あまくて、にがくて、恋してる
忙しかった。本当に忙しくて、ここ数週間は始発で来て終電で帰る日々が続いていたのだ。
思考能力が低下していたことも、どこでも寝られるくらい疲れ切っていたことも、さらに漸く終えられる繁忙期にテンションがハイになっていたことも、間違いはない。
だが敬愛し、更には密かに恋心を抱くリヴァイと二人きりで残業をしていた夜、そんな感情の全てを全力で封じ込めて、いつも通りを装えていたはずだ。終わりが見えた多忙な日々に、さすがのリヴァイも安堵した雰囲気を醸し出していた。
「やっと終わりますね…」
「そうだな。この時期はさすがにキツイ」
「リヴァイ課長でもそう思ったりするんですね。なんかホッとしました」
「当たり前だろ。アラサーのおっさんの体力の無さを舐めんなよ」
「課長で体力無いって言ったら、他の方たちはどうなるんですか」
「知らねぇよ。ナナバなんかはこんな時期でも涼しい顔してるがな」
「ナナバさんはいつでも変わらないですよねぇ…素敵です」
「お前は本当にナナバが好きだな…。いつも周りをちょろちょろして、忠犬か」
「忠犬で結構です!大好きです、憧れです!」
「…そうかよ」
カタカタとパソコンを打ちながら交わされる会話も軽やかだ。
最後あたりは何故か不穏な空気を感じたが、それでも大好きで仲のいいナナバの顔を思い出せば、更に心は軽くなる。
もうひと踏ん張りだ、とチラッと見た時計は間もなくてっぺんを指そうとしていた。このままいくと終電は無くなるだろうが、幸い明日は休日だ。タクシーで帰ろう、と腹を括ったナマエは最後の追い込みにかかる。これをリヴァイに送れば、正真正銘自由を手に入れることが出来るのだ。
「…よっし、終わりました!」
「ああ、お疲れ。よく頑張ったな」
心からの労いの言葉を掛けたリヴァイに破顔した。ナマエの繁忙期はこれで終わりだが、リヴァイはこの後部下から送られてきたデータを確認しなければならない業務が残っている。それでも彼の直属の部下たちは優秀でミスも少なく、リヴァイの負担はそこまで大きくないと、以前彼自身が言っていたことを思い出して、目尻を下げた。
「課長は…」
「俺も今日は帰るぞ。久しぶりに布団で寝てぇ」
「ふふ、分かります。何も気にせず朝まで寝たいですよね」
ぼやいたリヴァイの言葉に大いに同意する。気が付いたらソファーで朝を迎えていたり、ベッドに入っても3時間後には起床しなければならない生活とは暫くおさらば出来るのだ。
パソコンを閉じたリヴァイが机の上を整理しながらナマエの準備が終わるのを待っているのを見て、彼女は頬を緩めた。こういうさりげない優しさに気が付くようになった頃には、もう彼に心を奪われていた。
自分にも他人にも厳しいが、絶対に理不尽なことは言わず、言葉少ないながらも部下をきちんと褒める彼の姿勢に憧れる者は多い。そしてその中に、ナマエと同じ気持ちを抱く者もきっと少なくないだろう。
「ナマエ、お前終電ないだろ。どうやって帰るんだ」
「タクシーを拾おうかと思っ……あ」
フロアから出ながら答えていたナマエがハッと顔を強張らせて、慌ててバッグの中を漁り始める。そしてがっくりと頭を上げた。
「…失敗した」
「オイ、どうした」
「…財布、家に忘れちゃいました」
「オイオイオイ…」
か細いナマエの声にリヴァイも呆れたように絶句する。昨日の夜、疲れた身体に鞭打って公共料金の支払いに行った後、財布をテーブルの上に置きっぱなしにしていたことを、今思い出したのだ。今日は財布を使うことも無く過ごしていたからすっかり失念していた。ICカードには千円弱は入っているだろが、タクシー代には到底足りない。
「仕方ない…。歩いて帰るか」
「馬鹿言ってんじゃねぇ。今何時だと思ってんだ」
「でも…」
「金を貸してやりてぇのは山々だが…俺も殆ど手持ちがねぇんだ。悪い」
「いえっ…!課長が謝ることでは…!」
リヴァイが現金を最低限しか持ち歩かず、キャッシュレスで支払することが多いのはよく知られたことだ。
慌てて両手を振りかぶるナマエをじっと見つめていた彼が、大きく息を吐く。何か迷う雰囲気のそれに、申し訳なさそうにナマエが小さく身体を縮めた。
「あの、課長、私のことは本当に気になさらないでください。歩いても1時間くらいなんです。明日は休みですし、今までだって歩いて帰ったことあるので」
「…は?お前な、仮にも若い女がやることじゃねぇ。今後一切やるな、分かったか」
「はっ、はい…」
盛大に眉間に皺を寄せたリヴァイの厳しい𠮟責に、ピンと背筋を伸ばして答えた。だが、それでは今日帰ることが出来ない。なけなしのICカードの残額を使ってファミレスで始発を待つか、と項垂れたその時、固いリヴァイの声が降ってくる。
「…ウチに来るか」
「へ…?」
「あー…俺んちがこの辺なのは知ってるだろ。そこで始発を待てばいい」
「え、は…、あの…それはリヴァイ課長のご自宅に、ということでしょうか…?」
「そう言ってんだろ。オイ、セクハラって言うなよ」
「い、言いませんよっ…!」
予想外の提案に全く頭が働かなくなった。そもそももう疲労で使い物にならなくなっている自分が今、どんな顔をしているのか想像も出来ない。
「えっと…あの…え…?」
「…それが嫌なら俺と二人、ファミレスで始発を待つんだな」
「か、課長にお付き合い頂くわけには…」
「お前、俺がこんな時間に女の部下を一人放って帰る奴だと思うのか」
憮然とした表情で詰問されれば、否と首を振るしかない。部下思いなのは重々承知していたが、まさか自宅に招き入れるほど心配性な性格だと思ってもいなかったのだ。完全に思考を停止させたナマエにしびれを切らしたのか、低い声が答えを迫ってくる。
「…遅ぇ。さっさと決めろ」
「はっ、はい!よろしくお願いいたします!」
「よし」
咄嗟の答えに満足したように、リヴァイが浅く顎を引く。さっさと行くぞ、と前を先導する彼の後を追いながらも未だ頭の中は混乱で満ちている。床を踏みしめる足がまるでわたあめのように軽く、フワフワしていることだけは実感していた。
▼
朝の薄日がぼんやりとナマエの瞼の裏を照らす。眩しさにうっすら瞳を開いた彼女の視界に飛び込んできたのは、見知らぬ景色だった。
「……え」
「起きたか」
右側から聞こえてきた声にびくりと身体を震わせる。恐る恐る首を回すと、そこにはベッドに横たわったまま片肘をつき、彼女を見つめるリヴァイの姿があった。
「かちょ…え、あ…」
「…まだ寝ぼけんのか」
額にかかった前髪を彼の人差し指がさらりと横に流す。動いたことでリヴァイが服を着ていないことに気が付いたナマエは声にならない悲鳴を上げるが、同時に自分も何も身に纏ってないことを思い出して慌てて布団を被った。
昨夜のことが急速に思い出されて、ナマエは絶望感と共に布団の中に籠城した。
「…オイ、ナマエ」
「も、申し訳ありませんっ…!」
「なんだ。忘れたわけじゃなかったのか」
そりゃ良かった、と呟くリヴァイに、忘れられるかと内心大声で悲鳴を上げた。
リヴァイについて、この自宅に来るまでは良かった。洗濯機と乾燥機を使っていいと言われ、着ていた服や下着を洗わせてもらったことも大変助かった。そしてそのままシャワーを借りて、リヴァイが差し出した寝間着を受け取ったのだ。
「女物の服なんてねぇからな。これを使え」
「あ、ありがとうございます…」
嘘か本当か、とりあえず彼の家に女の影がないことを心底安心してしまうほどリヴァイに恋していることを、嫌でも実感する。渡されたスウェットからは清潔な柔軟剤の香りが漂っていて、彼らしい清潔さにまた心臓が一つ高鳴った。
厚手のスウェットは下着をつけていなくてもなんとか誤魔化せそうだ。ポーチに入れていた一日分のスキンケア用品に安堵しつつ、ソワソワと落ち着かない様子でソファーに座ったナマエを見かねたのか、「適当に寛いでろ」とリヴァイも浴室の扉の向こうに消えていく。
冷静になった今、なんて大胆なことをしたのかと文字通り頭を抱えた。
(こ、こんな風に家に着いてきたりして、尻軽だって思われないかな…?待って…でもまさか間違いが起こるわけじゃないし、課長は親切心で…そう、部下を心配してるだけ…)
まさかリヴァイとそういうことになるなんてあり得ないと、そう自分に言い聞かせていたナマエの考えは見事に覆ってしまった。
いざ寝る段階になった時、ソファーで寝ると主張する彼女と、客人を差し置いて自分だけベッドで寝られるか、とけんもほろろに告げるリヴァイ。
リヴァイとて気が長い方では無い。時計の針が深夜の2時を指しそうになった時、彼がぐいっとナマエの腕を引っ張り、ぽいっとベッドへ放り投げたのだ。
「か、かちょっ…」
「いいから寝ろ。黙って寝ろ。動くな寝ろ」
「は、はいぃ…」
不機嫌そうにナマエをぎろりと睨んだリヴァイは、彼女を壁の方に追いやり自分はその隣に腰を下ろした。失礼します、と呟いた彼女がおずおずと布団を被るのをしっかり見届けて、ベッドサイドに置いてあった本を手に取った。
「あ…課長は寝ないんですか…?」
「お前が寝たら俺も寝る。また移動されちゃかなわねぇからな」
「…すみません」
首を竦めたナマエが、「おやすみなさい」と目を閉じる。目を瞑ると隣にいるリヴァイの存在が一気に大きくなるが、それよりも先に心地よい眠気が襲ってきた。
とろとろと温かい微睡みに身を任せようとしていたナマエの耳が、ぎしりと微かなベッドの軋みを捉えた。リヴァイが動く気配と共に、ふっと風が舞う。
「…チッ。気持ち良さそうに寝やがって…」
小さな悪態が聞こえた気がして、ゆるゆると瞼をこじ開ける。ぼんやりと漂う意識の中、意外と近くにあったリヴァイの顔にへにゃりと笑った。
「ん、課長…?」
「…やめろ。そんな声で呼ぶな」
掠れた囁きが口付けになって落ちてきた。掠めたその温もりにも現実感はない。だが、もっと欲しいと素直に思った。
「リヴァイ、課長…もっかい…」
「っ、クソがっ…」
次に落ちてきたのは性急で熱い口付けだった。こじ開けられた唇の中で縦横無尽に動き回る彼の舌が、体内の熱を上げる。
「ン…かちょ、う…あつい…」
「…煽ったのはお前だからな」
一旦離れた唇が再び降ってくる時には、ナマエももう両手を真っ直ぐに彼の首へと伸ばしていた。
思い出される昨晩の自分の愚行に、このまま布団の中で窒息死したくなってくる。が、ぽんぽん、と宥めるように上から叩かれた振動に、勇気を出して目元だけをそろりと出した。
「…怯えた猫みてぇだな」
「猫じゃありません…忠犬です」
ナマエの弱々しい返しが意外だったのか、くくっと喉の奥を鳴らしたリヴァイに目を丸くしてしまう。一晩を共にしておいてなんだが、プライベートのリヴァイはこんなにも穏やかなのか。
「もう10時過ぎてんぞ。朝飯…つかもう昼飯か?食ってけ」
「えっ!?」
がばっと起き上がって時間を確認したナマエの瞳が、みるみるうちに見開かれていく。
人様の、しかも上司の家でここまで爆睡してしまった事実にがっくりと項垂れた。
「…ナマエ。俺には眼福だが、服、着とけよ」
「へっ…?っ、いやぁぁぁ!」
おもむろに立ち上がって扉に向かったリヴァイが残した言葉に目を瞬かせ、自分の身体を見下ろしたナマエの悲鳴が、閉じた扉の向こうまで響き渡った。
▼
「ナマエー?なんかものすっごい影背負ってるけど、どうしたの?」
翌週、一心不乱に仕事を捌いていくナマエの異様な雰囲気に誰も声が掛けられない中、ナナバだけはいつも通りだった。
ひらり、と手を振りながら現れたナナバに、くるりとナマエが振り返る。ほんの少しだけその表情が明るくなるが、その目の下には隈が出来ていた。
「ナナバさんっ、お疲れさまです」
「あ、うん…お疲れなのはナマエの方だと思うけど」
終業時間はとっくに過ぎている。
まばらなフロアをぐるりと見渡し、ナナバは近くの椅子を引いた。
「大丈夫?トラブル?」
「いえ…大丈夫です。ご心配掛けてすみません」
弱々しく笑ったナマエの笑顔が見知らぬものに見えて、ナナバは眉を寄せた。
彼女が新卒で入ってから何年かは指導社員として隣にいたが、こんな顔は初めて見るものだ。いつも前向きで多少のことではへこたれない明るさを持つナマエに、何かあったのか。
「ま、無理には聞かないけど…何か力になれることがあったら言ってよ?」
「はい、ありがとうございます」
「あ、今日リヴァイは出張なんだね」
何の気もなしに発したナナバの呟きに、ナマエの肩が大きく揺れる。その反応に驚いたのはナナバの方だった。
ぱっとナマエを見れば、動揺したことを必死に隠すように顔を背けているが、その頬は赤く上気していた。
(…ちょっと待ってよ。まさか…)
ありえない展開に天を仰ぎたくなってきた。
ナマエがリヴァイに恋をしていることは勘付いていた。何を隠そう、二人を引き合わせたのはナナバなのだ。
「リヴァイ、この子がナマエ。今私が指導社員としてついてる子なんだ。何かあったら助けてやってよ」
「珍しいな、お前がそんな風に言ってくるなんて」
「可愛い後輩だからね。頼んだよ」
「ナマエ・ミョウジです。リヴァイ課長、よろしくお願いします」
丁寧に頭を下げたナマエを目を細めて見下ろしたリヴァイが、小さく頷いて「リヴァイ・アッカーマンだ」と簡潔に自己紹介する。
ナナバとナマエの部とリヴァイの部は関係が深い。顔繋ぎをした方が後々楽だろう、と判断した結果だった。
そして翌年リヴァイの部に異動したナマエが、何年も掛けてリヴァイへの気持ちを積らせていくのを近くで見守ってきたのだ。
「ナナバさんっ、今日リヴァイ課長が…」
「…リヴァイ課長に注意されちゃいました」
「今日持っていった提案書、課長が褒めてくださいました!」
「ナナバさん、リヴァイ課長って紅茶がお好きなんですね」
基本的に誰にも隙を見せず、いつでもピンと背を伸ばしているようなナマエだが、ナナバの前だけは違っていた。満面の笑みでキラキラと目を輝かせながら、リヴァイの話を幸せそうに語るのだ。他の誰も、もちろんリヴァイ本人も知らないだろうが、彼女が恋をしていることはナナバにとって明白だった。
「ナマエ…」
「はい、ナナバさん」
リヴァイと何かあったのか、と喉まで出かかった問いを寸前で飲み込んだ。触れられたくないからこそ、こうして必死に誤魔化しているのだろう。
そこに土足で入るほど、無粋ではない。
「…あんまり無理しちゃダメだよ。落ち着いたらまたご飯行こうね」
「わっ、嬉しいです!よろしくお願いします!」
漸く見られた、パッと花が咲いたような笑顔に胸を撫で下ろした。
まるで忠犬だな、と呆れたように肩を竦めたリヴァイの柔らかな眼差しを思い出して、ナナバはナマエに気付かれないように深々と息を吐く。二人の間に何があったかは知らないが、あの不器用な男に、何をやっているんだと説教をかましたい気分だった。
▼
飛び立つ地上を見下ろしながら、リヴァイは目を細めた。ナマエとの一夜があった次の出勤日、トラブル対応のために急遽出張が言い渡されたのだ。
ちゃんと彼女と話そう、と思っていた目論見は一旦保留になってしまっている。
(…こんなことならあの日に話すべきだったな)
あまりに混乱し、悄然としているナマエを見兼ねて、朝食兼昼食をとっている間も二人の関係に言及することが出来なかった。
取り留めのない話を振るリヴァイをどう思ったのか、ナマエの表情は最後まで晴れないままだった。
「リヴァイ課長、申し訳ありませんでした」
「…ナマエ、俺は」
「お邪魔したばかりかこんな時間まで…ご飯までご馳走になってしまい、すみません。あの…このご恩は必ずお返しします」
「…別に構わねぇよ。仕事で返してくれりゃそれでいい」
気の利いた台詞一つ言えず、そう素っ気なく言うことしか出来なかった自分を今さら罵る。
あの時のナマエの悲しそうな、驚いたような、それでいて納得したような複雑な表情を見たら益々何も言えなくなって、「気を付けて帰れよ」と駅まで送って行くことしか出来なかった。
「…ナマエ」
囁きにもならない吐息が窓ガラスを曇らせる。
そもそも家に招き入れずに、タクシー代だけ貸してやれば良かった話だ。それをしなかったのは、ナマエと近づくチャンスを無駄にしたくない淡い下心だった。
そしてあの時、眠りにつこうとするナマエの安心し切った無防備さに耐えられず、キスをしてしまったのはリヴァイ自身の弱さだ。
まさか起きているとは思わなくて、更に彼女が応えてくれるとは考えもしていなかった。遠慮がちに回された腕に、理性が切れる音を初めて聞いた気がする。
その後のことはここで思い出すだけで身体が熱くなってくる。甘く鳴き、必死にリヴァイに縋るナマエの柔らかさに、優しくしようとか、ちゃんと言葉を告げてからだ、と考えていた常識的な思考は全て吹っ飛んだ。言い訳も出来ない。
「…クソ」
出張前に見たナマエは疲れた顔をして、殆どリヴァイと目を合わすこともしなかった。
自分の中で消化している最中なのか、後悔しているのか、それとも無かったことにしたいのか。
だが、リヴァイはそのどれも許すつもりはない。
逃すかよ、と口の中で呟いて、どんどん遠くなる地上を睨みつけたのだった。
▼
よろよろとふらつきそうになる足をなんとか踏ん張り、エレベーターを降り立った。明日にはリヴァイが戻ってくる。ナナバにはどんなことでも相談してきたが、今回のことは話すことも出来ない。
あの夜のことを忘れられる日が来る気がしなくて、益々絶望感に苛まれた。
「課長、呆れてるかな…」
のこのこ家に着いて行き、あまつさえあっさり身体を開くような女を一番嫌いそうだ。仕掛けてきたのはリヴァイだとはいえ、全て受け入れたナマエにも責任がある。
「終わったな…」
「何が終わったんだ」
片想いに終止符を打たなければ、と呟いた声に重なる声があった。後ろから聞こえたそれに、思わず足が止まる。
「遅くまで残り過ぎだ。また終電を逃したらどうする。…まぁ今日は俺にとって好都合だがな」
「リヴァイ、課長…」
ゆっくりと振り向けば、出張帰りの出立ちのまま真っ直ぐにこちらを見つめるリヴァイと目があった。
五歩分、距離がある彼との間にさぁっと風が通り抜ける。
「勤怠記録見てりゃここ数日ずっとこの時間だろ。繁忙期は終わったんだ、ちゃんと休め」
「も、申し訳ありません…」
一人でいたくなくて、他の人の分まで無理に引き受けた仕事が重なっている。それでも今のナマエにはその忙しさがありがたく、その時だけはリヴァイを忘れることが出来た。
「あの、私…」
「俺のせいか」
「えっ…?」
「…少しやつれたな。受け持っている仕事を見ても無理やり予定を入れているようにしか見えねぇ」
「課長…」
「…そんな顔をさせるつもりは無かった」
すまない、と落ちた謝罪の音に指先の感覚が無くなっていく気がした。謝るべきも迷惑を掛けたのもナマエ自身なのに、リヴァイが自分を責めることだけはして欲しくない。
「ち、違いますっ、課長のせいじゃありません!」
「そんなはずねぇだろ。俺があの時…」
「っ、言わないでくださいっ!」
リヴァイが何を話そうとしているのかは分からなかったが、何も聞きたく無かった。悲鳴に近い声を上げたナマエに、ハッとしたように彼の目が見開かれる。
「お願い…謝らないでください…」
「ナマエ…?」
「無かったことに…しないでくださいっ…!」
ハラハラと零れ落ちる涙が地面に染みを作る。
誰が通るかも分からない道のど真ん中で、こんな風に泣くなんて大人がすべきことではない。分かっていても止められなかった。
「お願いしますっ…。他言しません。誰にも言いません…!リヴァイ課長の前でも普通にするし、今後一切同じ過ちはおかしません。だから…お願いします…謝ったり、あの日のことを無かったことにしたりしないでください…」
ナマエが一番恐れていることだった。
大人同士の付き合い、一晩の過ち、と割り切れるほど、ナマエのリヴァイへの気持ちは軽くなかった。どんな形であれ、大好きな人に抱かれたあの夜は本当に幸せだったのだ。
それをリヴァイが後悔し、部下に手を出したと謝ったり無かったことにしてしまえば、ナマエの気持ちすらも消えてしまいそうな気がした。
「わ、我儘なのは分かっていますっ…!課長が忘れたいって思うのも…。だけどごめんなさい、少しだけ…ちょっとだけでいいんです、覚えていていいですか…」
「ナマエ…お前…」
「お願いしますっ…」
ナマエの告白に言葉を失っていたリヴァイの拳が強く握り締められた。
ふざけるな、と怒鳴られるかもしれないと肩に力を入れた彼女に一歩、リヴァイが近づく。
「…誰が忘れると言った」
「えっ…?」
「勝手に勘違いして自己完結してんじゃねぇよ。無かったことにされて困るのは…俺の方だ」
「リヴァイ…課長…?」
もう一歩、彼の革靴がカツンと音を立てる。
涙に濡れた顔に夜風は冷たいが、視線を逸らすことは出来ないでいた。
「チッ…先に好き勝手言いやがって…。これじゃあ俺がただの最低野郎じゃねぇか」
「そんなこと、ないです…。私が勝手に騒いで…」
「…言っておくが、俺は終電を逃した部下を誰でも家に入れるわけじゃねぇ」
「え…?」
更にもう一歩、ナマエの元に近づいたリヴァイが、あと二歩分の距離をおいて止まった。薄い暗闇の中でも、その瞳は力強い力を放っている。
「当たり前だろ。そんなことしてたら、繁忙期は毎日誰かしら泊まりに来ることになるだろうが」
「え、ええと…そう、ですよね…」
「…その時点で気付けってんだ。ナナバには関してはクソ鋭い癖に、どうして他の奴の気持ちにはポンコツになるんだよ」
「ナ、ナナバさんは特別です!いつも見てますからっ」
「…それくらいの気合いを俺にも向けろってんだ」
ナナバの名に涙も引っ込んで胸を張る。憧れで大切に思う先輩の気分や体調を気に掛けるのは、後輩として当然のことだ。
不機嫌そうな顔を隠さずに言ったリヴァイが、ゆっくりと腕を組んだ。社内にいるよりも着崩されたスーツ姿に、今さら心臓が早鐘を打つ。
「いいか。俺はあの日のことを無かったことにするつもりも、謝るつもりもねぇ。そこは勘違いすんな」
「は、い…申し訳ありません…」
「…あんな風に無防備に寝るお前が悪い」
「す、すみませんっ…図々しかったですよね…」
「ちげぇよ馬鹿」
しょんぼりと肩を落としたナマエの目尻がまた光る。泣かせることしか出来なそうな自分に頭を掻きむしりたくなるが、ナマエがいつもナナバに向ける笑顔を思い出して盛大に顔を顰めた。
「…好きな女が隣で寝てて、手を出さないでいられるほど、俺は出来た男じゃねぇ」
「へ…?」
「だからてめぇは、ナナバには向ける鋭さの一欠片でも俺に向けろって言ってんだよ馬鹿」
乱暴な言葉の中に見える照れ隠しに気が付いてしまう。
すきなおんな、と呆然と繰り返したナマエをぎろりと睨みつけた。
「そうだ。好きな女だ。好きな女だから家にも呼んだし、疲れてるだろうからベッドにも寝かせた。ついでに据え膳を食っちまった詫びとして、飯だって用意しただろ」
「え…え…は…?」
「…どれも無かったことにすんじゃねぇよ。寂しだろうが」
強気な発言の中に混じるほんの少しの弱音が、ナマエを現実に引き戻した。告げられた想いに、震える手で口を覆う。
一歩、またリヴァイがナマエの元へと足を進めた。
「リ…ヴァイ課長…?」
「なんだ」
「あの、それはまるで…課長が私のことを好きだと…そう言っているように聞こえます…」
「聞こえるんじゃねぇ。そう言ってんだ」
更に一歩、二人の距離がゼロになる。
そっと引き寄せられた後頭部に抗えないまま、ナマエの頬はリヴァイの肩口に埋まった。
トクトクと微かに感じるリヴァイの心臓の音が、ナマエと同じくらいの早さで脈打っていることを実感したその時、漸く彼の気持ちがストンと落ちてきた。
「う、そ…じゃない、ですよね?」
「嘘なわけねぇだろ。全部、本当だ」
好きです、とポロリと零れたナマエの言葉に、抱き締めるリヴァイの力が強くなる。
俺もだ、と囁かれたその熱さが頭の芯を痺れさせた。
▼
「リヴァイって、いつからナマエのこと好きだったの?」
「…何がだ」
「ナマエには随分甘いなーとは思ってたんだよ。でも社内の女には絶対に手を出さないってポリシーのリヴァイが…まさかナマエに惚れるだなんて…」
くるり、とペンを回しながらじっとリヴァイを見つめるナナバに、うんざりとしながらもキーボードを打つ手を止める。
急な出張のおかげで確認すべきデータがたんまりと溜まっていた。これを終わらさなければナマエとの時間も取れない、と危機感を募らせたリヴァイが本気でパソコンに向かい合ったタイミングで、ふらりとナナバが現れたのだ。
「可愛い可愛い私のナマエを掻っ攫っていって…知らないじゃ済まされないからね」
「それこそ知らねぇよ。あいつはお前のじゃねぇだろ」
「この前まで!ついこないだまで!あの可愛い笑顔は私のものだったんだよ!」
ダンっと悔しそうに机を叩くナナバに白けた視線を向けた。彼女がこんな風に感情を露わにするのは珍しいが、それが漸く恋人としての権利を手に入れたナマエに関してなら話は別だ。
「…そいつは残念だったな」
「で?いつから好きだったの?」
しつこい問いかけに口を噤む。
まさか言えるはずもなかった。ナナバの周りを忠犬のように動き回り、他の誰にも見せない笑顔を向けるのを目にしているうちに、自分の周りにもああやって纏わりついてくれないか、と願うようになったことなど。
あまりに情けなく子供染みていて、ナマエにも絶対に言えるはずがない。
「…少なくとも。お前が思うよりずっと前だろうな」
「…ふぅん。本気なんだ」
スッと目を細めたナナバの雰囲気が途端に鋭いものになる。ナマエには優しく柔らかく接している彼女だが、本来はこっちの性格の方が強いのだ。
ナマエに甘いのはどっちだ、と内心毒づいたリヴァイは、パソコンに向けていた目を上げる。そして薄い唇を開いた。
「それこそ…お前の言う俺のポリシーを崩すくらいには本気だろうよ」
「…泣かせたら殺すから」
物騒な捨て台詞を吐いて立ち上がったナナバの長身が、もう一度リヴァイを見下ろす。青にも翠にも見えるその瞳は、リヴァイではないどこかを見ていた。
「頼むから…笑顔でいさせてやって。私さ、あの子の笑顔が好きなんだよ」
苦笑したナナバが背を向けて去って行く。揺れる金髪を見送って、リヴァイは椅子へ凭れかかった。
「…俺もだ」
あの笑顔に惹かれたのだと、それだけは教えてやれば良かったと、そう考えながら頭を振って、目の前の仕事に集中するのだった。
▼
すうすう、と気持ち良さそうに眠るナマエにあの日の夜がデジャブする。違うのは、お互いが心から望んでここにいることだ。
「ん…ぅ…」
ごろんと横に寝返りを打ったナマエの口元がリヴァイの胸元に当たる。微かな寝息が擽ったくも感じるが、それよりも胸を占めるのは幸福感だった。
「ナマエ、ナマエ…起きろ」
揺り起こすには優しすぎる振動を加えてやるが、起きる気配は全くない。早く起きて出掛けよう、と昨夜まで張り切っていた彼女を組み敷き、瑞々しい身体を堪能したリヴァイの目はすっかり冴えていた。
その反面、体力を根こそぎ奪われたらしいナマエは、時計の針が10時を指す今になっても目覚める様子が無い。
「…仕方ねぇな」
一応起こしたからな、と独りごちる。仕方ない、とぼやいた声音がひどく甘いことに、リヴァイ自身も気が付いていなかった。
出掛けたかった、と落ち込むであろう彼女のために、あの日と同じように昼食を用意しよう、とリヴァイは思い立つ。だがもう少しだけ、あと少しだけこの温かい幸せを享受することに決めて、穏やかな寝顔にそっと唇を寄せたのだった。
-fin