土方さんは、映画のエンドロールの時には既に起きていた。
「面白かったか?」
平日なだけあってがら空きの映画館に、土方さんの低声はやたら大きく響いた。
「えっと…楽しかったです。迫力満点で」
「そうか。そりゃよかったな」
ふっと笑みを洩らす土方さんから、慌てて目を背ける。
これだけはなかなか慣れない。
「腹減らねえか?」
シネコンを出たところで、土方さんに聞かれた。
「お腹…空きました」
「よし、じゃあ飯食いに行くか」
「はいっ」
僕はいそいそと土方さんの後について行く。
「何か食いてぇもんあるか?何でも、お前の好きなもんでいいぞ」
「うーん…イタ飯?」
「じゃそうするか……総司はパスタが好きなのか?」
「や、別にそういうわけじゃないんですけど、そういう気分、です」
「そうか。これからお前の好物とか、いっぱい見つけねえとな」
そう言って微笑む土方さんは、狡いくらいに格好良かった。
それからモール内のイタ飯屋に入って、ゆったりとしたテーブルに腰を落ち着けた。
施設にいたのなんて、大昔の話みたいだ。
昨日まではそれが当たり前で、これからもその生活が永遠に続いていくんだろうと思ってたのに。
こんなに急に何もかも変わってしまうと、この幸せだって、同じように跡形もなく消え去ってしまうんじゃないかと不安になる。
「疲れたか?」
黙って俯いていると、土方さんが聞いてきた。
「そんなことないです。すっごく楽しかったし……それに、すっごく幸せ」
土方さんは、その紫紺の瞳をうっすらと細めた。
「幸せ、か」
「うん……幸せすぎて、怖いんです。この幸せが崩れた時、僕はそれに耐えられるだろうか、って。また捨てられることは…ないと思ってます……けど」
土方さんは微笑した。
その笑みだけで、何だかホッとしてしまう自分がいる。
「心配するな。俺は出来るだけお前を幸せにしてやりてえと思ってるから」
「ありがとう…ございます」
僕は運ばれてきたジュースをちゅうちゅう吸った。
「まぁ…色々不自由させることもあるだろうが……仕事はそれなりに忙しいし、大体、お前はきちんと両親がいる家庭に行きたかったかもしれねえよな」
土方さんは、深々とため息を吐く。
僕は驚愕して目を見開いた。
「そんなこと…思ってたんですか?」
「あぁ。俺が強引に引き取るなんて言っちまったからな……意外か?」
「僕は……ワガママだから」
「ん?」
「ワガママだし、嫌なことは絶対に嫌がる質だから。もし土方さんのことが嫌だったら、もうとっくに逃げ出してますよ?」
施設だって平気で逃げ出す奴だから、と言って僕は笑った。
「あぁ、そう言われてみりゃそうだったな」
土方さんは少し安堵した様子だった。
「本当に…感謝してるんです……土方さんが僕を欲しがってくれなかったら、僕、本当に一人ぼっちだったし…………どうしたらこの感謝の気持ち伝わりますか?」
「はは。総司、何もしねえでも伝わるのが家族ってもんだろう」
「……」
「総司こそ、俺ンとこに来てくれて、ありがとな」
「……」
今更ながらに恥ずかしくなって、慌ててジュースを啜る。
「…あの、」
「なんだ?」
「土方さん、随分とモテてましたね」
少しむくれて言ってみると、何だそんなことかと土方さんが苦笑した。
「女子高生ってのは、みんなあんなもんなのか?俺も閉口しているんだが」
「そんなの僕が知りたいですよ……まぁ、そのルックスじゃ仕方ないのかもしれないですけど」
僕が溜め息混じりに言うと、土方さんは意外そうな顔をした。
「お前もそういうことを思うのか」
「思いますよ?」
そのまま土方さんのことをじーっと見詰める。
「何だよ、そんなに見るなよ」
土方さんが照れたように言うもんだから、可笑しくなって、僕は思わず笑った。
「あ、ほら。料理来たぞ」
土方さんに言われて、僕は注意を運ばれてきた食事に向けた。
「うわぁ!美味しそ!」
土方さんは、僕が喜ぶのを見て顔を綻ばせた。
沢山食えと言って、ピザやらパスタやらを取り分けてくれる。
「ん!おいしーい!」
「お前…随分と美味そうに食うんだな」
「だって美味しいもん」
「そうかよ」
こんなに楽しくて美味しい食事は、生まれて初めてだと思った。
特に何を話したかは覚えていないものの、幸せな気持ちだけは色濃く残っている。
夢みたいだと思った。
いや、実際にこれは夢で、起きてみたらまた元通り施設の剥き出しの天井が見えるんじゃないかと思うと、心が冷え冷えした。
*
談笑をしながら食事を終えて、また車で土方さんの家へと帰る。
既に懐かしい場所となっていた土方さんの家は、僕が施設に連れ戻された時と何も変わっていないように見えた。
けど。
「今日からここが総司の家だからな」
そう言われると、他人としてお邪魔していたあの時とは、確実に違う場所に感じられる。
「一応お前の部屋も用意しておいたんだが」
そう言って、物置だったらしい六畳ほどの部屋に案内された。
「ここ、僕の部屋?」
「あぁ。けどまぁ、次の休みにでも、家具を買いに行かねえとな」
部屋をぐるりと見回したが、作り付けのクローゼットと、土方さんが使っていたらしい本棚の他には何もなかった。
「勉強するならリビングのテーブルとか、俺の書斎だって使って構わねえんだけどな」
それから、ベッドが来るまでは布団を敷けと言われた。
「もし一人で寝るのが嫌なら、俺の部屋で寝ろ」
「え?…あ、うん」
今まで施設ではずっと一人で寝ていたわけだし、別に一人で眠れないわけじゃないけど。
土方さんがそう言うなら、土方さんの部屋で寝てもいいかな、と思う。
「今何か飲み物用意する。何がいい?」
「カフェオレがいい…甘いやつ」
「ん、分かった」
あの朝飲んだカフェオレが、つい懐かしくなった。
実はそんなに甘くなかったんだけど、あのほろ苦さが無性に恋しくなったんだ。
僕は土方さんを、リビングのソファに座って待った。
「総司」
名前を呼ばれるのにも大分慣れた。
土方さんは僕にカフェオレのコップを渡してくれて、その後ぼすっと僕の隣に腰掛ける。
土方さんもあの時と同じように、ブラックコーヒーを飲んでいた。
「ねぇ、土方さん」
「ん?」
僕は、映画を見ている時からずっと考えていたことを言ってみた。
「僕、今まで15年も家族がいなかったわけ…でしょ?」
「うん」
「だから、家族っていう概念自体よく分からないし、どういう風に接したらいいのかも分からないし、間違ったことをしちゃうかもしれないし、そもそも何が間違ったことなのかも知らないと思います」
突然饒舌になった僕の話を、土方さんは黙って聞いてくれた。
そう言えばあの時―――僕の身の上話をした時も、土方さんは黙って聞いてくれたなぁと思い出す。
「あの、だからね、僕、慣れるのに時間がかかると思うし、それに、土方さんのこと、家族って思えるようになるのか、よく分からなくて……あ、これ別に悪い意味じゃなくて、あの…根本的な認識の問題で…」
上手く説明できない僕を、土方さんがやんわりとフォローしてくれた。
「伝わってるから大丈夫だ。お前がそう思うのは当然だよ」
「あ、ありがとうございます……」
でね、と僕は続ける。
「本当は土方さんのこと、お……お、義父さん………とか呼ぶべきなのかもしれないけど、それもまだ……分からなくて……父親がどんなもので、どういう関係を築くものなのかも、僕、知らないんです…よ、」
「あぁ」
「あ、あのっ、土方さんのことは好…嫌いじゃないし、感謝してるし、良い人だと思ってるんだけど、」
「っは…随分と持ち上げるじゃねえか」
「でも、それって、父親に抱く感情、なのかなって…思って……」
「んなもん俺だって知らねえよ。家族は絶対こうあるべきだ、っていう決まりなんざねぇし、人それぞれでいいんだよ」
「うん……」
急に黙ってしまった僕を、土方さんは優しく諭してくれた。
「あのな、俺は言った通り家族とは疎遠だし、父親にどんな感情を抱いてたかと聞かれて、まともに答えられる気もしねえ。けど、あれはあれで一つの家族の形なんだ」
「ん…」
「家族なんてな、知らずに出来上がってるもんなんだよ。作ろうとして無理することはねえし、むしろ作られた家族なんて酷いもんだ。ほら、家族じゃない人との付き合いの方が、よっぽど家族らしかったりするだろ?」
「家族らしい…?」
「あー……まぁ、家族らしさ自体が、定義付け難いもんなんだ……だからな、お前は一切無理しねえでいいんだ。焦る必要もねえし、我慢する必要もねえんだよ」
「うん…」
僕は土方さんの顔を伺う。
土方さんは困ったように笑って、僕の頭を撫でてくれた。
その感覚がこそばゆくて、思わず僕は身を捩る。
「ま、俺もお前も初心者っていう点では変わらねえんだから、これからゆっくり家族になっていけばいいさ。家族なんて、一緒に築くものだろう?」
「そ、ですね」
「だから、お前は俺のこと、土方さんでもトシさんでも好きなように呼べばいいさ。慣れるまで、な。いきなり父親だと思われるのは、俺も慣れねえし」
「うん」
「大体、家族が何かわからなくたって、幸せならそれでいいじゃねえか」
土方さんの言葉は、じーんと胸に染み渡るものだった。
やっぱりこの人と出会えてよかった、と心から思う。
「さ、疲れただろ。早く風呂入ってこい」
だけど、僕からコップを取り上げて風呂へと急かす土方さんは、やっぱりちょっと過保護だった。
風呂を上がったらきちんと身体を拭けだの、髪はしっかり乾かせだの、喉が渇くから水を飲めだの……
たかがお風呂に入るだけでこんなに色々言われたらうるさいと思うけど、嫌な気はしないから不思議だ。
土方さんともっと近づいて、もっと仲良くなってやる。
僕は、湯船に沈みながら決心した。
2011.08.02
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