オリオンに魅せられて(前)

どくどくと流れていく赤色は今まで何度も何度も目にしてきた。命が流れ出るそのさまを、何百回と見送っても慣れることなどない。それが誰よりも愛しく、何よりも守りたいと願った恋人のものなら尚更だった。

「…ナマエ?ナマエっ…!」

「リヴァイ、動かしちゃダメだ!内臓の損傷が激しい…」

「黙れっ…触るな」

ハンジが止める手をぱしっと振り払い、横たわるナマエの隣へ崩れ落ちるように膝をついた。医療班の兵士が彼女の命を繋ごうと懸命に手を動かしている。だがヒューヒューと漏れ出る息の弱さが、その命が残りわずかなことを示していた。

「り、ばい…?リヴァ…そこに、いるの…?」

「…ここだ。ここにいるぞ」

ゆらりと彷徨った血塗れの右手をぎゅっと握りしめてやる。視神経もやられたのか、うっすらと開かれたナマエの目は何も見ていなかった。

「りば…ごめん…ヘマ、しちゃ…て…」

「いや、お前は良くやった。お前のおかげでいくつもの班が難を逃れた。…重要拠点も一つ確保出来たぞ」

「っ、ゴホッ…よか…た…」

ナマエが笑おうとしたのが分かった。
だがそんな余力もないのか、か細く息を吐き出すので精一杯だ。彼女の命の灯火が消えかかっているのを目の当たりにしたリヴァイの手が震えていく。

「リヴァイ…よかっ…た、最期に…会えて…」

「馬鹿野郎…最期なんて言うんじゃねぇよ」

「ふ、ふ…喧嘩、したまま…だったら、やだなぁって…思ってたの…」

この壁外調査の前日、ナマエとリヴァイは久しぶりに喧嘩をした。今回の作戦で珍しくリヴァイとは別の班を率いることになるナマエを案じて、彼が憂いた顔をしていたことがきっかけだった。
「嫌な予感がする」とナマエを作戦から外すことまで考え始めたリヴァイに、彼女が激怒したのだ。

「りば…いの、感、当たってたね…」

「…ナマエ」

「言うこと…聞かなくて、ごめ…ね…?」

「謝るんじゃねぇ。お前は立派に職務を全うした」

「う…ん。私、後悔してない…よ…」

なんとかリヴァイの顔を確認するように、必死に顔を動かすナマエにぎりっと唇を噛む。ただ手を握ることしか出来ない自分、必死に治療を施す医療班の顔が絶望に染まっていくのを見て見ない振りをした。

「ナマエは本当に俺の言うことを聞かねぇな…」

「そんな、の…リヴァイも一緒…じゃない…」

「馬鹿言え。俺は意外と素直だ」

咳き込んだナマエの口元から赤い命のかけらが流れ出ていく。そっと立ち上がった医療班の兵士が、涙を堪えながらゆっくりと首を横に振った。そして深々と一礼して立ち去っていくのを見送ることなく、リヴァイはナマエに向き直る。
いつの間にか、ハンジたちの姿も消えていた。

「ゲホッ…りば、い…リヴァイ…」

「ああ、ここにいる」

「…ごめん、…私のことは、忘れ…てね…」

「馬鹿野郎」

もう時間が無いことはナマエ自身も分かっていた。あと数分もすれば、この心臓は役目を終える。
誰よりも大好きな、実は寂しがり屋の彼を置いていくことだけが心残りだった。悔しいけれど、自分の代わりに彼の孤独を埋めてくれる人が現れることを祈る。本当は誰にも譲りたくなかったその役目を、今この瞬間は強がって手放すことを決めた、それなのに。

「…最期まで人の話を聞かない野郎だな、お前は」

「わた、し…野郎じゃな…い」

「忘れられるわけねぇだろ。こんなに我儘で自由で、散々俺を振り回しやがった…誰よりも愛しい女のことはな」

「りば…」

「約束する。俺は必ず巨人を絶滅させて、そしてお前の元へ向かう。その時は…生まれ変わってまた俺の隣に来い」

「見つけ、られるかな…」

「絶対に見つけると約束する。それまで誰のものにもなるんじゃねぇぞ」

「う、ん…リヴァイ、もね…」

微かに微笑んだナマエがふうーっと大きく息を吐いた。もうその時が来たことを、リヴァイは嫌でも理解した。

「ナマエ、ナマエ…」

「…ごめ、…もう、眠い、の…」

「…ああ。おやすみ、ナマエ」

ふっと閉じられた瞳と共に、ナマエの命の音がゆっくりと消えていく。掴みたいのに掴めないそれを最後まで見送って、リヴァイは額をコツンと彼女の手に当てた。

「おやすみ」

生温かい滴が、穏やかに眠るナマエの身体に一筋落ちる。交わした口付けはまだ愛しい温もりを残していた。



ばっと勢いよく布団を撥ねのけたリヴァイは、荒い息をつきながら起き上がった。カーテンの隙間から漏れ出る朝日が、また一日が始まったことを告げていた。

「クソが…」

くしゃりと潰した前髪が汗で濡れている。出勤前にシャワー行きが決定したが、このどんよりと澱む気持ちを吹き飛ばすにはちょうどいいのかもしれない。
何度も見てきた夢だ。ナマエの最期を看取ったあの日から、もう数えられないくらいの月日が経った。この世界には巨人の脅威も、戦わなければならない敵も、志半ばで命を散らせる仲間を見送る苦しさも、何も存在しない。
幼いころから見る様々な夢が前世の記憶なのだと確信したのは、大学に入学した直後だった。同級生にハンジ、そしてゼミの先輩としてエルヴィンとミケに再会したのだ。その時身体に走った衝撃は今でも思い出せる。生まれてから今まで、何か欠けた記憶があるような、足りないピースを探し求めているようなもどかしさが漸くかっちりはまった。
それは彼らも同じだったらしい。エルヴィンはミケと再会した時に、ハンジは高校で後輩のモブリットに再会した時、全ての記憶が蘇ったという。

「全員が全員、記憶を持っているわけじゃないみたい。実際モブリットは記憶がなかったよ」

そう言ったハンジはほんの少しだけ寂しそうな色をのせていた。だがそれよりも、彼がこの平和な世界で何のしがらみもなく生きていることが何よりも嬉しかったという。
そんなモブリットは結局、記憶がないながらもハンジの世話役のような役目からは逃れられなかったようで、卒業した今でも付き合いがあるらしい。高校の部活で暴走する彼女を止めに入り、叱り、時には泣きながらもハンジのそばを離れなかったという。

「フン…モブリットも難儀な運命だな」

「ほんっとにね!ま、こうして私たちが再会したのも奇跡のような偶然で…だけどやっぱり運命だったのかな」

「ハンジの口から非科学的なことを聞く日が来るとはな」

「…まったくだ」

そう言って笑ったエルヴィンとミケとは裏腹に、視線を落としたリヴァイの横顔は憂いに満ちていた。その内心を察した三人が口を噤み、そしてハンジだけが口を開く。こうした役目をこなせるのは変わらず彼女だけだ。

「…リヴァイ。ナマエには会えていないんだね?」

「…ああ。お前らは…」

「私も出会ったのはモブリットと…あとニファだけだ。二人とも記憶は無かったけど」

「俺も接触したのはミケだけだ。ただナナバとゲルガーも、ミケが入っている弓道部の後輩としているらしい。記憶は無かったんだな?ミケ」

「そうだ。俺もこの世界でナマエに会った記憶は無い」

「…そうか」

記憶がある全員共通するのは、子どもの頃から前世の記憶として時折夢を見ていたことだ。その中にはもちろんナマエの姿もあったが、覚えている限り今世で彼女と邂逅した記憶は無いという。

「そもそも全員がこうして生まれ変わっているわけではないだろう。むしろ出会えない者たちの方が多い」

「分かっている。だが…諦められねぇ」

ミケの静かな声に、リヴァイも同じような切実さを持って答えた。
ナマエの笑顔も泣き顔も怒っている表情もそして最期の姿も、何度も見る夢のおかげでリヴァイの記憶に焼きついていた。小さい頃は訳も分からず混乱していたが、年を重ねるにつれて理解したのだ。きっと彼女は、自分にとって大切な人物なのだろうと。小学生低学年の頃までは、きっと彼女がまだ見ぬ運命の人で、予知夢として現れているのだと本気で信じていたくらいだ。

「…リヴァイ。あの頃と違ってこの世界は広い。そもそも同じ年代にいるとも、この国にいるとも限らないだろう」

「そうだな。だが、俺はあいつに誓ったんだ。必ず見つけ出すと」

「そうだったね…。あの最期の時、ナマエは本当に穏やかだった」

ハンジの声が僅かに震える。ナマエと特に懇意にしていた彼女は、暫くその死を引き摺っていた。あまりにも平静に過ごすリヴァイに憤ったハンジに、胸倉を掴まれた記憶も蘇ってきた。

「そういえばこの前一緒にいた彼女も、ナマエに似ていたな」

「…ミケ」

「えっ…?リヴァイ、彼女いるの!?こんだけナマエナマエって言ってるくせに、ヤルことは他の女でヤッてるわけ!?」

ガタン、と椅子から立ち上がったハンジが詰め寄ってくるが、そこからそっと視線を外す。あまりに痛いところを突かれたと、自然に不機嫌そうな顔になってしまった。

「…彼女じゃねぇよ」

「益々最低なんだけど」

「まぁまぁハンジ。どうせリヴァイのことだ。全部の記憶が蘇る前に、無意識にナマエのことを求めていたんだろう。結果彼女に似た女性と懇意になるが、どうしても違和感が拭えなくてすぐに疎遠になる。結局恋人と呼ぶのもおこがましいような関係で終わるんだろ」

「お前…相変わらずムカつく野郎だな…」

エルヴィンの正確な推論に今度こそ何も言えなくなった。
彼の言う通りだった。焦燥感のような気持ちに追い立てられ、言い寄ってくる中でナマエに似た容姿の女を無意識に選んでいた。幼馴染のファーランとイザベルにも「リヴァイはいつも同じような女を好きになる」と言われていたのだが、今なら分かる。彼女たちのことは好きでもなんでもなく、ただただナマエを追い求めていた結果なのだ。ちなみにファーランとイザベルには前世の記憶は無いようだった。

「相っ変わらず不器用にもほどがあるでしょ…。だからナマエとも喧嘩別れしちゃうんだよ」

「チッ…ほっとけ。だがそれも今日で終いだ。俺はナマエを探す」

きっぱりと告げた彼に、三人の眦が柔らかくなる。ナマエが死んだ後のリヴァイの瞳とは違う、力強いそれに大きく頷いた。

「もちろん協力するよ。ね、エルヴィン、ミケ」

「ああ。幸い今世でも俺の嗅覚は常人より鋭いらしい。ナマエの匂いなら覚えている」

「…恩に着る、ミケ」

「前途多難だぞ。そもそもこの世界にいるのかも分からない彼女を探すんだからな」

「無茶は承知の上だ。もしここで見つからないなら…何度でも生まれ変わってあいつを探す。そうナマエに誓った」

「…そうか」

ふっと表情を和らげたエルヴィンとリヴァイの視線がしっかり交わる。
ぼんやりと追い続けていたナマエの面影が、初めて形になった瞬間だった。



大学のカフェで必ずナマエを見つけると誓ったあの日から、10年以上の月日が流れた。一足先に大学を卒業したエルヴィンとミケはそれぞれ違う会社で働いていたが、数年後共に起業した。
それに誘われたリヴァイとハンジ、そしてモブリットも合流してがむしゃらに働くこと早数年、今や飛ぶ鳥を落とす勢いだ。時には非情ともいえる判断を下すエルヴィン、相変わらず鼻が利くミケ、専門性の高い知識を膨大に有するハンジ、そして機動力のある営業で確実に結果を出すリヴァイたちの元には、様々な依頼や取引が舞い込むようになっていた。
その多忙さの合間を縫って各自がナマエ探しに奔走していたが、10年以上経った今も未だ見つかっていない。

「ハンジ、明後日の取引はお前とモブリットにお願いしたい。先方の担当者が変わるらしく、商談のあとは挨拶を兼ねた食事会をセッティングしてくれたようだ」

「ん、りょうかーい。あ、リヴァイは今海外だっけ」

「ああ。来週には戻ってくるが…向こうでもナマエを探し歩いているんだろう」

「ほんっと執念深いよねー。いや、愛情深いというべきかな?」

呆れたように首を竦めるハンジも、それに苦笑を溢すエルヴィンも、慈愛に満ちた瞳をしていた。はなから雲を掴むような話なのだ。行き当たりばったり、まさに運命を信じるしかないこの状況だが誰も悲観はしていない。
もう一度寄り添う二人の姿が見たいと、ただそれだけを願っていた。



その日は季節外れの暑さを記録するようだった。からりと乾いた空気は気持ちがいいが、汗ばむ陽気にハンジは閉口していた。

「ちょっとハンジさん。しっかり座ってくださいよ。もうすぐ先方が来ますよ」

「はいはい、分かってるって」

取引先のブースに通されたモブリットが、小声で隣のハンジに声を掛けた。
研究者としては優秀なのにどこか浮世離れしたこの先輩を放っておけないのは自分の性分故なのだろうか、と彼が一つ息を吐いたその時、二つの影がブースへ入ってきた。

「大変お待たせしました。ハンジさん、モブリットさん、ご無沙汰していますね」

「こちらこそ。お久しぶりで…」

「…ナマエ?」

久しぶりに会う男性担当者の後ろにいる小柄な女性が、新しい担当者なのだろう。名刺入れを持って立ち上がったモブリットは、横から小さく聞こえた声に思わずハンジの頭を見下ろした。呆然と目を見開いた彼女がふらりと立ち上がる。

「ナマエ、だよね…?」

こんなに弱弱しい震える声を出すハンジをモブリットは初めて見た。
真っすぐに視線を逸らさない彼女の瞳の先には、不思議そうな顔をする男性担当者と、ハンジと同じように零れんばかりに瞳を大きくさせた女性の姿しかない。彼女が「ナマエ」なのだろうか。

「…ハンジ」

その唇から零れた名前がハンジの鼓膜を震わせた。記憶と寸分も違わないその柔らかい声音に、目の前がぼんやりと霞がかってくる。

「え、ちょっ…ハンジさん!?」

ああ、自分は泣いているのか。
いやに冷静な頭がそう認識する。慌てたようなモブリットの声と、「大丈夫ですか!?」と動揺する先方の男性に申し訳ないと思いつつ、どうしても堪えることのない激情が涙となって溢れてくる。

「ハンジ、泣かないで?」

困ったように宥めるその声をどれだけ求めていたのか。リヴァイだけではない。失った彼女の存在の大きさに打ちひしがれ、悲しみに溺れそうになったのは、リヴァイであり、ハンジであり、そしてエルヴィンとミケであった。そうでなければ再びまみえる奇跡を信じ続けることなどできやしない。
そっと肩に触れたナマエの手の温かさが、彼女という命の存在を強烈に表していた。




積もる話もあるだろうから、と早々に食事会を解散してくれた元担当者とモブリットに深く頭を下げ、改めてナマエと向き直る。
先ほどは「幼い頃に引越しで別れた親友」とナマエが説明してくれて、事なきを得た。元々ハンジの変人っぷりを知っているモブリットたちからすれば、ハンジの号泣も大いに納得出来ることだったようだ。

「ハンジ、久しぶりだね」

「うん、本当に…本当に久しぶりだ」

また涙が込み上げてきそうになるのを必死に耐えた。よく見ればナマエも潤んだ瞳を隠そうと何度も瞬きを繰り返している。
ぱちっと合った目に同時に噴き出し、それと同時に二人の目尻からきらりと光る滴が流れ落ちた。

「あははっ…ハンジ、泣きすぎだよ。モブリットがびっくりしてた」

「だってまさかこんなところで会えるなんて…心臓がひっくり返るかと思ったよ」

心臓、という単語にナマエがぴくりと反応した。それに気が付いたハンジが優しげに眉を下げる。

「…また会えて良かった」

「うん、私も。…モブリットは記憶が無いんだね」

「…その言い方だと、他に記憶持ちの誰かに会ったことがあるんだね?」

静かな問い掛けにナマエの目が伏せられる。ややってこくん、と頷いた彼女の顔には葛藤が浮かんでいた。
本当は再会してすぐ、二人きりになった瞬間に「リヴァイに連絡する」と伝えたのだ。それを聞いたナマエはひどく狼狽し、待ってくれと懇願した。様々な感情が入り混じったその悲痛な声に、ハンジは取り出していたスマートフォンをそっと仕舞いこんだのだ。

「どこから話そうか…」

「全部聞かせてよ。今のナマエのこと、知りたいんだ」

迷うような素振りを見せていた彼女が、ハンジの力強い言葉にはっと目を見張る。そしてハンジのよく知る、柔らかくて優しい笑みを見せた。

「うん、聞いてくれる?」

「もちろん」

しっかりと頷いたハンジに励まされ、大きく息を吐いた。手元のグラスの氷が溶けて、からんと軽やかな音が鳴る。

「私が前世の記憶…あの頃の記憶を取り戻したのは、中学生の頃だったの」

「えっ…?そんなに早かったの?」

「…ミカサに再会したんだ」

懐かしむように目を細めたナマエの声が僅かに震えた。

「ミカサ…彼女もここにいるのか」

「うん。エレンもアルミンも…ジャンもコニーもいるよ。だけど記憶を持っているのは、ミカサだけ」

彼女たちに再会したのは、ナマエが中学生の頃だった。後輩として入学してきた彼女たちを見た時、今まで夢だと思っていた全ての記憶が前世のものだと完全に理解したのだ。そして驚愕に立ち竦むミカサの姿を見て、彼女も覚えているのだと確信した。

「お久しぶりです、ナマエさん」

「久しぶり、ミカサ」

足りないピースが一つ、埋まった音がした。ミカサと話していくうちに彼女以外は記憶を持たないこと、ミカサは物心着く頃からぼんやりと思い出していたこと、記憶を持つ者に会ったのはナマエが初めてなことをぽつりぽつりと語ってくれた。

「…そっか。みんな覚えてないんだね」

「はい。でも…幸せです」

「ミカサが幸せなら私も嬉しいよ」

あの頃とは違う少女らしい微笑みに、心からの安堵を込めて答えた。
途中で命を落としたナマエは、あの世界がどういう結末を迎えたのか知らない。夢で見る記憶は自分が経験したことばかりだった。だが、知りたいとは不思議と思わなかった。ミカサの幸せそうな横顔を見る限り、捧げた心臓は決して無駄にはならなかったのだと、そう信じている。

「…ナマエさん。リヴァイ…兵長とは」

「…ううん」

気遣うように発せられた名前に心臓が鷲掴みにされた感覚がした。
ミカサと再会し、全てを思い出したあの日からずっと心を占めている存在だった。目も見えなくなった最期のその瞬間まで握られていた、豆だらけの彼の手の感覚も覚えている。そしてナマエが思い出せる彼の最後の顔は、喧嘩をしたあの時のものだ。苦しそうに眉を寄せる彼の哀し気な顔を思い出して、ナマエは唇を噛んだ。

「あの人は…きっとナマエさんを探していますよ。そういう人です」

少しだけ嫌そうにそう告げるミカサにクスリと笑う。あの世界から何千年経ったのかは分からないが、彼女の恨みは根深そうだ。ありがとう、と囁いたナマエの髪が風に揺られてたなびいた。
そして高校進学と同時に引っ越すことになったナマエの元に、ミカサがある知らせを持ってやってきた。

「ナマエさん…リヴァイ兵長を見つけました」

「え……」

「あの世界で私とあの人は親戚同士…だったみたいだし、もしかしたらって」

ミカサの親戚回りを調べてくれたらしい。その中でかなり遠縁であるが、「リヴァイ・アッカーマン」の名を見つけたという。

「この世界に…いるの、ね…」

「はい。縁遠いので私たち家族は会ったこともないですが…住んでいるところを調べることは出来る、と思います」

揺るがないミカサの瞳が、覚えている彼のそれと重なった。寂しがり屋で強がりで、己の力に悩み苦しみながらもナマエを一途に愛してくれた彼を、自分は置き去りにした。

「…ありがとう。でも…生きていると、同じ世界で同じ時間を過ごしていると…それが分かっただけで十分」

「ナマエさん…」

「私に出来ることは彼の幸せを遠くで祈ること、かな。もしかしたらずっと年上か年下かもしれないでしょ?」

「…計算的には私たちの5,6個上くらいだと思います」

「そっか…」

うまく息を吸えている気はしなかった。うんと年上か、赤ん坊のような年の差だったらきっぱりと諦められるのに、運命はそううまくはいかないらしい。ナマエを見つめ続けるミカサの黒曜が美しかった。

「ミカサ、わざわざありがとう。リヴァイがちゃんと生きてると分かって…本当に嬉しかった」

「私の連絡先はこれからも変えるつもりはありません。必要になったらいつでも連絡してください」

ありがとう、と再び微笑んだナマエは、そしてその地を去った。ミカサの連絡先は未だに残っている。それでもナマエから連絡することも、彼女から連絡が来ることも無かった。
そこまで語ったナマエが喉を潤すように一気にグラスの中身を飲み干した。グラス越しのハンジの顔が歪んで見える。

「…こっちで大学に進学して就職したの。で、半年前に今の会社に転職して、今回ハンジたちの会社の担当になったってわけ」

「半年前か。道理で知らないはずだ。ナマエの会社とはずっと付き合いがあって、エルヴィンもミケも…リヴァイも何度も行ってるんだよ」

「そっか…」

静かに微笑むナマエに堪らなくなる。探し求めていた彼女が今目の前にいる。本当なら喜ばしいことのはずなのに、それよりも湧き上がるのは怒りだった。

「…ナマエはずっと知ってたんだよね?リヴァイがこの世界にいることを」

「うん、知ってた」

「記憶もずっとあって…ミカサが差し伸べた手も振り払ったってこと?」

「そうだよ。私はリヴァイに…ううん、リヴァイだけじゃない。あの世界の記憶を持つ人に、もう会いたくなかった」

きっぱりと告げられた事実に目の前が真っ暗になる。ハンジたちが記憶を取り戻して10年以上、必死にナマエを探していた。細い糸ですらない、ただの願望だけで諦めることなく探し続けられたのは、きっとナマエも同じ気持ちだと信じていたからだ。

「…リヴァイはずっとナマエを探してるよ」

「会うつもりはないよ。ハンジ、無理にでも会わせようとするなら私は会社を辞める」

「っ、なんでっ…!あんなに好き合ってたじゃないか。私だって…またナマエと会いたいって…そう思って今まで…!」

身勝手な感情だとは分かっている。たまたま記憶を取り戻したハンジたちは共に過ごすことを願い、きっとナマエもそうだろうと勝手に決めつけていたのだ。
本当は思い出したくないくらい辛い前世なのだと、ナマエが考えていてもおかしくなかった。

「…ハンジ、ごめんね」

「もう…リヴァイのこと好きじゃないんだね?もしかして結婚とかしてるの?」

「してないよ。恋人もいない」

激高するハンジとは裏腹に、ナマエの表情はどこまでも凪いでいた。その表情がいつかの彼女と重なる。そう、大きな決意をして自分を犠牲にすることも厭わなかった、あの頃のナマエの顔だ。

「…もう一度聞くよ。リヴァイのこと、もう好きじゃないんだね」

「うん。好きじゃない」

何の動揺も見せずに答えた彼女に確信した。ナマエはこの日のために、長い時間を掛けて決意を固めてきたのだと。

「分かった。リヴァイには言わないって約束するよ。だから…こうしてたまには会ってくれないかな」

「…ハンジ」

「私にも気持ちの整理をつける時間が必要なんだ。なんせ元親友に縁切り宣言されたんだから」

困ったように眉を下げるナマエを見たハンジの雰囲気がふっと和らぐ。
いつもそうだった。ハンジの我儘や突拍子もない提案に困ったように笑いながら、それでも最後はエルヴィンやリヴァイの説得に回ってくれたのだ。何も変わってないよ、と小さく口の中で呟いたハンジは意識してへらりと笑ってみせた。
そう、ナマエは何も変わってなどいない。嘘を吐くのが絶望的に下手くそなところも、リヴァイの名を呼ぶ時に幸せそうに頬を緩めるその仕草も、あの時と何も変わっていなかった。
ごめんね、と内心ナマエに謝罪を述べる。リヴァイには言わないと約束したが、エルヴィンやミケに言わないとは言っていない。ナマエのこういう詰めが甘い優しさも、あの頃のままだった。





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