H-1205

 朝というには早く、深夜というには遅い時間。
 右手に刃物を持った女を前にして、男は無抵抗を示すべく両手を挙げていた。
「ヒーちゃん…そんな危ないモン、俺に向けんといてや」
「あたし信じてたの…ユーちゃんだけは違うって、信じてたのに…っ!」
 両目に涙を浮かべ、女は刃物を両手で握りなおすと、走り出し、腕を前に突き出したまま男の身体へぶつかった。
「さよなら、ユーちゃん…」
 脇腹に刃物を柄まで埋めた男を残して、女は走り去る。
「さよならはええけど…こんな置き土産は、いらん、わ、なあ……」
 自分の零した言葉に自嘲すると、その男はふらりと後ろに倒れた。


***


 早朝、昨夜から重く垂れ下がっていた雲から堪えきれないように雨が落ち始めた。
 風が吹いていないことを確認してから、窓を開けて除湿機の電源を入れる。自然の冷たい空気が、連日の熱帯夜で篭もった熱を冷ましていくような気がした。湿気はともかくとして。
 斑色だった地面が完全に真っ黒に濡れた頃、ケータイが1度だけ鳴った。
 それを合図に、俺は雨合羽の入ったトートバッグを肩に掛け、傘を2本持って外に出る。
 もうすぐ6時。太陽は厚い雲の上から地上を照らしているが、街は夜の手前と同じくらい薄暗い。待ち合わせ場所に向かって黙々と歩いている時、アナログな新聞を配達する鼠色の旧式ロボットと擦れ違った。今日のような強い酸性雨に何度も打たれて、関節部分が目に見えるほど赤褐色化している。
 今度一緒に買い物へ行く時に、俺の分の雨合羽も買ってもらおうかと思う。サビにはならないにしろ、この雨に当たれば表皮にシミくらいは出来るだろうし。俺自身が見た目にこだわるわけではないが、もしそれが原因で、マスターに補修のため工場へ送られてしまう事態を想定するならば、避けるべきである。
 俺はいま、あの人から離れるわけにはいかないから。
 少し足早になる俺の目の前を、小さな黒猫が横切った。
 思わず足を止め、路地の真ん中を疾走する黒猫を目で追う。あんな小さな身体で、こんな雨の中を走っているなんて!
 俺は進路を変えて黒猫を追いかけた。
【雨の日に見つけた野良猫と野良犬は拾って来い】
と言った、あの人の命令に従って。 
 走りながら傘を畳んで、脇にしっかりと挟む。
 足音に気付いた黒猫は一度立ち止まり、俺に振り返ると、左に進路を変えて走り出す。更に小さな路地裏に向かって。
 見失うまいと速度を上げて追いかける俺は、路地を曲がった瞬間に、そこに何かが落ちている事には気付いても、踏まずに越すことは出来なかった。
「あっ!」
 思ったよりも柔らかいそれに足をとられ、俺は転倒し、黒猫を見失った。
 無駄足を踏んでしまった事に後悔しつつ起き上がり、俺は自分が踏んだ物を確認した。
 それは一見、成人男性だった。派手な柄物のシャツに、茶色の皮のパンツと靴。そして黒い髪の毛と眼鏡。明らかに普通の職についている人間ではないように見えるが、それよりも腹に刺さった刃物の柄から血が出ていない事が、普通の人間ではないことを証明している。
 というか、人間ではない。モデルだ。
 俺はそれの頭を横に倒して、首の後ろのコントロールパネルを探して開いた。システムは起動しているが、エラーが起こっている。おそらく脇腹に刺さった刃物が、何かのコードを切ってしまったのかもしれない。
 コントロールパネルの蓋の裏に書かれてある、シリアルナンバーを確認した。
【Y-1015】…Yナンバーだって?これがアノ?
 俺は蓋を閉じて、考えた。
 あの人は野良猫や野良犬は拾えと言ったけど、野良モデルは拾っていいとは言っていない。しかし、このままこれを置き去りにしておけば、ゴミ収集車が間違いなく回収して、スクラップ工場へ送り込まれるだろう。
 その想像は容易く、酷い。同じモデルの身として、尚更。
 俺は傘やバッグを一度地面に置き、ソレを抱き上げ、左肩に抱えた。
 それからバッグを右肩に掛け直し、2本分の傘の柄を掴んだ。
 待ち合わせ場所に遅れて、しかも大きな拾い物をしてきて。
 あの人はどれだけ俺を怒るか想像すると、自然と溜め息が漏れた。






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