掬い上げるのはあなたの指先
それでも時間は無慈悲に過ぎていくもので、なまえの異変に気がついてから約一ヶ月、リヴァイは何も行動を起こせずにいた。多忙が過ぎてなまえと顔を合わせることが出来ないのが一つ、そして怖気付いてしまっているのがもう一つの大きな理由だった。
もしなまえがリヴァイから離れることを考えているとしたら、自分がどうなってしまうか想像も出来ない。
「チッ…ざまあねぇな」
今日も今日とて、真夜中を過ぎての帰宅になってしまった。ポツリと呟いた自嘲の言葉はエレベーターの機械音に混じって消える。
「…ただいま」
先に寝ているだろうなまえを起こさないように、静かに扉を閉めた。明日は祝日で、出勤はしなければならないがいつもよりは遅い時間の出勤だ。少しでもなまえと話せれば良いと、それを願いながらリビングに入ったリヴァイはそこに広がっていた光景に目を見張った。
「っ、なまえ…?」
ソファーに横たわってピクリともしない姿が視界に入った。慌てて駆け寄るが、ぐっすりと眠り込んでいるだけだと確認して大きく息を吐いた。
「…どうしたってんだ」
常夜灯しかついていないリビングは薄暗く、なまえの顔色をより一層悪く見せている。帰ってきてそのまま力尽きてしまったのか、服装はそのままで鞄も床に落ちていた。部屋を少し明るくしてそっと頬に手を当てれば、擦り寄るようになまえが身動ぎした。
「…なまえ」
このままベッドに連れていってやりたいが、着替えも風呂もまだならなまえ自身が嫌がるだろうと軽く身体を揺する。何度か声を掛けると、薄らと目を開けたなまえと目が合った。
「…りば、いさ…ん?」
「大丈夫か?疲れてるならちゃんとベッドで寝るんだ」
「え……」
ぼんやりと瞬きを繰り返していたなまえが緩慢な動きで起き上がる。そしてハッとしたように周りを見回して、勢いよくリヴァイを見上げた。
「ごっ、ごめんなさい…!やだ、私こんなところで…」
「そのままじゃ余計疲れるだけだ。億劫だろうが、風呂入れるか?」
「は、はい…本当に…ごめんなさい…」
しょんぼりと肩を落としたなまえが乱れた髪を直す様子をじっと見下ろした。ちゃんと顔を合わせたのは数週間ぶりだが、目の下の隈は隠せないほどで少し痩せたようにも見える。リヴァイの夜食を用意しなくて良いと伝えたが、もしかしたらなまえ自身もちゃんと食べていないのだろうか。
「なまえ、お前…」
「はい…?」
掠れたリヴァイの声になまえが顔を上げたと同時に、テーブルの上に置いてあった彼女のスマートフォンが通知を告げる。思わずそちらを見たリヴァイの目が以前にも見た男の名前を捉えた。
同じように通知を確認したなまえが慌ててスマートフォンを裏返しにする。
「…なまえ」
「わ、私、シャワー浴びてきます…!」
リヴァイの視線から逃げるように立ち上がったなまえの腕を咄嗟に掴んだ。疲れているだろうと、話をするなら今日ではなく明日にしようと思う気持ちがあるのに、リヴァイの口は勝手に言葉を紡いでいた。
「…何を隠している」
「えっ…?」
「残業や休日出勤っていうのは本当なのか」
真っ直ぐになまえを見つめたまま問う。
震えそうになる声を何とか堪えて、驚いたように目を見開いたなまえが薄らと唇を開くのを見守った。
「リヴァイ、さん…?」
「…悪い。この前メールの通知を見ちまった。今の…今メールが来た男から『ネックレスを忘れてる』とな」
ビクッと掴んだままの腕が震える。くしゃりとなまえの顔が歪み、ふるふると何度も首を振った。
「あの、リヴァイさ…ん…私…」
「それにあまりにも疲れているように見える。今までこんなに残業したり休日出勤したこと、なかっただろ」
「それは…」
「…勘違いなら謝る。仕事で忙しいのにふざけるなと殴ってくれて構わない」
どうしても核心を突くのが怖くて回りくどい言い方になってしまう。だがなまえには正しく伝わったようだ。掴まれた腕ごとだらりと両手を下ろした彼女が、ゆっくりと頭を上げた。
「…ごめんなさい。残業と休日出勤は嘘、なんです」
やはり、と思うと共にズンと気持ちが重くなる。
ハンジには冗談めかして言ったが、もしかしたら話の内容によってはなまえが離れてしまうかもしれないと思うと、聞きたくない気持ちが急激に強くなった。
「実は、私…」
「待ってくれ」
「えっ…?」
決意を込めた瞳でリヴァイを見上げたなまえの言葉を咄嗟に遮った。臆病者と罵られようが、どうしても先に確認しておきたいことがある。
「…別れ話か?」
「…はい?」
「それとも他に好きな男が出来たか?それなら…悪い、今日はきつい。日を改めて…」
「えっ、あの、好きな人…?別れ話…とは…?」
「…違うのか?」
きょとんとしたように目を丸くしたなまえの反応を見て一気に安堵の気持ちが溢れ出てきた。大きく息を吐いたリヴァイは掴みっぱなしだった腕をゆっくり離し、なまえが先ほどまで横になっていたソファーへズルズルと崩れ落ちた。
「…なら良かった」
「リヴァイさん…その、変な誤解させちゃってごめんなさい…」
「いや…俺の方こそ、余裕なくて悪かった」
そっと隣に寄り添ったなまえの頭をポンっと一度撫でる。心配そうに顔を覗き込んだ彼女の腰に手を回し、深々溜息を吐いた。
「あの…私、リヴァイさんに隠し事してて…」
「ああ。…聞かせてもらえるか」
「…はい」
労るようになまえの手の甲を撫であげたリヴァイに励まされ、大きく息を吐く。出来れば彼に気付かれず最後まで隠し通したかった。
こんな恥ずかしい話、もしかしたら呆れられて軽蔑されるかもしれない。それでもリヴァイに誤解をされたままにしたくはなかった。
「実は…あの…副業をしてるんです」
「は…?副業…?」
思いがけない事実に瞑目するリヴァイ。
こくん、と頷いたなまえが考えを纏めるように目を眇めた。
「平日は月水金と家庭教師で、土日は家庭教師とテストの採点のアルバイトをしてまして…」
「オイオイオイ…そりゃあ休みがねぇどころじゃねぇだろうが」
「…ちょっと配分を間違えちゃいました」
居た堪れなそうに首を竦めて苦笑したなまえをまじまじと見つめてしまう。そんなハードスケジュールなら休む暇など無かっただろう。
「なんでまた副業なんて…」
「…お金が必要なんです」
友人に頼まれて、や知人の子どものために、という返答を想像していたリヴァイは、その答えに今度こそ絶句した。唇を噛んで目を伏せるなまえの心情が図れない。
「なまえ…」
「あの、あと二ヶ月…いえ、一ヶ月半くらいで貯まる予定なんです!なのでもう少しだけ許してもらえないですか…?」
「そりゃあ…なまえ…お前…」
必死に縋るなまえの姿に息を呑んでしまう。何故金が必要なのか、そこまで苦しい思いをさせていたのか、とぐるぐる思考が回り、無意識のうちに口を開いていた。
「なまえ…俺のせいか…?」
「えっ…?」
「…すまない。なまえの懐事情も考えず、ここに引っ越させたのも食費を負担させたのも俺だ。やっぱり食費も俺が全部…」
「ち、違います!違いますよ!」
愕然とした顔でつらつら告げられる言葉に慌てて両手を振った。リヴァイのせいでも、ましてや同棲生活のせいでもない。
「…違う?」
「違います!リヴァイさんとの生活が苦しくて副業してるわけじゃないんです」
「じゃあなんで副業なんかしてやがる」
態勢を立て直したリヴァイが詰め寄った。理由を聞くまで離す気は無い。金銭面で何か辛い思いをしているなら、なんとか助けてやりたかった。
「…あの、私、奨学金がありまして…」
「ああ…大学のか」
「はい。学費は奨学金とアルバイト代で支払うことにしていたんですが、大学の入学金だけは叔父が出してくれる予定だったんです。あの、父母の遺産も残ってるはずでしたし…」
ぽつりぽつりとなまえが語る。初めて聞く彼女の過去の話に、リヴァイは耳を傾けた。
「でも実は叔父が借金をして入学金を払ったみたいで。その時には遺産もとっくに使い切ってたようです」
「…ふざけてやがるな」
「奨学金はあと一年以内には返し終わる予定なんですが…叔父から入学金の借金も私が払うように連絡がきました」
「は…?」
「…前にも話した通り、叔父夫婦とは絶縁に近い関係です。母と父が亡くなってから面倒を見てもらいましたが…正直言って仲は最悪でした」
当時を思い出したのか、握り締めたなまえの手が小刻みに震えている。それにそっと手を重ねると、僅かに微笑んだなまえが話を続けた。
「叔父夫婦に子どもはいません。定職にもつかず借金も多かったようです。それに…その、私が高校生になってからは過剰なボディタッチが多かったり、お風呂場に入ってきたり…そういう人で…」
「なまえ…辛いなら話さなくていい」
言葉を途切れさせたなまえに堪らなくなって、口を挟んだ。聞いているだけでも胸糞悪く会ったこともない叔父を心から憎んだ。
「いえっ…私は大丈夫です。こんな恥ずかしい話、リヴァイさんも聞きたくないと思いますが…」
「いや、なまえのことならなんでも知りてぇ。話すのがしんどくなければ全部吐き出しちまえ」
「…はい。そんな叔父夫婦なので、高校卒業と同時に家を出ました。大学の入学金だけはどうにもならなかったので遺産からそれだけは出してもらえるように頭を下げて…。でも実は遺産はもう無くて、借金をしたんですね。それが払えなくなったから私に払うように、先月連絡がきたんです」
もう何年も連絡は取っておらず、これからも取るつもりは無かった。だが何度も留守電にメッセージが入り、耐えきれなくなったなまえが叔父の電話を取った時のことだ。
「…お前の借金のようなものだと。払えないなら自殺してやる、と騒がれまして…」
「とんでもねぇな…」
「これを払ったら金輪際連絡もしないし、会うこともないと言われて承諾しました。期限は三ヶ月、叔父の口座に振り込む予定になっています」
「それで副業か…」
「…無視すれば良いのも、私に払う義務が無いのも分かっています。でもあの人たちが私に何かしてやったと思っていることも嫌なんです」
「なまえ…」
強い口調のなまえから彼らへの嫌悪感が伝わってきた。一人で悩み、解決しようと足掻いた彼女の強さと脆さを感じ取って優しく抱き締める。
「…そんなクソみてぇなクズどものためになまえが頑張る必要ねぇよ」
「でも…」
「ちなみにいくらなんだ」
躊躇いつつもなまえが告げた金額に眉を寄せる。そこそこ大きい額に、利息が膨らんだのだろうと推測した。
「これ以上お前が自分を酷使するのは見てられねぇ。俺が代わりに用立てて…」
「駄目です!」
きっぱりと首を振ったなまえの勢いに驚いたのか、目をしばたかせるリヴァイ。それだけはどうしても首を縦に振ることは出来ない。
「リヴァイさんのお金はリヴァイさんが一生懸命働いて稼いだお金です。そんな大切なものを、私の不始末に当てることは出来ません」
「…だが」
「それに、本当は私の貯金を全額使えば完済出来るんです。でも…さすがに貯金がゼロになるのは怖くて、それで副業をして足しにしようかと…」
言いながら段々と頭が下がってしまう。一流の外資系企業で働いているリヴァイからすれば、なまえが副業で稼いでくるお金も雀の涙のようなものだろう。
「お前のその責任感の強さと堅実さは好ましいがな、そんな風に疲れ切ってるなまえを見て俺がなんとも思わないと思うのか」
「リヴァイさん…」
「本当ならそのクソ叔父どものところに乗り込んでいって、俺が話をつけてもいいんだぞ」
「そんなっ…リヴァイさんにそんなことさせられません!」
「それをするとなまえに余計な被害が出るかもしれねぇから我慢するが。それでも胸糞悪いことには変わりはねぇ」
「…ごめんなさい」
しょんぼりと項垂れてしまったなまえをしっかりと抱き締め直す。どうしたら彼女を説得出来るのか頭をフル回転させながらゆっくりと口を開いた。
「…その入学金の借金をなまえが払うことは変えられねぇんだな?」
「はい…これであの人たちと縁が切れるなら」
「だがこれに味をしめてまたタカってくるかもしれねぇぞ」
「そこはちゃんと伝えてあります。この他に連絡したり、お金の無心があれば警察に行きますと」
「…そうか」
「リヴァイさん、家庭教師の方も今はテスト期間なので週三回行ってるだけなんです。だからあと一ヶ月半だけ…」
「だが相手は男だろ」
「えっと…?生徒ですか?」
「…そうだ」
「男と言っても…中学生ですよ?」
「ガキでも男は男だ。チッ…せめて女の生徒にしろよ」
「そんなこと言われましても…」
予想外の苦言に呆気に取られてしまう。
不機嫌そうな固い表情を崩さないリヴァイは本気で苛ついていた。中学生だろうとなんだろうと、なまえが密室で男と二人きりなど許せるはずもない。
「しかもメールまで交換しやがって。ネックレス忘れるだなんて、どんな状況だ」
「ネックレスの留め具が外れかかってたので取っただけですよ。メールは予定の調整とか、問題で分からないところがあった時のためにです」
完全にふて腐れたリヴァイに丁寧に一つひとつ説明していくなまえの表情は緩んでいた。まさか中学生の男子にリヴァイが嫉妬するとは、驚く反面嬉しさが込み上がってくる。
「…テスト期間が終わったら家庭教師はやめろ。あと土日の採点バイトも今すぐやめるんだ」
「でもそれだとお金が…」
「俺が用立てるのが嫌なら、貯金から全額払っちまえ。暫く食費や携帯代は俺が払う。その分も貯金に回せるだろ」
「何言ってるんですか…!リヴァイさんのお金を使うわけにはいきませんっ。それに、何かあった時のために多少は貯金も残しておかないと…」
「何かって…なんだ?何を心配している」
「例えば私が働けなくなった時の生活費とか、入院したりした時の病院代とか…あとはその…考えたくないですけど、この家を出なきゃいけなくなった時の引越し費用とか…」
「…あ?」
一気に眉間の皺を深くさせたリヴァイにしまった、と慌てるなまえだがもう遅い。ぐいっと両頬を片手で掴まれ、むにむにと揉みしだかれる。
「りばいひゃんっ…」
「ふざけたことを言うのはこの口か?二度とそんな戯言を言えねぇようにずっと塞いでやろうか」
「ごっ、ごめんなひゃい…!」
「ったく……」
漸く離された頬はヒリヒリと熱を持っていた。ぎろりとなまえを横目で見遣るリヴァイの視線にビクッと背筋を伸ばした。
「あのな…俺は生半可な気持ちでなまえと同棲してるわけじゃねぇぞ」
「それは…分かってます、けど…何があるか分からないじゃないですか」
「もしなまえが入院でもしたら俺が全部面倒見てやる。働けなくなっても同じだ。それに俺からなまえを手放すことは絶対にねぇよ。…お前は違うのか?もし俺が働けなくなったら愛想尽かして出ていくか?」
「まさかっ…!そんなことあるわけないじゃないですか!」
「俺もお前と同じ気持ちだ。有事のために金を残しておくことは大事なことだが、今回の悩みに関しては別だ。本当はクソ野郎のためになまえが金を使うのも腹が立つが…」
「リヴァイさん…」
「とりあえず家庭教師と採点のアルバイトは必要最低限にしろ。それでも足りない分は俺が出す。異論は認めねぇ」
「…はい。ありがとうございます」
腕を組んで言い切ったリヴァイの迫力に負け、おずおずと頷いたなまえを満足そうに見下ろした。
「…男の家庭教師なんざ許せるわけねぇだろ」
「リヴァイさん、中学生ですって」
「中学生のアホさを甘く見るんじゃねぇ。女を見ればエロいことしか考えねぇ年だぞ?」
「ふーん…リヴァイさんもそうだったんですね?」
スッと目を細めたなまえに揶揄されて言葉を詰まらせる。誤魔化すように柔らかい身体を再び抱き締めれば、ゆっくりと背中に手が回った。
「…心配掛けてごめんなさい」
「全くだ…。寿命が縮まったぞ。これから叔父関係のことは全部俺に相談しろ。何があるか分からねぇからな」
「はい。でもまさか…リヴァイさんに浮気を疑われるとは思っていませんでした」
「…疑ってたわけじゃねぇよ」
バツが悪そうになまえの髪に顔を埋めたリヴァイが背中を優しく撫でてくれる。なまえの身体を覆う暖かさと安心感に、一気に眠気が襲ってきた。
「眠いか?風呂、頑張れるか?」
「は、い…」
うつらうつらと船を漕ぎ始めたなまえが何とか返事を返すが、動けそうにないのは明白だった。その身体をゆっくりと抱き上げたリヴァイが優しく揺らした。
「仕方ねぇな…。俺が入れてやる」
「ん……お願い、します…」
いつもなら照れて絶対に拒否する申し出をあっさり受託したなまえに、気付かれないよう微かな笑みを浮かべた。恐らく自分が何を言っているか分かっていないようだが、言質は取ったのだ。あとはリヴァイの好きにさせてもらうことにする。
「…リ、ヴァイさん…?」
「ん…?」
とろんとしたなまえの瞳がリヴァイを捉えた。僅かに揺れるそれは、何かしらの不安を表していた。
「ずっと…一緒にいてくれますか…?」
「…当たり前だろ」
甘く答えた返答とちゅっと額に落としたキスに安堵したように、なまえの瞳がゆっくり閉じられる。間もなく聞こえてきた穏やかな寝息が、リヴァイの心を暖かく灯した。
「離れる気も離す気もねぇってこと、いつになったら理解するんだろうな…」
思わず溢した小言にすら甘さが乗っているのを自覚した。遠慮がちな性格も、リヴァイの愛情に対して自信を持ちきれないなまえの弱さも、全てひっくるめて愛し抜くことを決めている。
しっかりとなまえを抱え直したリヴァイの小柄で逞しい背中が、風呂場の扉の奥に消えていった。
-fin