完成形の御伽話(前)


※まり様リクエスト作品


どこまでも続く青い空。
砂埃が舞う広大な大地。
草木を穏やかに震わせる風。


身体に響く地響きのような振動。
おぞましく光る濡れた口元。
見上げることすら出来ない巨体。


…ヒトの形をした巨大なナニカ。


初めて見る全てに指一つ動かせなかったあの時、それでも瞳だけは一筋の閃光をきちんと捉えていた。


「オイ、お前…こんなところで何してやがる」


崩れ落ちた巨体に舞い降りた緑の閃光は、ひどく不機嫌そうな声音を持ったヒトだった。



「なまえ、てめぇ…何度言ったらその頭に刻み込めるんだ。掃除する時は上から下が基本だろうが!」

「ひっ…で、でも下の方が汚れてたのでっ…何か汚れてる方からやりたくなりません?」

「…てめぇいい度胸だ。来い、一から鍛え直してやる」

「いっ…エルヴィン団長、ハンジさんっ…助けてくださっ…!ぎゃあああ!」

「…あーあ、行っちゃった。話の途中だったのになあ」

ズルズルと引き摺られて行くなまえを苦笑で見送ったハンジは、机の上に広げられていた紙を軽く叩きながら溜息を吐いた。
同じく穏やかな微笑みとともになまえを華麗に見捨てたエルヴィンも、書き終わったらしい書類を纏めて揃えている。

「掃除の途中でなまえを攫ってきたのはハンジ、君じゃないか」

「だってこの理論を完成させるにはなまえの知識が必要だったんだよ。ちぇっ…また後で聞きに行くか」

「しかし…なまえが来て半年か。彼女のおかげで随分と兵団の技術力はあがってきたな」

「そうなんだよエルヴィン!なまえの突拍子もない提案…いや、なまえの世界では実在するらしい技術は本当に素晴らしいよ」

「ふむ…なまえに我々に対する敵愾心が無いことも、どこかのスパイで無いこともこの半年で立証された。そろそろ身の振り方をちゃんと考えるべきだろうな」

「そうだねぇ…いつまでもリヴァイの雑用係じゃ可哀想だもんなぁ」

なまえ・みょうじ。
東洋人らしい彼女が半年前、エルヴィン率いる調査兵団と出会ったのはまさかの壁外であった。
襲いかかる巨人をただただ見つめ、ポカンと口を開けたまま座り込んでいたなまえを助けたのは、壁外調査中だった調査兵団ーリヴァイだった。

「まさか…なまえが別の世界からやってきた人間だなんて、流石の私も最初は信じられなかったよ」

そう、助けられた彼女が語ったこと。
何故壁外にいたのか、その奇妙な格好は何なのか、どこから来てどこへ行くつもりだったのか。
壁外にいたというだけで十分怪しい彼女が発する言葉の一つひとつが、エルヴィンやハンジ、リヴァイの理解に苦しむことだった。
曰く、自分はニホンという島国で生まれ育ったこと、クルマにぶつかって事故にあったこと、目が覚めたら地面に横たわっていたこと、巨人の存在も壁の内外のことも、何よりこの世界の常識を何一つ知らないこと。

「ああ…私も王政あたりが我々の弱体化を狙って送り込んできた者かと…そう睨んでいたのだが」

なまえを拘束して尋問に近い形で問い詰めても、彼女からは何も引き出せなかった。
今なら分かる。なまえは隠していたのではなく、本当に何も知らなかったのだと。
甘い言葉を囁かれようと、脅されて尋問されようと、なまえの答えはいつも一つだった。

『この世界のことは何も知らない。だけど自分の知っていることは全て話す』

そうして話したことは、エルヴィンたちからすれば荒唐無稽で絵物語のような話だった。
それでも本当になまえが何も知らず、そして自分の持てうる知識を盾にこの世界での自分の身を守ろうとしていることを見抜いたのは、リヴァイだった。

『こいつは何も知りやしねぇよ。どんな理由かは知らねぇが…本当に何も知らず壁外に寝そべってた馬鹿らしい』

虚構と嘘が入り混じる地下街でずっと過ごしてきたリヴァイがきっぱりと断言したことで、ひとまずの疑いは晴れたのだった。

『こいつは俺らに協力すると言っている。結構なことじゃねぇか。こいつの言うことは意味不明で分からねぇことばかりだが…利用することはできるだろ』

そうしてリヴァイの監視のもと、なまえは調査兵団で生活することになった。
幹部以外にはその素性は伏せられ、同時に積極的に存在を明らかにすることはなかった。記憶喪失で何も覚えていない、という設定で今日までやってきたのだ。

「リヴァイが最初にこんな話を信じるなんて…私もびっくりだったよ」

「いや…リヴァイはなまえが別の世界からやってきたというのを信じたわけじゃなかっただろう。ただ、なまえが嘘をついていないこと…それだけは真実だと見抜いたのだろうな」

遠くから聞こえるなまえの断末魔の叫びを耳にしながらエルヴィンは薄く笑った。
別の世界から来たというなまえが調査兵団にもたらした知識は大きい。

「…なまえに選ばせる時が来たのかもしれないな」

そう呟いた声は、窓から流れる風の中に消えていった。


 
「なまえ…てめぇは本当に物覚えが悪い。半年も経つのに掃除もろくに出来ねぇとはな」

「…リヴァイさんが細かすぎると思います」

「あ?」

「いえっ!あ、紅茶お淹れしますか?」

「…頼む」

不機嫌になりかけたリヴァイにへらりと笑い、なまえはいそいそと紅茶の準備に向かう。
掃除スタイルを外し丁寧に手を洗ってリヴァイお気に入りの茶葉を手に取った。

(ここに来て…もう半年か)

先ほどのリヴァイの言葉に触発されて、この世界に来た時のことを思い出す。
自分が所謂異世界トリップをしてきたらしいと気がついた時には、涙も出ぬほど愕然としたものだ。
得体のしれない巨人に蹂躙される世界ーなまえが過ごしてきた日常とは真逆の世界に、何故自分がと憤りを感じた。
だが最後の記憶が、幼子を助けようと車の前に飛び出た自分の身体に重い衝撃が走ったことだったのを思い出した時、諦めとともにどこかすんなりと受け入れることが出来た。

(つまり…あっちの世界では私は死んでいて、死んだ後にこっちに飛んできた…ってことなのかな)

もしくはここが死後の世界なのか。
もしそうなら神も仏もあったもんじゃない、となまえは見も知らぬ神々を恨めしく思う。
それでも命を救われ(そもそももう死んでいるのかもしれないが)、更になまえの事情を知りつつも衣食住を保障してくれる彼らに恩がある。…いくら最初の尋問が今も夢に出るほどだったとしても。

「…オイなまえ。遅ぇよ」

「はっ、い!すみません!」

物思いにふけるあまり、丁度良い蒸らし時間を過ぎてしまうところだった。
掃除には駄目だしばかり食らうなまえだが、元の世界で紅茶好きだったこともあり、これだけはリヴァイの満足のいくものを出せているらしい。

「はい、リヴァイさん。お待たせしました」

「ああ」

読んでいた書類を置き、独特な持ち方でカップを掴むリヴァイの姿をぼんやりと見つめてしまう。
まだ先ほどまで考えていた過去の思い出に引きずられている。
この粗暴でぶっきらぼうに見えるリヴァイが、なまえのお目付役として半年間ずっとそばに居る。流石に部屋は別だが、なまえの部屋の鍵はリヴァイも持っており、いつ何時でも踏み込むことが出来る手筈になっていた。
最初はなまえに話し掛けることも、彼女に話し掛けられることも良しとせず、ただその鋭く眼光を彼女に向けるだけだった。

「…見過ぎだ。紅茶に何か仕込みやがったのか?」

「そっ、そんなことしませんよ!」

「冗談だ。大体てめぇがそんなことしたら一発で分かる」

「…信用ないですね、私」

自嘲気味にそう溢すなまえを横目で見て、リヴァイは何か言いたげに口を開くが、結局何も発せずに紅茶を飲み切った。

「俺は午後外に出る。お前はハンジのところに行け。何でも聞きたいことがあるらしい」

「あー…さっきの続きですかね。了解しました」

仮初の穏やかさと平穏は、傷ついたなまえの心を少しずつ修復していった。
だが未だに心から信用されず、ただ知識だけを搾取され続けるというのはきついものがあるのが正直なところだ。

(…殺されないだけマシ、か)

最初は必死で無我夢中で、無駄なことを考える暇はなかったのに、ここの生活に慣れてきて色々と考える余裕が出てきてしまった。


自分がこれからどうなるのか。
元の世界に戻れるのか。
持っている元の世界の知識を全て提供してしまったら、お払い箱になるのだろうか。
そしてそれを考えれば考えるほど、夜も眠れなくなる。おかげで最近は寝不足気味で、リヴァイの前で粗相をしないよう取り繕うのが精一杯だ。

「行ってらっしゃい、リヴァイさん。お気をつけて」

「…ああ」

いつもの通りにっこりと笑って見送るなまえの顔を数秒見つめたリヴァイが、また何かを言い掛ける。
だがそれは言葉にされることなく、「行ってくる」と後ろを向いて呟いたリヴァイの口の中に消えていくのだった。



ぷちぷちと雑草を引き抜きながら、なまえは額の汗を拭った。
ハンジから怒涛の質問責めに合って疲れ切っていたが、今は身体を動かして何も考えずにいたい。
自分がこの調査兵団に与えられるものが無くなってきていることを、なまえはひしひしと感じていた。

(もし…もう要らないって言われたらどうしたら良いんだろう)

そもそもなまえのいた世界とこちらの世界には差異がありすぎる。
当たり前に持っていた携帯電話や電気器具、コンロなどはもちろん存在せず、交通手段や食事の仕方ひとつにとってもあまりに違いが大き過ぎた。
その便利すぎるなまえの世界の話を聞き、この世界にも応用出来るようにしているのがハンジだが、いかんせんなまえにとっては何が役に立って何が立たないのか、それすらも分からずにただ聞かれたことに答えるだけだ。

「…ほんと、役立たず」

ぶちっと思い切り草を引っこ抜き、なまえは自嘲した。ここに来て調査兵団しか知らない彼女にとって、彼らに与えられるものが無くなることは死に等しい。それに何よりも。

「…少しは馴染めたって思ってたのは私だけか」

半年間も共にいれば情も湧くし、心も許してしまう。なまえにとって調査兵団は信頼と信用をおける唯一の存在だが、彼らにとっては違うのだろう。巨人という摩訶不思議なものと戦う彼らに、なまえを信用することなど出来ないのかもしれない。
あまりに居た堪れなくなって、実は先ほどハンジとの話が終わった後、エルヴィンに申し出たことがある。

『兵士たちの食事や世話の手伝いをさせてくれないか』

そう言ったなまえにエルヴィンは困ったような表情を隠しもせず、曖昧に笑うだけだった。
食事を見てもあまり栄養価やバランスを考えられてるとはいえないものばかりだと、なまえは以前から考えていた。食糧難や財政難なのは重々承知しているが、それでもその中で出来ることはあるはずだ。しかし現状は、とりあえず食べられればいい、寝られればいいなどの必要最低限の生活様式になっているように感じる。

(リヴァイさんは潔癖すぎるくらいちゃんとしてるけど…身体が資本の兵士さんたちには物足りないんじゃないかな…)

専門職ではなかったが、あちらの世界で栄養系の資格を持っていたこともあり、少しは兵団の役に立てると思って申し出たことだったのだが。

「そうだななまえ…申し出はありがたいが、君にそんなことをさせられない。気持ちだけ受け取っておくよ」

優しくそう言ったエルヴィンに、遅ればせながら気がついた。自分は信用されていないのだと、そう痛感した。

(…そりゃそっか。得体の知れない女に生命線の食事やら寝床やらの手伝いなんて、させられないか)

頬を伝った水分を乱暴に拭い、なまえは虚な瞳を空に向けた。虚しくて悲しくて、塩っぱい水分がどんどん頬を流れてしまう。
連日の睡眠不足が弱った心を加速させて、どうにも止まらなくなってしまった。

「…なまえ?こんなところにいた……オイ?」

「リ、ばいさん…」

頬を拭い続けるなまえの背後から聞こえる声。訝しげなそれに何とか答えるが、泣いているのは隠しきれない。

「っ、おま…どうした。何があった」

「ふ…ぇ…なんでも、な、っ…」

「なんでもなくて泣く筈ねぇだろ」

僅かに目を見開いたリヴァイの驚いた顔は初めて見る。だがそれを笑う余裕もなく、足早に近づいてきたリヴァイから顔を背けた。

「誰かに何かされたのか。言ってみろ」

「ち、ちがっ…そんなんじゃなくて…」

「…このまま黙ってるようなら、兵団中に片っ端から聞きまくるぞ」

「っ!や、やめ…ちが、…え、えるび、ん団長にっ…私っ…」

「…エルヴィン?」

なまえが発した名前に驚いたようなリヴァイの声が重なる。色々な感情が鬩ぎ合って泣くことしか出来ないなまえは、なんと説明すれば良いのか分からず口を噤んでしまう。

「チッ…あの野郎…!」

「リ、リヴァ…イさん?」

「…来い」

ギリ、と唇を噛んだリヴァイに手を引かれ、訳もわからぬまま兵舎へ逆戻りだ。
土で汚れているなまえの手をものともせず引っ張るリヴァイに目を白黒させているうちに、乱暴に団長室の扉が開け放たれた。

「リヴァイ、ノックくらい……なまえ?」

やや諦めたような声音のエルヴィンが、リヴァイの後ろにいるなまえを見て驚いたように声を上げた。後ろにはハンジとミケの姿も見えて、なまえはますます縮こまる。

「エルヴィン、てめぇ…こいつに何しやがった」

「一体何の話…落ち着け、リヴァイ」

「俺は十分落ち着いている」

「リ、リヴァイさん、私…」

「お前は黙ってろ。んなに泣いて…エルヴィン、何しやがったんだ。返答によっては…」

「リヴァイさん!違います!」

何か大きな誤解をしているようなリヴァイの様子に、されるがままだったなまえが慌てて止めに入った。涙の跡は残っているものの、先ほどよりは落ち着いたらしい。

「あ?エルヴィンの野郎に泣かされたんだろうが」

「そ、それは…そうなんですけど、違うというか…えっと…」

「…お前が言えないならコイツに聞くまでだ」

唖然としていたハンジとどこか面白そうに鼻を鳴らしていたミケ。
彼らがやっと仲介に入り、何とか落ち着いてなまえから話を聞き出せるようになる頃には、痺れを切らしたリヴァイがエルヴィンの胸元を掴み上げる寸前だった。

「…つまり、なまえは自分がもう兵団に必要ない存在だと思って他に出来ることを見つけようとした、と」

「はい…」

「で、それが兵士たちの食事の用意やその他の世話だったと」

「はい…向こうの世界でそういう勉強をしたことがあったのでお役に立てるかと…」

「でもそれをエルヴィンに断られて、自分はいかに信用されていないか絶望して泣いていたところ、リヴァイに見つかって誤解されたんだね」

「…クソメガネ黙れ」

「すみません、リヴァイさん…私が紛らわしいことを…」

「エルヴィンに泣かされたのは間違いねぇだろうが」

「リヴァイ。それは…あまりにも横暴じゃないか」

「うるせぇ。大体てめぇが早くしねぇからこんなことになってんだろ」

「それは責任を感じているよ。だがまさかなまえが兵士たちの世話を買って出てくれるとは思わなくてね」

「エルヴィン…だから俺も早くなまえに話した方が良いと言ったんだ」

「ミケ…お前まで責めるのか」

「ふん…なまえがこんなに追い詰められてるのに気がつかなかったのはお前のミスだろう」

「あ、あの…」

なまえの頭上で交わされるやり取りに疑問符ばかりが湧いてくる。
優しく笑ったエルヴィンが、しっかりとなまえと目を合わせた。

「誤解させてすまなかった。私たちはもう君を疑ったりしていないよ」

「え…?」

「君を見ていれば、嘘なんかつけない女性だということはすぐに分かった。ただ事情が事情なので、すぐに自由にするわけにはいかなくてね。色々手を回さなければならないことが多かったんだ。待たせてすまない」

「あの…すみません、よく…」

「ああ。君は自由だよ、なまえ」

慈愛を込めて微笑むエルヴィンの顔を茫然と見る。自由、と口の中で呟けば、未だなまえの手を掴んだままだったリヴァイがチラリと視線を寄越した。

「君の戸籍も用意出来た。住む場所や働くところもすぐに見つけていくつもりだ。もちろん定期的に我々とやり取りはしてもらいたいが…」

「つまりそれは…兵団から出て行け、ということですか…?」

声が震える。
そっと離れていったリヴァイの手の温もりが寂しくて、空虚になった自分の拳をぎゅっと握りしめた。

「違う違う!なまえに出て行って欲しいわけじゃないんだよ!ね、エルヴィン!」

なまえの様子に慌てたらしいハンジが口を挟む。気遣わしげなミケの視線も感じた。

「当然だ。君の知識は本当に得難いものだし、このまま兵団に残って力になってもらえると助かるのも本音だよ。ただ…元の世界に戻りたいとは思わないか?」

「え、…それ、は…」

「もちろん今まで通り、私たちも元の世界へ戻る方法を探すつもりだ。だがそればかりに注力していられないことも事実なんだよ。…わかるね?」

「はい…」

「だったら兵団の外で暮らしながら、そのヒントを探してみるのも良いんじゃないかと思っている。なまえ、兵団の外に出たことはほとんどないだろう?」

「…はい。買い物にリヴァイさんに付き合ってもらうくらいです」

「いくら壁の中とはいえ、私たちも全てを探ることが出来るわけじゃない。それならいっそ、なまえを自由にした方が良いんじゃないかと、そう考えている」

諭すような、言い含めるようなエルヴィンの声音がなまえの頭の中に染み込んでくる。
言っていることは全て正しく、なまえの為になる筈なのに何故こんなにも戸惑うのか。

「君が決めてくれ、なまえ。我々はそれを全力でサポートするつもりだ」

「…分かりました。考えて、みます…」

縋るようにリヴァイの背中を見つめてしまう。
何か言って欲しかった。背中を押す言葉でも、引き止める言葉でも、今なら罵詈雑言でさえ好意的に受けとめられそうだ。
だが、リヴァイが最後まで彼女を振り返ることはなく、なまえはそっと団長室を後にすることしか出来なかった。





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