古ぼけたアパートメントが林立する通りを走り抜けると、大きな川が目の前に広がる。
 ゴウゴウと、泥水の流れる音がノイズのように聞こえる。ここよりも、川上の方が雨が酷いのかもしれない。
 左肩のY-1015を抱え直し、俺は急いで橋を渡る。既に到着予定時間より3分過ぎていた。
 橋を渡りきった先にそびえる摩天楼。ニューヨークのマンハッタンをモデルとして作られた、ウォーターフロント都市「極東(きょくとう)」は、政治・経済・風俗の中核として発展している。
 夕闇に近い朝にも関わらず、車も人も既に動き始めていて、信号機が忙しなく彼らの交通整備をしている。
 耐酸布で作られた傘を差し、足元の真っ黒いアスファルトを見て黙々と歩く人々とぶつからないように気を付けながら、俺はずぶ濡れになって走る。
 待ち合わせのコンビニエンス・ストアにようやく着くと、雑誌コーナーで立ち読みをしているあの人の姿が見えた。
 漆黒の長髪を後ろで軽くまとめ、黒いタンクトップにサックス色のカーディガンを羽織っている。読んでいる雑誌が大した面白くないのか、左手が胸元に下がった銀の十字架を弄んでいた。
 ずぶ濡れで、しかもY-1015を抱えたまま店に入れないと思った俺は、欠伸をしたその人の前に立ち、ガラスを軽く叩いた。
 すると、あの人は立ち読みをしていた雑誌から顔を上げ、キッと目を釣り上げ怒鳴った。
「遅っせえんだよバカッ!!」
 ガラス越しでもはっきりと聞こえる怒声で、周りにいた客や店員を注目を一気に浴びる。でもこの人は、鋭い視線で一瞥して善良な人を遠のけると、雑誌を棚に戻して、すぐに店の外に出てきた。
「若(わかし)、傘っ!」
 出入り口で仁王立ちする彼に、俺は慌てて傘を渡した。
「合羽は?」
「いい。店の帰りに着る」
 背中まである髪をカーディガンの中へしまうと、彼は傘を広げて足早に歩き始めた。
 俺はまたY-1015を抱え直し、彼の後を追いかけた。
 交通整備に従事している信号機が青であろうが赤であろうが、彼はお構いなしに道を行く。
 幸い、雨のせいで車の流れは緩やかなで、突然道路を横切る彼に、寛大で短いブザーが鳴らされるだけ。
 しかし俺は、彼のように我が道を行く事はできず、歩道を懸命に走って、信号機が青になるのをじっと待つ。そしてまた走る。
「オラッ!ちんたらしてんじゃねえっ!」
 通り2つ分ほど離れた時、彼は1度だけ振り返って俺に怒鳴った。
 何か言い返そうかと一瞬思ったけど、何も言葉が思い浮かばなかったので、代わりに頭を下げておいた。すると彼は、俺が追いつくまでその場で黙って待ってくれていた。
「すみません…」
「離すなよ」
「は?」
 何を、と聞く前に、彼は俺が右手に持っていた傘の柄を掴んで歩き出した。
「今日の客もクソだったから、早く帰って寝てえんだよ…」
 前を向いたまま、彼は吐き捨てるようにそう言った。酸性雨よりもピリピリした空気が流れる。
 俺は何を言おうか懸命に考えて、数十秒間続いた沈黙を破った。
「窓、開けておきました」
「…そうか」
 歩いている間に、雨は小雨に変わった。
 俺たちはいつもの店に到着する。
 木製の重厚なドアを開けると、内側に付けられたベルがチリンと鳴った。
「おかえりなさいませ」
 音に反応して、カウンターにいたモデルが俺たちに振り返った。H-1029。名前は滝(たき)。中性的な顔立ちと、肩口まで切り揃えられた髪が印象的。常に蠱惑的な笑みを浮かべていて、どことなくミステリアスな雰囲気を醸している。
「お疲れさまです、亮さん。モーニングコーヒーはいかがですか?」
「ああ、頼む。マスターは?」
 よほど煩わしかったのだろう。傘を閉じるよりも先に、彼はカーディガンから自分の髪を取り出した。
 俺は足元にY-1015を下ろしてから、彼の傘を受け取って畳んだ。
「マスターは奥の部屋にいますよ」
「わかった。あと、ジローは?」
「彼はもう帰って寝ています」
「ウチの若が野良モデル拾ってきた、って言って起こしてやってくんねえかな?」
「了解しました」
 話が済むと、彼は真っ直ぐに奥の部屋に向かって歩き出した。ずぶ濡れの俺とY-1015は、店の奥に入ることが出来ず、店の出入り口の前で待機する。
 ジローさんを起こしに行く為、滝がカウンターから出てきた。ギャルソンに似た制服に雨合羽を羽織って、俺たちの方へ近付いてくる。
「だいぶ濡れてきたね」
 滝はカウンターから持ってきたおしぼりを、俺の濡れた頬にあてた。
「ちゃんと拭かないと、シミになるよ」
「ありがとう」
 礼をいうと、柔らかい微笑みが返ってきた。
 滝は俺と同じ型のモデルでも、俺と違ってよく気が付き、微笑みを絶やさない。
 俺は起動した時から、愛想がなく、愚鈍で、人に気を使うのが下手だった。なんらかの初期不良ではないかと、マスターは販売元に問い合わせをしたこともある。
 だけど、どこにも欠陥はなかった。俺は元からそういう性質のモデルらしい。
「少しでも見た目が変わったら、マスターはうるさいからね。気をつけるんだよ、若」
「わかった。ありがとう」
 滝は俺の手におしぼりを持たせると、拭いたばかりの俺の頬にキスをして、店を出て行った。
 約1年前。マスターが俺ではなく、滝を身近に置いた事は、今でも悔しいと思うけど。
 でもそのおかげで、俺は彼の傍にいられるから良いと、今は思っている。

「ふざけんなっ!近付くじゃねえクソオヤジ!!」

 突然、奥の部屋から彼の叫び声と、何かが落ちて壊れる音が聞こえた。
 嫌な感じがして、俺は彼のいる部屋に向かって走りだした。
「若!若ーっ!!」
 俺を呼ぶ彼の声に、嫌な予感はすぐ確信に変わった。
「亮さん!」
 マスターのプライベートルームである奥の部屋。そこは特別な者しか入れないところで、俺は勿論入る許可を貰ってはいなかったが。
 また何かが落ちる音と、人が争っているような音が聞こえてくるその部屋を、俺は躊躇いなく押し開けた。
「亮さん!!」
 真っ白な毛の長いカーペットの上で、彼はバスローブ姿の中年男性に身体を押さえつけられていた。
 俺はその男の後ろから羽交い絞めにして、男の下になっていた彼が抜け出させようとした。
 しかし…
「動くな」
 男は、冷たく低い声で俺にそう命令した。
 俺は男の背に立って、そこから動けなくなる。
「部屋から出て行きなさい、H-1205」
 男が床に彼を押さえつけたまま、顔だけを俺に振り向かせる。
 モデルである俺のマスター、榊(さかき)。
 人間と機械の区別を明確にしているマスターは、野良犬や野良猫を見るのと同じ目で俺を見る。
「聞こえているだろう。出て行きなさい」
 モデルにとって、マスターの命令は絶対だ。
 モデルはマスターの為に使役すること目的に作られた道具。
 道具は自分の意思を持たない。
 道具はマスターの意思にそって動かされる物。
「若!」
 でも、マスターの下の彼が、ただの道具の俺の名を呼んだ。
「こいつをどけろっ!!」
 俺はマスターの背中に抱きついて、ゆっくりと持ち上げる。彼はすぐにマスターの下から抜け出し、思いっきりマスターの頬に平手打ちをした。
「いいかクソオヤジ…脳が老化してるみたいだからまた言うけどなあ、俺は金を払ってくれる客がいるから、このカラダを道具にしてんだよ!だからテメエで金を出さねえ奴には髪の毛1本も触らせねえ。今度は覚えておけよ、ボケッ!!」
 言いたいだけ怒鳴り散らすと、彼はテーブルの上にあった紙幣をぐしゃりと握ってズボンのポケットにねじ込み、開いたままのドアから出て行った。
 嵐が去ったような部屋で、俺は静かにマスターから身を引いた。
 マスターは立ち上がって俺の正面に立つと、無言で俺の頬に2度、平手打ちをした。
「おーい!帰るぞ若っ!!」
 遠くから、彼が俺を呼ぶ声が聞こえる。
 でも、今度は動けなかった。
「H-1205、お前のマスターは誰だ?」
「…サカキ、貴方です」
「なぜ私の命令を聞かなかった?」
「…申し訳ありませんでした、マスター」
「お前は、亮の生活を補助するために私が貸している物だ」
「はい、マスター」
「だが亮の物ではない。私の物だ」
「はい、マスター」
「2度と私に逆らうな」
「はい、マスター」
「若ーっ!早く来いって!」
「…行ってよし」
「失礼します、マスター」
 俺はマスターに頭を下げて、俺を必要としている彼の元に駆け出した。





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