それはまるで鼓動のような

目の前がくらりと揺れるような感覚に、ナマエは咄嗟に壁に手をついた。強く目を瞑ってそれをやり過ごした後、ゆっくりと周りを見回して誰もいないことを確認する。

(良かった…)

今日と明日、調査兵団にとっては重要な一斉訓練が開催される予定だった。普段は班ごとで訓練をしていることが多いが、この二日間は全調査兵団員が集まり、班ごとに成績を競う手筈となっている。ナマエはナナバと共に、その訓練を担う中心メンバーの一人に選出されていた。
そんな大切な訓練の日が、月に一度の女性特有の日に当たってしまったことは不運としかいえない。普段はそこまで重くない生理痛だが、今回に限って腰をハンマーで叩かれるような鈍痛を伝えてきていた。

「ナマエさーん!お願いします!」

明るく自分を呼ぶ声に意識的に口角を上げて振り返る。
女といえど、男と同じ働きを求められるのが兵士という職分だ。飲んだ痛み止めは焼け石に水程度の効き目だが、ここで職務を放棄するわけにはいかない。

「今行く!」

声を張り上げることで自分を奮い立たせた。この二日を乗り越えたら珍しく二日連続の休みを貰っている。
自分へのご褒美を何にしようか考えながら、ナマエは冷たく感じる足を一歩踏み出した。



ぞろぞろと訓練場に集まる兵士を窓から見下ろしながらリヴァイは目を細めた。大規模訓練の二日目、後は班ごとに立体起動のタイムと巨人模型討伐数を競う訓練で終了する予定だ。

「今回の訓練内容はよく練られたものだったな」

各班の今までの成績を眺めていたエルヴィンが不意に呟く。ゆっくりと振り返ったリヴァイとエルヴィンの視線がかち合った。何かを含んだような笑みを見せる彼に、リヴァイが腕を組む。

「まぁ…悪くなかったな」

「各班の特性をよく把握して、皆が平等に競えるような内容にしていたのは見事だ。平等に拘りすぎて些か蛇足になりかねない訓練もあったが…それを差し引いてもよく考えられていた。お前も助言したのか」

「ほとんどしてねぇよ。たまに実戦形式の訓練について相談がきたくらいだ」

そうか、と再び成績表に視線を落としたエルヴィンを一瞥し、もう一度窓の外を見遣る。エルヴィンやリヴァイ、ミケやハンジのような分隊長以上の幹部組は今回の訓練に参加せず、各拠点に散らばり審判を勤めていた。
後進の育成の為、そして次期分隊長や班長の見極めの為にもこの訓練は非常に重要なものだ。それ故にナマエたちのプレッシャーは相当大きいものだっただろう。
この数ヶ月、ナマエはこの二日間の訓練の為に多忙を極めており、リヴァイも中々二人きりの時間を取ることが出来ないでいた。もどかしく思いつつも、彼女の成長の妨げになってはならないと、兵士長としての威厳を保ち続けた自分は大いに褒められるべきだと思う。
そんなある日の夜、寝静まった兵舎の中で食堂だけに明かりが灯っていることがあった。訝しげに覗くと、そこにはナマエが真剣な顔で図面に向き合っていた。

「ナマエ」

「あっ、りば……兵長っ!」

ハッと顔を上げた彼女が慌てて立ち上がるのを片手で制す。もう勤務時間外だ、と目線で告げたリヴァイに頬を緩めて、ナマエが椅子に腰を下ろした。

「お疲れさまです、リヴァイさん」

「お前もな。熱心なのもいいが、あまり根を詰めるなよ。本番はまだまだ先なんだからな」

「はい。ちょっと煮詰まっちゃって…」

「どこだ。見せてみろ」

競技となる訓練内容を睨みつけるように眺めていたナマエが、ぱっと顔を輝かせた。リヴァイのアドバイスを聞ける機会などそうそうあることではない。身を乗り出す勢いで話し始めたナマエを、リヴァイは片頬を突きながら眺めていた。

「で、出来るだけ壁外調査と同じ状況を作り出したいんですがどうにも……ってリヴァイさん?聞いてますか?」

「ああ…いや、なんだ…随分楽しそうじゃねぇか」

「え、そうですかね?」

「俺といる時でもそんなにテンション高くなることねぇだろ」

頬杖をついたまま不服そうに零したリヴァイに目を瞬いた。不機嫌そう、というよりも拗ねているようなその表情に、知らず知らずのうちに笑みが浮かんでしまう。

「そんなことありませんよ?でもこういう訓練内容を考えるのは初めての経験で、意外と楽しいんです」

「…そうかよ」

「しかもリヴァイ兵士長のアドバイスを聞ける機会なんて、滅多にないじゃないですか。だからちょっと興奮しちゃったんです」

「別にいつでも聞けるだろ。…お前ならな」

ぷいっとそっぽを向いたリヴァイの端正な横顔をまじまじと眺めた。こんな風に感情を露わにする彼を近くで見られること、そしてそれが自分に向けられていることを実感すると疲れた心身に沁み渡る気がする。

「これが終わったらちょっとゆっくりしたいなって思ってるんです」

「ああ…いいんじゃねぇか」

「暫く休みもあってないようなものでしたし。リヴァイさんさえ良ければ、お休みを合わせて一緒にどこか行きませんか?去年もやってた花市…ほら、初めてリヴァイさんとお酒飲みながらデートしたあの花市が今年も開催されるみたいなんです」

どうでしょうか?と顔を覗き込めば、険しかった眉間の皺が漸く解れていく。リヴァイが告白をしてくれたあの思い出の花市には、今年も是非足を運びたいと思っていた。

「あれか…いいな。行くか」

「やった!じゃあリヴァイ兵士長、訓練内容を考えるのにアドバイスくださいませんか?」

「チッ…お前は全く…」

ナマエにいいように転がされているような気がしないでもないが、それすら悪くないと思えるから惚れた弱味とは厄介なものだ。くしゃり、と一度彼女の頭を撫でたリヴァイは、軽くなった心のままにナマエが真剣に語る話に耳を傾けたのだった。
そんな風に彼女が全力で取り組んでいたことを知っているからこそ、エルヴィンの評価には素直に頷くことが出来る。それに贔屓目なしに見ても今回の訓練はよく出来たものだった。

「だが…ナマエの調子はあまり良くなさそうだな」

「なに…?」

「なんだ、会ってないのか?周りに気付かれないように気丈に振る舞っていたが、顔色があまり良くなかったように見えたな」

その言葉に大きく舌を打つ。昨日今日と、ナマエとは全く違う場所に配置されていたリヴァイは、彼女と顔を合わせる機会が皆無だったのだ。遠目に姿を見てはいたが、少しも気が付くことの出来なかった自分に苛立ちを覚える。

「オイ、それなら休ませた方が…」

「リヴァイ。気持ちは分かるがナマエがこの訓練の為にどれだけ努力していたのか、お前が一番知っているだろう」

「チッ…分かってる」

ナマエのことになるとどうにも自制が利かなくなるリヴァイを宥めるように、エルヴィンは大きな碧眼を細めながら静かに言った。
傍から見てあまりに具合が悪そうなら声を掛けようとは思っていたが、エルヴィン以外は気が付いてもいないようだった。団長自ら己の体調を気に掛けていると知ったら、ナマエが恐縮しきってしまうに違いないとあたりをつけて、声を掛けなかったのだ。
渋々ながらも納得したようなリヴァイだが、目線は窓の外に向いている。恐らくナマエの姿を探しているのだろうが、彼女に関しては過保護になりすぎる彼に思わず苦笑してしまう。

「私も気に掛けて見ておくことにしよう。お前は今日もナマエとは別の場所が担当だっただろう?」

「ああ。…頼んだぞ、エルヴィン」

鷹揚に頷いた彼に頷き返し、リヴァイは抜けるような青空に一瞥をくれたのだった。



それは唐突だった。
全ての工程が終わり、兵士たちは休憩の為に一旦兵舎に戻っている。ナマエとナナバを初めとした訓練運営メンバーは、各拠点に散らばっている幹部を待ちつつ、各班の成績に目を通していた。
数字が並ぶ紙を眺めていたナマエは、ぐにゃりと視界が回るような感覚を覚えてテーブルに両手を付いた。ばさ、と紙が床に落ちる音がするが、急激に血の気が引いていく身体に最早立っていることも出来ず、思わず座り込む。

「っ、ナマエ!?」

驚いたようなナナバの声が頭上から降ってくる。それに答えようとするが、掠れた吐息しか出てこなくてぎゅうっと強く目を瞑った。

「ナマエ!待ってて、今医務室に…」

「俺が連れて行こう」

ナナバの焦った声の後、低くも野太い声がナマエの耳に届いた。それがミケの声だと思い当たると同時に、ふわりと身体が浮き上がる感覚がして、何とか瞳をこじ開ける。

「ミケ…ぶんた、いちょ…」

「今医務室に連れて行く。動かすが、いいか」

「は…い…」

心配そうにナマエの顔を覗き込むミケとナナバの視線を捉えるが、もう目を開けていることは出来なかった。微かに伝わる振動と二人が言葉を交わす音を感じながら、ナマエの意識はゆっくりと真っ暗に落ちていった。



真っ白な顔で目を閉じるナマエの傍らで、リヴァイはきつく拳を握り締めていた。
微かに上下する胸元で、彼女がちゃんと息をしていることが確認出来る。それが無ければ、触れることすら躊躇われて叫び出してしまいそうだった。
全ての訓練と競技が終わり撤収の準備をしていたリヴァイの元に、血相を変えたナナバが駆け寄ってきたのだ。只事ではないその形相に、嫌な予感が背筋を走る。

「どうした。クソでも漏らしそうな顔をしやがって」

「リヴァイ!ナマエが…!」

表面上は平静に、いつも通りに悪態をついたリヴァイの顔色がさっと変わる。ナマエ、と口の中で呟いたまま、ナナバの胸倉を掴む勢いで詰め寄った。

「ナマエがどうした!」

「ちょっ…落ち着いてよ!」

「クソが、早く言え!」

リヴァイの焦りように、今度はナナバの方が冷静になってきたらしい。両手を胸元まで上げて彼を宥めつつ、ゆっくりと口を開く。

「…さっき倒れたんだ。たまたまミケが戻ってきてたからそのまま医務室に運ばれ……え、ちょっとリヴァイ!?」

話途中で、ぱしゅっと軽やかな音を立ててアンカーが噴出される。目を剥いたナナバに構うことなく、飛び上がったリヴァイの姿は木々に紛れてあっという間に消えていく。

「…最後まで話を聞きなよ」

リヴァイに知らせてやれ、と深い色の瞳をナナバに向けながら告げたエルヴィンの姿を思い浮かべ、深々と溜め息を吐く。ここ数日はナマエの一番近くにいたのに、彼女の体調不良に気が付けなかった自分に不甲斐なくなるが、後はリヴァイに任せることにして、ナナバは踵を返すのだった。



「ミケっ!」

「リヴァイ、早かったな」

「ナマエは…」

僅かながらも息を切らすリヴァイの姿に、ミケは組んでいた腕を下ろしながら肩を竦めた。
この男をここまで動揺させることが出来るのは、後にも先にもナマエだけだろう。感慨深い思いすら感じながら、安心させるようにミケが深い声を発した。

「貧血だそうだ。今は点滴をして眠っている」

「そうか…。手間をかけたな。礼を言う」

「いや…。俺の方こそ一つ謝らなければならんな」

「あ?なんだ」

既に医務室の扉に手を掛けていたリヴァイが訝し気に振り返った。ぽりぽりと頭を掻いたミケが、ごほんとわざとらしく咳払いをした。

「ナマエを運ぶ際に彼女を横抱きにして連れて行った。…他意はない。お前のことを待つ余裕もなかったからな」

「…んなことで腹を立てたりしねぇよ。悪かったな、後は俺がやる」

「ああ、頼んだぞ」

言葉とは裏腹にピリッとした雰囲気を瞬時に纏ったリヴァイだが、流石に大人げないと思い直したらしい。大きく息を吐いて冷静を装った彼の姿が扉の向こうに消えていくのを見送って、ミケも深々と溜め息をついた。
彼女が倒れた理由は鼻が利くミケには一目瞭然だが、リヴァイに知られることをナマエは嫌がったりしないだろうか。
そんな風に要らぬ気遣いまでしながら、全てをお見通しだったのだろうエルヴィンへの報告の為に、足を進めるのだった。


ベッドに横たわるナマエを目にした瞬間、心臓を鷲掴みにされたような鋭い痛みが走った。
今まで何度も目にした仲間たちの最期の顔と彼女の真っ白な顔が重なり、思わずナマエの口元に手をやって息を確認してしまう。

「…生きてる」

改めて口に出すことで、内心の動揺を必死に抑えた。ただの貧血だとミケも医者も言っていたのに、どうにも焦燥感が拭えなくて唇を噛む。備え付けの鏡に映った自分の顔が笑ってしまうほど滑稽なもので、リヴァイは自嘲するように髪を掻き上げた。手に伝わる濡れた感覚が、自分がひどく汗をかいていたことを伝えてきて、益々情けなくなる。
早くナマエに目を覚まして欲しかった。今の自分の顔を見たら、彼女は何と言うのだろうか。
驚いたようにあの大きな目を丸くして、そして心配そうに手を伸ばすに違いない。そんな顔をしてどうしたんですか、と聞きながら、あの温かなぬくもりをリヴァイに伝えてくれるはずだ。いや、そうでなくてはならない。彼女がその手を冷たくすることなど、あってはならないのだ。
心に吹き荒ぶ焦燥を何とか堪えながら、必死に自分に言い聞かせるリヴァイは、今の自分の表情がとても人に見せられるものではないことを自覚していた。ナナバとミケの前では何とか取り繕っていたが、ナマエが倒れたと聞いて湧き上がったのは紛れもなく恐怖心だ。

「ざまぁねえな」

ぽつりと響いた自嘲の呟きに呼応するように、ナマエの目蓋が微かに震えた。はっと顔を引き締めたリヴァイが見守る中、ゆっくりゆっくりとナマエの目が開かれていく。

「ナマエ…?」

「リ、ヴァイさ…ん…?」

ぼおっとしていた彼女の焦点がリヴァイに合わせられる。暫く何度か目を瞬いていたナマエが、息を呑んで起き上がろうと腕をついた。

「わ、私っ…!」

「オイ、駄目だ。まだ寝てろ」

「あの、訓練はっ…?」

咄嗟に彼女の両肩を押さえ、ベッドに沈ませたリヴァイの腕に縋るようにナマエが手を伸ばす。そっとその手を握り締めた彼は、言い聞かせるようにその瞳を覗き込んだ。

「無事に終了した。心配するな、どうせあと結果発表だけだったんだ。滞りなく終わったぞ」

「そう、ですか…良かった…」

口ではそう言いながらも、最後の最後で離脱してしまった自分が不甲斐なくて仕方ないのだろう。悔しそうに下唇を噛んだナマエを励ますように、彼が握った手に更に力を込めた。

「お前が倒れたことを知っているのは、あの場にいた連中とミケ、あとはエルヴィンと俺だけだ。お前はよくやった。あのエルヴィンも褒めていたくらいだ」

「…もったいないお言葉です」

「体調は大丈夫なのか」

慣れない慰めを何とか絞り出すリヴァイの気持ちに感謝したナマエが見せた小さな笑みに、彼もホッと肩の力を抜く。先ほどよりは顔色も良くなっているが、未だ青白いそれを気遣うようにそっと頬を撫でた。

「はい。ご迷惑を掛けてすみません」

「迷惑なんかじゃねぇよ。だが…自分の体調を把握することも兵士の仕事だ。無理をすることが美徳じゃねぇぞ」

「…はい。すみませんでした」

しょんぼりと肩を落として俯いてしまうナマエ。
己の口下手さは自覚しているが、エルヴィンやナナバならもっとうまく諭して慰めるのだろうと考えると、歯痒さしかない。
だが彼女がこうして起き上がり、言葉を交わせるほどには元気だということはリヴァイを大いに安心させた。

「…心配した」

「はい…ごめんなさい」

「体調悪かったんだろ?さっきはああ言ったが…時には無理しなきゃいけないことがあるのは、俺にも分かってる。だがな、それならもっと周りを頼るべきだ。少なくとも…俺にくらいは伝えとけよ」

「リヴァイさん…」

「お前が倒れたと聞いた時、本気で心臓が止まるかと思った。…焦った」

滔々と語られる彼の本心が胸をついた。リヴァイに強く握られている手は若干の痛みを訴えてくるが、そこからひしひしと彼の思いが伝わってくる。

「あの、心配かけてごめんなさい…」

女性特有の話をする気まずさはあるが、辿々しいながらも今の自分の不調について丁寧に話していく。大真面目な顔で時折頷きながら聞いているリヴァイの横顔に、西陽が差し始める。

「…というわけなんです。いつもはここまで重くないんですが、今回はちょっと酷くて…」

「そうか…。正直その辛さは俺ら男には想像しか出来ない部分でもある。だが倒れるほどの辛さは普通じゃねぇんだろ?一度きちんと医者に診てもらった方がいいんじゃねぇか」

「今回は寝不足や疲労が重なって、重度の貧血を併発しちゃったみたいなんです。暫くは鉄剤を飲みながら様子を見ることになりました」

「無理するな。俺に出来ることがあれば言え」

「はいっ、ありがとうございます」

労るように優しく腰を撫でてくれるリヴァイに柔らかい笑みを向けた。漸く心から安堵したように表情を和らげたリヴァイが、ゆっくりと立ち上がる。

「今日はここに泊まるんだな?」

「大事をとって一応…。明日明後日は休みなので、ちゃんと休もうと思います」

「明日の朝、迎えに来る。それまで大人しくしてろ」

「えっ、でも…」

「俺が来たいから来るんだ。いいから寝てろよ」

「…はぁい」

ぱちぱちと目を瞬くナマエに軽く手を上げて、リヴァイは医務室を後にしたのだった。



そして数日後。
生理も終わり、貧血もすっかり良くなったナマエは団長室を訪れていた。

「エルヴィン団長、この度はご迷惑とご心配をお掛けし、申し訳ありませんでした」

「いや、もう体調は平気なのか」

「はい、おかげさまで。今後はこのようなことがないよう、精進します」

「ああ、体調には十分気をつけてくれ。君に何かあるとどうにも調子が出ない男が一人いるからな」

「…はい」

聡いエルヴィンのことだ。ナマエの体調不良の理由などお見通しだろうが、敢えてそこに触れてずに揶揄う彼の優しさに甘えさせてもらう。
心臓を捧げたまましっかりとエルヴィンと目を合わせるナマエに優しく笑い掛け、軽く手を振って敬礼を下ろさせた。

「先日の合同訓練だが、よく考えて練り込まれていた。君たちに任せて正解だったよ」

「ありがとうございます。最後まで務められず、申し訳ありませんでした」

「いやいや、充分だ。よくやってくれた」

存分に労いの言葉を掛けるエルヴィンは、正に大将の器に相応しい貫禄だった。作戦に支障のない程度のミスや突発的な出来事など瑣末なことだと気にも掛けず、ただひたすら成功の為にだけに冷徹な判断をも下す彼の瞳は、今は楽しそうに弧を描いていた。

「ところで…リヴァイは何か言っていたか?」

「と言いますと…?」

「君が倒れた日、ここに乗り込んできてな。翌日一日を休みにして欲しいと申請してきたんだ」

「えっ!?そうだったんですか!?」

驚きに目を見張るナマエはやはり知らなかったようだ。
あの日、ノック無しにズカズカと入室してきたリヴァイは、いつものような仏頂面の中に懸念の色を混ぜて、椅子に座るエルヴィンを見下ろした。

「エルヴィン。悪いが明日一日、休みが欲しい」

「ナマエか?」

「ああ。公私混同は好きじゃねぇが…あいつが倒れたとなると話は別だ。急ぎの仕事は今日中に全て終わらせる」

「構わないさ。どうせ明日は兵士の多くは休みにしてある。たまにはお前も休むべきだな」

「恩に着る」

心からの礼を短い言葉に込めたリヴァイの手には、いくつかの本が抱えられていた。目線を移したエルヴィンに気が付いたリヴァイが軽くそれらを持ち上げる。

「…貧血らしい。俺にはよく分からねぇ話だからな。ハンジに言って貧血に効く食事や薬が載っている本を借りてきた」

「ほう…」

「急ぎの仕事がねぇなら今から街に出てもいいか。いくつか食材を買いに行きたい」

ぴらりと外出申請許可を見せてきたリヴァイの準備の良さに苦笑してしまう。
大規模訓練を行い疲れた身体で、更にはもう夕方も大分過ぎた時間だが、大切な恋人の為には些細なことらしい。
さっさと許可を取ったリヴァイが、一秒たりとも惜しいという様相で出て行く。その姿を見送ったエルヴィンの口元には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。



「リヴァイさ…兵長が、そんなこと…」

思い当たる節に、口元に手を当てて嬉しそうに目尻を下げるナマエ。
言葉の通り、次の日に迎えに来たリヴァイに連れられて、彼の部屋に押し込まれたのは記憶に新しい。いつも通り清潔に保たれ、ぴんと敷かれたシーツの手触りは最高だ。それに喜ぶナマエを見守るリヴァイの手には、艶々とした黄色の果物が乗せられていた。

「…グレープフルーツ?」

「鉄分の吸収を良くする働きがあるらしい。待ってろ、今剥いてやるからメシの前に食っとけ」

「ふふっ、はぁい」

リヴァイとグレープフルーツ、という何ともいえない組み合わせに笑いを噛み殺し、大人しくシーツに包まることにする。
未だに腰に鈍痛はあるが、昨日までに比べたら格段にマシになっている。それでも自分の為に体に良いものを恐らく調べ、そして手に入れてきてくれたのだろう彼の思いが何よりも嬉しい。

「リヴァイさんは優しいですねぇ」

「こんなことするのはお前にだけだ」

「…はい。嬉しいです」

彼が口ではそう言いながらも、仲間や部下に対して深い思いを持っているのは良く知っている。それでも、こんな風に手ずから果物を切ってくれるのは、きっとナマエにだけなのだろう。
その特別感が擽ったくて、自然と頬が緩んでしまうのを抑えられなかった。

「何笑ってやがる」

「いーえ?早くグレープフルーツ食べたいなーって」

「ちょっと待ってろ。皮も剥いてやるから」

意外と過保護で世話焼きで、本当は誰よりも失う辛さを知っている彼の横顔をただただ見つめていた。
ずくん、と身体に響く鈍痛がリヴァイの痛みにも思えてきて、思わず手を伸ばす。果汁がついた手のひらを洗おうとしていたリヴァイが、驚いたように三白眼を見開いた。

「オイ、汚れる…」

「…あったかいですね」

素直に吐露した思いにぴたりと彼の動きが止まった。そのまま果汁まみれの手を、ナマエのそれとしっかり絡め合わせたリヴァイにクスリと笑ってしまう。潔癖症の彼がこういう突拍子もない行動に出るのも自分の前だけだと、ナマエは知っているのだ。

「あらら、ベトベトになっちゃいましたね」

「フン…お前が先に触ってきたんだろ」

「そうでした。じゃあ手を洗いにいってから、グレープフルーツ、食べましょうか」

「足元気を付けろよ」

シーツに果汁が垂れないように慎重に動くナマエの手を優しく引きながら、反対の手では自分のペロリと指先を舐めたリヴァイが顔を顰めた。

「…酸っぺぇな」

「そりゃあグレープフルーツですもん」

「ああ、そうか…そうだな」

ふ、と微かに笑ったリヴァイがしっかりとナマエを支えながら一歩を踏み出す。リヴァイの胸にずっと巣食っていた焦燥感や不安が静かに消えていくのを感じる。
あたたかいな、と口の中で呟いた彼の顔には窓からの柔らかい光が降り注いでいた。


-fin




Back


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -