そして6月2日になる。
 乾先輩の誕生日の前日、俺は先輩宅に泊まっていた。
「海堂を家に誘ったのは別に邪な気持ちがあるわけじゃなくて、ただ単に明日は誕生日なのに両親が法事で地方に外出していて誰もいなくて寂しいだけだから、安心してね!」
 何を安心していいのかわからなかったが、乾先輩はいつもより嬉しそうに見えるので来て良かったと、俺は思う。
 先輩の部屋は狭いので、リビングの隣の和室に布団を2組敷いた。先輩のお母さんが作り置きしてくれたカレーを食べ、順番に風呂に入り、録画した全仏オープンテニスのシングルス3回戦を見ていたら、もう10時を過ぎていたので歯を磨いて布団に入った。
「もう寝るのか?お泊まり会の醍醐味は何も無し?」
「明日は朝5時からトレーニングですよ。先輩も寝てください」
「海堂は時々ホットというよりドライだよな。俺はどちらかというとドライに見えてウェットだから、ほらちょうどいい感じがしないか?」
「寝れないなら寝かしつけてやりましょうか?」
 握り拳にフシューっと息を吹きかけてみせると、先輩は慌てて布団を頭から被ってイビキをかき始めた。そんな子供っぽい所をちょっと可愛いと思ってしまって、もやもやした気持ちになる。
 今日までは俺と乾先輩は同い年だった。年上の人に可愛いと思うのは失礼になるが、同い年なら許されるのか。いや、そもそも同性に対して可愛いという感情を抱くことが許されるのか…
 と考えている間に、俺は眠っていた。
 そして夜が明け始めた頃。
 はっと目が覚めた。時計を見ると、午前3時。部屋がきな臭かった。俺はすぐに、乾先輩を揺すって起こした。
「先輩、起きて下さい先輩」
「ん…何?」
「部屋がきな臭いッス」
「え?うそ!」
 先輩は飛び起きて、眼鏡をかけて部屋の電気を点けた。
「ちょっとキッチン見てくる」
「俺も行きます」
 煙は見えないが、臭いは部屋中に充満しているみたいだった。しかし一番怪しいキッチンを見てみたが、何の異常も見られない。
「なんでもないな」
「でも、ここが一番臭いッス」
「もしかして…」
 先輩は換気扇に顔を近付る。そして顔をしかめた。
「ウチじゃなくて、隣かもしれない。ちょっと確かめてくるから、海堂は119番に通報しろ」
「わかりました!」
 状況が緊迫する。
 玄関を出て行く乾先輩を、俺は受話器を持ちながら見送った。消防署に小火(ぼや)かもしれないのですぐ来てほしいと通報して電話を切ると、玄関とは逆方向にあるベランダの方から、子供の泣き声のような物音が聞こえいた。
「嘘だろ…!!」
 走って行きベランダを開けると、煙が出ている隣の部屋のベランダで5歳もいかない姉弟がわんわんと泣いていた。
「おい!大丈夫か!」
「どうした海堂、何があったんだ?!」
「先輩、子供が!おい、返事しろ!!」
 戻ってきた先輩と俺が懸命に声をかけると、女の子が顔を上げて、懇願する目で俺たちを見た。
「あのね、お母さんが、ヤキンで、いなくて、お腹が、空いた、って言うから、ラーメンをね、作ってあげたら、ヤカンがね、真っ赤に、なってね…」
 弟を抱きしめて、姉が一生懸命話している。一先ず大丈夫そうにみえたが、ベランダが赤く光っているところから、火はリビングまで燃え広がっているのかもしれない。消防車のサイレンはまだ聞こえない。
「先輩、どうしたら…」
「海堂、子供を受け取れ」
「先輩!?」
 状況は悪化すると予測した先輩は、腰の高さ以上あるベランダの柵に足をかけ、約2メートル離れた隣のベランダへ飛び移った。
「乾先輩!!」
「行くぞ!1、2の、3!」
 まず小さい方の男の子を抱えた先輩が、前後に振って勢いをつけ、その子をこちらに投げた。俺の両腕に投げ込まれた男の子が、俺にぎゅっとしがみついてさらに大きく泣き始めた。
「大丈夫か?ケガないか?悪いがちょっと、お姉ちゃんも助けるから、離れてくれ!」
 服にしがみついてくる小さな指をどうにか剥がそうとするが、自分の手も震えていてうまくいかない。早く、この子の姉も助けないと、乾先輩も危ないのに!
「早く離れろ!!」
「海堂、落ち着いて。優しく、その子に語り掛けるんだ。お前の弟を寝かしつけるようにね」
 隣のベランダで、女の子を抱いた乾先輩が笑っている。煙の量はますます増え、風も熱くなってきているのに、女の子と俺を安心させるために、先輩は笑っていた。
「乾、先輩…」
 俺は試合前の緊張を解くときと同じように、目を閉じて深呼吸をした。肺いっぱいに焦げた空気を吸い込んでも、落ち着いて、脈拍を下げることに意識を集中した。
「…頼む、少しだけでいいから、手を離してくれ。大丈夫、お前を見捨てるわけじゃない。お前の大事なお姉ちゃんを、助けるためだ」
 泣きじゃくる男の子を抱きしめて、頭を撫でる。そして体を離すと、服にしがみついていた小さな手が離れていた。俺はすぐに男の子を部屋の中へ入れて、ベランダに戻った。
「危ないから、そこで待ってろよ!先輩、お願いします!」
「わかった、行くぞ海堂!!」
 再び掛け声を合わせると、女の子が乾先輩の腕から、俺の腕へ飛んできた。
「二人とも早く中へ入れ!」
「先輩は?!」
「大丈夫だ!また飛び移るから、先に行ってろ!」
 俺は先輩の命令通り、姉弟を両腕に抱えて部屋の中を走り、玄関まで出た。
 玄関前の廊下は人が集まっていて、どうにかドアを破って消火活動しようとする人たちと、それを不安そうに見ている人たちに分かれていた。
 俺は一番近くにいた、消火活動を見守っている中年の女性に、子供達を預けた。そしてまた部屋に入り、ベランダに戻る。先輩が、まだ出てきていない。
「乾先輩!乾先輩!」
 隣のベランダの柵に寄りかかり、ぐったりしている先輩に、俺は懸命に声をかけた。
「何してんスか!早く逃げて下さい!!」
「ごめん、煙吸いすぎて、力が入らない…」
「じゃあ、俺がそっちに行きます!危ないから、ちょっとそこから離れてください!!」
「ダメだ!俺はいいから、海堂は早く逃げてくれ。お前もかなり煙を吸ってるだろ?」
「全然大丈夫ッス!平気です!だからそっちへ行きます!」
「大丈夫だよ海堂。ほら、サイレンが聞こえるだろ?もう近い。もうすぐ消防車が来て、消火されるよ。その時に助けてもらうから、俺は大丈夫だ」
 乾先輩は、また笑っていた。俺だけを安心させるために。
 しかし、それはその場しのぎにもならなかった。
「乾先輩ー!!」
 炎の熱によって、突然ベランダのガラスが音を立てて粉々に割れた。小さなガラス片が先輩にも降りかかる。外気が入り込んだ室内から真っ黒な煙と、赤い炎が外に向かって濛々と吐き出されていく。そのせいで、乾先輩の姿が見えなくなった。
「先輩!先輩ーっ!!」
 身が凍るほど怖くて、涙が溢れ出る。
 早く、乾先輩をあそこから連れ出さないと、先輩が…
 その時だ。
 この前、乾先輩が言っていた言葉を思い出した。

『俺が保管した方がいいかな?』

 天使の羽が、ここにある!
「乾先輩!すぐ戻ってくるから、待っててください!」
 俺は一目散に走って先輩の部屋へ行き、英字新聞柄の紙袋を探した。
 机の上、ベッドの上、本棚の上、見える所にそれはない。俺は先輩に心の中で謝ってから、引き出しの中、クローゼットの中、それからベッドの下を探した。
「あった!!」
 雑誌に紛れていた袋を、ベッドの下から取り出す。封を開けて、大きな真っ白い羽を持った。その時一緒にカードも出てきた。何か、前に見たときより文字が増えている気がするけど、今は読んでいる暇が無い。
 天使の羽を握り締め、俺はベランダに戻った。
 もう一刻の猶予も無い。
 ベランダに出て、俺は迷わず羽を空に掲げて、最後の願いと共に振り下ろした。

「今すぐ鎮火しろ!!」

【 3
  つ
  目
  の
  願
  い
  確
  か
  に
  叶
  え
  た 】






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