絡れた糸とその先の甘露

目の前で仁王立ちになり、腕を組んだまま睥睨するリヴァイに生唾を呑み込んだ。こんなに怒りを露わにしている彼はほぼ初めてで、更にそれがナマエ自身に向けられているのは正真正銘初めての経験だった。
それでも心を奮い立たせてキッと目線を上げたナマエが、しっかりと彼の鋭い瞳を見返す。

「…リヴァイさん、怖いです」

「怖くしてんだ。俺は今、ものすごく怒ってる」

すぐさま返ってきた返答に唇を噛んだ。カーテンの向こう側から聞こえてくる車のエンジン音がやたら遠く感じる。高層階に位置するこの部屋が、地上から遠くに在ることを今初めて実感した気がした。

「リヴァイさんがそこまで怒る理由が分かりません。ちゃんと説明したじゃないですか」

「説明に納得がいかねぇから怒ってるんだ。何かあってからじゃ遅いってこと、分かってねぇのか」

「何かあるわけないじゃないですか。心配しすぎです」

「そんなこと分からねぇだろうが。それともなんだ。本当に浮気でもするつもりだったのか」

「っ、本気で言ってるんですか?私こそ怒りますよ」

冷静に話をしたいと思っていても、あまりの言い草にカッと頭に血が昇るのが分かった。
きっかけは些細なことだった、ように思う。少なくともナマエの中では、彼がここまで怒ることだとは思っていなかった。
そもそものきっかけは、数週間前のある日のことだ。

「飲み会?」

「はい。といっても四人の小規模なものですが…」

「そうか。気をつけて帰って来いよ。迎えに行くか?」

「大丈夫ですよ。四人なら二次会もないでしょうし、遅くならないうちに帰ってきます」

お弁当を渡しながら告げたナマエの言葉に、リヴァイが安堵したように頷く。毎回のことだが、飲み会帰りはタクシーを使うように、だとか、遅くなるようなら迎えに行く、とか、些か過保護な体を見せるリヴァイとの攻防は慣れたものだ。

「男もいるのか?」

「あ、はい。一人来る予定みたいです。後輩なんですよ」

「…十分気をつけろ。飲みすぎるな。帰りはタクシーを使えよ」

「はいはい、分かりました」

軽い返事のナマエをひと睨みするリヴァイだが、その顔は微かに気まずそうな様相を纏っていた。己が大分過干渉気味になっている自覚はあるのだ。本当はもっと言いたかった幾千の言葉を呑み込んで、ナマエが差し出したお弁当を受け取ったのだった。


そしてその日の夜、飲み会は確かに敢行されたのだ。ただし来るはずだった女性二人から来られなくなり、ナマエと後輩の男性社員のみになってしまったのが誤算だった。

「ナマエさんっ、お疲れさまです!」

「うん、お疲れさま」

既に真っ赤に染まった顔で高く杯を掲げる彼に合わせ、ナマエも軽い音を立ててグラスをぶつける。
後輩とはいえ男性と二人きり、というシュチュエーションに脳裏にリヴァイの顔が過ぎった。思い描いたその顔はひどく不機嫌そうで、ビールに口をつけながら思わず苦笑してしまう。

「ナマエさんのおかげで今回の開業、うまくいきました。本当にありがとうございます!」

「私は何にもしてないよ。本当ならあの二人を労ってあげたかったんだけど…」

そもそもは先日開業した店舗の開業メンバーの打ち上げなのだ。この後輩社員が店舗の責任者だが、ナマエは本社部門を担当していただけで、本当の功労者は彼とあと二人の実働部隊だ。
申し訳ないことをした、と今はいない二人に想いを馳せていたナマエは、自分を見つめる後輩の目が熱を帯びていたことに気がつかない。
その日は二時間ほどでお開きになり、恐縮する後輩を制してナマエがご馳走した。
そして、今度こそ四人で飲みましょう、という彼の言葉に、ナマエは勢いに押されたまま思わず頷いてしまった。後輩が直ぐさま予定を確認し、その場で再び決まった日程を思い返して、彼女は内心溜息を吐きながら改札を通り抜ける。
程よいアルコールが身体を火照らせていた。コンビニでも寄ろうかとぼんやり考えていたナマエの耳に、聞き慣れた声が飛び込んできた。

「おかえり」

「っ、えっ?」

パッと横を見ると、私服のリヴァイが柱に凭れかかっていた。ぱちぱちと目を瞬くナマエを気にすることなく、身体を起こした彼がひょいっと鞄を奪い取る。

「リ、リヴァイさんっ!」

「ほらよ。飲んどけ」

スタスタ歩き出した彼を慌てて追いかけるナマエに、鞄の代わりにペットボトルの水を押しつけたリヴァイ。
漸く状況を理解したナマエは、からりと乾いた夜風を感じながら口元を緩めた。

「迎えに来てくれてありがとうございます。よく時間が分かりましたね」

「メッセージの時間から逆算しただけだ。帰るぞ」

前を向いたまま素っ気なく答える彼に益々自然と笑みが深くなる。
今から帰る、とメッセージは送ったが、そのメッセージを洩らすことなく読んで、こうしてわざわざ外に出て来た彼の優しさがくすぐったかった。
そして水滴が付いた少し温くなったペットボトルが、リヴァイがそこそこの時間、ここで待っていてくれたことを表している。

「リヴァイさん、手繋いでもいいですか?」

「…ほら」

ナマエがちゃんと水を飲んだことを確認したリヴァイがそっと手を差し伸べる。
ぎゅっと握り込んだその大きな手が、どこか張り詰めていた気持ちを溶かしていった。

「あまり楽しい飲み会じゃなかったみてぇだな」

「え…?」

「酒を飲んだ割には浮かねぇ顔をしてる」

「うーん…楽しくなかった、わけじゃないんですけど…来られなくなっちゃった子たちがいて」

結果的に男と二人での飲みになってしまったことは、どうしても言えなかった。怒られるだろうし、何よりもリヴァイに余計な心配をさせてしまうと思うと曖昧な返答になってしまう。

「また来週、飲み会をやり直すことになったんですよ。今日来られなかった子たちも含めて」

「そうか。俺も人のことは言えねぇが、毎週飲み会ってのも辛いもんだな」

「リヴァイさんとゆっくりしたかったなあ…」

思わず漏れ出た本音が真実だった。
仕事が落ち着いている時期が珍しい彼の、今は貴重なその期間なのだ。特に週末にゆっくり出来る数少ないチャンスを無駄にしたくはない。
そんな思いで溜息を吐いたナマエの手を、リヴァイが強く握り締める。

「来週の金曜だろ?これくらいの時間に帰ってこられるなら、まだまだ時間があるじゃねぇか。土日もあるしな」

「そうですけど…」

「あんまり飲みすぎずに帰って来いよ。待ってるから飲み直そう」

宥めるようにトントン、と人差し指で手の甲を叩いてくるリヴァイの優しさが嬉しい。
はい、と頷いて、憂鬱な気分を吹き飛ばすようにぴったりとリヴァイに寄り添ったのだった。


そして迎えた翌週の金曜日、ナマエは怒りの表情を浮かべながら目の前の後輩を睨み付けていた。気まずそうに、だが腹を括った雰囲気で背中を丸めている彼に深々と溜息を吐く。

「…で?またあの二人は来られなくなったってこと?」

「そ、そうなんです…忙しいみたいで…ハハハ…」

「そう…じゃあ今日はお開きにしましょ。私からも二人に連絡を…」

「い、いやっ、あのっ、せっかくなので飲みませんか!?」

「悪いけど今日は帰らせてもらいます」

ナマエとてそこまで鈍いわけではない。
彼がどんな気持ちで、更にどういう意図でいるのか、先ほど彼に「今日も二人になっちゃいました」と告げられた瞬間に理解した。
立ち上がり掛けたナマエに縋るように手を伸ばした後輩が、慌てたように口を開く。

「ま、待ってください…!嘘ついたことは謝ります!すみません!」

「あのねぇ…」

「俺があの二人にお願いしたんです!その、ナマエさんと二人で飲みたいから頼むって…」

段々萎んでいく声に釣られるように、彼の身体もどんどん縮こまっていく。騙された怒りは拭えないが、周りの目もある店内でこれ以上騒がれたくなかった。

「そういう嘘、大嫌いだからやめてね。こっちは純粋に労を労いたいって思ってたんだから」

「はい…すみません…」

「もう今日は本当に帰らせてもら…」

「俺、ナマエさんが好きなんです!これ、受け取ってください!」

彼の猪突猛進なところは仕事でうまく生きていたが、こういう場では厄介な性質にほかならない。
勢いよく差し出された細長い包みは綺麗にラッピングが施されていて、一目でプレゼントだと分かるものだった。

「…悪いけど、これもあなたの気持ちも受け取れない。付き合ってる人がいるの」

「同棲してる恋人がいるってのは聞いてます!でも諦めたくないんです!せめてこれだけ受け取ってもらえませんか!?」

「受け取れないよ。ごめんね」

悲壮な表情で顔を歪めた彼にチクリと罪悪感が突き刺さるが、ここで曖昧な態度を取ることが一番失礼にあたる。ガヤガヤと騒がしい店内だけが救いだった。

「…分かりました。ご迷惑を掛けてすみません…」

「これからも仕事上の部下として頼りにしてるから。気持ちは嬉しかったよ。ありがとう」

まだビールの一杯も飲み終わっていないが、彼と二人でここにいることは出来ない。そう言って退店を促したナマエに付いてきた後輩は、「すみませんでした」とペコリと頭を下げてとぼとぼと背を向けて去って行く。
一気に襲ってきた疲労感が、金曜日特有の喧騒感とともにナマエの身体に纏わりつくようだった。


辿り着いたマンションのエントランスで、ナマエは緩く首を振った。どうしても電車に乗る気がしなくて、滅多に乗らないタクシーを使ってしまった。
リヴァイに帰宅の連絡すらしないまま、気が付いたらマンションの下に辿り着いていたのだ。

「…よし」

絡みつく疲労感を無視して、無理やり背筋を伸ばす。この後リヴァイと飲み直す約束をしているのだ。今日は早めにお開きになった、と笑顔で告げて、貴重な彼との時間を堪能したい。

「ただいま帰りましたっ」

「ナマエ?」

かちゃり、と玄関を開けたナマエは殊更明るい声を上げる。驚いたようなリヴァイの声と共に、彼が足早に向かってくる音がした。

「随分早ぇな。悪い、メッセージ見落としてたか?」

「あ、違うんです。タクシーで帰ってきちゃったから、メッセージ送ってなくて…」

「ならいいが…どうした、何かあったのか」

「何もないですよー?みんな疲れてたから早めの解散にしたんです」

笑顔を向けたいのに、何もなかったと目を合わせたいのに、どうしてもリヴァイの顔を見ることが出来ない。
後輩に対する苛立ち、二度もリヴァイに嘘をつくことになった罪悪感、そして簡単に騙された自分への嫌悪感で顔を上げることが出来ない。
時間を掛けてヒールを脱いだナマエは、大きく息を吸って笑みを作り上げた。そして何かから逃げるようにリビングへと向かっていく。

「飲み足りないから飲みませんか?私、おつまみ作りますよ」

「…ナマエ」

「あっ、その前にシャワー浴びちゃおうかな。リヴァイさん、お酒って何かありましたっけ?」

「オイ、ナマエ」

「どうしました?私、この前買ったワイン、開けたい…」

「ナマエ、ちょっと待て」

ずんずんと室内へ進むナマエに違和感を感じたのだろうリヴァイが、何度も静かに名を呼んでいたことは気付いていた。
だがどうしても立ち止まることが出来なくて彼に背を向けたままのナマエに痺れを切らしたのか、リヴァイにぐいっと引っ張られた鞄から、何かが床に滑り落ちる音がした。

「え…?」

咄嗟に床に視線を落としたナマエは、目に留めたそれに思わず驚きの声を洩らす。それは、断ったはずの後輩からのプレゼントだった。

「え…なんでこれが…」

「ナマエ、これはなんだ」

呆然と見つめるナマエの視線の先で、リヴァイがゆっくりと屈んで包みを掬い上げる。
くっきりと刻まれた深い皺が、彼が何かに勘付いていることを如実に表していた。

「あ…それは…」

「見たところプレゼントらしいな。ナマエのものか?誰にもらった」

「リヴァイ、さん…」

「今、お前の様子がおかしいのはこれが原因か?」

厳しい表情のまま静かに問うリヴァイに生唾を呑み込む。誤魔化すことも嘘をつくことも出来そうになかった。
諦めたように視線を落としたナマエは、ぽつりぽつりと出来事を話し始めたのだった。



全てを聞き終わったリヴァイは、おもむろに腕を組んで一瞬目を閉じた。その手には未だプレゼントが握られている。

「…そいつの連絡先は知ってんのか」

「はい…電話番号なら…」

「俺が電話してやる。番号教えろ」

「えっ!?や、やめてください!そこまでじゃ…」

「同棲してる恋人がいると知っていながら、お前が気が付かない内に鞄にプレゼントを滑り込ませるような奴を放っておけるか。ちゃんと釘を刺さねぇとこれからも付き纏われるぞ」

淡々と告げるリヴァイだが、その瞳は怒りに燃えている。今にもプレゼントの箱を押し潰しそうな彼に、ナマエは眉根を下げた。

「そこは大丈夫です。私からもちゃんと伝えましたから」

「伝わってねぇからこういうことになるんだろうが」

「でも…」

「なんでそこまでその男を庇うんだ」

躊躇うナマエに鋭い視線を浴びせるリヴァイ。
本当なら、男の顔を拝んでその場で徹底的に心を折ってやりたいくらいなのだ。それは彼女が嫌がるだろうから提案はしないが、それでも一言物申してやらないと気が済まない。

「別に庇ってるわけじゃ…今後は誘われても絶対に行きませんし、仕事以外で関わることもしませんから」

「そういう話をしてんじゃねぇんだ。聞いてると、一人で突っ走る男みてぇじゃねぇか。そういう奴は放っておく方が面倒なんだよ」

途方に暮れたように立ち竦むナマエにも苛立ちが募ってくる。本当なら先週の飲み会の時点で話してくれれば、こんなことにはならなかったはずだ。

「大体お前も脇が甘すぎる。最初にそいつと二人きりになった時点で警戒するべきだ」

「そんな…」

「男なんて女を前にすりゃクソみてぇなことしか考えてねぇ。いいか、今後男と二人になりそうな時は俺に連絡しろ」

「別に一人で対処出来ます。そこまで子どもじゃありません」

「対処出来てねぇだろ。それともなんだ。その後輩に気持ちに応えてやる気か?」

「なんっ…なんでそういう言い方するんですか!?そんなはずないじゃないですか!」

リヴァイの苛立ちに呼応したように、ナマエもどんどん怒りを募らせていく。
彼女のこんなに怒った顔を見るのは初めてだが、自業自得だという思いが拭えないリヴァイは揺らぐことなくナマエを真っ直ぐに見遣る。

「それなら俺がそいつに連絡しても構わねぇだろ。別に脅しやしねぇよ。“話し合い”をするだけだ」

「やめてください。仕事場の話にリヴァイさんは関係ありません」

きっぱりとそう告げたナマエに忌々しげに舌を打つ。とにかく気分が悪かった。
彼女に嘘をついて誘い出したその後輩の青々しさも、真っ直ぐに向ける思慕の情も、一生懸命選んだであろうプレゼントも、全てが気に食わない。
だが何より気に食わないのは、リヴァイが関わることを良しとしないナマエのその姿勢だった。

「…好きにしろ」

そう吐き捨ててナマエの横を通り過ぎる。通り過ぎ間際に、ソファーの上にプレゼントを放り投げれば、見事に着地したそれが軽い音を立てた。

「リヴァイさん…あの…」

「関わって欲しくねぇってなら、好きにすればいい。浮気でもしたいなら、バレねぇようにやってくれ」

「っ、リヴァイさんっ!」

怒りに満ちたナマエの咎める声を背に、リヴァイは仕事部屋の扉を閉めた。我ながら最低の発言だと分かっている。ナマエが浮気をしようとしたわけでも、そういう願望があると思っているわけでもない。ただただ、全てが気に食わなかっただけだ。

「…クソが。ふざけんな」

ついた悪態は後輩に向けたもののようで、その実自身に当てたものだ。こんな子供染みた嫉妬と独占欲をぶつけられたナマエは、もしかしたら本当に浮気でもしてしまうかもしれないと、そう自嘲しながら顔を覆うのだった。



ほとんど一睡も出来ずに朝を迎えたナマエは、しんと静まり返る家からそっと抜け出していた。
昨夜はあの後リヴァイが寝室に来ることも、仕事部屋から出てくることもなかった。疲労と怒りに支配されていたナマエも、徐々に冷静になるにつれ自分の浅はかさに頭を抱えたのだ。

「今日はいい天気だな…」

早朝特有の爽やかな空気に目を細める。
土曜日の朝、人も疎らな通りはナマエの心を落ち着かせてくれた。
リヴァイとこんなに大きな喧嘩をするのは初めてだった。軽い言い争いやすれ違いはあったが、あそこまで怒る彼の顔は見たことがない。

(完全に私が悪い…)

もしリヴァイが同じようなことをしたら。
ナマエのことを思ってついた嘘だとしても、女性と二人で飲みに行ったり、鞄に見知らぬプレゼントが入っていたりしたら。
ナマエもリヴァイと同じように怒るだろうし、何よりとても悲しむだろう。
リヴァイの気持ちは自分に向いていると理解していても、他の女性が彼に近付くことにいい気などするはすがない。

「…帰ろうかな」

リヴァイはまだ怒っているだろうか。
流石に後輩に電話を掛けさせるのは難しいが、ちゃんと話をすれば分かってくれるだろうか。
そんなことを考えながら、リヴァイの好きなサンドウィッチをお土産に買って行こう、と思い立ったナマエは、来た道をクルリと振り返ったその瞬間、思わず立ち止まってしまう。

「え…リヴァイさ…ん?」

「ナマエっ!」

目を丸したナマエの視線の先には、どこか必死の形相で駆け寄ってくるリヴァイの姿があった。

「ど、どうしたんですか?」

「クソ、どうしたもこうしたもねぇよ…こんなことで何やってんだ」

「え、ええと…眠れなかったのでちょっと散歩に…」

「…ハァ」

僅かながらに息を切らしたリヴァイが大きく息を吐くが、その横顔は安堵に満ちている。部屋着のまま、寝乱れた髪すら直さずに出て来たのかと思うと、込み上げてくるものがあった。

「リヴァイさん…私、」

「昨日は悪かった」

「あ…」

恐る恐る、というように伸ばされたナマエの右手をパシッと掴み、リヴァイが真っ直ぐな視線を向ける。
悪かった、ともう一度告げた彼が、ふ、と肩の力を抜いた。

「みっともねぇ嫉妬だ。お前がもしかしたらその後輩に少しでも気持ちが揺れちまうんじゃねぇかと…不安になった」

「私…そんな…」

「ナマエが浮気なんざするわけねぇのはよく分かってる。だが…俺だっていつも不安なんだよ。お前がいつか離れていっちまうんじゃねぇかってな」

訥々と告げられるリヴァイの本音に目を剥いてしまう。何も言えないまま唇を開閉させたナマエの手を引きながら、リヴァイはゆっくりと歩き出した。

「今だってそうだ。俺だって昨日はほとんど眠れてねぇよ。部屋を出たらナマエの気配はねぇし、勇気出して寝室に入ったらもぬけの殻ときたもんだ。慌てて探しに出ちまった」

「携帯鳴らしてくれれば…」

「…携帯持たずに飛び出てきちまったんだよ。悪いか」

バツが悪そうにそっぽを向くリヴァイに手を引かれたまま、ナマエはその横顔から目を離せなかった。リヴァイにここまで想われているという事実が、朝の光のようにナマエの心を照らし出す。

「私の方こそごめんなさい…誤解を招くようなことをして…」

「俺はお前のことは信用しているが、顔も名前も知らねぇ男のことは一切信用してない。ナマエが考えているより、男ってのは短絡的で衝動的な生き物だ。だから…ちゃんと気をつけてくれ」

「はい…ごめんなさい」

真剣な声音は眩しい朝日を切り裂くようだ。
それが怒り故ではなく、ナマエのことを心から案じているからだときちんと理解出来るからこそ、鋭い痛みとして心に突き刺さる。

「もう怒ってないですか…?」

縋るような目線になってしまったのは許してもらいたい。昨日はナマエも激昂してしまったが、やはりリヴァイに心配を掛ける結果になったことを素直に謝りたかった。

「…怒ってねぇ。心配ではあるがな」

「後輩には後で改めて電話をします。プレゼントはちゃんと返しますし、暫く彼がいる飲み会は行かないようにします。もちろん仕事場では必要最低限の会話しかしません」

そうきっぱりと告げたナマエをチラッと見て頷いたリヴァイの表情が、納得した色に染まる。

「ならいい。朝メシ、何か買って行くか?」

「あっ、あそこのサンドウィッチ屋さんに寄ろうかと…」

「ああ、悪くねぇな。…こんな格好だが問題ねぇだろ」

Tシャツに短パンという部屋着のままの己を見下ろし、自分に言い聞かせるリヴァイにクスッと笑ってしまう。
大丈夫ですよ、と答えて彼の左側に寄り添えば、風に乗ってリヴァイの清潔な香りが鼻を抜けた。

「行きましょうか」

「ああ」

何のサンドウィッチにしようか、と取り留めない会話を交わす日常を噛み締めながら、二人は一日の始まりを告げる太陽の光に目を細めたのだった。



プルル、とワンコールが鳴り終わる前に、『はいっ、ナマエさん!』と半ば裏返った声が耳に届いた。
その勢いに苦笑しつつ、隣で眼光鋭く腕を組んでいるリヴァイに背を向ける。

「休みの日にごめん。今大丈夫?」

『もちろんです!』

ハキハキと答えるその声音の中、僅かながらも期待の色が見え隠れしていることには気がついていた。可愛い後輩だとは思うが、それよりも後ろからものすごいプレッシャーを掛けてくる彼の憂慮を取り除いてやりたい。

「前置きは無しで。昨日、私の鞄にプレゼントいれたよね?」

『勝手にすみません。でも俺、どうしても渡したくて…』

「あれはお返しするね。月曜日、ロッカーに入れておく」

感情を込めることなくそう告げたナマエに、スピーカーの向こうで後輩が息を呑む音がした。彼が何かを喋り出す前に、とナマエは一度唇を舐める。

「昨日も言ったけど、恋人がいるの。プレゼントを受け取ることも気持ちに応えることも出来ない」

『俺…でも…』

「私が曖昧な態度を取ったら、彼を心配させちゃう。それだけは絶対にしたくないんだ。だから、プレゼントを手元に残しておくことは出来ない」

『…彼氏さんのことが、マジで大切なんですね』

「うん、そうだよ。誰よりも大切な人だから、傷つけたくないし心配掛けたくない。ごめんね」

淡々と述べていたナマエが、リヴァイのことを話す時だけはほんの少し穏やかな雰囲気を纏うことを察したのだろう。『ちぇっ…敵わないかぁ…』と零した後輩の小さな声から、ちゃんと伝わったことを読み取った。

「じゃあそういうことだから。気持ちは嬉しかった。ありがとう」

『いえ…あの、騙すようなことをしてすみませんでした』

「ううん。じゃあまた会社でね」

最後に苦しそうに絞り出した謝罪に、見えないと分かりながらも一度だけ首を振った。そのまま電話を切ったナマエは、そういえば視線を感じなくなったな、と後ろにいるリヴァイを振り返る。
すると、そこには組んだ足の上に雑誌を乗せてパラパラと捲る姿があった。さらりと揺れる前髪越しに目線を上げたリヴァイの眉間の皺は消えている。

「終わったか?」

「はい。お待たせしました」

電話を掛けるまでは不機嫌そのもの、ものすごい圧を掛けてきていた彼が、今は機嫌良く見える。不思議そうに目を瞬くナマエを気にすることなく、パタンと雑誌を閉じたリヴァイがぐるりと首を回した。

「よし、寝るぞ」

「へっ…?」

「まだ昼前だろ。昨日の分の寝不足を解消してから、買い物でも行くか」

「珍しいですね、リヴァイさんがお昼寝するなんて」

元々ショートスリーパー、更に激務が基本のリヴァイは、短い睡眠時間でも平常運転だ。
だが肩の荷が降りたこともあって、開放感から急激に眠気がやってきたナマエとしては願ったり叶ったりの提案だった。

「ほら、来い」

手招きしたリヴァイに連れられて入ったベッドは、昨夜とは違った二人分の重さを難なく支えてくれている。
もぞもぞと腕の中に収まったナマエを見る彼の瞳もいつもの鋭さを潜めていた。

「起きたら出掛けような」

「ん…はい…」

既にとろとろとした微睡の中に入っているナマエは、それに抗わずにそっと目を閉じる。最後に聞こえた「おやすみ」の声が、眠りに落ちるその瞬間までどこまでも優しく残った。

「…我ながら単純だな」

微苦笑に似た口元を象り、自嘲する。
ナマエが相手に電話をする、と聞いてから、自分自身の中で暴れ回る様々な感情を抑えることに必死だった。
しかし、ナマエが電話越しに告げた「誰よりも大切な人」という言葉に、渦巻いていたどす黒い気持ちが瞬時に霧散したのだ。

(クソガキじゃねぇか、これじゃ)

だが悪くない、と内心呟いて、すうすうと穏やかな寝息を溢す温かい柔らかさをしっかりと抱え直すのだった。

-fin




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