「おい!起きろ!」
 誰かに頬を叩かれ、俺は目を覚ました。
 俺を抱き起こしているのは、銀色の服を着た男の人だった。
「名前は?」
「乾、貞治…」
「救急!もう1名、火災被害者を保護した。意識はあるが、チアノーゼ反応が出ている。担架をすぐに、車の手配も頼む」
 無線で連絡をする、男の腕を俺は掴んだ。
「隣の、ベランダに…」
「大丈夫、既に保護されて、病院に向かっている。あの子は君の知り合いか?」
「はい。海堂に、怪我は…」
「外傷は無いが、煙を吸ったのか、発見した時には意識が無かったようだ」
 自分の中で、血の気が引く音がはっきりと聞こえた。
 俺が誕生日だからと言って海堂を家に呼ばなければ、彼は火事に巻き込まれなかったんだ。
「担架が来た。乗せるぞ。せーの!」
 大人3人がかりで俺は担架に乗せられ、真っ黒に焼け爛れた部屋を通って廊下に出た。だが不思議な事に、通った部屋は水で濡れた後も焦げた匂いも、一切なかった。
 それから待機していた救急車で病院へと運ばれ、処置室で医者の診察を受けた。軽い一酸化炭素中毒だと診断され、命に別状は無いと言われた。保護者の連絡先を聞かれ、両親が迎えに来るまで空きベッドで寝ているよう指示される。
 車椅子で病室に運ばれると、窓際のベッドに海堂が寝ていた。
 安静にしていてね、ベッドに寝かしつけた看護師がいなくなるとすぐに、俺は隣のベッドに行った。
「海堂、海堂!」
 肩を掴んで、俺は海堂を起こそうとした。ただ寝ているだけかもしれないけれど、それでもちゃんと目を開けた海堂を見ないと安心が出来なかった。
「ごめん、起きてくれ、海堂。頼む!」
 何度か揺すると、海堂の瞼がぴくりと動いた。唇がうっすらと開いて、すーっと深く息が吸い込まれる。それからゆっくり、目が開いた。
「海堂!良かった!」
 俺は感動のあまり、海堂を抱きしめた。海堂が無事で、本当に良かった。
 でも海堂は両手で、俺を押し返してきたので、俺はすぐ身を引いた。
「ごめん、つい…でも海堂が目を覚ましてくれて、本当に嬉しかったんだ」
 慌てて言い訳をしたが、海堂は何の反応もしなかった。ただ真っ赤に充血した目で、俺を見上げている。
「海堂、目が真っ赤だけど大丈夫か?痛くないか?」
「…うるせえな」
「え?」
「アンタ、黙れよ」
 海堂の赤い目が光った気がした。
 それと同時に俺は強い金縛りに遭い、身動きができなくなった。
 何が、どうなっているのか、全くわからない。
「ああ、アンタだろ?俺を羽に封じ込めていた奴。ったく、見習いが高度な技を使うんじゃねえッスよ。自由を奪われるって、どういうことかわかんねえんだろなアンタ?でもまあ、アンタが契約を結んでくれたおかげで、俺は見返りとして体をもらったわけだし?」
「ア……がっ…」
「おっと、アンタ割と強い意志をもってるみたいッスね?俺のその魔法、普通の人間なら息も止まって死ぬくらい強いッスよ?でも駄目ッス。俺はもう行くんだから…くうう!久々の人間界ッス!!何してやろうかなあ!」
 赤目の海堂はベッドから起き上がると、朝日が差し込む窓を全開にした。
「ま……って……」
「それじゃあ、元ご主人様の先輩サン。3つの願いは全て叶えましたので、悪魔のアカヤは『代償』を頂いてお暇するッス。もう2度と、お会いしませんように」
 紳士のように丁寧にお辞儀をして、海堂の体を乗っ取ったアカヤは窓から飛び降りた。
「海、堂っ!!」
 俺は彼を追いかけたかったが、声を出すだけで精一杯だった。
 それから世界が暗転した。

 病院の冷たい床で目を覚ました時、全てが夢ならいいと思った。
 悲しい現実を直視したくなかった。

 連絡を受けて病院に訪れた海堂の両親は、息子が病院から忽然といなくなった事に驚き、困惑していた。
 海堂と同じ部屋にいた俺は、彼の両親と警察から事情を聞かれた。
「俺が病室に入った時は隣で寝ていましたが、起きた時にはいませんでした」
 彼の体がアカヤという悪魔に憑依され窓から飛び降りた、とは言えなかった。信じてもらえないだろうし、馬鹿にしていると思われるかもしれないから。
 その日は念のため検査入院し、翌日の朝に俺の身体に特に問題がないと診断され、退院した。地方から戻ってきた両親と、俺はその足で海堂の家に謝罪をしに行った。
「…私達が家にいれば、こんな事には」
「いいえ、それは乾さんのせいではありませんよ」
「こちらでも何か協力できることがあれば…」
「いいえ。警察にお任せしてますので、結構です」
 海堂の父親の前で頭を下げ続けた両親。海堂の母親は出てこなかった。両親の横で、俺は何も言えず、黙って頭を下げていた。
 海堂家から出て、俺たちは無言で車に乗り、マンションに帰った。
 母が自宅の鍵を開けている時、真っ黒になった隣のドアに立ち入り禁止のテープが貼られているのを見た。火事が起こったのは、間違いなく現実だった。
 家に入ってリビングのソファに腰を下ろすと、ようやく父が口を開いた。
「なあ、貞治」
「何?」
「本当に、何もわからなかったのか?病室に誰かが入ってきたとか、海堂君が起きて病室を出て行ったとか」
「…何も」
「そうか」
「俺、寝るから。おやすみ」
「おやすみ」
 両親に背を向け、俺は自室に向かった。
 2日ぶりに入った俺の部屋は、少し荒れていた。海堂が、火事を消すために天使の羽を使おうとしたから、あちこち探したのだろう。半開きの机の引き出しとクローゼット。床に散らばった雑誌、服、英字新聞柄の紙袋と、カード…
「あれ?」
 何か違和感を感じて、俺はそのカードを拾って読んだ。
【天使の羽の使い方。願い事を心に強く思い、それを口に出しながら羽を大きく振る。願いごとは3つまで叶う】
 そこまでは最初に書かれていた文章と同じだ。
 しかし、続きがあった。
「【願いを全て叶えた者はその対価として、肉体を悪魔に、魂を地獄に譲渡する】…って、なんでだよ!!どうしてだよっ!!うわああああっ!!!!」
 書き足されていた文章を最後まで読んで、俺は叫喚した。カードを破り、床にある物を蹴り散らし、机の上にある物を払い落とし、あとはただ、声が嗄れるまで泣き叫んだ。
 もしかしたら両親は、俺の気が狂ったのではないかと思ったかもしれない。
 しかしドアの奥はとても静かで、部屋の中の嵐が過ぎるのを、じっと耐えているみたいだった。
 それからどのくらい時間が経ったかわからない。
 傾いた本棚。全開の引き出しとクローゼット。床一面の本や服やメモ。
 この部屋の中にある物の位置が全て変わっている。
 深呼吸をして、客観的に現状を把握すると、少し自分を取り戻せた。
 片付けをしなければならないけど、激しい脱力感と虚無感で、俺は斜めになったベッドに寝転がった。
「いてっ」
 背中に何か硬いものがあたり、俺はそれを手に取る。それは写真立てだった。小学生のとき、幼馴染みの柳蓮二とジュニアのダブルスで優勝した時の写真が収まっている。
 嬉しそうに笑う幼い自分と蓮二を見て、俺は胸が締め付けれらる思いがした。
「蓮二も、俺の前からいなくなったよね…なあ、どうして俺が好きな人ばかり、俺の前からいなくなるの…かな…」
 写真を抱いて目を閉じると、目の端からまだ残っていた涙が零れた。
 そのまま眠りの淵に落ちそうになった時、トントンと、控えめにドアの叩く音が聞えた。
「貞治、ちょっと」
 母の呼ぶ声に、俺はベッドに寝たまま返事をした。
「何?」
「不二君ってお友達が、お見舞いに来てくれたんだけど」
 不二という言葉を聞いて、俺は起き上がった。
 なんで不二が。
 しかも不二だけがわざわざ見舞いに来るのか不可解だが、昨日から今日にかけての話が通じるのは、直感で彼しかいないと思った。
「わかった、いま行く」
「もう来てもらってるわよ。あとで麦茶持ってくるから。ごゆっくり」
 ドアの向こうで少し話が聞えた後、ゆっくりとドアノブが回って、扉が開いた。
「やあ、乾」
「やあ、いらっしゃい。部屋が散らかっていてすまない」
「気にするほどでもないよ」
 いつもの微笑みを浮かべた不二が、床に散らばった物を踏み越えて、俺の隣に座った。
「そういえば、ここに来る前に海堂の家にも行ったんだけど、行方不明だそうだね」
「ああ、そうだ」
「原因は君かな?」
 ふふっと笑った不二は、何もかもを見透かしているようだ。
 俺は包み隠さず、天使の羽を作った経緯から海堂がアカヤという悪魔に体を乗っ取られたことまで、全て話した。
「とりあえず僕たちがすることは、海堂の体を見つけて、取られた魂を取り戻すということだ。よし、じゃあ始めようか」
 日常ではありえないような話があったにも関わらず、不二は俺の話に何も疑問を持たずに聞き入れた。
「え?そんなあっさりと始められるものか?」
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も。自分の部屋を散かしている暇があるなら、少しは動きなよ乾。海堂の写真と地図はある?」
「ああ、ちょっと待て…」
 俺は足元を探して、関東大会の時に一緒に映した写真と、社会に使う日本地図を不二に渡した。すると不二は、ポケットから長い糸のついたガラス玉のようなものを取り出して、糸の先端を右手の中指に付け、左手で海堂の写真を持った。
「ダウジング?出来るのか?」
「まあね。姉さんに教えてもらったんだよ」
 そういえば不二の姉、不二由美子は占術師だったことを思い出して、俺は唸った。本当に、不二のデータは未知数だ。
 「どうやら、まだ東京にはいるみたいだよ。もっと細かい地図はある?」
 関東圏が載っているページでひゅんひゅんとガラス玉を回す不二。俺は他校への偵察へ行く時に使う24区の地図を探して、それも渡した。
「幸い、今は移動していないみたいだけど…全く動かないのも心配だな」
「どういうことだ不二?」
「すぐに外に出たくて、病院の窓から飛び降りるような悪魔だよ?それが止まっているということは…誰かに捕まっているか、動けないほどの怪我を負っているか、或いは…」
「嫌なことを言わないでくれ!」
「可能性の一つだよ。冷静になって、乾」
 そう言われて、俺は押し黙った。確かに、俺は冷静さを欠いている。俺らしくない。
 不二のダウジングの妨げにもならないよう、俺は少しずつ部屋の整理を始めた。
「…いた」
「どこに?!」
 不二の呟きに、俺は手に持っていたものを机の上に置いて、地図を覗き込んだ。
「そこは…本当にいるのか?」
「悪いけど、僕のダウジングは外れたことがない。行くよ、乾」
 ダウジングをポケットにしまった不二は、さっと立ち上がるとすぐに部屋を出てしまった。
「ちょっと、待って不二!」
 俺は財布とケータイを持って、慌てて不二を追いかけた。
 玄関先で、麦茶を持った母に、どこに行くかと呼び止められた。
「海堂を探してくる。見つけたら帰るから」
「そう。遅くなるなら、連絡しなさいね」
「わかった」
 心配そうな母に見送られながら、俺は不二の背中を追って、走り出した。





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