カウンター席にスーツを着た男性客がひとり座っているのを除けば、マスターの店は今朝となんら変わりがなかった。
「侑士、彼が来たよ」
 滝が男に声をかけた。
「ああ」
 低く、艶のある声をもつ男が俺たちに振り返る。
 もし自分が人間の女だったら、一瞬で恋に落ちそうな笑みを男は浮かべていた。
「良かった、会いたかったねん」
 男は組んでいた長い足を床に下ろすと、磨かれた革靴で床を鳴らしながらこちらに近付いてくる。肩まである黒髪は少し野暮ったいが、背の高さも肉付きも顔立ちも、文句のつけようがないくらいにイイ男だ。
「滝から話は聞いたわ。今朝は助けてくれてありがとうな、若」
 そう言うと男は右手を俺に差し出し、白い歯を見せた。
「Y、1015?」
「そうや」
 拾った時は、顔だけ良くて品の無いモデルだと思ってたのに…
 俺は自分の予想が外れた恥ずかしさに顔を顰めて、その手を握った。
「俺の事は侑士って呼んでな」
「はい、Y-1015」
「…こいつ、モデルなのにテンネンかいな滝?」
「うん。可愛いだろう?」
 テンネンってどういう意味だ?と思って滝に顔を向けると、「侑士の服は、マスターのおさがりなんだ」と全く関係の無い言葉が返ってきた。
 くっくっと笑って、握った手をなかなか離してくれない男を見上げると、俺は自分が馬鹿にされていることにようやく気付いた。
「離して下さい」
「ああ、すまんかった」
 払うように手を離し、俺は踵を返した。
「じゃあ、帰る」
「ほな俺も」
 くっ、と左手を後ろに引っ張られるような感じがしたかと思うと、掌にかかっていたビニール袋の圧力が無くなった。
「なっ?!」
 奪われた袋を取り返そうと手を伸ばしたが、俺よりも10センチ近く背の高い男は、それを俺の手が届かないほど上に持ち上げた。
「何をするんですか!」
「お前、俺のご主人様になってくれへんか?」
「はあっ?!」
 男の発言を聞いた滝が、カウンターの中で爆笑する。
 俺が、こいつの、ご主人だって?
 冗談だろうと思って見上げるも、男は落ち着いた穏やかな顔で、俺を諭すように理由の述べた。
「俺、Yナンバーやから特定のご主人様は作らへん主義やったけど、もう人間のオンナには懲り懲りしたわ。せやから命の恩人でモデルのお前に、ご主人様になってもらう」
「冗談じゃない!」
 だいたい、下僕にしろ奴隷にしろ、それを決めるのはあくまで主人であって、下から逆指名だなんて…
 いや、問題はそういうことではなく!
「俺には、マスターと亮さんがいる。だからアンタの主人にはなれない!」
「じゃあ、俺もマスターと亮って人間のモデルになるわ。ご主人がネコやったら、夜のお相手もしてやれるしなあ」
 にんまりと、男は笑った。
 それは俺をHナンバーと知っての事なのか。
 ただの家事専用として作られたため、性別を与えられなかった俺たちの事を。
 俺は作り物の男性器がある男の股間を蹴り上げた。
「うおおおおっ!!」
 感覚神経が通っているのか、男は袋を床に落とし股間を押さえ、悶絶した。
「若」
 もう笑うのを止めていた滝が呼びかける。
「いまのは侑士が悪かったよね」
 淋しい目をした滝に、俺は頷いた。
 どんなにマスターを慰めたいと思っても、俺たちは家事をするために作られたこの腕で、ただ優しく抱きしめる事しかできない。
 それ以上の慰めを、人間にしてやれることができない。
 その歯痒さを、こいつは知らないんだ。
 偽物でも性器をもったこいつには。
「何でこんな…俺のなにが悪いねん?」
「侑士の特異性能は俺たちHナンバーの劣等感を刺激する、ってところがだね」
「帰る」
「うん、気を付けてね若」
「ああ、ちょお待ち!」
 床に落とした袋を持ち直して、俺は今度こそ店の外に出た。
 俺は酸性の雨の中を、傘もささずに走る。
 余計な道草をしてしまった。もう彼は目を覚ましてしまっただろうか?
「待ちや、若!!」
 バシャバシャと水溜りのはねさせながら、Y-1015が俺を追いかけてきた。
 俺は大通りを曲がって、入り組んだ路地を右へ左へ走って逃げる。
 男もしばらくは追ってきたが、やがて見失ったらしく、後ろから足音が聞こえなくなった。
 後ろを振り返り、男の姿がないことを確認して嘆息する。あんなの拾うんじゃなかった、と。
 俺は見たことのないアパートの軒先を少し借りて、目を閉じ、地図を開いた。
 この辺りは本当に入り組んでいて、自分がどこにいるのかは把握出来ても、そこからアパートまでの最短コースはすぐに割り出せない。
 ネットに接続。民間のグローバル・ポジショニング・システム…GPSにアクセスして、現在地と目的地の照合。直線距離は3.02km。ずいぶん脇道に逸れたようだ。それから2、3分待つと、現在地から目的地までのコースが数十通りひかる。最短コースとされたものだけをダウンロード。残り20秒…10…0。接続を切る。目を開けた。
『目的地まで、3.68kmです』
 視界の右上に、小さく赤文字で書かれたメーターと右向きの矢印が現れる。
 俺は傘を開いて手に持つと、矢印の差す方向へ歩き始めた。





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