溺愛プレリュード
パシン、と高い音が中庭に響いた。
ついでジンジンと左頬が熱を持ち、遅れて鈍い痛みが広がってくる。
叩かれたのだ、と呆然としながら理解しても何故か怒りは湧いてこなかった。
なまえを思い切り引っ叩いたのは、同じ兵団の女兵士だった。名前は知らないが、スラリとした体躯に大きな瞳で男性兵士に人気がある女性だった筈だ。そんな彼女がその大きな瞳を吊り上げて、なまえを睨みつけている。
「っ、な、んで…あんたみたいなのが…!あんたなんかが兵長の隣にいんのよ!」
叩かれたのはなまえの方なのに、叩いた本人の方が痛そうに顔を歪めているのは何故なのか。
場違いにクスッと笑いそうになって、慌てて頬を引き締めるが聡い目の前の女には勘付かれてしまったらしい。
カッと頬を紅潮させた彼女がもう一度手を振りかぶった。
「っ、なまえ!!」
そんな今のなまえにとってのヒーローは、リヴァイではなくペトラだったようだ。
悲鳴に近い声を上げてこちらに駆け寄ってくるペトラの姿に、女が怯んだようにペトラのなまえを交互に見やる。
あっという間に二人の間に割り込んだペトラは、僅かにたじろいだ様子の女をキッと睨み上げた。
「あ、んたねえ…!なんてことしてんのよ!」
「…ペトラ、私は大丈夫だから…」
「大丈夫なはずないでしょ!」
ペトラが怒りに声を荒げるのを聞き、慌てて声を掛けた。痛くないと言ったら嘘になるが、ここで騒ぎを大きくしたくない。
しかしそんななまえの様子に、女は益々苛立ちを募らせたようだ。
「そのいい子ぶってんのが腹立つのよ!いつもヘラヘラしてるだけで、大した実績もないくせに!なんであんたみたいな凡人が兵長の近くにいるわけ!?身の程を知りなさいよ…!」
怒りのままに声を上げる女だが、なまえは少しも動揺を見せない。もう言われ慣れた罵倒だ。今更傷付くことなどない。
「…いい加減に…!」
怒りを見せたのはペトラの方だった。なまえは女に一歩詰め寄ったペトラの腕をしっかり取り、初めて女と目を合わす。
「…話はそれだけですか。ならこれで失礼します」
「なまえ…!」
「行こう、ペトラ。訓練まで時間がないよ」
「…ペトラ!あんただって思うでしょ!?あんたの方が兵長に相応しいって!そんなちっぽけな東洋人より、ペトラや私たちの方が兵長の役に立てる!」
「いい加減にしなさいよ、エリーゼ!それ以上言ったら…!」
ああ、エリーゼとやらは確かペトラの同期だったと霞が掛かったような頭でぼんやりと思い出す。
なまえに腕を引かれるままだったペトラが、カッとしたように後ろを振り返りそうになるのを腕の力を強めることで阻止して、なまえはここから早く立ち去ろうと足を早めた。
「…あ、そっか。東洋人ってアッチの具合が大分いいって言うものね。さしもの兵長もそれから離れられなくなったのかしら?」
「エリーゼ!!」
嘲笑を交えたエリーゼの言葉になまえの身体が沸騰したように熱くなる。が、ここで言い返したら負けだと歯を食いしばり、溢れてきそうになる言葉を堪えてその場を後にした。
ペトラが何も言わずについてきてくれるのだけが救いだった。
▼
どれくらい歩いたのだろうか。
中庭から大分離れたが、訓練場からも距離がある場所だ。訓練にはまだまだ時間があるが、この腫れた頬は冷さなければならないだろう。
そこでなまえはペトラの腕を引いたままだったことを思い出し、ハッと顔を上げた。
「…なまえ…」
「ご、ごめんペトラ!」
慌てて腕を離すと、思わず俯いて足元を見てしまう。あんな場面、友人であるペトラには見られたくなかった。最後の言葉は尚更聞かれたくないものだ。
「…ほっぺ、冷やそっか」
優しい声音に顔を上げると、そこには痛みを堪えるような、それでも慈しむようなペトラの淡い微笑があった。それに救われるように頬を緩めたなまえがゆっくりと頷いたのを見て、ペトラがハンカチを濡らす。
「…手間かけてごめんね、ペトラ」
「謝んないで。私、腸煮えくり返りそうなくらい腹が立ってるの。それ以上謝られたらきっとなまえのこと問い詰めちゃう」
こちらに背を向けたまま水道でハンカチを濡らしているペトラの言葉に、思わず苦笑する。
ペトラはいつでも正しく真っ直ぐだ。そんなペトラがあの光景を見て黙っていられるはずもない。
(なんでなまえは…ああもう!)
なまえはペトラにとって、兵団内で出来たはじめての友人だった。
飛び抜けた戦闘力は無いが、周りを見て的確に判断する能力と些細な違和感に気がつく力は抜群だ。そのおかげか、なまえが所属する班は死傷者が少ないことで有名で、なまえ自身もその力で何度も壁外調査を生き残ってきた。
同期でないが、各々個室をもらうまで同じ部屋で過ごしたこともある。おっとりとしたなまえとたわいもない話をするのがペトラは好きだった。数少ない大切な友人なのだ。
そんななまえと自分が敬愛するリヴァイが恋仲だと知った時、あんぐりと口を開けて絶句したことは記憶に新しい。しかもなんと、リヴァイから熱烈にアプローチしたという。
ペトラもリヴァイのことを尊敬しどこまでもついて行きたいと思ってはいるが、それとこれとは話が別だ。可愛い友人が、潔癖症で強面で、尚且つ粗暴な上司の魔の手に落ちようとしている。
恥ずかしそうにペトラに報告をするなまえの肩をがじっと掴み、本当に大丈夫なのかと何度も問いただしてしまったことを思い出す。
(リヴァイ兵長は何をしてんのよ!自分の恋人がこんな目に合ってるってのに…!)
「あの…ペトラ?」
(なまえのことだから絶対これが初めてじゃないはず…。ああ、もう!少しも気が付かなかった!)
「ペトラ、もう十分に濡れてる…」
「え!?」
怒りのまま自分の考えに浸っていたペトラはなまえの指摘に慌てて顔を上げた。びしょびしょになったハンカチをキツく絞り、ペトラは誤魔化すようにそれをなまえの頬に当てた。
「あはは、ごめん…」
「…ありがとね、ペトラ」
ふんわりと笑うなまえの腫れた頬が痛々しい。大袈裟にしたくないのであろうなまえの気持ちも分かるが、それにしても彼女はやりすぎだ。
なまえを促してベンチに座ったペトラは、真剣な声音で聞いた。
「…こういうこと、今回が初めてなの?」
「……」
無言で苦笑したなまえの顔が全てを物語っている。
流石に叩かれたことは初めてだが、リヴァイと付き合って半年弱、こうしたことは少なからずあった。
大きく溜息をついたペトラが口を開く。
「兵長は知らないんでしょ?」
「うん、知らない。言うつもりもない」
「なんでっ…!」
いっそ淡々としたなまえの答えに思わず声を荒げてしまう。
泣いたり怒ったり悔しがったりすればペトラはそれを慰めてやれるのに、なまえは一切そんな様子を見せなかった。
「…彼女たちが言うこともわかるもの」
「なまえ、あんたね…!」
「実力がないのも本当、ペトラたちの方が兵長の役に立ってるのも本当…。間違ってないよ」
「…なまえ。怒るよ」
確かに討伐数だけ見たら、ペトラやエリーゼの方が上だろう。けれども兵士とはそれだけでは無いはずだ。低くなったペトラの声音に、なまえがゆっくりと目を合わせて微笑んだ。
「…事実は事実だよ。それが人を傷つけていい理由にはならないけど」
「そうだよ。なまえが甘んじてそんなの受ける必要ないでしょ?ちゃんと兵長に…」
「こんなくだらないことで兵長の手を煩わせたくない」
ペトラの言葉を遮ってきっぱりと告げるなまえに思わず口を噤んでしまう。なまえのその横顔は強い決意に溢れていた。
「…なんてね。本当は怖いの。リヴァイ兵長に呆れられるのが」
「兵長はそんなこと…」
「うん、それも分かってる。けどね、兵長の傍にいられるんだったらこれくらい我慢するよ」
戯けたように言うなまえの目に決意の色を読み取って、ペトラは諦めたような溜息を吐いた。
なまえは強い。きっとリヴァイの隣にいるためには、これくらいの試練は仕方がないと本気で思っているのだろう。
「…馬鹿ね」
「…ひどいよペトラ」
「何かあったらちゃんと言いなさいよ。兵長には秘密にしておいてあげるから」
「…うん。ありがとう」
安心したようななまえの笑顔に心が痛くなる。だが、ペトラがいくら言ってもなまえは聞き入れないだろう。
なまえが穏やかな日々を過ごせるように、ペトラはそれだけを心から祈った。
▼
それから数週間後。
なまえはペトラと街に出る約束の為、兵団内を急いで歩いていた。待ち合わせまではまだ時間があるものの、この間のお礼の代わりに焼いたパウンドケーキを部屋に忘れてきてしまったのだ。
足早に部屋に向かうなまえの耳に、低く自身の名を呼ぶ声が聞こえた。
「…なまえ?」
「あ、兵長!」
書類片手に廊下の先に立っているリヴァイの姿を認め、なまえはパッと顔を明るくした。
傍目には分からない程度にリヴァイの雰囲気も柔らかくなる。
「そんなに急いでどうした」
「これからペトラと出掛けるんですけど…忘れ物しちゃって」
「ああ、ペトラが自慢してきやがったな」
「ふふっ。なんの自慢になるんですか?」
可笑しそうに笑うなまえの額を軽く小突いて、リヴァイは今朝方のペトラとのやり取りを思い出していた。
「兵長。本日は外出させて頂きますね」
「ああ」
「なまえと街に行くんです。楽しみだな〜」
「…そうかよ」
ここ何週間か、ペトラの雰囲気がどこかピリピリしていたように思えたが、今日はそれが緩んでいるようだ。鼻歌でも歌いそうなペトラとは反対に、リヴァイの眉間の皺は深まるばかりだ。
恋人である自分ですらなまえとの時間を中々取れないのに、ペトラは共に街に出るという。ささくれだった気持ちを何とか隠して返事をするが、そんな上司の姿をチラリと見たペトラがにっこりと笑った。
「大丈夫ですよ、兵長。なまえが変な輩に絡まれないか私がしっかり見張っておきますから」
「オイ待て。そんな変なところに行くつもりか」
「…ものの例えですよ」
呆れたように言うペトラを睨みつけ、リヴァイが大きく息を吐いた。
なまえのことになると過保護というか、敏感になりすぎるきらいがあるのは知っていたが、人類最強のこんな姿を見ることが出来るとは思わなかった。
(…兵長ならちゃんと分かってくれると思うんだけどな)
数週間前のあの騒動から、ペトラは半ば八つ当たり気味な気持ちをリヴァイに抱いていた。
なまえが大変な思いをしていることも気付かずに飄々としているリヴァイに苛立っていたのだ。
本当なら全てぶちまけてしまいたいが、なまえのことを思うとそれも出来ない。
そんなモヤモヤした気持ちも、今日のお出掛けとリヴァイの今の様子で大分溜飲が下った気がした。
「では兵長。何かありましたら今日はグンタにお願いします」
「ああ。楽しんでこいよ」
軽やかに出て行ったペトラの背中に、思わず二度目の深い溜息が出てしまう。
出来ればなまえの顔が見たい、と書類を届けるついでに足を向けたのは正解だったようだ。目の前でにこにこ笑うなまえの姿に、強張っていた身体が解れていく気がした。
「あまり遅くなるなよ」
「はい。夕飯までには帰ってくる予定です」
「…今日は俺も早く終わる予定だ。夜、部屋に来い」
甘く響くリヴァイの声になまえが恥ずかしそうに頬を染める。コクンと頷いたなまえが嬉しそうにはにかむ姿に、リヴァイはここが廊下だということも忘れ思わず抱き締めそうになった。
それをなんとか理性で留めると、トンとなまえの背を押して送り出す。
「…楽しみにしてます。兵長もご無理なさらずに」
「お前もな。気をつけて行ってこい」
手を振って駆け出したなまえを先ほどのペトラと同じように見送ると、リヴァイは早く夜になれと、未だ燦々と降り注ぐ陽の光を恨めしそうに睨むのだった。
パウンドケーキを持ったなまえは、近道をしようと裏庭を突っ切っていた。
先ほどのリヴァイとのやりとりが頭を過り、自然と頬が緩んでしまう。
だから、気が付かなかったのだ。これからのペトラとの楽しい時間、その後のリヴァイとの愛しい時間に想いを馳せ、横から近付く気配に気がつくのが遅れてしまった。
「っ、なっ…!?」
ドン、と突き飛ばされ、咄嗟に受け身を取るがバランスを崩して地面に転がってしまう。
カバンからパウンドケーキが転がり落ちるのが、視界の隅に移った
「ちょ、なに…!?」
「…黙れよ」
相手は二人だろうか、ごつい手に無理矢理押さえつけられどこかに移動させられるのを感じ、なまえは思い切り暴れた。
が、うまく関節を押されられているのか、思うように身体が動かせない。
(こいつら…兵士か…!)
連れてこられたのは古い立体起動装置を安置する小屋で、薄暗い部屋には見覚えのある顔が待っていた。
「…あなた…エリーゼ…?」
「ふふっ。無様ね」
自分を押さえつけている二人の男を見ると、こちらは見覚えのない顔だ。だが体格からして調査兵団に間違いはないだろう。
「…こんなことしてバレないとでも思ってるの」
「思ってないわよ?けど私、明日で兵団を辞めるの。だから別にバレてもどうってことないのよ」
にっこりと笑うエリーゼの顔にも薄暗い光が差している。男たちは黙ったままだが、舐めるようになまえの身体に視線を這わせている。
「…兵団を辞めるからね、兵長に最後に一度だけってお願いしたの」
「…は?」
「最後に一度でいいから抱いて欲しいって。私、ここを辞めたら結婚させられるのよ。だから思い出作りにって」
「な、にを…」
「そしたら兵長、とっても同情してくださって。…私の願い、叶えてくださったの」
エリーゼの勝ち誇ったような言葉に、なまえの顔が絶望に染まる。
そう、その顔が見たかったのだとエリーゼは舌舐めずりする気分で言葉を続けた。
「やっぱり兵長って素敵よねえ。すごく優しくて…でもちょっぴり強引で…私、忘れられな…」
「やめて!!」
悲鳴のようななまえの声が狭い小屋に響き渡った。どんなに辛辣な言葉を投げられても顔色一つ変えなかったなまえの瞳が揺れている。
それを見たエリーゼが、優しく言葉を紡いだ。
「…でね、あなたにも悪いことをしたなーって思ったの。兵長とのこともそうだけど、この前叩いちゃったでしょ?申し訳ないことをしたと思って、あなたにも機会を差し上げようと思って」
「な…にを…言って…」
「だからね、私が兵長と寝ちゃったでしょ?だからあなたにも他の男と寝る機会をあげようかと」
「ふ、ざけないで…!離せっ!」
「東洋人がどれくらいイイのか、この人たちにも経験させてやってよ。ね?」
渾身の力で暴れるなまえを床に押し倒し、男たちがその身体に手を伸ばす。
それを見たエリーゼがヒラヒラと手を振りながら背を向けた。
「ま、精々楽しんでよ」
そのまま振り返らずに小屋を出て行ったエリーゼを睨みつけたなまえは、のし掛かる男の脛を思い切り蹴り上げた。
僅かに怯んだ隙にその下から這い出るが、すぐさままた床に押し倒される。
「っ、やめっ…!離して…!」
「はあっ…東洋人なんて初めてだぜ…」
「楽しませろや、な?」
ビリっとブラウスが破かれ、ボタンが弾け飛ぶ音がした。絶望に真っ暗になる目の前に、なまえがきつく目を閉じる。
「へ、いちょ…う…兵長っ…!」
エリーゼの言葉が蘇るが、それでもなまえが思い浮かべるのはただ一人なのだ。
どんなに辛くても苦しくてもリヴァイの隣にいられなら、と耐えてきた。それでも。
「リヴァイ…兵長っ…!!」
本当はずっと助けて欲しかった。
一筋の涙がなまえの頬を伝った時、ガツン!と乱暴な音を立てて扉が破られた。
弾け飛んだ扉に男たちが呆然と顔を上げて、本来扉があるはずの場所を見遣ると、そこには静かな怒りに燃えるリヴァイの姿があった。
「…なまえ!」
「へ、いちょう…」
押し倒され、服も破られているなまえの姿を見た瞬間、リヴァイから自制と理性が吹き飛んだ。
そのまま男たちを殴り倒すと、顔面に一発ずつ拳を打ち付け、片方の男に乗り掛かる。
「っ、兵長!」
「てめぇら…何したか分かってんだろうな…ああ?」
「ぐ、べ…俺だぢ…は、」
「汚ねぇ口開いてんじゃねぇよ」
ガンっと鈍い音を立てて、リヴァイの拳が床に沈む。もう一人の男はとうに気を失っているらしい。
「…殺してやるよ」
こいつらがなまえに触れたことも、泣かせたことも、そもそもその姿を目にしたことすら忌まわしい。
研ぎ澄まされた刀のように殺気を纏ったリヴァイが、静かに拳を振り上げたのを見てなまえは必死に声を上げた。
「兵長、やめて!」
「っ、なまえ!」
「リヴァイ、やめるんだ!」
そこにペトラとエルヴィンが足音も荒く踏み込んできた。ハッとしたように二人を見たなまえの頬に再び涙が溢れる。そしてそのままなまえは意識を手放した。
▼
「兵長、すみません…私がもっと早くお伝えしていれば…」
「お前は何も悪くねぇよ。悪いのは…何も気が付かなかった俺だ」
「兵長…」
なまえが眠る救護室で、リヴァイは血が滲むほど唇を噛んで堪えていた。
気遣うようなペトラの声掛けに応えることすら出来ず、己を責めている。
「ペトラ、お前はもう戻れ。せっかくの休みに悪かったな」
「…いえ。なまえのこと、よろしくお願いします」
目覚めた時に一番最初に見る顔はリヴァイが良いだろうと、ペトラは素直に退出した。
中々待ち合わせ場所にやってこないなまえに嫌な予感がして、迷うことなくリヴァイの部屋に飛び込んだのは正解だった。その場に団長であるエルヴィンがいたのには驚いたが、正直それどころでは無かったし、その後のことを考えるとエルヴィンが一緒に来てくれたのは本当に助かった。
なまえも擦り傷はいくつか負ったが、それ以外は大きな傷が無かったことが幸いだろう。ただそれは身体の話だ。
(…でもリヴァイ兵長なら大丈夫よね)
そう願ってペトラはポケットの中のパウンドケーキを優しく叩いた。
なまえはゆらゆら揺れる意識が急激に浮上するのに任せ、パチリと目を開いた。
その瞬間、気遣わしげにこちらを覗き込んでいるリヴァイとばっちり目が合い、慌てて身体を起こそうと腕をつくが、優しい掌がなまえの背中を支える。
「オイ、まだ寝てろ」
「へ、兵長…申し訳ありませ…」
「…何故お前が謝る」
「…あ、の、手間を…かけて…その…」
低い声にリヴァイが怒っているのだと感じ取り、なまえの頭が真っ白になっていく。
だが自分の油断であのような醜態を晒してしまい、尚且つリヴァイに助けを求めてしまった。兵士としては失格だ。
そんなことを俯いたままポツリポツリと述べるなまえに、リヴァイは今度こそくっきりと眉間に皺を刻んだ。
「チッ…お前は本当に…」
「兵長…あの…あの人たちは…」
「捕らえて地下牢に放り込んである。エルヴィンが然るべき罰を下すだろう。…あの女もな」
付け加えられた最後の言葉に、彼女が告げた話が脳裏に蘇ってきた。
リヴァイが迫られたからと言って、そういうことをするようには思えない。だが、性格はともかくあの容姿の女性に迫られたら、男性は心が揺らぐものかもしれない。
「…辛かったな。悪かった」
「いえ…兵長が謝ることでは…」
「…ペトラから全て聞いた」
ハッとなまえが顔を上げる。
そしてどこか苦しそうな、憔悴しているようなリヴァイの姿に驚いて目を見開いた。
「あいつ…あの女に声を掛けられてはいたが、まさかここまでするとは思わなかった。俺が甘かった。すまない」
「あ、じゃあ…彼女と…その…」
「…なんだ?」
「あの…彼女がリヴァイ兵長と…その…一夜を共にしたと言っていたので…」
「…は?」
リヴァイが不快そうに顔を歪めたのを見て、なまえはホッとする気持ちを抑えることが出来なかった。信じていなかったわけではないが、あの場面で告げられた生々しい話が心を抉ったのは事実だ。
「チッ…胸糞悪ぃ作り話をしやがって…」
「…すみません」
「お前が謝ることじゃねぇだろ。大体なんで黙ってた」
それが今回のことだけではなく、今まで嫌がらせを受けていた話だろう。黙ってしまったなまえを見て、リヴァイは内心己へと舌打ちをした。
自分と恋人になったから嫌がらせを受け、それを健気に黙っていた上に今回のこの一件だ。責められるとしたらなまえではなくリヴァイだろう。
本来ならば言葉を尽くして慰め、謝罪しなければならないところなのに、肝心な時に優しい言葉が出てこない自分をリヴァイは殴りたくなった。
「…お前があいつらに押し倒されてるのを見た時、本気で殺してやろうと思った」
「…駄目ですよ兵長。兵団にいられなくなっちゃう」
「構わねぇよ。お前がいればどうでもいい」
「…え」
きっぱりと言い切るリヴァイに、ぽかんとしてその顔を凝視してしまう。
そんななまえの頬にゆっくり手を伸ばし、そこに出来てしまった傷を覆うテープをそっと撫でた。
「大事な女がこんな傷つけられて黙っていられるわけねぇだろうが…。エルヴィンが来てなきゃ、あいつら今この世にはいねぇよ」
「リヴァイ…兵長…」
「…なあなまえ。俺は…お前のことが好きだ。守りてぇって思うし、頼ってほしいとも思ってる。お前が何を考えて俺に何も話さなかったのかは想像がつくが…俺たちは対等なんだ。遠慮する必要なんざねぇよ」
「でも…そんなくだらないことで…」
「自分の女が傷つけられてるのがくだらないことなはずねぇだろ。お前、それは俺の方が傷つくぞ」
「っ、」
「チッ…お前のその謙虚なところもいいけどな…少しは甘えろよ」
「…もう十分甘えてますよ」
「あ?どこがだ」
不満そうに腕を組むリヴァイにクスクス笑ってしまう。こんなにも真っ直ぐに気持ちを伝えてくれるリヴァイに、今まで抱いていた劣等感や寂しさが綺麗に消えていくのを感じた。
そうだ。なまえが自身を卑下して軽んじることは、なまえを選んだリヴァイすらも無碍にすることに繋がってしまう。
やっと本来の笑顔を取り戻したなまえに、リヴァイも気付かれないようにそっと安堵の息を吐いた。
だが、根本的な解決になったわけではないと頭を悩ませていたリヴァイはふと思いついたことに目を瞬かせた。
「…いっそのこと籍でも入れちまうか」
「は…い?は、え!?」
「俺が出て行ってお前に手ぇ出すなって言うのは簡単だが…それは嫌なんだろ?だったら誰にも文句言わせねぇ立場になれば問題ねえだろうが」
「え、いや…それはちが…え?」
「どうせいつかはそうなるんだ。まぁもっと情勢が落ち着いてからと思っていたが…早いか遅いかの違いだ」
唐突なリヴァイの申し出に目を白黒させて意味のない単語を呟くことしか出来ないなまえだったが、意味を理解するとじわじわと込み上げるものを抑えきれずに両手で頬を押さえた。
「…兵長、それは…その…結婚する、ということでしょうか」
「あ?それ以外に意味があんのかよ。なんだ、不満か?」
「いえっ…滅相もありません!」
リヴァイがまさか自分との将来を考えていてくれているとは思わず、心の底から喜びが湧き上がってくる。だが、こんな情勢の時に結婚に逃げるというのはなまえはしたくなかった。それに。
「兵長…その…すっごくわがままなんですが…」
「なんだ?式のことか?お前の好きなように…」
「そうじゃなくて…!あの、せっかくなら…もっとちゃんとしたところでお聞きしたいです…」
なまえの蚊の鳴くような呟きを聞いて、リヴァイは思わず硬直したまま先ほどまでの自分の言動を反芻してみた。
あまりに性急すぎたそれとムードの無さ、そして何より名案だと言わんばかりに浮かれてしまった自分に、思わず引き攣った口元を右手で隠す。
(俺は…クソか…!)
真っ赤になって俯いたままのなまえと己の失態に硬直するリヴァイ。
二人の間を優しい風が通り過ぎて行った。
後日。
後処理の為に筆を走らせるエルヴィンの元に、リヴァイが仏頂面でやってきた。
いつも通りに見えてどこか焦っているような雰囲気のリヴァイに、珍しいこともあるものだと内心驚きを隠せない。
まあなまえが襲われていた時のリヴァイに比べたら可愛いものだが。あの時のリヴァイは、地下街にいた頃の彼を思い出したものだ。あのままだったら躊躇なく男たちを亡きものにしていただろう。止めるのに肋骨の一本や二本は覚悟したのを覚えている。
「どうしたリヴァイ。なまえは大丈夫なのか」
「ああ、今日退院した。あいつらの処分は任せるぞ。もうなまえに関わらせたくねぇからな」
「分かっているよ。大事な兵士に手を出したんだ。それ相応の報いは受けてもらおう」
頷いたリヴァイが両手をポケットに突っ込んだままドサリとソファに腰を下ろす。
そこでリヴァイが語ったこと、彼にしては珍しく途切れ途切れの話を要約すれば「プロポーズするにはどこの店で何を用意すればいいか」という内容の相談に、エルヴィンが口を開けたまま固まってしまうのは、その数分後のことだった。
-fin