揺れるきみのまなざしを



預金通帳をじっと見つめながらなまえは軽く唇を噛んだ。社会人になってからコツコツ貯めた貯金はそれなりの額になっているが、これを全て使うわけにはいかない。何かあった時のためにある程度は残しておかないと心許なかった。

「リヴァイさん、怒るかな…」

怒るに決まってるだろ、という幻聴まで聞こえそうで小さく苦笑を溢した。
リヴァイに隠し事をすることになってしまうのが心苦しい。優しい彼のことだ。なまえが相談すればすぐに動いて、さらにまとまったお金まで用意しかねない。それだけは避けたかった。
リヴァイが毎日身を粉にして働いて得たお金を、なまえの不始末のために使って欲しくはない。それに今のリヴァイは繁忙期を迎えていて、休日出勤と残業が続いている。そんな多忙な彼の負担にはなりたくなかった。

「…少しだけ、ごめんなさい」

なるべく早く解決することを誓い、ギュッと拳を握りしめた。



一年で最も忙しい時期が今年もやってきた。
決算期を間近に控えた今、どの部署もピリピリとした緊張感に包まれ、営業部は特に最後の追い込みと言わんばかりにまさに働き蜂の如く座る暇もない。
特に外資系企業である以上、契約更新の有無や年俸査定が重なるこの時期は、リヴァイを始め部下を従える上役の精神的なプレッシャーも相当なものだ。

「エレン、あまりがっついて締結を急ぐな。せっかくここまでお前が築いてきた信頼がパーになるぞ」

「ですが次長…この契約が取れれば前月の記録も更新出来るんですよね?」

「ああ。だがな、記録のために仕事してるわけじゃねぇだろ。お前のその上昇志向は悪くねぇがな、別に今月取れなくても構いやしねぇよ。それよりもお前が時間を掛けてここまで話を進めたんだ。一番いい形で締結する方が大事だ」

「次長…」

「もっと時間が必要なら使え。俺やエルドが一緒に行った方が効率が良いならそうしろ。お前の成績は悪くねぇ。そんなに焦る必要ねぇよ」

「はいっ!ありがとうございます!」

表情を明るくしたエレンが深々と一礼して去っていくその後ろ姿は、先ほどよりもしっかりと背筋が伸びていた。オルオとエルドがエレンを小突き、ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜる様子を見送ってパソコンに目を落とす。
今月までの成績が反映されることもあり、エレンのように勇み足になる社員は少なくない。それを諫め、宥めるのもリヴァイの仕事だった。

(…さすがに堪えるな)

鈍く痛む目頭を揉み込み、深々と背もたれに沈み込む。毎年のことだが約二ヶ月続くこの繁忙期は、家に帰ってもただ寝るだけの日々だ。
今はリヴァイの仕事部屋に布団を持ち込んで、なまえとは別に寝ている。彼女が寝た後に帰ってきて、起きるよりも早く出ることになるだろうことを見越して二人で話して決めたことだ。
なまえと暮らし始めて初めての最繁忙期、当初唖然としていた彼女は直ぐに順応したらしい。無理に起きてリヴァイを待つことなく、軽い夜食と湯を張った風呂、そして翌日の弁当代わりの軽食を用意してリヴァイのペースを乱さないように普段通り生活してくれていた。
なまえには申し訳ないと思いつつ、物理的に時間が取れないこの状況を理解してくれることに心から感謝した。

(頭あがんねぇな)

リヴァイの性格を熟知しているなまえらしく、押し付けがましくなく適度な気遣いはさすがとしか言いようがない。
主にメッセージアプリと食卓に置かれたメモでのやり取りになってしまっているが、リヴァイも一日に一度は何かしらメッセージを残すようにしていた。

『私もここから二ヶ月ほど残業と土日出勤が多くなりそうです。お互い頑張りましょう!』

昨日送られてきたメッセージにはそう書かれていた。土日出勤があるなんて珍しいな、と頭の片隅で思いつつも身体に気をつけるようにスタンプと共に返信を送ったのは先ほどのことだ。

「リヴァイ次長、お電話です!」

呼ばれた声に思考を切り替える。
お互いの忙しさが終わったら温泉でも行くか、と胸の奥に褒美を残した。



「…ハンジ。忙しいところ悪ィが少し時間が欲しい。いつでもいい、時間はお前に合わせる」

繁忙期が半分ほど過ぎた頃、いやに神妙で難しい顔をしたリヴァイが掛けた殊勝な言葉に、思わず本人を二度見してしまう。こんな低姿勢に話し掛けてくるリヴァイは出会ってから初めてだ。

「えっ、リヴァイ、どうしたの?熱でもあんの?」

「ねぇよ。それで、どうなんだ」

「んー…逆に今なら平気。アプリのアップデート待ちなんだ。モブリットたちにも1時間ほど休憩取るように言ってあるし」

「俺も部下の書類待ちだ。もう21時過ぎてやがるからな、取引先からの電話も鳴らねぇだろ。ちょっと付き合え」

「うん、分かった」

静かに踵を返す後ろ姿に付いていく。こんなリヴァイは初めて見るが、十中八九なまえ絡みなのだろう。というよりなまえ以外にここまでリヴァイを悄然とさせる者がいたら会ってみたいものだ。

「で、どうしたのさ?」

最上階にあるカフェテリアの一角で二人は向かい合っていた。セルフサービスで注いだ珈琲と紅茶が湯気を立てる。

「…プライベートな話だ」

「だろうね。なまえのこと?」

「ああ。あいつが今、何をやっているか知っているか?」

「えっ…どういうこと?」

「最近…いや、いつからかは分からねぇがほとんど家にいないらしい」

「はあっ…?」

深々と眉間に皺を寄せたリヴァイが発した言葉に思わず大きな声を上げる。また出て行かれたということか。

「出て行ったわけじゃねぇ。寝に帰ってはきてるようだが…」

「…どういうこと?」

逡巡したのか、僅かに視線を彷徨わせたリヴァイが重い口を開く。

「…おかしいと思ったのは十日ほど前だ」

その日、リヴァイは珍しく早く家に帰れたという。というよりもリヴァイとその恋人のなまえを案じた部下たちが、たまにはちゃんと顔を合わせた方が良いと気を回したのだ。
その提案に意外なほど湧き上がった喜びを抑えて素直にそれを聞き入れたリヴァイが見たものは、もぬけの殻の自宅だった。

「…なまえ?」

いくら早いとはいえ、もう22時を回る時間だ。繁忙期だと言っていた彼女もまだ働いているのだろうか。

「…オイオイオイ。大丈夫か」

忙しくなるとは聞いていたが、具体的に聞いておかなかった自分を悔やむ。とりあえず連絡を、とスマートフォンを手に取った瞬間、ガチャリと鍵を開ける音がした。

「あっ…?えっ、リ、リヴァイさんっ…!?」

「遅かったな」

「帰ってたんですか…!」

明かりが付いていることを訝しんだのか、玄関に佇んだままだったなまえが驚愕に目を見張る。その大袈裟な驚き方に僅かな違和感を覚えた。

「ごっ、ごめんなさいっ…!まさか帰ってるとは思わなくて…あ、今からご飯を用意しますね!」

「いや、お前も疲れてるだろ。会社で軽く食ったから気にするな。なまえこそ食ったのか?」

「私も軽く食べました。あの…ごめんなさい…」

へにゃりと眉を下げたなまえがそのまま俯いてしまう。直前まで見えていた顔に疲労の色を読み取ったリヴァイがそっと背中に手を当てた。

「疲れてるな…。残業続きなのか?」

「は、い…。でもリヴァイさんに比べたら…」

「比べるもんでもねぇだろ。とりあえず入れ。そこは冷えちまう」

リビングで暖をとり、それぞれ風呂に入り終わる頃にはなまえの表情もやや明るくなっていることに内心ホッと息を吐く。リヴァイの隣に腰掛けたなまえが甘えるように凭れかかった。

「リヴァイさんとこうして過ごせるの、久しぶりで嬉しいです」

「ああ、俺もだ。だが…いつもこんな時間になるのか?」

「毎日じゃありませんよ。週2、3回ですかね」

「悪かったな。まさかなまえまでこんなに時間になってるとは知らずに、夜食や弁当、甘えちまって」

「いえっ…!リヴァイさんの方が忙しいんですから気にしないでください」

「さっきも言ったが比べるもんじゃねぇだろ。なまえの繁忙期が抜けるまで俺の食事のことは気にするな。他の家事もしなくていいぞ」

「えっ、でも…」

「そもそも家事の負担がなまえの方が大きすぎたな。悪かった。落ち着いたら時短家電、見に行くか」

「リヴァイさん…」

「だから今は休める時は休め。隈、出来てんじゃねぇか」

心配そうになまえの顔を覗き込んだリヴァイの指が目の下をそっと撫でる。くすぐったそうに首を竦めたなまえが青灰色の瞳を見上げた。

「じゃあ…無理しない範囲でお弁当用の軽食は作ってもいいですか?」

「…いいのか」

「はいっ。リヴァイさんのことだからあまり食事も取ってないでしょう?本当はしっかりお弁当を食べてもらいたいんですがそんな時間も無いでしょうし…繁忙期の間は片手で食べられる軽食にしておきますね」

「…すげぇ助かる」

素直な本音が漏れ出た。コンビニに買いに行くのも、カフェテリアに食べに行く時間ももったいない。用意してくれるおにぎりやサンドイッチは正直ありがたく、なまえを身近に感じられる貴重な時間でもあった。

「リヴァイさんの繁忙期はあとどれくらいですか?」

「そうだな…あと一ヶ月ちょっとってとこだな。来月の末には落ち着きそうだ」

「私も…来月末にはなんとかなりそうなんです。そしたらゆっくりしましょうね」

にっこりと笑ったなまえに目尻を下げて頷いた。そのままちゅっと軽い音を立てて唇を奪えば、ほんのり頬を染めたなまえが嬉しそうに目を細める。

「リヴァイさん、大好き」

「…俺もだ」

リヴァイの胸元に顔を埋めたなまえだが、暫くすると静かな寝息が聞こえてきた。どうやらそのまま眠ってしまったらしいなまえの身体を慎重に抱え込む。

「随分疲れてるな…」

同棲してからもする前も、ここまで疲れ切っている彼女を見るのは初めてだった。起こさないように膝裏に手を回したその時、なまえのスマートフォンが滑り落ちた。

「っと……あ?」

床すれすれでそれを掬い上げたリヴァイの目がホーム画面の通知を捉えた。メッセージアプリのポップ画面が飛び込んできて、読む気はなかったものの自然と目に入ってしまう。

『今日もありがとうございました!ネックレス忘れてますよ。部屋に置いておくので次の時に渡しますね』

「…どういうことだ」

今日は残業だったのではなかったか。
表示されている名前は男のもので、メッセージも仕事関係とは思えないものだ。茫然としたまま、腕の中で穏やかに眠るなまえの見つめ続けた。



話を聞き終わったハンジは混乱したように髪をかき混ぜつつ、なんとか口を開く。

「え…まさか、なまえの浮気を疑ってるの?」

「…分からねぇ。だが仕事じゃなかったのは確かだろ」

「うーん…でもなまえがまさか…」

「…あいつ、兄貴や弟はいるのか?」

「いや、いないよ」

一縷の望みをかけて表示された男の名は兄弟のものかもしれないと思ったらしい。ハンジの返答に、リヴァイにしては珍しく絶望的な表情を隠さない。そんな彼に慌てて手を振った。

「でもなまえが浮気なんてありえないよ!あのなまえだよ?」

「浮気だと思ってるわけじゃねぇ…。だが残業だと嘘ついて誰かに会ってるのは間違いねぇだろ。最近相当疲れてるようだし、土日も出掛けていることが多いみてぇだ」

「なまえがリヴァイに隠し事なんて…よっぽど知られたくないのかな」

「チッ…なんなんだ」

二人で頭を抱えても答えは出てこない。その時ふと思いついたようにハンジが顔を上げたが、その表情は浮かない。

「…ねぇリヴァイ。なまえと家族の話、したことある?」

「家族?」

「うん…」

「いや…」

そう答えてから、リヴァイは同棲すると決まった時のことを思い出した。きちんと両親に挨拶をしたい、と言ったリヴァイに対してなまえが困ったように笑ってある事実を告げた。

「…両親ともに中学生の頃に亡くなっていると聞いた」

「うん…他には?」

「叔父夫婦のところに引き取られたが、うまくいかずに高校卒業と同時に家を出たと聞いたな。だがあまり立ち入ったことは聞いてねぇ」

そっか、と複雑そうに目を伏せるハンジに眉を寄せる。その時はあまり辛い思い出を話させるのも悪いと思い、深い話はしなかったのだ。
叔父は自分に興味がないし、他に親戚もいないから挨拶するような人はいないのだとひっそりと笑ったなまえを思い出す。

「…なまえから話してないのなら、私から話すわけにはいかないけど」

「なんのことだ…?」

「さっき、なまえはリヴァイに隠し事をしないだろうって言ったけど、家族…というかその叔父の話なら別だ」

「…どういうことだ」

「…詳しくはなまえから聞いてくれ。だけどあまりいい関係じゃなくて、なまえは早く家を出る為に高校時代はバイトに明け暮れたんだって。大学時代もサークルには入らずにバイトをいくつも掛け持ちしてたくらいだし」

「…そうか」

「今回のことに関係あるかは分からないけど…なまえは今まで一人でずっと頑張ってきた。だから一人で抱え込むことだけは得意なんだ」

「ああ…あいつはそういう奴だな」

「リヴァイと同棲し始めてから随分素直になったと思うけど、人の根本ってそんなに変わらないと私は思ってる。なまえが何を隠してるか分からないけど…彼女にとってはすごく重いことなんじゃないかな。悔しいけど、私じゃそれを取り除いてあげることはできない」

リヴァイだけだと思う、と続けたハンジの真剣な眼差しが眼鏡越しにきらりと光った。
リヴァイ自身、早くに親を亡くし唯一の叔父に育てられた。それを聞いたなまえは目を丸くして「私たち、似てますね!」と嬉しそうに微笑んでいた。リヴァイの育ての叔父は世界中を奔放に飛び回っていて、一年に一度会うかどうかの関係だがそれでも育ててくれたことに感謝をしている。

「…なまえ本人に聞くしかねぇか」

「そうだね。言いにくいけど、なまえが今まで土日に出勤してるなんてほとんど聞いたことないよ。どこかお店の開業があれば別だけど、そんな何ヶ月も続くものじゃないはずだ」

「平日も遅くまでどこかに行って、土日も外出してる…か」

「うん。リヴァイの繁忙期に合わせてね」

「…他に好きな男が出来てたら俺はどうすればいい」

「知らないよ。泣きついて頭下げてなまえに戻ってきてもらえば?」

肩を竦めたハンジの言葉に憮然としてしまう。
リヴァイの多忙さや淡白さ、愛情表現の少なさに愛想が尽きたと言われても仕方がないことばかりだ。なまえに対してはリヴァイなりにものすごく努力しているが、それでも世間一般の恋人に比べたら満足いくものではないだろうと彼自身も理解していた。

「…こんなことなら早く籍入れちまうんだったな」

「あのさ、なまえを縛りつけるためだけに結婚を申し込むのはやめなよ。ちゃんとなまえを幸せにして、ずっと守り抜くって誓ってくれないと結婚なんて許さないからね?」

「お前はなまえのなんなんだ」

「一番の親友に決まってるだろ!」

フン、と胸を張って言い切ったハンジを呆れたように横目で見ながら、心はなまえに馳せる。
きちんと話をしようと思った。リヴァイの思い違いでも杞憂でも構わない。「心配しすぎですよ」となまえに笑い飛ばして欲しかった。


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