My dear,My life

目の前の光景から目を離せない。
扉の前で男の腕に縋りつくように凭れる女、そしてその女の肩を掴んでいる男。
修羅場かラブシーンか、これだけではどちらなのか判別は出来ないがそんなことはどうでも良かった。問題は、その男がナマエの恋人のリヴァイだということだ。

「リヴァイ、さん…?」

「っ、ナマエっ…!」

ナマエに気がついたリヴァイが女を押し除けるように一歩前へ出る。
だがそれを押し留めるように女がリヴァイの腕を引き、バランスを崩した彼へ爪先を伸ばした。そしてその勢いのまま、リヴァイの唇に女のそれが近付いていく。

「……っ!」

どさり、と音を立てて買い物袋が滑り落ちた。
卵が入ってなくて良かった、と頭の隅でぼんやりと思いながらナマエは踵を返す。タイミングよく昇ってきたエレベーターにそのまま飛び込み、夢中で閉ボタンを連打した。

「ナマエ!ナマエ、待て…!」

リヴァイが駆け出す音が聞こえる。
エレベーターがこのタイミングで来ていなければ、そして女の腕がリヴァイを引き留めていなければ、きっと彼はナマエの腕を取れたに違いない。
だがそのたった数秒が運命を分けた。リヴァイの顔が見える前に、エレベーターはゆっくりと動き出す。震える両手を握り締め、崩れ落ちそうになる足を支えながらナマエは必死に涙を堪えていた。



リヴァイをよく知る者たちが抱く、彼への印象は概ね共通している。
潔癖で綺麗好きで、自分にも他人にも厳しい一面を持つ反面、情に厚く一度懐に入れた者は決して見捨てない頼りがいのある男だ。だがナマエだけが知っているリヴァイは意外と嫉妬深く、2人きりの時はとことん彼女を甘やかし、常に触れ合いたがる優しくて愛しい恋人であった。
そんな一途で真面目な彼が浮気をしていたかもしれないという事実は、ナマエを絶望させるのに十分だった。

「…リヴァイさんの馬鹿。浮気者…」

昨日の夜、リヴァイのマンションを飛び出たナマエは家から離れたファミレスで朝を迎えた。
自分の家はリヴァイも知っている。追いかけてきた彼と顔を合わせたくなかったし、何よりもしリヴァイが追ってきてくれなかったらきっと心が折れてしまう。矛盾した気持ちを抱えたまま、リヴァイからの着信を告げ続ける携帯の電源を落として鞄の中に入っていた小説を読み耽っていた。一文字も頭に残らない時間を過ごした後、裏口を使って恐る恐るマンションに戻ると、インターフォンの録画にはやはりリヴァイが何度もボタンを押す姿が残されていた。
電源を入れ直した携帯の画面は、おびただしい着信履歴とメッセージが埋め尽くしていた。

『すまない』
『誤解だ。話を聞いて欲しい』
『今どこにいる?家の前で待ってる』
『話がしたい。電話でもメールでもいいから連絡が欲しい』

既読をつけずにそっと画面を裏返してナマエは机の上に顔を突っ伏せる。
リヴァイと話をしなければならないと分かってはいるが、今はそっとしておいて欲しい。脳裏に焼きつく2人のキスシーンが何度も何度もナマエの心を抉っていた。



ピリピリと刺すような雰囲気を纏ったリヴァイが何度も携帯を取り出し、画面を見ては溜息を繰り返す。そんな彼の様子を遠巻きに見ていた部下たちは頭を突き合わせてコソコソと言葉を交わした。

「おい…リヴァイ課長、どうしたんだ」

「今日何か重要な取引連絡、入ってたか?」

「いや…あれ、プライベート用のスマホだろ」

「おーい、ジャン、コニー、エレン!むさ苦しい顔突き合わせてどうしたのー?」

「ハ、ハンジさん…!」

隅っこでリヴァイの動向を恐々眺めていた3人の耳に、底抜けに明るい声が飛び込んできた。同時に振り返った3人が、救いだと言わんばかりに泣きそうな顔を向ける。

「あのっ、リヴァイ課長が…その…大変ご機嫌が…」

「おい、ジャン!はっきり言えよ!」

「言えるわけねぇだろ馬鹿エレン!課長の耳に入ったらどうすんだ!」

「リヴァイ課長がものすごく不機嫌で誰も話しかけられないんです!」

「馬鹿…コニー…」

コニーの馬鹿正直な申告にジャンが深々と溜息を吐く。だがハンジは興味津々な表情を隠さずに、3人越しにリヴァイの机の方を窺い見た。

「へえ…リヴァイ、機嫌悪いんだ」

「こんな課長初めてで…。厳しい方ですがここまで機嫌を露わにするのは見たことありません」

ジャンの心配そうな言葉にエレンとコニーも頷く。
こんな誰も近付けないような雰囲気を醸し出し、しかもどこか悲哀と焦りが混ざったような顔を隠さないリヴァイは初めてだ。

「なるほどねぇ…」

「ハンジさんなら何かご存知ですか?」

「うーん…大体想像はつくかな。ま、私に任せておいてよ」

縋るようなエレンの肩をポンっと叩き、ハンジが軽やかにリヴァイの方へと足を進める。固唾を呑んでその様子を見守る3人を尻目にハンジはどこまでもマイペースだった。

「よっ、リヴァイ。随分ご機嫌斜めだねえ」

「…分かってんなら声掛けんじゃねぇよクソメガネ」

「あのさぁ、あなたがそんなんだと部下が困るでしょ?ほら、相談したいのになかなか話しかけられなくて困ってるよ」

やれやれ、と言わんばかりのハンジに漸く顔を上げたリヴァイが後方に視線を向ける。
ジャン、エレン、コニーの窺うような目線に気が付いたのか、己の失態に大きく舌打ちを溢して椅子へ凭れかかった。

「…悪かったな」

「謝るなら私じゃなくて彼らにしなよ。で?不機嫌な理由はこれかい?」

持ってきた書類をリヴァイに手渡し、それを指差しながらハンジが肩を竦める。昨日の夜、リヴァイからの電話で受けた依頼だった。渡した書類にはある女性社員の個人データベース閲覧履歴が残されている。

「…チッ。やっぱりか」

「その子、総務部にいる女の子だろ?どうしたの?」

「ハンジ、ちょっとツラ貸せ。エルヴィンのところに行く」

書類を睨みつけていたリヴァイが立ち上がる。
目を丸くしたハンジを置いて、緊張した面持ちでリヴァイを見守る3人の元へと足を進めた。

「オイ。ジャン、エレン、コニー」

「「「はっ、はい…!」」」

「…気遣わせて悪かったな。俺は1時間ほど席を外す。ジャン、その後時間を取るからそれまでにさっきの書類、仕上げておいてくれ」

「り、了解ですっ!」

「コニー、サシャのところに行って企画の進行状況を確認しておけ。締め切りは明日だとな」

「分かりました!」

「エレンは明日の取引先へのプレゼンの最終確認だ。15時から最後の調整するぞ」

「了解しました!」

「もう昼メシの時間だろ。休憩はちゃんと取れよ」

先ほどまでの雰囲気が嘘のように、淡々と矢継早に指示を出すリヴァイに背筋が伸びる。そのまま通り過ぎようとした彼に命知らずのエレンが慌てて声を掛けた。

「あ、あのっ、課長…!すげぇ機嫌悪かったみたいですけど、何かあったんですか?」

「おまっ…こんっの死に急ぎ野郎が…!」

「俺より馬鹿だ…」

慌てて止めるジャンと頭を抱えるコニーを尻目に、リヴァイがゆっくりとエレンに向き直る。無表情に近いその顔にエレンがゴクリと唾を呑み込んだ。

「…自分の命よりも大切な奴を傷つけられた時、お前はどうする?」

「えっ?ええと…」

「チッ…忘れろ」

目を白黒させるエレンをそのままにリヴァイは今度こそ背を向けた。ひらりと手を振るハンジを伴って扉の向こうへ消えて行った彼を、3人は呆然と見送った。

「…今の、どういうことだ?」

「さあ…?分かったか?ジャン」

「…俺、リヴァイ課長のこと怒らせるのだけは絶対ぇしねぇわ」

首を傾げるエレンとコニーを余所に、ジャンは寒気が走る自身の身体を両腕で抱きしめる。とてつもなく有能で時に非情な判断も下せる男が、誰かのために本気で怒り、行動しようとする時の怖さを目の当たりにした気がした。



あれから1週間、リヴァイからの着信とメッセージは毎日続いていた。家に来ようとするリヴァイに対し『今は話したくない』と一言だけ送り、その後は電話もメッセージも全て無視している。
ナマエの思いを汲んだのか、リヴァイが無理やり家に来ることはなかったが、毎日の連絡は絶やしていなかった。

「…ひどい顔」

寝不足とふとした時に涙する毎日のお陰でひどくやつれたような気がする。仕事は何とかこなしているが、脳裏に浮かぶあの時の光景に気分が晴れることは一度もなかった。
リヴァイと話さなければ、と思いつつも頑なになった心はタイミングを計ることが出来ないでいて1週間が経ってしまった。

「ちゃんと話さなきゃ…」

あの人は誰なのか、浮気をしていたのか。
誤解だというが、何が誤解なのか。
ほんの少しだけ落ち着いた気持ちで携帯を取り上げる。今日は土曜日で、本当なら二人で出掛ける予定を立てていた。あの現場を見た日だって本当はリヴァイの為に夕飯を作り、久しぶりにゆっくりとした時間を過ごす筈だったのだ。
ぐっと唇を噛んだその時、手の中の携帯がリヴァイからの着信を伝える。一瞬逡巡したナマエだが、心を決めて着信ボタンをタップした。

「…はい」

『ナマエ…!』

久しぶりに聞くリヴァイの声に胸が詰まる。本当はまだこんなにも好きなのだと突きつけられた気がして、ナマエは目を伏せた。

『…電話、出てくれてありがとうな』

「…うん」

『その…しつこく連絡して悪かった。どうしてもお前と話したくて…』

「…うん」

『ナマエさえ良ければ家に行ってもいいか?もし家が嫌ならどこでも…外でも店でもいい。5分だけでもいいから話がしたい』

言い募るリヴァイの必死さが電話越しにも伝わってくる。冷たくなる指先に携帯の温かさが心地良く感じて、ナマエは口を開いた。

『…家で待ってる』

「っ、分かった…!すぐ行く」

電話を切ると一気に心細さと不安が襲ってきた。
あんな場面を見せられても自分はリヴァイのことがまだ好きなのだと、改めて実感してしまった。
知りたいけれど知りたくない。もしあの女性が本命で、リヴァイに別れたいと言われたら。
祈るように膝をついて、ナマエはリヴァイが来るまでの時間をじっと耐えていた。



ナマエとの電話を切ったリヴァイは財布と携帯、そしていくつかの紙袋を手に家を出た。
すぐにつかまったタクシーに乗り込み「なるべく急いでくれ」と告げる。彼女の家までの20分間、何も出来ないでタクシーに乗っているだけのこの時間が焦燥感を煽った。
座席に深く沈み込んだリヴァイは、ナマエが家で待っていてくれることを願いながらこの1週間に思いを馳せた。
あの場面を見た時のナマエの顔が頭から離れない。誰よりも信じていただろうリヴァイの裏切りに、泣きそうに顔を歪めた大切な恋人の表情を思い出してリヴァイは自分自身を責めていた。

(…ナマエ)

あの日、鳴らされたインターフォンにろくに相手も確認せずに開けてしまったことが全ての元凶だ。
インターフォン越しに名を告げられ、挨拶がしたいと言われて引越しの挨拶か何かと思い込んでしまった。ナマエとの約束の時間が迫っていたことで、来訪者に邪魔されたくないと強く感じた気持ちのまま扉を開けたリヴァイの目に、どこかで見たことのある顔が飛び込んできた。

「…お前」

「リヴァイ課長っ…!」

その呼び方と声に、最近よく話し掛けてくる総務部の女だということを思い出した。頬を紅潮させ前のめりになるように扉に手を掛ける女に嫌な予感がして顔を歪める。

「なんでお前がここにいる」

「あ、あのっ、リヴァイ課長にご相談があって…」

「…何故この家を知っている」

益々警戒心を強めるリヴァイに女は全く怯まない。
きらきらと目を輝かせながら、「ずっと憧れていました」「会社で色々お話して頂けて嬉しくて…」「急に迷惑かなって思ったんですけど近くまできたので」と聞いてもいないことをペラペラと喋っている。深く眉間に皺を寄せたリヴァイが吐き捨てた。

「相談なら会社で聞いてやる。なんでこの家を知っているかは不問にしてやるから、今すぐ帰れ」

「か、課長…!」

扉を閉めようとしたリヴァイに縋るように、女が身を乗り出してくる。甘ったるい香水の香りが鼻をくすぐって不快さが一気に増した。

「ふざけんな」

「あのっ、私、課長のことずっと好きで…」

「こんなストーカーみたいな真似して何を言ってやがる。大体俺には恋人がいる。分かったら帰れ」

「恋…人…?」

呆然とした女の手が緩む。その瞬間を見計らって再び扉を閉めようとしたリヴァイの腕を、女が無理やり引っ張ってきた。

「っ、てめぇ…!」

「恋人なんて聞いてないっ…!私のこと知ってもらえればきっと…」

「お前…いい加減にっ…」

カッと頭に血が上った衝動のまま、リヴァイが女の肩を強く掴んだ。そのまま引き剥がそうとしたリヴァイの耳にか細く小さな声が届いた。

「リヴァイ、さん…?」

「っ、ナマエ…!」

最悪だ、と舌打ちしそうになりながら一歩前に出る。だが目の前の女がナマエに危害を加えようとしないか、それが気に掛かったリヴァイの動きが一瞬鈍くなった。その隙をついて、女の腕がリヴァイのそれを思いきり引っ張った。

「っ…!?」

ぶわっと香った甘ったるさに吐き気がする。
だが次の瞬間、眼前一杯に広がった見慣れぬ女の顔に驚愕して目を見張った。
咄嗟に逸らしたおかげか、僅かにずれた女の唇が自分の唇の端に口付けているのを思いきり振り払った。
どさり、と荷物が落ちる音ともにヒールの音が響く。女を思いきり押し除けて走り出すが、エレベーターの扉は無情にも閉め切られてしまった。

「クソっ…ナマエ…!」

下降していくエレベーターを睨みつけ、階段へと向かうリヴァイの手を不愉快な柔らかさが掴んだ。思わず振り向いた先に見えた女を振り払い、その勢いのまま手をあげそうになったのを何とか抑えた。

「リヴァイ、課長…」

「…今すぐ目の前から消えろ。死にたくなかったらな」

殺意さえも感じる低い声にヒッと女が息を呑む。ずるずるとその場に座り込む女を一切振り返ることなく、リヴァイは階段を駆け降りそのまま外へ飛び出した。その間に何度ナマエの携帯を鳴らしても、彼女が応じることはなかった。

「クソがっ…!」

自身を罵る言葉が夜の町に響く。
そのまま彼女の家に向かっても家の明かりが付いている気配は無く、いくら待ってもナマエが帰ってくる様子はない。

「…ナマエ」

ナマエの家が見える公園のベンチに座り、鳴らし続けていた彼女の携帯の電源がついに切られてしまう。項垂れるまま冷えてきた頭の中で冷静に考えをまとめる。
どんな理由があろうとリヴァイが他の女とキスを交わしたことに違いはない。それを目の前で見せられたナマエのショックはどれほどのものだろうか。もしリヴァイが同じ状況になったら、男を殺しかねないだろう。

「いっそあの場で詰ってもらえればな…」

誤解を解くことができたのに、と自嘲気味に呟いてくしゃりと前髪を潰した。
だがナマエの性格的に、あの場に留まることもリヴァイに詰め寄ることも出来ないであろうことはよく理解していた。咄嗟にその場から離れ、気持ちが落ち着くまでリヴァイとは距離を置くだろう。
だがもしナマエがリヴァイのことを許せず、別れを選ぶようなことがあったら。
そう思うと少しもじっとしていられない。
ある決意を固めたリヴァイは、おもむろに持ち上げた携帯からハンジの名を呼び出した。

「…頼みがある」

用件を告げて切った後も、ナマエから連絡が来ることも家に戻ってくることもなく、渋々腰を上げる。彼女の身の上が心配で仕方ないが、自分がずっとここにいることでナマエが家に帰れないとしたら一旦身を引くべきだろう。

『今日は帰る。本当に悪かった。話を聞いて欲しい』

送ったメッセージに返ってきたのは、『今は話したくない』というナマエなりの精一杯の拒絶だった。


あのメッセージを受け取った衝撃を思い出したリヴァイの頬がひくりと引き攣る。メッセージや留守番電話で弁解するのも違う気がして、何も説明が出来ず、声も聞けないこの1週間はまさに地獄のようだった。
タクシーから飛び出たリヴァイはナマエの部屋の前で大きく息を吐いた。らしくなく震える指先でインターフォンを押す。

『…はい』

「俺だ」

『…どうぞ』

ナマエが約束通り家にいてくれたことに、どっと安堵の思いが溢れてくる。かさばる紙袋をもう一度握り直し、解除された扉の向こうを真っ直ぐに見つめる。思いの丈全てを伝えたかった。



「座って。今紅茶を淹れるから」

リヴァイを招き入れたナマエの顔は疲れきっているように見えた。目を合わさず、逃げるようにキッチンに立った彼女の後ろにそっと立つ。びくりとナマエの肩が震えた。

「…ナマエ。悪かった」

「それは…何についての謝罪なの?」

「お前に嫌な思いをさせたことだ。本当に悪かった」

ナマエの背に向かって深々と頭を下げるリヴァイ。そのまま床を見つめ続けていると、彼女がゆっくりと振り返る気配がした。

「…あの人は、リヴァイさんの浮気相手なの?」

「違う…!」

小さな声を拾ったリヴァイが勢いよく顔を上げる。
久しぶりに真っ正面から見たナマエの、浮かべた涙を溢さないように必死に堪えている様子に心臓が大きく鳴る。

「…話を聞いて欲しい」

目を伏せたナマエが、ややあってこくんと頷いた。そのままソファーに移動した彼女と机を挟んだ距離で見つめ合う。

「まず…浮気なんてしてねぇ。俺には誓ってお前だけだ」

「…そう」

「信じられないって言うなら今ここで携帯でもなんでも見てくれ。お前が嫌だって言うならナマエ以外の連絡先を全部消したって構わねぇ」

「そこ、までは…」

真剣な顔のリヴァイに慌てて首を振る。
プライベート用と会社用の携帯をテーブルの上に置いたリヴァイが一度息を吐き、言葉を続けた。

「あいつはうちの会社の総務部の女…らしい」

「…らしい?」

「顔は見たことがあるし最近よく話し掛けられるとは思っていたが…あの時まで名前も知らなかったくらいだ」

「でも…リヴァイさんの家を知ってたんでしょう?」

ナマエがここまで頑なになった理由はそこにもあった。彼は仕事とプライベートを混合させることをひどく嫌い、どこに住んでいるかはもちろん、最寄駅を知られることすら嫌がっていたのだ。
違う会社に勤めるナマエはよく分からないが、リヴァイの家を知っているのは極々一部の限られた人間だけだと、そう聞いていた。
それなのにあの女性はリヴァイの家を知っていて、尚且つ夜に訪ねてくるくらいの仲なのかとショックを受けたのだ。

「ああ…俺も驚いた。だが…その理由も分かっている」

「理由…?」

「あいつは会社の個人データベースを盗み見たらしい」

「え…?」

彼女は総務部の立場を利用してリヴァイの個人データベースを見ていたという。彼女の権限で見られる範囲は限られていたが、それでも職務上住所と連絡先を入手することは簡単だったらしい。

「言われてみればここ最近、知らねぇ番号から電話が掛かってきてたのを思い出してな。プライベートの方に会社関係が掛けてくることなんて滅多にねぇから無視してたんだが…」

「それもあの人だったってこと?」

「ああ。本人に確認した。いくら掛けても出ねぇから痺れを切らして家まで来たんだと」

心底嫌そうに顔を歪めるリヴァイをじっと見つめてしまう。嘘をついている様子も誤魔化している様子もない。
急な話に戸惑うナマエに、リヴァイが会社用の携帯を差し出した。

「これが証拠だ。聞きたくねぇかもしれねぇが…」

「…ううん。聞かせて」

ゆるりと首を横に振ったナマエの瞳は強い光を湛えていた。録音機能を再生したリヴァイがそっと音量を上げた。

『だって…!リヴァイ課長、全然応えてくれないんだもの…!』

『君がやっているのはストーカー行為そのものだ。警察に突き出すことも出来るんだぞ』

『そんなっ…私、リヴァイ課長とキスまでしたんですよ!?』

『…リヴァイ。そうなのか?』

『その女が勝手に家に押しかけてきて無理やり迫ってきやがった。気持ち悪ィ。住居侵入に強制わいせつ…被害届を出してもいいくらいだ』

『リ、リヴァイ…課長…』

『…お前は俺の大切な奴を傷つけた。だがてめぇなんかの話を少しでも聞こうとした俺にも非があることは間違いねぇ。本当ならボロボロになるくらい締め上げてやりてぇが…』

『ひっ…』

『リヴァイ』

『冗談だ、エルヴィン。とにかく俺はあいつを傷つけたお前を絶対に許さねぇ。今後一切、俺の視界に入るな』

『君は職務上の権限を乱用して個人情報を悪用した。これは契約違反だ。処分が決定するまで謹慎してもらう』

すすり泣く声と共に録音が終わった。
無意識に握り締めていた手をゆっくりと開き、緊張した面持ちでナマエを見つめているリヴァイと視線を合わせた。

「今のは…?」

「話していたのは監査部長のエルヴィンってやつだ。あの女の不正と職権乱用を同僚に頼んで暴いてもらって、それを突きつけた」

聞けばリヴァイの個人情報を悪用するだけでなく、他にも色々と不正を働いていたらしい。懲戒免職は免れないだろうとリヴァイはどこまでも冷徹な声で告げた。

「そうなんだ…」

「だがナマエを傷つけたことに変わりはない。本当にすまなかった」

座ったまま再度頭を下げたリヴァイに唇が震えてしまう。リヴァイも被害者のようなものなのに、ナマエが思い込みで浮気だと誤解し、勝手に怒っていたのだ。

「私こそ…ごめんなさい。リヴァイさんが浮気なんてする人じゃないって分かってたはずなのに…」

「いや。お前に不快な思いをさせたのは俺の方だ」

「あの…キス、してるの見たら…どうしても我慢出来なくなっちゃって」

「…それは俺の油断が招いたことだ。謝っても謝りきれねぇ」

「リヴァイさんも嫌…だったでしょう?」

「当たり前だ。俺が自分からお前以外の女に触れると思うか?想像しただけで気持ち悪ィ」

大きく表情を歪めて吐き捨てたリヴァイに咄嗟に俯いてしまう。全て誤解だと分かった今でもあの時のことを思い出すとズキンと胸が痛む。

「…ごめん」

「隣…行ってもいいか」

「…うん」

ギシリ、と二人分の重みを受け止めたソファーが音を立てる。消化しきれない気持ちを抱く自分がひどく子供染みているように思えて、顔を上げることが出来ない。

「ナマエ」

「なあに?」

「…まだ怒ってるか」

「リヴァイさんには怒ってない。でもあの人には怒ってる」

「…そうだよな」

こんなに弱々しい声を出すリヴァイは初めてだ。
チラッと見た不安そうな表情はまるで幼子のようで益々罪悪感に駆られてしまう。
恐る恐る腕を伸ばしてきたリヴァイの手のひらが、触れるか触れないかの優しさで頬を撫でた。

「…キス、してもいいか」

「…ごめん」

それはまだ、と蚊の鳴くような声で答えたナマエに、分かってはいたもののショックを隠しきれない。このまま彼女に触れることが出来なくなるかもしれないと思うと、恐怖で指先の感覚すら無くなる気がした。

「ナマエ…俺はお前が良いと言うまでいくらでも待つつもりだ。だから…どうすればもう一度お前に触れられるか教えて欲しい」

「…リヴァイさんが悪いわけじゃないよ。これは私の問題。私の弱さの問題だよ」

「じゃあまず…手を握ってみてもいいか?」

薄らと自嘲の笑みを浮かべたナマエを痛ましそうに見たリヴァイが小さく胸元まで両手を上げる。きょとんと目を丸くした彼女が同じように両手を上げて、こくんと頷いた。
胸の位置で緩々と重ねられた両手に目を瞬いていると、そのままゆっくりと5本の指同士が絡み合う。

「次…抱き締めても良いか」

「…うん」

片方の手は絡ませたまま、リヴァイのもう片方の腕がナマエの背中に回る。壊れ物を扱うかのようなその抱擁に彼の優しさを感じて胸が詰まってしまう。
首筋に埋めていた顔をそっと上げたリヴァイと目が合ったナマエの頬に、じわじわと熱が集まってくる。戯れのようなこの触れ合いに、むず痒くてもどかしい気持ちが込み上げてきた。

「…今日はもう終わり」

それを誤魔化すようにしてくるりと背を向けたナマエの肩甲骨あたりに、リヴァイの頭がぐりぐりと押し付けられる。未だに繋がれたままの片手にもぎゅうっと力がこもった。

「…リヴァイさん」

「……」

「紅茶、淹れるから。ちょっとだけ離してもらってもいい?」

ナマエを背中から抱き締めたまま、再びリヴァイの頭が無言で横に振られる。子どもがイヤイヤと主張するようなそれに思わず笑みが溢れ落ちた。

「ふふっ…リヴァイさん、子どもみたい」

「…ナマエから離れなくていいなら子どもでも構わねぇ」

「子ども同士はキス、出来ないんじゃない?」

「っ、いいのかっ?」

背中越しにリヴァイがパッと顔を上げる様子が見て取れた。上擦った声音が彼の心情を表しているようで、ナマエの中にあったモヤモヤした気持ちが少しずつ晴れていく。

「とりあえず紅茶淹れさせて?喉渇いちゃった」

先ほどよりも明るく柔らかい声音のナマエに安堵の息を吐く。そして立ち上がったナマエを渋々解放したリヴァイは、あることを思い出して自身もソファーから腰を上げた。

「ナマエ」

「ん?」

「渡してぇものがある」

お湯を再沸騰させていたナマエが振り返る。
そしてリヴァイの手に抱えられたいくつもの紙袋を見て、訝しげに眉を寄せた。

「どうしたの、それ。何が入ってるの?」

「俺の気持ちと詫びだ」

真剣かつ真面目な顔で言い放ったリヴァイが一つずつ紙袋を開けていく様子を、唖然として眺めてしまう。
以前、雑誌で見て可愛いと呟いたカバンと、いつも使っているメーカーの限定アイシャドウパレットがまずテーブルの上に広げられた。

「りば…リヴァイさ…ん?これ…」

「こんなんで許されるとは思ってねぇが…なんつーか…せめてナマエの笑顔が見たくて…」

さすがにやり過ぎたと気がついたのか、彼らしからぬしどろもどろな口調で説明をするリヴァイの手元には、あと数個の袋が見え隠れしていた。
チラチラとナマエを見ながら順々に出されていく品物を眺めていると湧き上がるのは愛しさと可笑しさだった。

「これは…ナマエが好きな肉まんと焼売のセットだ」

「っ、ふっ…あは…あはははっ…」

いつもの冷静な表情は変わらないながらも彼の手付きはたどたどしい。そんな中大真面目な顔で取り出したナマエの大好物に、ついに噴き出してしまう。

「リ、ヴァイさ…ん…あははっ、お詫びに肉まんのセットって…」

「…お前、これ好きだろ」

「うんっ…ふふっ、大好き。ありがとう」

ナマエの爆笑に憮然とした表情のリヴァイはひどく気まずそうだ。ふいっと逸らされた横顔が、ほんの少しだけ赤みを帯びている気がした。

「ありがとう。でもこんなにお詫びの品物用意するなんて、本当に浮気したみたいだよ?」

悪戯っぽく笑ったナマエがゆっくりとリヴァイへ手を伸ばし、そしてそっぽを向いたままの頬にちゅっと音を立てて口付ける。ハッと顔を戻したリヴァイと間近で目が合った。

「…ありがとう、リヴァイさん。ごめんね」

「ナマエ…」

逞しい両腕がきつくナマエを抱き締める。
隙間なくぴったりと重なった二つの影は、いつまでも離れなかった。



漸く淹れられた紅茶を啜りながら、ナマエは目の前に広げられたリヴァイからのプレゼント−もといお詫びの品物を手に取っていた。

「あっ、このバターケーキ…!すぐ売り切れちゃうやつ!」

「さっき話したエルヴィンって奴がよく買ってるらしくてな。譲ってもらった」

「そんな…悪いことしちゃったね」

例の女の不正の証拠を集める傍ら、なんとかナマエの気持ちを取り戻したいと悩んでいたリヴァイに助言を与えたのがエルヴィンとハンジだった。
会えて誤解が解けた時、少しでもナマエの気持ちが晴れるようなものを用意してやるのはどうかと告げた彼らに頷いて、ナマエの好きそうなものを片っ端から集めたのだ。

「あと、ハンジ…協力してくれた同僚からはこれをもらった」

そう言って差し出されたチケットを受け取ったナマエの顔がぱあっと輝く。高級ホテルで開催されているアフタヌーンティーの招待券だった。

「これっ…!」

「前に行ってみたいって言ってただろ?」

「うんっ…!でも…私、こんなに気遣ってもらっちゃって申し訳ない…」

居た堪れなさそうに小さく背中を丸めるナマエの腰をしっかりと引き寄せ、耳元に唇を寄せた。

「…もし俺がお前に振られたら仕事どころじゃなくなるからな。それを危惧してあいつらも必死で頭絞って考えてくれたらしい」

「今度皆さんにお礼をしなきゃね」

恥ずかしそうに肩を竦めたナマエを穏やかな瞳で見守った。一時は離れてしまった大切な温もりがこの腕の中に戻ってきたことに誰にともなく感謝した。

「今日はご飯炊いてスープ作って…リヴァイさんが買ってきてくれた焼売をおかずにしよっか。あ、買い物行かなきゃ」

「俺も行く」

「そういえば…あの、私が置いていっちゃった食材って…」

申し訳なさそうに眉を下げたナマエが顔を伏せる。あの時、夕飯を作るために持って行った食材を廊下に置き捨てていったことを思い出したのだ。

「全部俺が使った。…なかなか身につまされるものがあったな」

「ご、ごめんね…」

自分のためにナマエが買ってきてくれたものを棄てるのも忍びなくて、食材を覗き込んだリヴァイは、そこから彼女が作る予定だった料理にあたりをつけて作ってみたのだ。二人分の食材から作られた料理がナマエの不在をより明確にして、思わず項垂れてしまったことを思い出す。

「焼売は明日にして、この前作る予定だったやつ、作ってくれねぇか」

「この前は…あ、チキンソテーとポテトサラダだっけ」

「…やっぱりそうだったか」

「じゃあ今日はそれにしよっか」

一から買い物しなきゃ、と微笑んだナマエの笑顔を目に焼き付けた。このままではチキンソテーとポテトサラダを食べる度にあの時の侘しさと寂しさを思い出してしまいそうで、今日はそれを上書きしたい。

「行くぞ、ナマエ」

そう言ってリヴァイが伸ばした手をナマエがしっかりと握る。ぱたん、と閉められた扉の音が二人の耳に柔らかく響いた。


-fin




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