もう少しだけ近づきたいの(後)
ある日の週末。
ようやく落ち着いたらしいリヴァイから連絡をもらい、久しぶりに外食をしようと誘われた。
本当なら駅前で待っているように言われたのだが、この数週間の不安感が拭えずについ会社の近くまで来てしまっていた。ここに来るのはあの鍵を取りに行った日以来だ。
(あの時に比べたら随分欲張りになっちゃったな…)
忙しいリヴァイに遠慮して会うことすらままならなかったあの頃。
リヴァイの配慮で今は週末同棲のような形を取れているのに、それだけでは足りなくなってきている。
もしかしたらそんななまえの気持ちが伝わってしまい、面倒になったのだろうか。
(潔癖症のリヴァイさんが…浮気なんてするはずない)
そう自分に言い聞かせて顔を上げたその瞬間、なまえの目にリヴァイの姿が飛び込んできた。
「リヴァイ、さん…?」
彼の隣にはなんとも可愛らしい女性が歩いていた。
彼女のスマホを二人で覗き込みながら、時折何か言葉を交わす。道路を挟んで反対側にいるなまえには気付かないようで、リヴァイの長い指がスマホを指差していた。それにおかしそうに笑う彼女に、照れたようにそっぽを向くリヴァイ。
そんなリヴァイの顔は初めてで、なまえは頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
(リヴァイさん…その人は誰ですか…?)
同じ会社の人だろうか。もしそうなら相当優秀なのだろう。あんなに素敵な人がいるだなんて知らなかった。もしかしたら、リヴァイの相手は彼女なのかもしれない。
そんなことがつらつらと頭の中を流れて動くことも出来ず、なまえはただ呆然とその二人の後ろ姿を見送ってしまう。
が、この先でリヴァイと待ち合わせをしていることを思い出し、慌てて違う道を小走りで駅前へと向かった。
(…ちゃんと笑顔、作らなくちゃ)
彼が離れていかないように、側にいてくれるように。
無理やり口角を上げれば、ショーウィンドウに映った自分の引きつった笑顔が見返していた。
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「ん、美味しい!これ、すっごく美味しいですね」
「ああ悪くない…」
リヴァイが連れて来てくれたのは、最寄駅から一駅移動したお洒落な和食モダンなお店だった。
電車で移動することなど殆どなかったので驚きつつも、美味しい料理と穏やかな時間が流れる今を堪能する。
なまえがリヴァイと合流した時には、女性の姿は無くなっていた。そこに後ろ暗さを読み取ってしまいそうになり、慌てて笑顔を作った。
「なまえ。最近は立て込んでて悪かったな」
「いえ、落ち着いて良かったですね。これからはいつも通りお家に遊びに行って大丈夫ですか?」
「そのことなんだが…毎週末来てもらってるが、お前も何かと用があるだろ。これからは無理しなくていいぞ」
「え…?」
リヴァイの慎重な物言いに一気に指先が冷たくなる。同時に先ほどの光景が蘇った。
おかしいとは思っていたのだ。鍵をもらった日から、出張がある週末でも帰ってくる日に合わせてリヴァイの家に行き、彼を迎えるのがルーティンになっていたのに。
ここ数週間は「遅くなるから無理しなくていい」と言うリヴァイを無理矢理信じ、もどかしい気持ちを隠していた。
「その、なんだ…。あの家で一人で待たせてるのも悪ィし、お前を拘束するのもな…。だから予定があれば無理しないで…」
「い、いやです!」
リヴァイの言葉を最後まで聞くことなく咄嗟に声を上げる。嫌だ、そんなこと言わないで欲しいと心が叫んでいた。驚いたようにリヴァイが切れ長の目を見開いている。
「あの…違うんです。ごめんなさい、リヴァイさんも疲れてますもんね…」
「あ、ああいや…俺は良いんだが…」
「もし…もしお邪魔じゃなければ今まで通り…いえ、月一回とかでもいいので泊まりに行ってもいいですか…?」
「…別に構わねぇよ。というかお前が良いなら今まで通りで…」
「…はい。予定がある時はちゃんと言いますから」
先ほどまでの穏やかさは霧散して、どこか重苦しさが漂っている。
なまえの頭の中では『浮気』『飽きた』というフレーズがぐるぐる回り続け、せっかく食べていたデザートの味すら分からなくなってしまった。
「…出るか」
店を出れば、二人の雰囲気とは裏腹の気持ちの良い夜風が吹いていた。
スマートに会計を済ませたリヴァイに何度もお礼を言うが、その顔を見ることが出来ない。
「…なまえ、今日も泊まるか」
「あ、あの…リヴァイさんが良ければ…」
「駄目なワケねぇだろ。せっかくだから一駅歩くか」
そう言ったリヴァイが緩めていたネクタイを完全に外し、無造作に畳んで鞄に放り込む。
彼らしからぬ急なその行動と言動にぱくちりと目を瞬くなまえの手をそっと握った。
「疲れたら言えよ」
「…はい」
こうして夕飯を共にするのも手を繋いでゆっくり歩くのも本当に久しぶりなのに、心に渦巻く真っ黒い気持ちが全てを台無しにする。
「そういえば、何か欲しいものはあるか?」
「え…?欲しいもの、ですか?」
唐突なリヴァイの言葉に思わず聞き返した。
何故、と聞けばうまくはぐらかされ、それすらも疑念を深める材料になる。
『罪悪感なのか、こっちの顔も見なくなったと思ったら急に優しくなったり』
不意にテレビで聞いた話が蘇る。
まさか、と思う気持ちと、やっぱりと泣きたくなる気持ちがせめぎ合った。
「…なまえ、何か欲しいモンねぇのか。何でもいいぞ」
黙ったなまえに何を思ったのか、僅かに焦った様子のリヴァイが再度問い掛ける。
その姿に色々な気持ちがブワッと湧いてきて、もう耐えられなくなった。
「…リヴァイさん」
「なんだ?何か見つかったか」
「リヴァイさんが欲しいです」
「…は?」
ぽかんとした初めてのリヴァイの姿が、先ほどなまえの知らない彼女に見せていた姿と重なる。自分がこんなに独占欲が強いだなんて、リヴァイに出会うまで知らなかった。
溢れてくる気持ちが言葉となり、もう止められない。
「リヴァイさんの全部が欲しいですっ…ど、どこにも行かないでっ…!」
「オイ待て待て。一体どうし…」
「わた、私、ちゃんと飽きられないように頑張りますからっ…もし邪魔ならリヴァイさんがいいって言うまで、お家にも行きません…!だから、だから…」
「なまえ、落ち着け。何の話だ。誰が誰に飽きたって?」
「だって、この前から様子がおかしいですもんっ…私の顔全然見てくれないし、急にもう家に来なくていいって…!」
「ちが、それは…!っ、とりあえずこっち来い」
繋がったままの右手が熱い。
驚いた様子のリヴァイが、優しくもやや乱暴にその手を引いて誰もいない公園に入っていく。
いつのまにか溢れてきていた涙を拭うことも出来ず、なまえはされるがままベンチに座らせられる。
「チッ…拭くモン持ってねぇからこのままで悪ィな」
「いえ…」
手は繋いだままリヴァイもなまえの横に腰を下ろす。いつもならこんなところに座るのは嫌がるリヴァイだが、今そんなことを考えている余裕は無い。
「なまえ、泣くな」
「っ、ごめんなさっ…」
ぎゅうっとリヴァイの逞しい身体がなまえを抱き締める。ぽんぽん、とあやすように背中を叩かれると治まってきたはずの涙がまた溢れてきた。
「ふっ、う〜…!」
「…落ち着け。ゆっくりでいいから…話せるか?」
「りば、リヴァイさんっ…他に好きなひと、出来たんですか…?」
「は…?何の話…」
「あの可愛らしい会社の方ですか…?わ、私、なんにも知らなくて…!」
「誰のことを言ってんだ。他に好きなやつなんて…そんなのいねぇよ」
「リヴァイさん、どこにもいっちゃやだあっ…!」
泣き続けるなまえの涙がリヴァイのワイシャツに冷たい染みを作っていく。それでもリヴァイの心の中には温かい光が灯っていた。
こんなにもなまえが自分を求め、何の勘違いか離れていくのを恐れてくれているなんて、愛しくて仕方がない。
「どこにもいかねぇよ。全部誤解だ」
「で、でも…」
「何を見たのかは知らねぇが…お前以外に好きなやつなんていねぇよ」
さらりと告げられた「好き」の単語がグッと胸に詰まる。付き合ってからも殆ど言われることのない言葉だった。
「何をどうしたらそうなるんだ」
「その…この前飲み会から帰ってきた時から様子が変でしたし、私のこと、避けてましたよね?突然もう家にも来なくていいって…。それにさっきリヴァイさんが可愛い女性と寄り添ってるのを見てしまって…」
「さっき…?あぁ、ペトラのことか」
「ペトラ、さん…?」
「ただの部下だ。それに多分それは…」
不意に口を噤んだリヴァイを不安そうに見上げるなまえ。腕の中で目を真っ赤にさせながらも大人しくしているなまえに、リヴァイの欲が高まる。
「チッ…こんなことになるならきちんと話すべきだったな」
「え…?」
「…この前の飲み会でクソメガネやペトラに散々こき下ろされた」
そこでリヴァイが語った話に、なまえは目を丸くさせるしかなかった。
記念日というものを知らなかったこと、誕生日を祝うのをハンジに先を越されたのが悔しかったこと、なまえを束縛しているのに放置していて、呆れられたのではないかと不安になったこと。
自分なりに調べたところ、記念日にはプレゼントをあげることもあると知り、遅れてしまったがなまえに何かやりたいと思ったこと。それが先ほどの質問に繋がったらしい。
「リヴァイさん、そんな…」
「だからお前の時間を奪わないように、出張や仕事の日は呼びつけねぇ方が良いかと…そう思ったんだ」
「…寂しかったです」
「悪かった。ちゃんと説明すべきだった」
そう言いながらゆっくりと抱きしめていた腕を離したリヴァイが、軽く口付けた。なまえの頬がほんのりと染まる。
「にしても浮気、か…」
「ご、ごめんなさいっ!私、勝手に…」
「いや…考えてみりゃそう思われても仕方ねぇ行動ばかりだな」
「…すみません」
「さっきも言った通り、ペトラはただの部下だ。お前が見たのは…女に人気のあるデートスポットとやらを教えて貰ってた時だろうな」
「え?デートスポット…?」
「…なまえと遠出したことも殆ど無かっただろ?今更で悪ィがどっか連れてってやりてぇと思ってな」
「リヴァイさん…」
「だが…一気に考えすぎてお前を不安にさせてちゃ意味がねぇ。悪かった」
「そんな…私こそ早とちりして…。すごく嬉しいです…!」
泣いて鼻の頭を赤くしたなまえが心底嬉しそうに笑顔を見せる。その笑顔が薄暗い闇の中でもしっかり見えて、リヴァイも頬を緩めた。
「この際だから全部言っちまえ」
「え…」
「弱音とか不満とか…お前に甘えて今までちゃんと聞いてやれなかったからな」
「じゃあ…リヴァイさんも聞かせてください。私ばっかりじゃ駄目です」
「…お前な」
夜風が二人の頬を撫でる。
それに促されるように、リヴァイは渋々口を開いた。
「…聞いてると思うが、俺は今までろくに女と続いたことがねぇ。だから誕生日だとかその記念日だとか、そういうのを一切祝ったことがねぇんだ」
必要だとも思ったことが無かった。
でもなまえと出会いきちんと大切にしたいと思ったから、せめて誕生日は、と自分なりに努力したつもりだ。…だいぶ過ぎてはしまったが。
「だからなまえがそういうのを大切にするなら、俺もそうやっていきたい。と言っても正直どんなモンか分かってねぇから…教えてくれると助かる」
「リヴァイさん…」
真っ直ぐに向き合ってくれるリヴァイに胸が詰まる思いがした。
なまえも記念日などにこだわるタイプではないが、リヴァイと気持ちが通じ合った日と彼が生まれた日、それくらいは一緒にお祝いをしたいと思うと素直に伝えた。でも、それよりも。
「もちろんそういうのも嬉しいです。でも、普段一緒にご飯食べたり買い物行ったり…リヴァイさんちで紅茶を飲んだり、そうやって二人で過ごせる時間を今よりもっと取れたら…それだけで私は幸せです」
多忙なのは分かってます、と慌てて付け加えるなまえ。そんな些細なことすら叶えてやれていなかった自分に歯噛みしたくなる。
「こうやって一緒にご飯を食べて、遠回りしながらお家に帰って…ふふ、公園に寄り道とかしちゃって。あ、帰りにアイス買って帰れたらもっと幸せです」
そう言って照れ臭そうにリヴァイの片手をいじるなまえに些か呆然としてしまう。そんな小さなことで良いのかと、逆に申し訳なくなった。
「…欲がねぇな」
「そうですか?リヴァイさんと一緒なら…どんな些細な日常でも大切にしたいんです」
暗闇の中でも分かるなまえの明るい笑顔がリヴァイを照らす。
その瞬間、唐突に「こいつを絶対に離したくない」という気持ちが込み上げた。誰にも渡したくない、ずっと側にいて欲しいと、渇きを覚えるような貪欲な思い。
「なまえ」
「はい」
「一緒に暮らすか」
「はい……は、え?」
「考えていなかった訳じゃねぇが。俺のマンションに引っ越してくるとなると、お前の通勤時間が延びると思ってな」
「え、あの…それって…」
「…なまえさえ良ければちゃんと同棲しないか。もちろんきちんと先を見据えて」
「リヴァイさん…!」
「…返事は」
「もちろんですっ…!」
どこか緊張した様子のリヴァイの言葉に、何度も何度も頷いた。ホッと息を吐いたリヴァイがそっとなまえの頬に手を伸ばす。
「あのマンションから通いづらいなら引越してもいい。なんならなまえの会社近くでもいいしな」
「え、でもリヴァイさんの通勤時間が延びちゃいます」
「構わねぇよ。俺は男だし夜遅くなってもどうってことはねぇ。だがお前が帰りが遅くなった時に、俺がいつでも迎えに行けるわけじゃねぇからな」
「大丈夫ですよ。リヴァイさんの今のマンションなら駅からすぐですし、周りも明るいです」
「だが電車に乗ってる時間が延びるだろう」
「ふふっ…リヴァイさん、心配しすぎです」
「…自分の女を心配して何が悪い」
憮然としながらもどこか照れた雰囲気のリヴァイに、なまえも目尻を下げた。
今日は初めて見るリヴァイの姿ばかりで、心臓が追い付かなそうだ。
「同棲のことも含めて、きちんと話そう。なまえも我慢するな。言いたいことがあればいつでも聞く。叶えられることはなるべく叶えてやる。だから…溜め込んで泣いたりするな」
「…はい。じゃあ早速…リヴァイさん」
「なんだ?」
優しく細められるリヴァイの瞳になまえの姿が映っている。
「…今日はたくさん抱きしめてキスして欲しいです」
「はっ…お前、そりゃ…」
最高のおねだりじゃねぇか、と微かに笑ったリヴァイの唇が早速落ちてくる。
同じく笑みを浮かべたまま、なまえはそっとそれを受け止めたのだった。
-fin