in Atami

 無数に連なる部屋にいると、時間の感覚を失っていく。窓も玄関も外と繋がっていないし、アナログ時計では昼夜の判別ができないからだ。
 俺は起きている間、窓や玄関が鏡合わせに繋がった部屋を移動し続けた。疲れて眠くなると、ベッドやソファの上に丸くなって眠った。
 この迷宮に閉じ込もってから、まだ誰とも会っていない。たまに専用ダイヤルでレオパレスの社員と電話をするが、彼らは音声案内よりも事務的で無機質で、人と思えない。
 何週間か前にサマースクールで聞いた言葉が、頭の中をぐるぐると回っていた。

『ヒトは社会性動物なので、一個体だけで生きていくことはできません。他者を通じて、あなたたちは自分という存在を認識しているのです』

 石谷という先生の言葉だ。俺はあの時、その理論に反感を抱いた。家族さえ一緒にいるのが辛いのに、なぜヒトは、一人で生きられないのか。自分以外の誰かなんてどうだっていいだろう、と。
 しかし本当に一人になった時、俺は初めて理解できた。ヒトはずっと一人でいると、狂っていく。人の話を聞かなくなった耳は常に耳鳴りがして、喉は声の発し方を忘れる。目に見える自分の手足が家具と同じ無機物に見えて、何を触っても何を見ても、実感が薄い。まるで自分は生物ではないような錯覚に陥る。
 俺は発作的に叫び、暴れた。テレビを窓に投げ、ベッドをひっくり返した。家具が痛々しく変形するまで暴れて、息を荒げたり汗をかいたりすることで、生きている実感が少し回復した。だから次の部屋に行っても、家具をめちゃくちゃにしたが、また次の、そのまた次の部屋も、整然とした部屋が待ち受けていた。やがて疲れ果てた俺は、新しい部屋の真っ白なソファに倒れこんだ。そして声を出して泣いた。喉が痛くなるまで叫んだ。会いたいよ、母さん、父さん、葉末、石谷先生…
 俺が本当に家具になれば、苛立ちも不安もなくなるのかもしれない。でも家具と自分の体に境界線が引けなくなるのは恐い。俺はヒトのままでいたい。

■ 5月9日


 部屋同士の移動時間を3時から11時までにした。その時間帯は午前でも午後でも、新しい入居者が来る可能性が高いだろう。それと各部屋では1時間だけ滞在することにした。粘りつつも、多く部屋へ移動しようと考えたからだ。
 俺は今、その1時間をソファの上で潰している。あと5分で8時になる。俺は窓を睨んで、次の部屋では誰かと会うようにと願っていた。
 時間になると、すぐにソファから下りて移動を始めようとした、その時だ。
 この部屋の玄関の鍵が外される音が聞こえた。誰かが部屋に入って来て、照明が点けられる。驚きと緊張のあまり立ちすくんでしまった俺と、この部屋の入居者が鉢合わせになった。
「だ、誰だ!?」
「お前は…」
 とがらせた短い髪の毛。すっきりした顔立ちに、意志の強い眉と人懐っこい目。
 この部屋に現れた人の顔を認識した俺は、堪え切れず泣きだした。
「桃城武じゃねえか…」
「海堂薫!」
 ここにいたのが俺だとわかった桃城武は、身体ごと俺を抱きしめた。
「やっと会えたぜ!ずっと探していたんだよマジで!」
「桃…」
 俺の背中や肩に桃城武が触れている。消えかけていた俺の存在が回復していくような安心感に包まれた。
「ごめんな海堂薫…本当にごめん。俺の代わりに、ここに閉じ込めちまって。辛かったよな、ごめんな」
 桃城武の謝る理由はわかるが、俺は首を横に振った。
「俺自身が、外に出たくないと願ったんだ。だからお前は謝らなくていいんだぜ」
「海堂…」
「俺はもう、誰も憎んでいないし、恨んでいない」
「そっか…ありがとな。俺はお前に憎まれていると思うのが、一番苦しかった」
「憎んでねえよ、バカ」
「へへっ」
 気持ちが落ち着いた後、俺たちはソファに座り、互いの近況を話し始めた。

 レオパレスから解放された桃城武は、高額な違約金の返済を行うために転職した。出張と少ない休暇を利用してレオパレスを借り、俺を探していたそうだ。
「だいたいこの辺にいるんじゃないか、って目星つけて借りてみたけど、全然ダメだった。でも、今日は会えた。マジで良かった。すげえ嬉しいな、嬉しいよ!」
 笑顔を見せる桃城武に、俺もつられて笑い返した。
「俺は、以前のお前と同じ生活をしている。部屋を移動して、新しい入居者を探して…」
 発作的に家具を壊すことや、自分の存在が不確かになっていたことは話さなかった。ただ前向きに、ここから出ようとしていると説明した。
 しかし話が終わるより早く、桃城武は俺の肩を引き寄せ、頭をくしゃくしゃとかいた。
「バーカ。無理してんなよ」
 人のぬくもりが恋しかった俺は、そのまま甘えるように桃城武の体に腕を回した。肩に頭を乗せて目を閉じる。整髪料とタバコの臭いがする。その温かさと香りは、父さんを思い出させた。また涙を流し始めた俺の背中を、桃城武は優しくさすってくれた。
「…悪い」
「好きなだけ泣けよ。俺しかいないし」
「いや、もう…ところで、今日は何日だ?あと、ここはどこだ?」
 桃城武に甘えている自分が恥ずかしくなって、俺は体を少し離して座り直した。そして気になっていたことを質問した。
「俺たちが入れ替わったのが7月26日で、今日は5月9日だから…9ヶ月ちょっとだな。お前さ、かなり動いただろ?ここは熱海だぜ」
「熱海?!」
 驚いて声を上げると、桃城武は苦笑いした。
「そうそう、熱海。俺たちが前にいたのは軽井沢の近くだったのにな」
「そうだよな。長野から静岡まで来ていたのか…それと、いまは朝と夜のどっちだ?」
「夜だぜ。夜の、8時半」
 桃城武は部屋のアナログ時計を見た後、おもむろにテレビの電源を入れた。その画面に映ったのは、国営放送の大河ドラマだった。確認が済むと、直ぐに消した。
「テレビを点けても金がかかるけどよ、何日か毎に日付と時間を確認した方が良いぜ。そうしておかないと、元に戻ってからもすごく生活しづらいからな。さて、ぼちぼち本題に入ろうぜ、海堂薫。俺がここにいられる2泊3日。その間にどうやってお前を解放するか、だ」
「手がかりはあるのか?」

「利用規約を何度も読み返したけど、家具を入居者に譲渡できるとは書いて無かった。電話でも聞いたけど、部屋の物は原則『非売品』なんだとよ。やっぱり黙って持って帰るしか…」
「規約違反だろ、バカ。同じ事を繰り返すだけだ」
 それから色々な案を出しあった、解放の糸口は掴めなかった。日付が過ぎた頃、早朝から仕事のある桃城武は話し合いの中断を申し出した。
「とりあえず今日はもう寝よう。悪いな。また明日、俺が帰ってきたら一緒に考えようぜ?」
「ああ、そうだな」
 東京から熱海へきたコイツもだが、久しぶりに会話をした俺もかなり疲れていたから、同意した。
 桃城武はトランクス1枚になると、脱いだ背広をハンガーにかけ、部屋の電気を消してベッドに入った。俺はソファの上で膝を抱いて座り直した。
 5月9日…つまりもうすぐ、俺の誕生日がくる。毎年、母さんはケーキを焼き、父さんはプレゼントを用意し、葉末はかしこまった祝辞を言ってくれた。嫌がる素振りをした俺は、渋々とケーキに立てられたロウソクの火を消して、プレゼントを受け取り、祝ってくれたことに礼を言った。本当は嬉しかったのに、家族にさえ素直になれなかったことを今になって後悔している。もう遅いかもしれないが、俺の家族に謝りたい。本当は大好きな家族に会いたい。そう思うと、堪え切れず涙が零れ、嗚咽が漏れた。
「おい…」
 ベッドの上で身じろいだ桃城武が、掛け布団をめくって俺を呼ぶ。
「寒いだろ。こっちへ来いよ」
 すぐにソファから下りて移動した。ベッドに入った俺を、桃城武は抱きしめてくれた。
「ひとりで泣くなよ。俺がいるだろ?」
 俺はその言葉に頷く。コイツは本当に温かく、安心できる。今までの寂しさを全て吐き出すように泣いて、いつのまにか眠っていた。9ヵ月ぶりの深い眠りだった。






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