4 乾編

 1つ年下の海堂と出会ったのは、4年前の春。
 俺の家族は公営住宅からマンションに引っ越してきた。隣接して、ジョギングコースが整備された緑の多い公園があった。そこはすぐに俺のお気に入りの場所となった。
 毎日決まった時間にそこでトレーニングやジョギングをしていると、顔見知りが増えて擦れ違う時に挨拶をするようになった。海堂は、その一人だった。軽く頭を下げるとすぐに走り去ってしまう無愛想な子。それが彼の第一印象だった。
 でも2年前。俺が青学に進学して硬式テニス部に入部し、その練習が終わった後に学校指定のジャージのままで公園でジョギングをしていると、海堂が初めて声をかけて来た。
「ちわ…」
「やあ、こんにちわ」
 挨拶をした俺たちは、それからしばらく並走を続けた。そして話を切り出したのは、海堂の方だった。
「そのジャージ、青学ッスよね?」
「ああ。俺、青学の1年だから」
「俺、そこ受けようと思ってるんですけど…硬式テニス部ってありますか?」
「あるよ。俺はそこの部員」
「マジっすか!?」
「もしかして、君もテニスしてる?」
「はい。中学に上がったら、軟式から硬式に移ろうと思ってます。憧れに人がそこにいるんで…」
 この話の流れで出てくる名前は一人だけ。今年の硬式テニス部の入部希望者が異常に多かったのは、確実の彼のおかげだった。
「手塚国光のことかな?」
「そうッス。手塚さん。俺はあの人のテニスがすごく好きで、だから…」
「同じコートに立ちたいの?」
 異常な数の入部希望者のほとんどが、そう口にしていた。全国大会が目標ではなく、手塚と同じ場所にいることが目標の、変な奴ら。その子も同じ動機なら、俺は青学に来るのを止めようと思った。志がない者にはかなり厳しい練習を組んでいる部だからだ。でもその子は間を空けず、直ぐに言い返してきた。
「それも、無いわけじゃねえけど…俺は、手塚さんに勝てるくらい、テニスが強くなりたいんです。ライバル校より同じ学校にいる方が、練習でも戦えるチャンスが多いから」
 ギラギラとした目付きで、その子は自分の目標を語った。どうして手塚信者は、こうも熱狂的なのだろうか。内心で苦笑しつつも、俺は硬式テニス部の一員として、彼を歓迎した。
「青学のことでわからないことがあれば、俺に聞いていいよ。乾貞治ね」
「ありがとうございます乾…先輩。俺は海堂薫です」
「薫か。いい名前だね」
「女みたいで俺は好きじゃねえから、絶対に名前で呼ばねえで下さい」
「はは、わかった。よろしくな海堂」
 風薫る五月の爽やかな昼下がり。俺と海堂は少し早く、先輩と後輩の関係になった。
 それから2年後の4月。
 部の校内ランキング戦で海堂は初めて、試合で俺に勝った。成長期の波に乗って、身長もテニスも予想以上に伸びていく期待の後輩に、俺は心から感心をした。これならいつか本当に、手塚に勝つ日も来るかもしれない。
 だから彼の誕生日に、海堂には何か良い物をあげようと思った。自分に厳しく、いつも頑張っている彼に、心から喜ばれる物を。
 天使の羽の作り方が書かれた紙は、そんな時に俺の机の上に置かれていた。
 俺がその紙を机に置いた覚えはなく、そもそも全く見た覚えの無いものだったけど、俺の周りでは不思議な事が時々起こるので気にしなかった。なぜなら俺は、ボクワーシ魔法通信学園の学生だからだ。ペット禁止のマンションなので梟はいないが、魔法の杖も箒もちゃんとクローゼットの中にしまってある。
 俺はその紙を手に取って、内容を読んだ。天使の羽の効能、材料、保存方法、使用期限など。材料が集めやすいこと、何より3つの願いが叶えられるという事で、俺はそれを海堂にあげることにした。海堂が自分のご褒美になるようなことを、願えばいいと思った。
 しかし彼は、本当に叶えたい事は自分で努力しないと意味が無いと言って、天使の羽を返してきた。不本意な願い事を2つ叶えてしまったが、3つ目は断固拒否の態度だ。
その信念の強さと自尊心の高さに惚れぼれとする。そんな海堂に、俺は余計な物を作って渡してしまったと反省した。
 その後。天使の羽は使用期限が切れたら捨てるために、ベッドの下のいらない雑誌の間に挟んでおいた。数日経つと、俺はもう天使の羽の存在を忘れてしまっていた。
 何事も無く平穏な日々を過ごし、6月2日になった。
 今日から両親は、伯父の3回忌に出席するために地方へ行った。俺も誘われたが断った。もう中学生だし、留守番くらい一人で大丈夫だと説得した。
 そうして、今年の俺の誕生日は、海堂と過ごすことになった。
「そうッスね。明日は土曜日で部活も午後からですし、乾先輩の家に泊まって、次の日は早朝練習するのもいいと思います」
 誘う理由は、何であれ。
『ひとりぼっち』が『ふたりきり』になった15歳になる前夜は、二人で鍋いっぱいのカレーを食べ、風呂に入り、この日の為に録画しておいたテニスの試合を見て、和室に並べて敷いた布団に入った。
 小学生の時からずっと一人でベッドに寝ている俺は、こうして布団を並べ、誰かと一緒に寝ることに興奮していた。家族旅行や修学旅行の時と同じくらいに。いや、隣が海堂だから、それ以上に。しかし普段から床寝をしている海堂とは明らかな温度差があり、そこを指摘して冗談を言うと、やや本気で意識を飛ばされそうになった。慌てて寝たフリをして難を逃れたが、その間に海堂が先に寝てしまい、仕方なく彼の寝顔や寝返りを十分堪能した後に、俺も寝た。
 目覚し時計は朝4時にセットしてあった。
 だがそれが鳴る前に、海堂が俺を起こしてきた。
「部屋がきな臭いッス」
「え?うそ!」
 起き上がると、海堂の言う通り部屋はきな臭い空気が漂っている。俺は眼鏡をかけて、海堂と時計を見た。午前3時。こんな時間に何が起こっているのだろう。
 一先ず火の元になる可能性が一番高いキッチンを調べに行った。そこは和室よりも焦げ臭さが増していたが、ガスレンジの火は点いていないし、他の電化製品にも異常は見られない。ふと、換気扇が目がいって、そこに鼻を近付けると、臭いの元が明らかになった。
「ウチじゃなくて、隣かもしれない。ちょっと確かめてくるから、海堂は119番に通報しろ」
「わかりました!」
 緊迫した状況になった。
 俺は玄関から通路に出ると、右隣のドアの隙間から黒い煙が漏れているのが見えた。もう既に、臭いに気付いた住人たちが心配そうな顔つきでそのドアを見ている。
「あそこ、旦那さんが浮気して帰って来ない家よねえ?」
「奥さんは看護士で留守がちなのよね」
「保育園に通っている女の子と男の子がいなかったかしら?」
「あら、大丈夫かしらねえ」
 ひそひそと話すパジャマ姿の中年女性たちの横を、バケツを持った中年男性が走り抜ける。
「管理人の代理じゃ話にならん!おい、ドアを破るから誰か手伝ってくれ!」
 それに呼応して、ドアの近くにいた男性陣が、バケツの男を中心に消化活動を始めた。俺も何かしなくてはいけない。
 家を戻り、ベランダに向かって走った。ドアが開かなくても、隣のベランダに飛び移って中を見れば、火の元と住民の安否がわかるだろう。
 リビングのベランダは既に開いていて、白い煙が部屋に入り込んでいた。外に出た海堂が、隣のベランダに向かって叫んでいる。
「おい!大丈夫か!」
「どうした海堂、何があったんだ?!」
「先輩、子供が!おい、返事しろ!!」
 狼狽えた海堂の目線の先に、隣のベランダで小さな体を寄せ合っている二人の子供を見つけた。考えている暇はなかった。
「海堂、子供を受け取れ」
 俺はベランダの柵に足をかけ、蹴った。
 マンションの高さは11階。ベランダ同士の間は約2メートル。自分が長身で体を鍛えていて、危険が迫った小さな子供がいなければ、こんな無茶は絶対にしなかっただろう。
 隣のベランダの柵をうまく両手で掴んで、よじ登る。ベランダの隅で縮こまった幼い姉弟と、真っ黒い煙で充満したリビングを確認する。おそらく煙から逃げてベランダへ出て、臭いからガラス戸を閉めたのだろう。それが幸いし姉弟は無傷のようだ。
「乾先輩!!」
 飛び移った俺を心配するように、背中から海堂の声が聞える。海堂の性格からすると、彼もこっちへ飛び移ると言い出すかもしれないが、彼が飛び移れない確率は俺の3倍以上ある。危険だ。だがこの子たちを安全な場所に移さないと、海堂も避難しないだろう。
 俺はすぐに、小さい男の子を持ち上げた。
「行くぞ!1、2の、3!」
 勢いをつけて、男の子を隣のベランダに向かって投げた。海堂がうまく受け止めたのを確認して、すぐ女の子も抱き上げる。
「あたしも、投げるの?」
「そうだね。もし俺たちが空を飛べたなら、投げる必要はなかったけどね」
 不安そうな目に涙を浮かべる女の子に、俺はできるだけ優しく話し掛けた。
「やだよ、怖いよ!」
「俺も怖いよ。でもここにいる方がもっと怖い。煙で苦しくなるし、火は熱いし。でも向こうに行けば、苦しい思いも熱い思いもしなくていいよ。ちょっと、怖い思いはするけど。ブランコから飛び降りる時と同じだと思えばいい。大丈夫だ」
「ほんとーに?」
「ああ。120%の確率で」
「カクリツって、なあに?」
「確率は、出来るかどうか。120%は、絶対。向こうのベランダに行けば、絶対に助かるってことだよ。だから俺は君を向こうへ投げるけど、信じてくれるかな?」
「うん、わかった」
「良い子だね」
 女の子の頭を撫でてあげると、涙はいつの間にか止まっていた。
 先に投げた男の子の扱いに困っている海堂に俺はアドバイスをして、それからどうにか女の子も海堂はうまく受け止めてくれた。
「二人とも早く中へ入れ!」
「先輩は?!」
「大丈夫だ!また飛び移るから、先に行ってろ!」
 海堂は姉弟を抱えて、ベランダから家の中へ入って行った。
 俺も早く飛び移ろうと思ったが、一番奥のガラス戸が突然割れて、真っ黒な煙が勢いよく出てきた。風下に立っていた俺は煙を吸い、激しく噎せる。熱い。炎はもう近くに迫っているのか。
 マンションに向かってだんだんと近付いてくる消防車の警鐘が、俺の心臓と共鳴する。早くここを離れないといけない。しかし煙に包まれ肺の奥まで吸ってしまった俺は、動揺して呼吸が浅くなりうまく酸素を取り込めず、頭から背中と指先が冷えていくのがわかった。ベランダの柵に寄りかかり、少しでも呼吸を整えようとするが、煙のせいでうまく出来ない。もしかしたら、死んでしまうのだろうか。嫌だなあ、誕生日と命日が同じ日なんて、ついていないにも程がある。
「乾先輩!乾先輩!」
 隣のベランダに、避難したはずの海堂が戻ってきていた。
「何してんスか!早く逃げて下さい!!」
 泣きそうな顔をした海堂が、俺に向かって怒鳴る。
「ごめん、煙吸いすぎて、力が入らない…」
「じゃあ、俺がそっちに行きます!危ないから、ちょっとそこから離れてください!!」
「ダメだ!俺はいいから、海堂は早く逃げてくれ。お前もかなり煙を吸ってるだろ?」
「全然大丈夫ッス!平気です!だからそっちへ行きます!」
「大丈夫だよ海堂。ほら、サイレンが聞こえるだろ?もう近い。もうすぐ消防車が来て、消火されるよ。その時に助けてもらうから、俺は大丈夫だ」
 俺は笑ってみせた。不安になっている海堂に、落ち着いてもらいたくて。
 しかし、それは何の意味も成さなかった。
 一番近いガラスが破裂した。小さなガラス片が降りかかってきて、俺は反射的に頭をかかえ蹲った。空気が入り込んだ室内から、更に大量の黒い煙と赤い炎が俺に向かって来る。これは本当に、駄目かもしれない。
「先輩!先輩ーっ!!」
 悲痛な海堂の声に答える術も無く、俺は自分のTシャツで口元を覆い、できるだけ煙を吸わないようにすることだけを考えた。15歳の誕生日に一酸化炭素中毒死、あるいは焼死なんて、死んでも死に切れない確率200%だ。絶対に、死にたくない!!
 でも煙を吸わないようにしても息を止められるわけではないので、だんだんと吐き気と頭痛が酷くなってきた。柵に寄りかかっているのも気持ち悪くなり、ベランダでうつ伏せになる。鼻は麻痺して、目は痛くて開けられない。口の中は苦い。耳鳴りがする。ガラス片や火の粉が降りかかるが、手足が痺れていて痛みが無い。だんだん、意識が、朦朧と、してきた。

「今すぐ鎮火しろ!!」

 海堂の叫びが聞えた。
 不本意なことに、3つ願いは全て、俺の為に使われた。
 そんなつもりで羽をあげたんじゃなかったのに…






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