溶けて哭く
*オリキャラ出ます。
まんまるの月が眠る街を照らしている。
いつもは心を明るくしてくれるその満月すら、今はひどく煩わしい。人間には手の届かない場所で悠々と輝いているそれがまるで自分たちを見下し蔑んでいるようだ。
なまえは苛立つ気持ちを抑えることなく、眼前の満月を睨み付けていた。
真夜中を過ぎた兵舎は流石に静まり返っていて、こんな時間に屋上で酒を煽っているなまえを咎めるものは誰もいないだろう。
ぽつりぽつりと灯りが見える部屋もあるが、そこからは死角になるような場所にうまく陣取っている。
「…とんだ月見酒だわ」
悪態ついたなまえが手を伸ばした杯の先には、もう一つのグラスが置かれていた。
カチン、と軽く合わせると飲まれる相手のいないグラスの中身がゆらりと揺れた。
今回もたくさんの仲間が死んだ。
もう何十回と目にしてきた、仲間の最期に慣れる日が来るはずもないことは分かっている。
それでも分隊長になって、ほんの少しだけ周りに手を伸ばすことが出来るようになって、僅かだが希望が見えた気がしていた。そんなもの、壁外調査では何の役にも立たないことは分かっていたのに。
▼
なまえが分隊長になって数年、常に自分の隣にいてくれた副官を今回の壁外調査で亡くした。
仲間の死に優劣は無い。だがそれでも、今回の彼女の死はなまえの心に重く暗い澱みを残した。目を瞑れば彼女と最期に交わした言葉が蘇ってくる。
「なまえ分隊長!」
「あれ、アメリア。どうしたの?」
「へへ…じゃじゃーん!」
壁外調査前のピリピリした雰囲気の中、なまえはぼんやりと空を見上げながら愛馬を撫でていた。遠くからは準備の慌ただしさが伝わってくるが、声を掛けてきたアメリアも既に出立の準備は終わったらしい。
にやにや笑いながら彼女が後ろ手に隠していたものを披露すると、それは瓶に入ったトロリとした黄金色の液体だった。
「なにそれ?」
「これはですね、蜂蜜酒というものです!」
「蜂蜜…って、すごい貴重なんじゃない?」
「そうですよ!伝を辿ってやっと手に入れたんです。この壁外調査が終わったら、これで一緒に慰労会しましょ!」
「うっわ最高…でもそんな良いもの、私までいいの?」
「いいんですよ!分隊長、前に甘ったるい酒が呑みたーい!って言ってたでしょ?きっとこれ、すっごく甘いですよ。蜂蜜ですもん」
にこにこしながら瓶を軽く振るアメリアに、なまえも笑って頷き返した。一週間後は満月だから、そこで月見酒をしようとその場で約束した。きっとその頃には書類も終わり、ひと段落ついているだろうと確認しあって。
「その時は酒のつまみにリヴァイ兵長との話を聞かせてくださいよー」
「え、やだよ。面白くもなんともない」
「私は面白いんですよ!だって分隊長、そういう話全然しないじゃないですか」
「…ま、お互い生きて帰れたら考えよっか」
「ですね。あ、この瓶は私の部屋に置いておきますからね」
そう言って笑ったアメリアは、なまえの目の前で死んでいった。死に際に一言も発することなく、ほんの少し驚いた顔をしたまま巨人に喰われて死んだのだ。
彼女が死ぬとは思わなかった、とは言わない。
壁外は不条理で無慈悲だ。力の無い者は死に、力のある者も少しの油断で巨人の手に落ちる。
なまえが生き残れたのも、運とタイミングと、それから僅かに自分の力があった他ならない。
「…しかもこれ、全然甘くないじゃない」
香りは甘いのに、舌に残る苦味がまるでなまえの心情を表しているようだ。アメリアがこの場にいたら、「お酒の名前と合わなすぎる!」と騒いでいそうだ。
誰も手を付けることのないもう一つのグラスの向こう側にそんな彼女の姿が見えた気がして、なまえはふっと頬を緩めた。
と、その時、背後に見知った気配がしてなまえは思わず勢いよく振り返った。
「っ、リヴァイ」
「…なまえ、お前な」
名を呼ぶその声に咎める響きと気遣いの色を同時に読み取って、なまえはへらっと笑ってみせた。
「…こんな時間まで一人で酒盛りとはいいご身分だな」
「やることやったし、書類も出すもの出したもの。しかも明日は休みだしー?」
「…声くらい掛けろよ」
いつもの通りの仏頂面だが、ほんの少しだけ拗ねた声音のリヴァイになまえが申し訳なさそうに眉を下げる。
声を掛けようか迷ったのだが、なんと言えば良かったのかが分からなかったのが本音だ。なまえよりもたくさんの仲間の死を見送ったであろうリヴァイに、自分のことで重荷を背負わせたくなかった。
「ごめんごめん。流石に忙しいかなと思って」
「変な気遣ってんじゃねぇよ。大体壁外調査終わってから一度も顔見せてないじゃねえか」
「…ごめん」
リヴァイもアメリアの死は知っているだろう。なまえとアメリアの気さくな関係も傍で見ていたし、会話の中にも彼女の名はよく出てきた。
だがそんなのは日常茶飯事なのだ。昨日まで笑い合っていた仲間が、次の日には物言わぬ姿になって土に還ることを何度も繰り返してきた。
「…こういう時くらい、頼れ。甘えろ」
「…リヴァイ」
なまえと同じように満月を睨みつけるようにしていたリヴァイがポツリと呟く。
なまえとリヴァイが恋人関係になって暫く経つが、壁外調査が終わってなまえが彼の元を訪ねなかったことは一度も無かった。
どんなに遅くとも翌日には顔を出し、お互いの無事を確かめ合って抱きしめ合うのが常だった。
それが今回は三日以上も顔を見せないなまえに痺れを切らし部屋を訪ねたが、そこはもぬけの空でリヴァイは険しい顔で部屋を後にしたのだ。
「…流石にさ、今回は堪えた」
「…ああ」
「このお酒、アメリアが私のために取り寄せてくれたんだよ。蜂蜜酒っていうんだって」
「クソ甘そうだな」
「それがね、全然甘くないのよ。私もそれを期待してて、アメリアだって絶対甘いです!って言い切ってたのにさ」
「アイツらしいじゃねえか」
「…うん」
明るくて気遣いが出来て、ちょっとだけそそっかしいアメリアらしい。
こうやって亡くなった仲間のことを話せて喪ったことを共に悲しめることが出来るのは、リヴァイだけだ。
きっとリヴァイもそうなのだと思う。だから壁外調査が終わったあとはお互いを求め、前に進むための糧とするのだ。だけど今回だけはどうしてもリヴァイの元に向かうことが出来なかった。
アメリアのことでショックを受け、動揺していたからでもあるが、それよりも死というのがこんなに身近だったことを、改めて痛切に突きつけられたからだ。
「なまえ」
「…なあに」
「何を考えた」
真っ直ぐになまえを見つめるリヴァイの後ろには、欠けたところのない綺麗な満月がこちらを見下ろしたままだ。どこか確信を持ったリヴァイの言葉に、考える間もなく言葉が喉から溢れ出てきた。
「…人ってこんなに簡単に死んじゃうんだなあって…思って…」
「…ああ」
「ちゃんと分かってたんだよ?何回もこの目で見届けて理解してたのに…でも違った、違ったの」
「…何がだ」
ぶっきらぼうに聞こえるリヴァイの返答だが、優しくなまえの気持ちを受け止める響きが溢れている。リヴァイだって辛いはずなのに、結局彼に助けられてばかりだと自嘲する気持ちはあるが一度出した言葉は止まらない。
「私も…私も、こうやって死んじゃうかもしれないんだって思ったら…すごく怖くなった…!今までちゃんと分かってたのにっ…覚悟もしたつもりなのに…約束したことも守れないで、最期の言葉も残せないで…私、リヴァイに…!」
支離滅裂な言葉になっているのは理解しているが、なまえはそれでも止めることが出来なかった。目の前のリヴァイがどういう顔でこちらを見ているかも見たくなくて、溢れ出す涙が流れるままきつく目を閉じた。
「アメリアが死んでっ…悲しくて辛くて、リヴァイのところに行こうと思ったの…!でももしこれから先、私が先に死んだら…?誰がリヴァイのこと抱きしめるの?もし…もし…リ、リヴァイが死んじゃったら…!」
もしかしたらリヴァイはなまえの支えなんて、本当は要らないのかもしれない。なまえが死んでしまっても、一人でちゃんと立ち上がれるのかもしれない。
だけど、なまえは出来ないと思った。リヴァイが死ぬところは想像出来ないが、ほんの少しの運で生き死にが決まる世界だ。そこでリヴァイを喪ってしまったらきっとなまえは立ち上がることは出来なくなる。そう唐突に確信したのだ。
「…なまえ」
「ははっ、薄情だよね…アメリアが死んで悲しいのに…それよりも私はリヴァイが生きてて良かった、って思ったの…。だから、リヴァイにも会えなかった」
こんな醜くて汚い自分をリヴァイに見せたくなかった。仲間を誰よりも大切に思う彼のことだ。きっとなまえを軽蔑しただろう。
そう思って膝に顔を埋めたなまえの頭に、優しくリヴァイの手が触れた。
「…なまえ、顔上げろ」
「…やだ」
「あのな…何を自己嫌悪に陥ってるから知らねえが、俺はいつも真っ先にお前が生きてるかどうか確認してるぞ」
「…え?」
思わずばっと顔を上げたなまえの視線の先に、呆れたような、しかし優しい目をしたリヴァイがいた。そっとなまえの頬に手を伸ばしたリヴァイは、そのまま目尻に唇を落とす。
「っ…リヴァイ?」
「壁外でだって暇さえありゃお前の無事を確認してるし、戻ってきてからだってまず探すのはお前の姿だ」
至近距離でなまえを見つめるリヴァイの顔がみるみるぼやけていく。泣いているからだ、と認識したと同時に、リヴァイが強くなまえを抱き締めた。
「…だからちゃんと俺のところに帰ってこい。心配するだろうが」
それが今回リヴァイの元を訪ねなかったことを言っているのだと気付き、思わずクスッと笑ってしまう。お互いの無事は確認していたはずだが、やはりちゃんと顔を見ないといつまでも不安は消えないものだ。
「…ごめんね、リヴァイ」
「まったくだ。余計な心配掛けさせんじゃねえよ」
そう言ってゆっくりと離された腕が寂しくて、今度はなまえからリヴァイに擦り寄っていく。リヴァイの胸元に顔を寄せると、トクトクと心臓の音がなまえの耳に響いてきた。
「…アメリアとね、今回の壁外調査が終わったらこのお酒で慰労会しようって話してたの」
「そこは俺も誘えよ。折角の酒だろうが」
「ふふっ…女子会ってやつなんだから、男が入るのは無粋でしょ。しかもアメリアにとってはリヴァイは上司なんだから。いたら緊張しちゃうじゃない」
「ケチくせぇな。酒の席では関係ねえだろ」
「あ、それに。酒のつまみにリヴァイとの話聞かせろって言われてたんだ」
「は?なんの話をすんだよ」
「…んー?わかんない」
「なんだそりゃ」
年齢にそぐわないが、きっと恋愛話とやらをしたかったのだろう。アメリアには好きな人はいたのだろうか。恋人はいなかったと記憶している。
そういえば、リヴァイと付き合うまでの話を興味津々で聞いてきたこともあった。いやに真剣な顔だったから、今度はアメリアの話を聞いてみようと思っていたのだ。
そうだ、美味しいお酒を出す店を見つけたから今度誘ってそこで聞こうかと考えていたのを思い出した。
「ふっ…く…ぅ…」
「…なまえ」
ふと思い浮かんできた彼女とのなんでもない思い出が、唐突にもうアメリアはいないのだという事実を突きつけてきた。
そう、みんなああやって喰われて、何も残らずに死んでいった。少し未来の約束すら果たせず、誰かへの想いも伝えられずに。止め処ない涙と共に、なまえは改めて誓った。散っていった仲間のためにも、最後まで生き抜いて巨人を絶滅させる。そしてリヴァイと共に死ぬまで生きるのだと。
「っ、りば、い…。わ、たし…リヴァイが死んじゃうのが何より怖い…けど、リヴァイのことを置いていくのも怖いよ…!」
「死なねぇし死なせねぇよ。お前は俺と最後まで生きるんだろ」
「うんっ…うん…」
「俺たちは死なねぇ。先に死んでいった奴らを忘れないためにもな」
「…うん」
埋めていたリヴァイの胸から顔を上げ、濡れた頬のままなまえは思いきり蜂蜜酒の杯を仰いだ。火照った身体にアルコールが心地いい。
「おい、なまえ」
「うん?」
「俺にも寄越せ」
そう言ってなまえの手元からグラスを奪い、手酌で酒を注いだリヴァイも向かいのグラスとチン、と軽く合わせる。
「リヴァイ…?」
「…俺となまえの話なんて特段面白いことはねぇだろうが。まあそこで見ててやってくれ」
呟いたリヴァイがなまえと同じように一気に杯を仰ぐ。呑み干した途端、眉間に深く皺を寄せてまじまじと瓶を眺めた。
「…十分甘ぇだろうが、これ」
「え、嘘?」
「嘘じゃねえよ」
大きく溜息を吐いたリヴァイだが、二杯目を注いでいるのを見ると思いの外気に入ったのか。
いや、きっと全て呑み終わるまで付き合ってくれるのだろう。
「…ねえリヴァイ」
「なんだ」
「あのさ、次の休みの日、街に出掛けない?」
「…別に構わんが。珍しいな」
「うん。行きたいお店あるんだ。お酒が美味しいの」
「ほう…悪くない」
そう言ったリヴァイが二杯目の杯も空けると、そばに寄り添ったなまえがそっとリヴァイの手に触れた。
すぐにそれを握り返してくれたリヴァイに心底安心しきった顔を見せたなまえを横目に、リヴァイは再び月を見上げる。
そして思い出すのは、死んだアメリアが珍しくリヴァイに話し掛けて来た時のことだった。
「リヴァイ兵長、よろしいですか」
「お前、なまえんところの…アメリアだったか」
「はっ、お忙しいところ申し訳ございません」
「構わねえ。どうした」
「あ、あの…」
「なんだ、はっきり言え」
「はっ、あの、なまえ分隊長のことなんですが…!」
「…なまえ?あいつがどうした」
「あっ、あの、書類が終わらないからと、ここ三日間食事もろくに取らず部屋に篭りきりでして…私から言っても聞いて頂けないので、リヴァイ兵長からお声掛け頂けないでしょうか!」
「チッ…あいつ、人には休めだなんだ言っといて…」
「リヴァイ兵長に知られると怒られるから、絶対秘密にするようにとも言われました!」
「…いい度胸だ」
眉間の皺を深くしてすぐになまえの部屋に向かおうとするリヴァイの姿に、アメリアがクスリと笑ったのが見えた。それに訝しげに見たリヴァイに、アメリアが慌てて敬礼をとる。
「申し訳ありません!」
「…楽しそうだな」
「いえ、そんなことは…!ただ…リヴァイ兵長、なまえ分隊長のことが本当に大切なんだなーと思いまして」
「…お前な」
「あ、余計なことを申しました!」
「もういい。なまえは俺がなんとかしておく。お前は仕事に戻れ」
「はっ!」
もう一度敬礼をしたアメリアが軽やかに駆けていくのを見送り、リヴァイはなまえの部屋を見上げた。ここ最近顔を見ないと思ったらそういうことかと、どう休ませてやろうか考えを巡らせたのを思い出す。
「…いい部下を持ったな」
過去を思い出し呟くリヴァイの声は聞こえなかったのか、顔を上げたなまえが首を傾げる。それに緩く首を振ると、そのまま赤くなった瞼に唇を落とした。
くすぐったそうに首を竦めたなまえの後頭部をそのまま引き寄せ、噛みつくようにキスをする。
「んっ…」
「…やっぱ甘ぇな」
そう囁いたリヴァイに反論しようと口を開いたなまえのそれを再び塞いで、その身体ごときつく抱き締める。一瞬身体を固くしたなまえだが、すぐに安心したように力を抜いてリヴァイの背中に手を回した。
長い間重なり合う二人の姿を、グラスの中に映った満月が静かに見つめていた。
-fin