特別なことを忘れることで無意識のうちに成立するのを日常と呼ぶんだから、生きてることが特別だ、なんて意識し始めたら、もうそれは日常じゃないと思う。
非日常だ。
重力の働きを一々感じたり、毎日太陽が東から登ることに安心し出したら、それはもう日常生活が脅かされていると言っていい。
人間は、無意識になればなるほど安心を手に入れている。
自分でも気付かないほど、当たり前すぎる安心を。
つまり僕は……生きていられるだけで幸せかも、なんて思ってる僕は、もうとっくに当たり前の日常を失ってしまったということなんだろう。
今はただ、逝くことがひたすら怖い。
死後の世界には何が待っているのだろうか。
安寧か、それとも虚無か。
死んでも尚意識や自我は存在しえるのだろうか。
そういうことを考えているうちに、恐怖から抜け出せなくなってしまう。
だったらもう考えるのはやめよう。
そう思って黙って壁や天井を睨んでいれば木目が勝手に動き出し、それが嫌で目を閉じればやがて眠ってしまうものの、大抵は大汗をかいて悪夢に飛び起きるのだ。
その日は天気が良かった。
昼間は落ち込んだ気分も少しはましになる。
傍に誰かがいなくても、人のざわめきや、商人が品物を売り歩く声が聞こえてきたりして、何となく孤独を誤魔化せるから。
天井とにらめっこはしたくないし、かと言って眠りたくもなかったから、僕はそこはかとなく庭を見つめていた。
紋白蝶がひらひらと舞っては花の上で羽を休め、花から花へと花粉を運んでいく。
「総司」
珍しくも来客があった。
「土方さん」
掠れた声で名前を呼べば、彼はゆっくりと僕の体を起こして湯のみの水を飲ませてくれた。
「体の調子はどうだ?」
「最近はいいんですよ。死ぬ前に、残った元気を全部使おうとしてるんでしょうね」
無理やり笑ってみせると、彼は紫紺の瞳を悲しみに染めた。
「……そんな顔、させたいわけじゃないです」
病人特有の卑屈さが、最近では抑えきれなくなってきていた。
ただ、苛立ちをぶつける相手もいないから、たまにこうして見舞ってくれる彼に全てをぶつけてしまう。
何もかも一人で背負い込んで、これ以上心にゆとりなんてない、むしろ支えてあげなければならないはずの、土方さんに。
甘えているんだなぁと、他人事のように思った。
でもそれももうお終いか。
「今日は夜までいられますか?」
元通り寝かせてもらいながら聞けば、土方さんは優しく微笑んだ。
「今日はここに泊まらせてもらおうと思ってな。見ろ、色々持ってきたんだ」
そう言って風呂敷を広げ、几帳面に畳まれた手拭いや着替えを取り出してみせる土方さんは、しかし少しも嬉しそうではなかった。
そうか、もう最後なんだなぁと、それで僕は悟った。
「いいんですか?副長が新選組をほったらかして」
「いいんだよ。斎藤や島田に宜しく頼んできたからな」
一君も島田さんも、皆が羨ましい。
患って初めて知ったことがある。
強さは何にでも勝つと思ってきたけど、強いだけでは僕の欲しいものは手に入らなかった。
今更もう遅いけど。
「元気なら、風呂にでも入れてやろうか。暫く入ってないんだろう?」
首元のスカーフを緩めて抜き取りながら、土方さんが言う。
「いつも手拭いで擦ってもらってますよ」
「そうか。あのばあさんじゃ、さすがに風呂の世話まではできねぇよな」
「でも、ご飯はとっても美味しいし、誰かさんと違って怒鳴りもしないし優しいです」
「その様子だと、本当に元気らしいな」
土方さんはホッとしたように表情を和らげた。
それから上着を脱いで、風呂炊きをしてくると言って部屋から出て行く。
はぁ、と溜め込んでいた息を吐いた。
僕は今まで、数々の土方さんの嘘を飲み込んできた。
辛くない、大丈夫だ、俺に任せておけ、近藤さんは無事だ。
気付かないふりをすることでしか、僕は土方さんを守れなかったのだ。
残されたスカーフと上着を引き寄せて、そっと顔を埋めてみる。
僕の知らない戦場の匂い。
ところどころ、刀で斬られたような穴が開いている。
今までの僕の人生には、常に土方さんがいた。
嫌いだろうが好きだろうが、感情には関係なくずっと傍にいる人なんだと思っていた。
その絶対的な安心感が揺らいで、今日で消えてしまう。
そうしたらもう二度と、僕たちの道が交わることはないだろう。
これからは、僕の知り得ない土方さんの人生が始まる。
それを僕は、死後の世界から見守ることができるのだろうか。
「総司、風呂が沸いた…ぞ」
突然戻ってきた土方さんは、自分の服に顔をうずめている僕に戸惑ったらしく、暫く襖のところに突っ立っていた。
それから静かに歩み寄ってきて、僕から上着をやんわりと離した。
「コイツは暫く洗えてねぇからな。汚ぇぞ」
土方さんは何事もなかったかのように立ち上がると、箪笥から着替えを取り出して僕に持たせた。
自分は軽々と僕を横抱きにして、ゆっくりと風呂へ歩く。
僕には横抱きは嫌だと抵抗する力も気力もなかった。
せっかく土方さんより成長した体も今ではすっかり痩せ細り、背丈も縮んでしまったのか、土方さんがやたら大きく見える。
まるで、宗次郎に戻ったようだ。
土方さんは重みのなさに対する悲しみを押し殺しているのか、奇妙なしかめっ面を保ちながら僕を抱いていた。
脱衣場で僕の着物を脱がせ、自分は着衣のまま風呂場に入る。
着物と違って、洋服には襷(たすき)も必要ない。
土方さんは桶に熱い湯を汲んで、僕の体をゴシゴシと洗ってくれた。
浮き出た肋や腕の筋に一々顔を歪めながら、動揺を押し隠して労るように手拭いで擦ってくれる。
僕は寝ているだけだし、本当は、疲れ果てているはずの土方さんの方こそ洗ってあげるべきなのにな、なんて思いながら、それでも今日のところは土方さんに甘えておくことにした。
もう、甘えることすらできなくなるしね。
背中を流してもらい、湯船に浸かって、土方さんに湯加減を聞かれながら、僕は必死で涙を堪えた。
「気持ちよかったか?」
お風呂を出ると、頭を拭きながら土方さんに聞かれた。
「具合悪くなってねぇか?」
僕は濡れた体のままで土方さんに抱き付いた。
「うおっ……総司、どうした?」
返事の代わりに抱き付いた腕に力を込める。
「ん…大丈夫だ。今日は一日一緒にいる」
だからとりあえず服を着ろ。
土方さんにペシンと頬を叩かれて、僕は何とか気を保つことができた。
最後の一日をどうすごそうか散々迷ったが、土方さんは何を思ったか、近所の子供たちから面子や剣玉を借りてきていたらしく、試衛館で暇していた時のように一緒に遊んでくれた。
きっと土方さんも、たった一日だけ、日野にいた、副長でも武士でも何でもなかったあの頃に戻りたかったんだろう。
今までずっと、自分の信念のために前を見て、前に進むことしかしてこなかったから。
これからもそうあり続けるために、どうしても今日が必要だった。
近藤さんもいない今、ただの土方歳三に戻れるのは僕といるときぐらいだろうからね。
僕だけにできること。
そんな特別性が、今日ほど嬉しく思えたことはなかった。
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