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先ほどのマスターのイタズラ未遂で、機嫌を斜めにした彼は、滝が帰ってくるのも待たずに帰ろうとしていた。
「カウンターにメモ紙残しておいたから、コイツは明日取りに来ようぜ?」
彼はしゃがむと、玄関先で眠ったように停止しているY-1015の肩をポンポンと叩く。それからY-1015の端正な顔をじっくりと見つめた。
「さっきナンバー見たんだけどよ。これがあのYナンバーなんだな…」
「そうみたいですね」
俺は床にあったトートバッグを拾って、中に入っていた雨合羽を広げる。
「なあ若。お前だったら、俺とコイツとどっちの方がいい男に見える?」
「さあ。俺には何とも」
「あーでもコイツって、女専用のセクサノイドなんだよな?だったら客の基準が違うか」
そもそも人間とモデルという違いがあるのだから、比べるまでも無いと俺は思ったが、彼のそういうところは好きなので黙っていた。
彼は立ち上がって、俺の広げた雨合羽に腕を通す。ボタンを上から1つずつ留める間、俺は彼の自慢の長髪が濡れないように、しっかりと2重になった帽子を被せた。
店のドアを開けると、雨はまた酷くなっていた。
俺は傘を1つ開いて彼に渡し、もう1つの傘を開いて自分に翳した。
「そういや、冷蔵庫って、何か入ってたか?」
俺の前を歩き始めた彼が、いつ止むともしれない厚い雲に覆われた空を見上げながら尋ねてきた。
「水とパンとチーズとハムと、シャルトリューズ・ヴェールがありますよ」
「じゃあ買い物は、雨が止んでからでもいいな」
この雨は今日止むのか、明日止むのかわからない。でも今日も明日も、予定の無い彼は嬉しそうにそう言った。
彼は1度の仕事で、1週間は不自由しないほどの金を稼ぐ。
彼の仕事は一般的に好まれず、秘密裏で、場合によっては命をとられかねないものだから。
それでもマスターの元で仕事をする前は、もっと金に不自由せず、そしてもっと危険なことをしていたらしい。
俺にはどうして、彼がわざわざ自分の身体を売る仕事を選んだのかわからない。けど、
「俺の寝ている間に虹が出たら、ちゃんと起こせよ若?」
出会った頃よりも笑うようになった彼は、不幸せのようには見えなかった。
***
家には7時前に着いた。
彼はさっとシャワーを浴びると、何も身に付けないままベッドに潜って、直ぐに安らかな寝息を立て始めた。一度寝てしまうと、多少周りがうるさくても起きないタイプだ。
それでも、彼が帰ってきたのが嬉しくてベッドに飛び上がる犬たちを抱き上げ、お腹が空いたと鳴きながら足元に絡んでくる猫たちに餌をやり静かにさせる。
冷蔵庫の水を少し飲んだ後、ダイニングテーブルに置かれたノートパソコンを開いて、こいつらの里親になりたい人からのメールが届いていないかをチェックした。
いま、彼と俺が拾ってきた野良の数は、犬が2匹と猫が3匹。どれも生後1年前後で、非常に元気がいい。仲良く遊びもするけど、よく喧嘩をして走り回る。
里親探しのために、ホームページを開けと命令したのは彼だった。
彼は野良犬や野良猫の保護を目的としていて、飼育に対して意欲的ではない。
『俺は、雨の日に捨てられて、虹の日に拾われたんだよ』
なぜ雨の日にばかり野良を拾ってくるのか尋ねた時の、彼の答えだ。
昔の事だったのか、それとも最近の事なのか。俺はそれ以上何も聞かなかった。
彼に言われた通りに、俺は雨の日にずぶ濡れになった犬や猫を連れて帰ってくる。泥のついた冷たい体をぬるま湯で綺麗に洗い、ふかふかのタオルで乾かす。缶詰の柔らかい餌をあげて、温かい寝床に寝かせる。それからデジタルカメラに写真を収めて、ネットで里親を探す。
『可愛いと思ったら、手離せねえからな』
ある日ベッドの上で丸くなって眠る子猫の背を、彼はそう言いながら撫でていた。その仔の新しい飼い主は、既に決まっていた。
3件の里親志願者にメールを返信して、パソコンを閉じる。
***
雨は夕方になってもしとしとと降り続けて、彼も昏々と眠り続けた。
今日はもう虹が出そうになかったので、俺は枕元に「餌を買いに行ってきます」と書き置きをして部屋を出た。
今朝、彼に着せていた雨合羽を纏い、傘をさして通りを歩く。
行きつけの量販店まで片道30分。袋いっぱいに犬猫用の缶詰と、冷凍のマルゲリータを数枚買ってそこを出た。
帰り道。マスターの店の前を通ると、ドアの前で滝が人の見送りをしているところだった。
「遅くまでありがとうございました」
「んーん。珍しい物をいろいろ弄れて、チョー楽しかったよ!」
「それは良かった…あれ、若?」
「こんばんは。今朝はどうも」
こちらに気付いた滝に、俺は挨拶を返す。
すると見送られている人が、くるりとこちらを振り返った。
金色の天然パーマに、好奇心に溢れた瞳。雨の日でも縦縞のハーフパンツを履いているその人は、ロボットマニアの機工師、ジローだ。
「H-1205!」
ジローは両手をいっぱいに広げると、俺に向かって突進し、抱きついてきた。
「うわー!チョー久しぶり!元気にしてた?!どっか悪いところ無い??」
袋を両手を塞がえれている俺は、荷物とジローを落とさないようによろけながらバランスをとる。会う度にこの人はこうして俺に抱きついては、顔やら身体やらをあちこち触ってくるため、俺の中で対応方法がマニュアル化されていた。
「お久しぶりです。ジローさん、申し訳ないですが、今のところどこも悪いところはありません」
「えーそうなのー?つまんなーい」
俺の返答に、ジローさんは子供のように口をすぼめて身体を離す。毎回のパターンだ。
「ところで、ジローさんが帰るということは、Y-1015は直ったのですね」
「うん。もうバッチリ、調子イイよ!それよりも、ありがとうH-1205。君がアレを拾ってきてくれたんだってね?Yシリーズは今まで見たことも触ったこともなかったから、弄りがいがあったよ!!Yは、君たちHやアイエスのKに比べると…」
普段は眠たい顔をしているのに、ロボットに関わると目を見開いて快活、饒舌になる。
Yシリーズは女性専用のセクサイノイドのため、性交渉に関しての様々な知識を保有していて、それに欠かせない必要な部位を身体に取り付けられている。
家事手伝い用に開発されたHやKに比べ、日常生活能力は極端に低いが、会話能力はYの方が上。おしゃべり好きの女性には、値段は張るもののかなり人気がある、らしい。
「股間のところなんて、大人の男そのもの!色も形も長さも、男から見ても理想的でねー文句のつけようがないって感じ」
嬉々として説明をし続けるジローに、俺は困って滝に目を向ける。
「ジローさん、外に長居していると風邪をひきますよ?俺たちと違って人間なのですから」
意図に気付いた滝が、やんわりとジローに話し掛けた。
「あ、そうだね。雨降ってるのにこんな格好でいたら風邪ひいちゃう〜じゃあ、またなんかあったら呼んでね!バイバイH-1029、H-1205」
滝の広げた傘を受け取ると、ジローは手を振って俺たちから離れた。
ふー…と漏れた溜め息の後、滝が「折角だから、ちょっと彼の様子を見ていかない?」と、俺を店の中へ誘った。
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