3
それから目を覚ました時。
部屋は仄暗く、空気はすっかりと冷え込んでいた。
今は何時なのだろう?
テーブルの上に置いたあった眼鏡をかけて、壁にかけられた時計を見た。
短針と長針はぴったりと12の下で重なっていた。
そういえばレオパレスの営業時間は夜6時までだった事と、俺はハッと思い出した。
俺はソファから起き上がり、自分のバッグを探した。
しかし、バッグはどこにも見当たらなかった。
そして海堂薫の姿も、どこにも見当たらなかった。
「薫ー!」
俺は部屋中を駆け回って、海堂薫の姿を探した。だがトイレにも、風呂にも、どこにも彼の姿はなかった。
「クソッ!!」
俺はソファの下に脱ぎ捨てた自分の服を着て、玄関へ行った。
自分の靴がない。海堂薫が履いていったのだと、俺は思った。
仕方なく俺は裸足のまま、玄関のドアを開けて外に出た、はずだった。
そう、普通はそこから外に出られるはずなんだ。
しかし玄関を開けた先には、同じく玄関が開いたレオパレスのワンルームがあった。
「なっ?!」
俺は後ろを振り返った。
そこは自分のいた部屋と同じ造りの部屋で…だけど、人の気配が全く無い、俺の知らない部屋だった。
いったい、どういう事なんだ?
昨日まで…正確には俺が仕事から帰って部屋に入った今日の深夜3時までは、確かに部屋は外と繋がっていた。
だが今は、部屋は外へでなはく、新たな部屋に繋がっている。
どうしようもなく、頭が混乱していた。
これは全部俺の夢で、本当の自分はまだ寝ているのではないか?と考えた。
でも明らかに、これは、夢ではない。
触覚が希薄な夢と違って、今は裸足の足の裏にある冷たい床の感触が痛いほど伝わっている。
だからこれは、夢ではない。
「どういうことなんだ…?」
誰にも届きそうにない独り言を呟くと、それを待っていたかのように、タイミング良く目の前の部屋から電話が鳴りだした。
俺は一瞬呆然としてその音を聞いていたが、その電話は自分宛なのだと気が付いて、慌てて受話器をとりに部屋の中へ入って受話器にしがみついた。
「もしもし!」
「もしもし。わたくし、レオパレスお客様専用窓口担当の竜崎と申します。今お話されているのは、乾貞治様でよろしいですか?」
電話元は、若い女性レオパレス社員だった。俺は藁にも縋る気持ちで、喉の奥から声を張り上げた。
「そうです!あの、よくわからないのですが部屋から出られないんです!助けて下さい!」
「そうですか。それでは、お客様のご契約期間についてのご連絡をさせていただきます」
「はあ?」
竜崎は俺の助けをまったく無視して、勝手に話を進め始めた。
「本日を持ちまして、お客様がご利用をされていたお部屋の契約期間が終了いたしましたけど…当社の方で、お部屋の鍵の返却がまだ確認できておりません。連絡の行き違いも考えられますけども、お客様は鍵を当社の営業所へ、既に返却されたでしょうか?」
「部屋の鍵、ですか?」
「はい」
マニュアル的な丁寧な口調にそぐわない、ほわわんとした竜崎の声は、興奮状態だった俺の気持ちを少しずつ静めていった。
「あの、すいません。鍵ですね?ちょっと待っていて下さい…」
俺は受話器を置いて、自分の部屋に戻った。
部屋の鍵は確か、利用規約の冊子と一緒に机の上に置いておいた。
しかし机の上には冊子しか残っていなかった。
俺は電話が繋がっている部屋に戻って、竜崎にそのことを話した。
「すいません、見付かりませんでした」
「そうですか。そうしましたら、お客様はお部屋から出られないという事になります」
ほわわんとした声で、竜崎はとんでもない宣告した。
俺は背中に冷たいものが流れるを感じながら、竜崎に激しく訴えた。
「そのことなんですが、どうして俺が部屋から出られなくなるんですか?それよりも、この部屋は一体どういうことになっているんですか?どうして玄関を開けたら、また部屋につながっているんですか?」
「お客様、当社とご契約の際に、お部屋の利用規約は御覧いただけましたでしょうか?」
「利用規約、ですか?」
「契約の際は、必ず目を通していただくよう、当社の者から指示があったと思いますけど」
「すいません。仕事が忙しくて、契約は電話で…鍵を貰った時に、確か利用規約の記載した冊子はいただきましたが、やはり忙しくて目を通していません」
俺はこの部屋の利用規約の冊子を見つけて、手に取った。それは俺の部屋の机の上にあるものと全く同じ装丁で、中身も同じなのだろうと思わせた。
「そうでしたか。それでは今から、利用規約の中に記載してあります、お客様の行った『契約不履行の際の当社の処置』ついて、ご案内させていただきます。」
竜崎のいう【契約不履行】に関する欄を探して、俺は電話を肩に挟みながら中身に目を通した。
「まず、契約終了日までに鍵を返さなかった場合は、当初の契約金の、倍の違約金を払わなければないけません。そして、家具・付属品の損傷あるいは損失があった場合は、お客様から弁償をしてもらわなければなりません。乾貞治様の場合は、部屋に付属の『海堂薫』を損失されましたね?」
「付属の損失?」
竜崎の理不尽な説明に、俺は言い返した。
「損失じゃない!海堂薫は、自分から出て行ったんだ、俺のバッグと靴と部屋の鍵を盗んで!」
「どのようにしろ、お客様自身が契約された規約違反をした事実に変わりはありません。ご了承ください」
「了承しろだと?ふざけるな!盗難にあった被害者は俺なのに?どう考えてもおかしいだろう!」
「そう言われましても、お客様はそれを承諾して、契約されていると当社では…」
「そもそも人が家具になっていること自体がおかしかったんだ!」
そうなのだ。
最初から、あの部屋に海堂薫がいたこと自体がおかしかったんだ。
「ええと、そのことですけども、家具の弁償に関しまして…こちらも利用規約に記載されている事項ですが、『付属品』を損傷された場合は慰謝料を払っていただくだけで結構なのですが、損失された場合は乾貞治様に『付属品』になっていただかなくてはなりません」
「なんだってっ?!どうして、そんなバカな話があるかっ!」
頭に血が上った俺は、ほわわんとした口調の変わらない竜崎に怒鳴った。
「彼を損失したのは、俺のせいではないだろう!彼は、自分の意思で部屋を出て行ったんだ!俺がどうなるかも知らず…」
知らず?
いや、そんなことはない。
彼は知っていた。
俺がこうなることを。
おそらく彼も、以前に契約不履行を起こして『付属品』になってしまったのだろう。
そして自分の代わりに『付属品』になってくれる相手をずっとソファの上で…
ああ、そうだったのか。
ようやくわかった。
どうして海堂薫が、最後まで泣いていたのか。
彼は、これから自分の代わりに部屋に閉じ込められる俺のことを、哀れんでいたのだ。
「どのようなことを言われましても、お客様は当社の利用規約に【同意】するということでご署名されています」
覆すことも控訴することもできない有罪宣告を、竜崎はほわわんとした声で言い切った。
「それと、【契約不履行】の違約金につきましては、乾貞治様が『付属品』としての役割を果たすまで当社が一時的に負担します。年利20%で乾貞治様にお貸しする、という形になりますので、乾貞治様がお部屋から出られた後に請求させて頂きます。また『付属品』でいる間は、どのお部屋を移動されても結構ですが、部屋の中の物を汚されたり破損されたりした場合は、弁償あるいはクリーニング代を違約金とともに請求させていただきます」
こちらがいつ返せるかわからない数十万円を、年利20%で貸すだって?
まったく、とんだ悪徳商法につかまったな…と、心の中で毒吐いた。
世の中の便利の裏には、何かと黒い物が存在するとは聞いていたけど、まさか自分がそれに飲み込まれるとは、思ってもみなかった。
「最後に、何かご質問はありませんか?」
そろそろこの電話は切られてしまうらしい。そういえば竜崎の電話を受けて、もう10分以上が経っていた。きっとこの電話代も、後ほど請求されるものなのだろう。
最後に、と言われて考えた俺は、『付属品』であった海堂薫について尋ねてみた。
「俺の部屋にいた海堂薫は、どれくらい『付属品』でいたんですか?」
「申し訳ありませんが、他のお客様の情報に関してはお教えすることはできません」
「海堂薫は、もう自由になれたのですか?」
「申し訳ございませんが…」
本当に申し訳なさそうな声で、竜崎は答えた。きっと、そういうマニュアルが出来ているのだろう。
海堂薫のことはもう何も聞けそうになかったので、俺は最後にもう1つ、自分のことについて聞いてみた。
「どれくらいで、『付属品』としての役割は済むんですか?」
「ご契約された新しいお客様にもよりますけど…マンスリーでしたら、最短1日。長期滞在でしたら、数ヶ月から1年を契約される方もいます。もし新しいお客様と会いましたら、乾貞治様には新しいお客様の契約期間内だけ、その部屋の『付属品』としての役割を果たしていただくことになります」
新しい契約者がいたら、その間は部屋同士の移動が出来ないということなのだろう。
1ヶ月間ずっと、俺の部屋のソファの上にいた海堂薫を思い出して、胸が痛くなった。
「つまり俺が部屋から出るためには、新しく部屋を契約した奴の【契約不履行】を起こさせればいいんですね?」
「そのような質問にはお答えしかねます。申し訳ありません。他にご質問はありませんか?」
もう結構です、と俺は竜崎に告げた。
「当社では『付属品』専用の窓口を設けております。平日9時から17時まで、部屋に付属の受話器から、#ボタンの後に6XX3をダイヤルして下さい。乾貞治様の担当は、わたくし竜崎となっておりますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。それでは、失礼致します」
すっかり温まった受話器を置いて、俺はため息をついた。
これからしばらく(ずっと?)俺はレオパレスの部屋の『付属品』として生きなければならなくなった。
人生とは、いつ、どう転ぶかわからないものだ。
俺は自分がいた部屋に戻って、カーテンを開いて窓を開けた。
窓の向こうには、窓が開けられた、こちらと向かい合わせになった新しい部屋が存在していた。
今日の昼。
俺は海堂薫とソファに座って、窓の外の流れる雲を見ていた。
しかし彼には、窓のつながった向こうの部屋しか見えていなかったのかもしれない、と思った。
そう思うと、彼を可哀想だと思った。
俺から荷物を奪って、靴を奪って、自由も奪った相手だったが、それでも彼を憎みきれない、彼を愛していた俺がまだいた。
それもまあ、ちょうどいい、のかもしれない。
俺はいい加減、色々な場所に大砲玉のように俺を飛ばすあの派遣会社から解放されたかったのだ。
一日中部屋に閉じこもって、仕事もせず、本社の上司とも会わず、一時的な上司と部下の面倒も見ず、お気に入りのソファに座って、ぼーっと空を眺めて過ごしたいと思っていたのだ。
これは海堂薫からの、最初で最後の最高のプレゼント。
そう思えば、なんとかやっていけそうだった。
俺は自分の部屋に忘れ物がないか確認してから、(といっても、荷物は全部彼が持っていってしまったのだが)海堂薫との思い出が多いこの部屋を出ることにした。
『ごめんなさい』
彼の小さな呟き。
口の動きを思い出して、そう言われたのだと、俺は信じることにした。
でも嘘でもいいから、もう一度だけ、海堂薫に『好き』と言ってほしかった。
あの感情と行為が、俺を騙す為の演技ではなかったと、証明してほしかった。
しかし彼がずっと座っていた部屋のソファからはすっかりと冷え切っていて、もう一欠けらの暖かさも、感じられなかった。
ソファに海堂薫がいないことを除いては、一ヶ月前に来た時と同じ部屋に、俺はお別れをした。
そして今、俺は新たな部屋で『付属品』として、新たな契約者をソファの上で待っている。
【end】
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【再録】某賃貸CMのブラック・パロディです。
お部屋を借りたら海堂薫が付いてきた!なんてすごく素敵じゃないですか!!
そんな軽い気持ちで書いたのですが、随分と暗い話に…すまんよ乾;
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