嬉しくねぇよ」

「ははっ、ナマエ、私もいるんだが」

心底嫌そうに答えたリヴァイの後ろから、エルヴィンが楽しそうに口を挟む。ハッと居住まいを正したナマエが力強く拳を握った。

「エルヴィン団長は大人の色気に満ち溢れております!素晴らしいです!」

「ありがとう、君にそう言ってもらえると自信がつくな」

「団長が、その完璧なお姿と素敵ボイスでお嬢さま方に一言囁けば、全員イチコロです!間違いないです!」

「…オイナマエ、褒め過ぎだ」

身振り手振りを交えながら熱弁するナマエの頭をガシッと握り、無理やり視線をエルヴィンから逸らさせた。にやり、と意味深な笑みを見せたエルヴィンの顔を見ない振りして「兵長のお手が私の頭に…!」と騒ぐ彼女に冷たい目を向ける。

「ナマエ、俺が帰ってくるまでに執務室の掃除を済ませておけ。ハンジの許可は取ってある」

「了解ですっ」

ぱっと更に表情を明るくしたナマエがはきはきと答えるのを横目に、エルヴィンとリヴァイは馬車へと向かうために部屋を出た。

「行ってらっしゃいませ」

涼やかで明るい声が二人を見送る。
無言で隣を歩くリヴァイを見下ろして、エルヴィンは口を開いた。

「執務室の掃除をナマエにさせているのか」

「…何か問題があるか。ハンジの許可は取っている」

「いや?自分の班員にすら滅多に部屋を掃除させないお前にしては、思い切ったものだと思っただけだ」

「…あいつの掃除の腕は悪くねぇ」

そうか、と答えたエルヴィンが前に向き直る。その口元は穏やかな笑みを象っていた。



二人を見送ったナマエは、リヴァイに言われた通りの掃除の許可を取ろうと足取りも軽くハンジの元を訪れていた。

「ハンジさん、これが終わったら兵長の執務室掃除に向かいますね」

「あ、今日だったっけ」

相変わらず紙の束に埋もれていたハンジが顔を上げ、何かの汚れで曇った眼鏡越しに目が合う。

「もう…お食事は取りました?まだだったら今持ってきますから」

「大丈夫大丈夫!さっきモブリットに口に詰め込まれたから」

あはは、と笑うハンジに苦笑を返した。
敬愛する上司だがもう少し身の回りに気を遣って欲しいと思いながら、苦労人の副官を思い浮かべる。

「…ナマエは嫌じゃないの?リヴァイが夜会に行くの」

「え…?」

不意に問われた質問に目を瞬いた。
思ったよりも真剣な顔をしたハンジがナマエを真っ直ぐに見つめている。

「夜会では、貴族の女たちが人類最強の目に留まろうと躍起になってるんだよ」

「…そうでしょうね」

「あわよくば今夜、って思ってる女も少なくない。リヴァイはそういうのが大嫌いだから一切応じないけど…もしかしたらそこで好きな人とか見つけちゃうかもよ?」

ハンジがナマエのことを心から案じているのが分かった。恐らく無謀で叶わない片想いを続けるナマエに心を痛めているのだろう。どこまでも優しい人だ、とそっと目を伏せる。

「ハンジさん…リヴァイ兵長が幸せなら私はそれでいいんです」

「ナマエ…」

「もちろん他の女の人が兵長に触ったり喋ったり…そういうのを見て何も思わない訳じゃありませんよ?私もそこまで聖人君子じゃありませんから」

自分が彼の特別になれると思ってはいないし、そんなことを望んでもいない。いつか彼は、人類最強の名に相応しい女性を選ぶのだろうと覚悟もしている。

「ナマエは強いね。お父上に似たのかな」

「私の父、壁外調査に行く前には必ず母と私に言っていた言葉があるんです」

「へえ…どんなこと?」

労るように先を促したハンジに甘えて、久しぶりに家族の思い出を蘇らせた。同時にリヴァイに父と母のことを話したあの日も思い出す。
ナマエの話を聞いたリヴァイはあの日、ひどく悔いたような表情をしていた。

「お前たちを誰よりも大切に思っている。必ず帰ってくる。大好きだよ、と」

「…そっか」

「母には愛してる、と。ですが…母にはその言葉は呪いでしかなかった」

ハンジもナマエの壮絶な過去を知っている一人だ。痛ましそうに顔を歪めるハンジに、意識して笑い掛ける。

「…約束したのに帰って来なかった。愛してるって言ったのに帰って来なかった。だから私がいかなきゃ、と母は死の間際までそう呟いていました」

リヴァイには話さなかったが、ナマエが母を見つけた時はまだ微かに息があった。それでも譫言のようにそう言い続ける母を目にして、ナマエは彼女を救うことを諦めたのだ。

「母には呪いの言葉だったけど、私にとって父の言葉は希望そのものでした。くさい言い方をすれば、ちゃんと愛されてるとそう思える大切なものだった」

「うん、その通りだ」

「父はよく、死ぬその瞬間まで絶対に後悔したくないと話してくれたんです。不安定な母には話せなかったみたいですが…私には『ナマエも後悔しない生き方をしなさい』と折に触れて言い聞かせてくれた。だから私も、死ぬ瞬間に後悔しないよう、兵長に大好きだって伝え続けたいんです」

兵長には重いと思いますが、と大人びた苦笑いを浮かべたナマエに、ハンジがゆっくりと首を横に振る。

「リヴァイはちゃんと分かってると思うよ。ナマエを遠ざけないのがその証拠だ」

「ふふふっ…兵長の優しさに甘えてるだけなんですけどね」

ぺろりと舌を出して戯けた彼女に、心の中でそんなことないんだよと切実に告げた。リヴァイがナマエの明るさと変わらない想いに実はとても救われていることは、はたから見ていてよく分かっていた。

「ま、リヴァイは掃除に関しては優しくないからなー。あまり無理しないんだよ?」

「はいっ。でもハンジさんもちゃんと休んでくださいね?掃除が終わったら見に来ますからね!」

言い聞かせるナマエに「分かった分かった」と答えて、ヒラリと手を振った。一礼した彼女が部屋を後にするのを見送り、ぎしりと背もたれに寄り掛かる。

「…手放したら後悔すんのはリヴァイの方なのにね」

誰かせっついてくれないかな、とぼやいた文句はナマエが置いていった紅茶の湯気と共に消えた。




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