オリオンに魅せられて(後)

マンションに帰ってきたナマエは靴を脱ぐこともなく、ずるずると玄関に崩れ落ちた。震える足でここまで帰ってこられたのが奇跡のように感じる。

「っ、リヴァイっ…!」

心が震えるほど嬉しかった。彼がナマエを覚えていること、最期の約束を果たそうと未だに探し続けてくれていること、ハンジが、エルヴィンが、ミケが、ナマエと会える日を心から待ち望んでくれていた事実が、涙が出るほど嬉しい。だがいつか来るかもしれない今日という日のために、心を殺し、突き放す覚悟を育ててきたのだ。
本当は今すぐにでもミカサに縋りつきたい気持ちを抑え、リヴァイの目に一目でも映りたいと願う気持ちを押し殺し、「もう彼のことなんて何とも思っていない」と自分に言い聞かせてきた。そうでもなければ壊れてしまいそうだった。

「お願いっ…忘れて…」

漏れ出した嗚咽は本心なのか、もうナマエにも分からなかった。あの時リヴァイの言うことをきかず、彼を置いて逝った自分に隣にいる資格はない。
あの世界で残された彼がどれだけ辛い思いをしたのか、絶対に置いていかないと誓ったはずなのに、ナマエだけが先に逝ってしまったのだ。自分がどれだけリヴァイに愛され、大切に思われていたかきちんと理解しているからこそ、それが何よりも辛く、今でも自身を許せないままだ。

「リヴァイ…りば、い…リヴァイぃ…」

名を呼ぶことだけは許してほしい。
そして傷つけてしまった唯一無二の親友に心からの謝罪を呟いて、ナマエは泣き続けた。



難しい顔をした三人から同時に深い溜め息が溢れ落ちる。ナマエとの邂逅の翌日、リヴァイが出張から戻ってくる前に、とハンジはエルヴィンとミケを会議室に引き摺り込んだ。仕事中だということはこの際無視だ。

「まさかナマエがな…」

「私も予想外だったよ。本当にリヴァイのことを愛してたから…記憶を持ってたら真っ先に探そうとすると思ってた」

「…愛していたからこそ、じゃないか」

ミケとハンジの苦渋に満ちた表情とは裏腹に、エルヴィンはいっそ腹立たしいほど冷静さを崩さない。ばっと顔を上げて彼を凝視するハンジに目を向け、ゆっくりと口を開いた。

「愛していたから、リヴァイを置いていくことになった自分を許せない。しかも直前に喧嘩をしてまで、リヴァイは彼女を遠ざけようとしていた。そんなリヴァイの気持ちを痛いほど理解しているから…どうしても怖気づいてしまうんだろう」

「…ナマエの性格ならありえるな」

納得したように腕を組むミケ。その反面、ハンジの顔は悔しそうに歪められたままだ。

「…そんなの分かってるよ。ナマエがリヴァイのことをもう好きじゃないなんて、そんなのは嘘だってすぐ分かった。あんな顔見せられたら…何も言えない」

リヴァイの名を舌に乗せる時のナマエの顔は、幸せと悲しみが入り混じった複雑な顔をしていた。だがそこには、彼がこの世界で生きていることへの喜びと思慕の情も確かに表れていた。

「考えてもみろ。ハンジ、お前が記憶を取り戻してから何年だ?」

「え?ええと…リヴァイと再会した大学1年の頃だから…うわ、もう10年以上経つんだ」

「俺もミケもそれくらいだな。だが…ナマエはどうだ」

「え…?」

「ミカサと再会したのが12,3歳の頃…その彼女の周りには記憶を持たないかつての仲間たちがいる。そんな中で、幼い彼女が明るい未来を抱けたと思うか?」

「あ…」

「…もしかしたらリヴァイも何も覚えていないかもしれない。何も思い出さず、彼らと同じように平和で幸せな日常を過ごしているかもしれない。ミカサを介せば真実が分かるかもしれない。けれどもし、リヴァイが何の記憶も持たず、他の女と結婚でもしてたら…?ハンジ、お前に再会する昨日までの十数年間、ナマエがずっとその葛藤と共に生きてきたとしたら…どうだ」

「エルヴィン…それは…」

「もちろんただの憶測にしか過ぎないよ。だが…何の確約もない未来を一人で待ち続けることが出来るほどナマエは…人は強くはないだろう」

「エルヴィンの言う通りかもしれないな。俺たちは奇跡的にも、四人でこの世界を歩むことが出来ているが…」

「もしずっと一人だったら…ハンジ、お前は存在するかも分からないナマエを、何十年も探し続けられるか?」

ミケの静かな言葉を引き継いだエルヴィンの碧眼は、あの頃と何も変わらない。いつだって冷静で感情に流されず、最善を尽くす男の目だ。

「…分からない。だけどこの奇跡を奇跡のままにしたくないんだ。リヴァイとナマエが…どんな形になるにしろ、二人には後悔して欲しくない」

「それは俺も同意見だ」

頷いたミケとハンジの目が同時にエルヴィンを捉える。どんな時だって最善の判断を下せるのは、彼だけなのだ。

「…俺も二人には幸せになってもらいたい。あの世界で叶えられなかった幸せを掴んで欲しいと思ってる」

それが仮に違う道を歩む結果になったとしても、お互いが納得した上ならそれは一つの幸せな形だ。だが今は、ナマエは現実から目を逸らし、リヴァイはこんなに近くにいる彼女を見つけられないでいる。

「…俺に考えがある」

そう言って不敵な笑みを浮かべた彼は、人類の運命を託されたあの時と同じ顔をしていた。



手元の招待状を弄びながら、ナマエは長く息を吐いた。『上場記念パーティー』と書かれたそれは、ハンジたちの会社のものだった。

「ミョウジさん、それ行ける?ウチのお得意先の一つだから一人は行かせたいんだ」

「…課長」

「今の担当は君だから…出来れば行ってくれると助かるんだけど」

にこにこ笑いながら指差された封筒にもう一度視線を落とす。断ることも出来るのだ。実際別の商談が入っている日だ。これに行くとなると、代わりを探して商談にあてなければいけない。その労力を考えれば、パーティーは別の者に行ってもらうのが最善のはずだった。

「…スケジュール、調整してみます」

頼むよ、と去っていった課長の背に再び溜め息を吐く。これは仕事だと、少し顔を出して義理を果たしてすぐに帰ろうと、そう心に決めて封筒を引き出しの奥にしまいこんだ。



ハンジと再会したあの日から一ヶ月が経っている。約束通り、リヴァイには何も言っていないのだろう、彼女の周りはいつも通り平穏だった。それにチクリと痛む、身勝手な心を自嘲していたナマエの元に届いたのが先ほどの招待状だった。
その時漸く、エルヴィンとミケにも言わないように口止めをするのを忘れていたことを思い出す。慌ててハンジに連絡をしようとして、だがあの時彼女との連絡先の交換を拒んだのは自分だということも思い出した。

「…かっこわる」

詰めの甘さにもほどがあるだろう。あの世界でも常々、「お前は他人に甘すぎる」とリヴァイに苦言を呈されていた。芋づる式に思い出される彼との想い出がじりじりと胸を焦がした。

「…これを最初で最後にするから」

このまま彼らの近くにいたらもっと側にいきたくなる。このパーティーで彼らの姿を一目でも見られたら、それを最後に完全に距離を置こう。せっかく慣れてきた会社だが、ここも辞めることも考えなければならない。
どうか最後に一度だけ、と願ったナマエの小さな祈りは誰も耳にすることなく溶けていった。



耳につくざわめきに無意識に眉間に皺が寄っていくのを自覚する。上場記念パーティーと称して各取引会社や株主を招待したこのような華やかな場所は、あまり好きではない。それは前世から全く変わらないところだった。

「リヴァイ。この後登壇して紹介予定があるからな。その恐ろしい顔を何とかしてくれよ」

「チッ…俺は登壇しなくても…」

「いいわけないだろ。最優秀営業売上賞の受賞なんだ。後輩たちのモチベーションのためにも頼んだぞ」

ポンっと肩を叩いたエルヴィンに苦々しげに眉を寄せるが、社長命令とあればリヴァイに否を唱える権利などない。ダークスーツを整え直して、渋々彼の後をついていくだけだ。

「しかし…すげぇ人だな。どれだけ招待したんだ」

「大抵は株主だ。だが重要な取引会社もいくつか招待している」

「リヴァイ、この後表彰だって?私もだよ」

「てめぇは何の表彰だよ。変態第一位か?」

「ひっどいな。君たちが使っている社内アプリ、開発したのは私だからね?」

リヴァイの隣に並んだハンジが不服そうに唇を尖らせた。そのまま舞台の裏に辿り着くと、そこにはミケも待っていた。
何かのプレゼント企画をやっているのか、表舞台からは盛り上がった明るい声がここまで届いている。くるりと振り返ったエルヴィンの顔は、舞台裏の暗さで半分隠れていた。

「…リヴァイ。まだナマエのことは諦めきれないか」

「あ?なんだよ急に」

「もう何年経つと思う。いい加減諦めるべきじゃな…」

「年数なんて関係ねぇ。お前らがもう付き合いきれねぇって言うなら、俺一人で探すまでだ」

目つきを鋭くしたリヴァイが真っ直ぐに睨みあげる。何もぶれないその強さに、エルヴィンは内心感嘆した。

「…だがもし彼女が再会を望んでいなかったらどうする。恋人や…結婚しているかもしれないだろ」

「お前、何か勘違いしてねぇか」

試すようなエルヴィンの言葉にもリヴァイは動じなかった。固唾を呑んで見守るハンジとミケの視線が突き刺さる。

「俺はただ…あいつの笑顔がもう一度見たいだけだ」

「リヴァイ…お前…」

「…何度も何度もあいつの夢を見る。だが俺が最期に見た顔は…喧嘩をして涙を堪えるナマエの顔だ」

そっと目を伏せたリヴァイにその場にいた全員が息を呑んだ。彼らが思い出すナマエは、リヴァイの隣で幸せそうに笑っていた。

「どんなに笑っている姿を思い浮かべても、結局最後に思い出すのは死に際と…喧嘩の時の顔だ。だから俺はもう一度、あいつが心から笑った姿をこの目で見たい。それだけだ」

「もしそれがお前の隣じゃなくても、か」

「…そん時は仕方ねぇだろ。あいつが幸せならそれでいい。だがそうじゃねぇなら…奪うまでだ」

あくまでも見たいのは彼女の心からの笑顔なのだと、そう素っ気なく告げるリヴァイにさすがのエルヴィンも絶句した。ハンジもミケも、同じような顔をしながら彼を凝視している。

「…私、リヴァイのナマエへの愛情深さを舐めてたよ」

「俺もだ…」

心底感心したようにまじまじと見る二人の視線に、リヴァイは嫌そうに顔を背けた。
揶揄うな、とうんざりと呟いたその時、「次は今年度、優秀な成績をおさめた社員の表彰です」と司会が告げる。次に呼ばれるのはエルヴィンの名だ。

「リヴァイ、落ち着いて聞け。この会場にはナマエがいる」

「……は?」

一瞬では理解出来なかったのか、ゆっくりと振り返ったリヴァイの目がみるみるうちに見開かれていく。真剣な顔をしたエルヴィンに何も言葉が出ない。

「黙っていて悪かった。ただナマエはリヴァイに…私たちに会いたくないようだ」

「なに…お前、何を…」

「恐らくお前がナマエの存在を知ったのを彼女に気付かれたら、きっと彼女は姿を消す。舞台の上からナマエを探せ」

「エルヴィン…お前…いつから…」

「…俺たちが知ったのもつい最近だ。ナマエがこの会場に来ていることは名簿で確認したが、姿はまだ見ていない。…時間は限られている。探せるか」

「当たり前だ」

エルヴィンの突拍子もない作戦や奇策についていっていた、あの頃の感覚を思い出す。思えば、大事なことは最後の最後まで言わない男だった。

「それではエルヴィン社長、お願いします!」

リヴァイに向かって大きく頷いたエルヴィンが、司会の声に導かれて舞台上へ向かっていく。
ハンジとミケを振り返れば、その静かな表情に彼らも知っていたのだと察した。

「…どういうことだ」

「話はあとだ。ナマエはとにかく私たちとの接触を避けている。…まさかこの会場に来るなんて、思ってもいなかったよ」

さすがはエルヴィンの作戦だ、と脱帽するハンジ。横で腕を組んだミケがすっと目を細めた。

「エルヴィンは、恐らくナマエはこの表彰式が終わったらここを去るだろうと言っていた。俺とハンジも会場入りしてからナマエを探しているが…見つからなかった」

「記帳はされていたから来ているのは確実、だと思う。なんでエルヴィンはナマエがこの表彰式は見る、って思ったのかは分からないけど…それが当たってるなら、舞台上からナマエを探すしかないんだ」

「…ハンジ。お前、ナマエと会ったんだな」

確信を持って問われた内容に躊躇いなく頷いた。ただここに至るまでの話をする余裕は、今はない。

「小言ならあとでいくらでも聞くよ。今は…」

「このクソ豚野郎どもの中から、ナマエを見つけなきゃいけねぇってことか」

相当の人数だ。しかも舞台以外は照明を落とされ、一人ひとりの顔がどれくらい判別出来るのか想像も出来ない。更に探していることをナマエに気付かれないようにしなければならないとなると、大きく動くことは出来なかった。

「…逃すかよ」

だが失敗するつもりはない。漸く手にした細い糸を、自ら掴み取りに行くだけだ。



「…以上、ハンジ・ゾエさんでした!」

舞台上では最後の一人を残して表彰が終わっていた。手にしたパンフレットに掲載されていたこの表彰式で、エルヴィン、ミケ、ハンジ、そしてリヴァイが揃うことを確認したナマエは、これが終わったら会場を出ることを決めている。
受付を終えてからはホテル内の喫茶店で時間を潰しており、間違っても彼らと顔を合わせないように細心の注意を払っていたのだ。
全員が舞台上にいる今なら、その心配はないはずだ。

(…みんな、おめでとう)

キラキラと輝く舞台とは裏腹に、ナマエが身を隠すようにして寄せている扉付近はひどく暗い。遠目から見える彼らがしっかり地に足をついて生きていることに、涙が出そうなほどの歓喜を覚えた。

(リヴァイ…)

一番端に立つ一際小柄なその姿を、目に、心に、脳の一番深いところに刻むこむ。決して忘れないよう、これから生きていく糧に出来るよう、この瞬間だけはただただ彼を見つめることを許して欲しい。

「最後の最優秀営業売上賞は…リヴァイ・アッカーマンさん!前月比100%超えを18ヶ月連続更新という脅威の成績です。おめでとうございます!」

一際大きくなった拍手に合わせて、ナマエも心からの賛辞を送る。それが鳴り止む頃、今までの受賞者と同じような質問が司会から繰り出された。

「ではアッカーマンさん、記録を更新し続ける秘訣や極意、教えて頂けませんか?」

「…それを教えたら俺が更新出来なくなるじゃねぇか」

「そこをなんとか…お願いしますよー」

クスクスと会場から漏れ出る笑い声が柔らかく、好意的だった。
久しぶり聞いたリヴァイの声が、記憶と少しも違わないもので一気に込み上げてくるものがある。

「そうだな…うちの会社では、成績上位者が海外や国内の出張を伴った商談を受け持つことが出来る。その時は仕事とは別に1、2日くらい、そこで有休を使って過ごすことが可能だ。…これを目当てに出張に行きたがる奴も少なくねぇな」

「リヴァイ、あまり公にしてくれるな」

「いいじゃねぇかエルヴィン。どんな形であれ、社員がやる気を出すのはいいことだ」

それはそうだがな、と苦笑いでぼやくエルヴィンとけろっとしたリヴァイのやり取りに、会場を再び笑いが満たす。
変わらない二人のやり取りと距離感が何よりも尊いものに見えた。

「それは魅力的ですね。オンオフをしっかり区別しつつ、英気も養えるとはあってはみんな行きたがりますね。てことはアッカーマンさんも、それを楽しみに成績を更新し続けたってことでしょうか?」

「…そうだな。いや、俺は出張先でどうしても見つけたい奴がいた」

「見つけたい…人、ですか?」

どくん、と大きく心臓が音を立てた。
訝しげに首を傾げる司会に目を向けていたリヴァイが、おもむろに視線を会場へと変えた。身体ごと前を向いた彼の瞳は真っ直ぐにナマエの方に固定される。

「リヴァ…イ…」

聞こえるはずがない無意識の呟きに呼応したように、リヴァイがマイクを持ち直す。
ナマエから視線を外さずに、よく通る声が会場全体に響き渡った。

「成績トップでいられれば、国内だろうと海外だろうと商談がある場所に真っ先に飛んでいける。その地で探し物が出来るだろ」

「なる…ほど…?ええと、つまり、アッカーマンさんは探してる人?物?があって、それがどこにあるか分からないから、探すために飛び回る権利を掴み続けたってことですね!」

「…そういうことだ。何年、何十年掛けても絶対に見つけると決めている。そして見つけたら…絶対に逃さねぇ」

「…なんか熱烈なプロポーズみたいですね」

呆気に取られた司会に答えることなく、「以上だ」とリヴァイがマイクの電源を切った。ざわめく会場内や舞台上で額に手を当てるハンジをよそに、リヴァイはまだ視線を逸らさない。
何十メートルと離れているはずなのに、あの瞳から逃れることが出来ずにナマエはただただ呆然と立っていた。無意味に小さく唇を開いたその瞬間、「皆さんありがとうございました!」と響いた司会の声が意識を急浮上させた。
床に張り付いた両足をなんとか動かし、ナマエは一歩後ろに下がる。リヴァイが舞台袖に消えたタイミングを見計らって、震える足を叱咤した。

(出なきゃ…!)

カツカツと音を立てるヒールが鬱陶しい。
正面玄関ではなく、裏口近くにある長階段を半分ほど、ちょうど中間の踊り場に降り立ったその時、夜の帳を引き裂く声がナマエの名を呼んだ。

「ナマエ!」

びくり、と大きく身体が震える。
振り返ることも、踏み出すことも出来ずにナマエはただその場に立ち竦んだ。

「…ナマエ」

ナマエのものよりも重いヒールの音が階段を一つ、また一つと下りてくる。早く行かなきゃ、と脳が指令を送っても、あの声に名を呼ばれると指先一本動かすことが出来ない。

「…やっと見つけた」

振り向くことすら出来ないナマエの後ろからリヴァイの両腕が伸ばされ、そして強く抱き留められる。ほんの少しだけ香った汗の匂いとリヴァイ自身の香りが、幾千の夜を超えてナマエを囲った。



時間にすれば数十秒ほどだっただろうが、二人にとっては時が止まったような気がする時間だった。
ゆっくりと手を離したリヴァイは、未だに振り返ることなく固まっているナマエの背中に声を落とす。

「ナマエ、こっちを向いてくれねぇか」

「っ、リヴァイ…」

漸く聞けた彼女の声は涙が混じって濡れていた。
それでも生身のナマエの声に、全身に震えが走るほどの歓喜が湧き上がる。

「顔が見てぇ。さっきは遠目で暗かったからよく見えなかった。…駄目か」

懇願混じりのその言葉に、恐る恐る首を回していくナマエを辛抱強く見守った。強要ではなく、彼女自身の意思でリヴァイと向き合って欲しい。

「…ナマエ」

「リヴァイ…」

きらりと光る彼女の涙すら美しく尊いものに思えてくる。どんな感情なのか、唇を噛み締め両手を握り合わせながらも、しっかりとリヴァイと目を合わせたナマエが震える唇を開いた。

「リヴァイ…ごめんなさい…」

「何故謝る」

「わた、私っ…リヴァイのこと置いて逝った…忠告してくれたのに…油断するな、って…いつも言ってくれてたのにっ…!それなのに私、怒って…」

「ナマエ」

「死ぬことが怖かったんじゃないのっ…リヴァイを…あなたを置いていくのが本当に…本当に怖かった…!」

「だから…会いに来なかったのか」

「だって…今も…今までも…怖くて仕方なかった…!ハンジに会うまでは…ずっと怖かった。もしリヴァイに何の記憶も無かったら?そしたらあの約束もきっと覚えていない。もし、私以外の人がリヴァイの隣にいるのを知ったら…私はきっとあなたに縋ってしまう」

そんな権利なんてないのに、と俯いたナマエの足元にぽたぽたと水滴が落ちた。
留めていた想いが言葉の奔流としてとめどなく溢れていく。だから会わないように、姿を目にしないようにしていた。目を合わせてしまえば、自分勝手な謝罪と後悔を彼にぶつけることになってしまうと確信していたからだ。
きっとリヴァイは怒らない。ナマエを責めることも苦しみを吐露することもなく、彼女を許すだろう。そうではなく、いっそ罵って詰って欲しかった。

「最期の時、私はリヴァイの顔を見ることが出来なかった…。どんな顔で私を見送ったのか、それすらも分からないまま…記憶の最後にあるあなたの顔は、喧嘩の時の悲しそうな顔だから…」

「…俺もだ。お前の笑顔だけを思い浮かべていたいのに…泣かせたあの時の顔がどうしてもチラつきやがる」

夜風が涙に濡れた頬を冷たく撫でる。
一度目を伏せたナマエが再び視線をあげると、リヴァイの頭越しに星が瞬き始めたのが見えた。

「…会うつもりはなかった。ハンジにもそう言ったよ」

「らしいな。詳しくは聞いてねぇが…ついさっきエルヴィンの野郎が言っていた。一人で未来を期待し続けるのは何よりも辛い、と」

「エルヴィンが…」

「今までの話が、記憶を取り戻しても俺を探さずに…ハンジにも口止めした理由なんだな?」

「…うん。それに再会してもリヴァイがまだ私のことを好きでいてくれるかなんて分からない。もし記憶がないなら尚更だもの。…怖くて怖くて、自分から動くことが出来なかった。あなたを傷つけた私に、そんなことを願う権利もない」

「…そうか」

二人の間に沈黙が落ちた。
暗闇に紛れるダークスーツ姿のリヴァイの瞳だけが階段を照らすランプに反射している。さっきまではいっそ罵って欲しいと願っていたのに、彼が今何を考えているのか想像することが恐ろしくてたまらない。

「リヴァイ、あの…」

「初めまして。リヴァイ・アッカーマンです」

「え…?」

聞き慣れない敬語と聞き慣れた名前に思わず何度も目を瞬く。いやに真剣な顔をしたリヴァイが矢継ぎ早に続けた。

「ご存知だと思いますが、仕事は営業です。一応トップセールスマンをやってるので、稼ぎはある…あります。好きなものは紅茶で、趣味は…掃除と、最近ランニングを始めた…ました」

「え、あの…リヴァイ…?」

「…チッ。お前相手に敬語は慣れねぇな」

「あの、どうしたの?いきなりなに…」

「家族は叔父だけで今は海外にいる。休日はドライブがてら行ったことのない場所に車を走らせて…ずっとある女を探してた」

「あ……」

「…幼い頃からずっと、一人の女を追い求めてた。それが前世の記憶で、生まれ変わっても必ず見つけると誓ったことを思い出してから…一日たりともお前のことを想わなかった日はねぇ」

「り…ば…」

「この世界では初めまして、だろ。一応この世界での俺の自己紹介をさせてもらったが…これだけは言える。俺にあの頃の記憶があろうとなかろうと…俺は何度でもナマエを好きになる」

「っ…」

「例えお前の記憶が無かったとしても、姿形が変わったとしても。今みてぇに一から始めて、そして必ずお前を手に入れる。…あの時、俺はそう誓った」

「リヴァイっ…私…でも、私、リヴァイにそんなこと言ってもらえる資格なんて無いっ…」

「あの時の後悔を失くしたいわけでも、あの頃からやり直したいわけでもねぇ。俺はこの世界で、ナマエと一から始めたい。そして今度こそ、お前を幸せにしたい。泣かすことなく、ずっと笑顔のままでいさせてやりてぇと、そう思ってる」

そう言い切ったリヴァイが一歩後ろに下がった。片手の長さ分、ナマエとの距離を取った彼がその手を真っ直ぐに伸ばした。

「だからナマエ、この手を取れ。そしたら二度と…今度こそ絶対に離さねぇと誓う」

あの世界で最期までナマエの手を握りしめてくれていた温かさが、今度は未来を繋ぐために差し伸べられた。
もう二度と触れられないと思っていた温もりに恐る恐る手を伸ばし、固い手のひらに触れる。あの頃とは違い、ブレードを握る必要も血に塗れることもないその手は、ナマエが知らない柔らかさを伝えてくれていた。

「…会いたかった、ナマエ」

夢でも記憶でもない確かな温もりを、もう傷つくことのない身体中で感じていた。



そしてナマエはエルヴィン、ミケとも再会した。申し訳なさそうに深く頭を下げた彼女の頭を優しく叩いたミケは、スンっと鼻を鳴らし、何も変わらない匂いに目を眇める。そしてエルヴィンはぎゃあぎゃあと言い争うリヴァイとハンジを見て、呆れたような溜め息を吐いた。

「じゃあなんだ?ナマエが来るかどうかは一か八かだったってことか?」

「私だって反対したよ!でもエルヴィンが、来なかったらナマエの気持ちはそこまでってことだって言うからさ。そしたらリヴァイにも何も言わずに、これまで通り自分の力で探し出してもらうしかないって」

「…エルヴィン。てめぇどういうことだ」

ぎろりとエルヴィンを振り返ったリヴァイは殺気に満ちていた。やれやれ、と肩を竦めたエルヴィンは、益々申し訳なさそうに身を縮めるナマエを横目にわざとらしく息をつく。

「どうもこうも…俺は今回のパーティーの招待状をナマエの会社宛に送っただけだ。担当者様宛て、とな」

「…もしナマエが少しでも俺たちを…リヴァイを気に掛けて心に留めてくれてるなら、一目だけでも見たいと思ってくれるはずだ、と。だがきっと声は掛けないだろうし全員の姿を確認次第、姿を消すかもしれない。だから…唯一全員が見える場をあの舞台上に作ったらしい」

エルヴィンの言葉を引き取って、ミケが静かに説明を続ける。「さすがエルヴィン」と感心したように拍手をしているナマエに、お前のせいだろうと喉まで出掛かるが、それはハンジを蹴り上げることで抑えた。

「いって…何で蹴るんだよ、もう!」

「大体てめぇが早く言っとけば済んだ話だろうが。エルヴィンとミケには話して何で俺には伝えねぇんだよ!」

「そんなのナマエと言わないって約束したからに決まってるだろ!もし約束破ったら、私が嫌われちゃうじゃないか」

「こんのクソメガネ…」

「ナマエはミカサっていう最後の切り札だって持ってたんだ。それをずっと我慢してまで、自分の気持ちを押し殺してたんだよ?それなのに私が勝手なこと出来ないだろ!」

「だからって俺だけ聞いてねぇのはおかしいだろ!」

言い切ったハンジにリヴァイの拳がワナワナと震える。
ナマエからミカサの話を聞いたが、生憎この世界で彼女と関わったことはない。ミサカもリヴァイとはなるべく関わりたくないだろうが、ナマエも何年ぶりかにミカサと連絡を取ったらしい。それならいつか礼を言うこともあるだろう、とリヴァイはそっと心の中で感謝を告げた。
だが今は、エルヴィンの博打のような作戦に、ミケの見守るような生温かい視線に、そしてハンジの勝ち誇った顔に、とりあえず全ての怒りをぶつけようとすうっと息を吸ったリヴァイの右手が、柔らかい温もりに包まれた。

「…ナマエ?」

「リヴァイ、ごめんなさい。私が変に隠れて隠し事をしたのが悪いんだ。ハンジを責めないで?エルヴィンも私のことを考えてくれただけで…」

「…チッ。分かってる。お前は気にすんな」

一生懸命言い募るナマエに眉間の皺を和らげ、彼女の手に包まれた拳を解いてしっかりと握り直す。ぐしゃぐしゃと宥めるようにナマエの髪を撫でれば、ホッとしたように彼女の頬が緩んだ。その安心したような顔を見れば、いつまでも怒っているのがもったいなく感じる。

「…ゲロ甘なのは変わんないんだね、リヴァイは」

「そうだな…変わらないな」

ハンジとミケが呆れながら呟き、二人の世界に入った彼らを見守る。苦笑しながらも窓の外を見遣ったエルヴィンの目には、抜けるような爽やかな空が映っていた。

「…今日もいい天気だな」

眠れぬ夜に怯える日も、救えなかった命に手伸ばして飛び起きる日も、もう二度と来ない。
確かに掴み取った確実な未来を全員が噛み締めていた。


-fin




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